昼間はあれだけうるさかった蝉の声も夜になればすっかり数を減らしていた。
その代わりに聞こえてくるのは境内の木々の奥から響く虫の声と時折葉を揺らして通り抜けていく風の音。
昼間の暑さが嘘だったみたいに涼しい……とまではいかないものの少なくとも日が照っていないだけで随分と楽だった。
そんな夜の守矢神社。
俺達四人は境内ではなく、その外にある駐車場に集まっていた。
「よし。ここなら大丈夫かな」
神奈子が辺りを見回しながら言う。
夜の駐車場には当然ながら車は一台も停まっていない。
参拝客の姿もなく街灯の白い明かりがアスファルトの一角をぼんやり照らしているだけだった。
その真ん中に置かれているのは水を入れたバケツ。
そして俺の足元にはスーパーで買ってきた手持ち花火の袋が二つ。
「本当に二袋も必要だったんですか?」
早苗がしゃがみ込み、袋の中を覗き込む。
「四人いるんだからこれくらいあってもいいだろ」
「そうでしょうか……結構入っていますよ?」
「余ったらまた今度やればいいじゃないか?」
「なるほど。それなら問題ありませんね」
納得したらしい早苗が頷いた。
ちなみに水を張ったバケツを持ってきたのは早苗だ。
俺が花火を買ってくると言ったら早苗は最初に「では私はバケツを用意しておきますね」と言った。
花火より先に消火手段を準備する辺りが早苗らしいというかなんというか。
「高校生二人と神様二人で手持ち花火かぁ」
諏訪子が楽しそうに袋を覗き込む。
「いいじゃないか。夏らしくて」
神奈子も腕を組みながら満足そうに頷いている。
「それはそうだけどさ」
諏訪子が顔を上げた。
「私達、神様だよ?」
「そうだな」
「もうちょっとこう……神様らしい夏の過ごし方とかないの?」
「じゃあお前だけ境内で神事でもやってるか?」
「花火する」
即答だった。
「するんじゃないか」
俺が思わず言うと諏訪子は当然だと言わんばかりに胸を張った。
「花火と神事だったら花火でしょ」
「神様がそれ言っていいのか?」
「神様だって遊びたいんだよ」
「そういうものなのか……」
「そういうもの」
横を見ると早苗が笑っていた。
「まあまあ護くん。二人とも楽しみにしていたんですから」
「早苗もだろ?」
「……もちろんです」
ちょっとだけ間を置いてから早苗が笑う。
「私も楽しみにしていました」
そう言われると買ってきた甲斐もある。
俺は袋を開け中から何本か花火を取り出した。
赤や黄色や青の細長い棒が束になっている。最近の手持ち花火は種類が多いらしく、袋にはやたら派手な文字で色々書かれていた。
「最初は普通のやつからでいいか」
「護くん、火はどうします?」
「ライター持ってきた」
俺がポケットからライターを出す。
その瞬間だった。
「私がやろうか?」
神奈子が言った。
「いや、ライターあるから…」
「火なら出せるよ」
「いやだからライター…」
「神様だぞ?」
「花火に神力使うなよ」
「便利なのに」
「絶対普通に点けた方が早いだろ」
「そうかなぁ」
神奈子は少し不満そうだった。
その隣では諏訪子まで、
「じゃあ私は水担当ね」
と言い始める。
「バケツあるから」
「水なら出せるよ?」
「だから神力を使おうとするな」
「便利なのに」
「お前らさっきから同じこと言ってないか?」
俺が二柱を見ると、早苗がとうとう耐えきれなくなったように吹き出した。
「ふふっ……護くん、神様の力をここまで必要ないと言える人も珍しいと思いますよ」
「花火するだけだぞ」
「それもそうですね」
結局、文明の利器であるライターを使うことになった。
最初の一本は早苗だった。
俺が火を点け、早苗が持っている花火の先端へ近づける。
「ちょっと待ってください、護くん」
「ん?」
「これ、火が点いた瞬間に急に出ませんよね?」
「多分」
「多分ですか?」
「いや俺も花火職人じゃないし」
「ちゃんと袋を読みましょう」
「そこまで慎重になる?」
「火を扱うんですよ?」
早苗が真面目な顔をする。
その横から神奈子が口を挟んだ。
「早苗。大丈夫だよ。爆発したら私がなんとかする」
「爆発する前提で話さないでください!」
「じゃあ私が水かける」
「諏訪子様もです!」
「まだ点けてないぞ」
なかなか始まらない。
結局、袋の注意書きを早苗が一通り確認してからようやく火を点けることになった。
先端に火が触れる。
一瞬だけ何も起こらない。
早苗がじっと見つめる。
「……点きませんね」
「もうちょっと待って――」
パチッ。
「わっ!」
早苗が小さく声を上げた。
次の瞬間、花火の先から勢いよく橙色の火花が噴き出した。
パチパチパチパチと軽い音を立てながら光が夜の駐車場へ散っていく。
「おお」
俺も思わず声が出る。
早苗は最初こそ驚いていたものの、すぐに笑顔になった。
「綺麗ですね……!」
細かな火花が早苗の周りを照らしている。
暗かった駐車場の中で、その光だけが妙に鮮やかだった。
「護くんも早く点けてください」
「ああ」
俺も一本取って火を点ける。
今度は緑色だ。
二本の花火が並んで火花を散らした。
「おー、いいねぇ」
諏訪子が後ろから覗き込んでいる。
「諏訪子もやろう」
「やるやる」
一本渡す。
そして神奈子にも渡した。
「神奈子も」
「もちろん」
四人分の花火に火が点く。
赤、緑、黄色、白。
色の違う火花が暗い駐車場の中で一斉に弾ける。
少し前に早苗と二人で見た諏訪湖の花火とは比べるまでもないほど小さな光だった。
空いっぱいに広がるわけでもない。
腹に響くような音もしない。
けれど悪くなかった。
むしろ手を伸ばせば届きそうなくらい近くで光が弾けている分、こっちの方が花火そのものを見ている感じがする。
「護くん、見てください」
早苗が腕を動かす。
花火の光が夜の中に円を描いた。
「こうすると文字を書けそうですね」
「写真なら残るかもな」
「では……」
早苗が花火を動かす。
「何書いてるんだ?」
「秘密です」
「見せる気ないのかよ」
「護くんが当ててください」
「え〜無理だろ」
光は一瞬で消えていく。
俺が何とか目で追おうとしている横で、突然ものすごい勢いで何かが動き始めた。
「うおおおおお!」
諏訪子だった。
花火を持った腕を高速でぐるぐる回している。
「諏訪子危ないぞ」
「見て見て!すごいでしょ!」
「何が!?」
「光の輪!」
「人に向けるなよ!」
「向けてないって!」
「早苗より子供じゃないか!」
「誰が子供だ!」
その言葉に反応した諏訪子が俺を見る。
花火も一緒にこっちを向きかけた。
「向けるな」
「ごめん」
「今向けたよな!?」
「事故事故」
「絶対わざとだろ」
「諏訪子様!」
早苗が少し強めの声を出した。
「花火は振り回したら危ないですよ」
「はーい」
諏訪子が大人しくなる。
……神様を叱る高校一年生。
俺はもうこの光景に慣れてしまっていた。
一方の神奈子はというと。
「……」
妙に真剣な顔で花火を見つめていた。
「神奈子?」
「ん?」
「何してるんだ?」
「どこまで短く持てるかと思って」
「やめろあぶない」
既に半分くらい燃えた花火を持ちながら神奈子が首を傾げる。
「まだいけると思うけど」
「いけるいけないの問題じゃない」
「神様だから火傷くらい」
「そういう問題でもないだろう」
俺が言うと早苗が頭を抱えた。
「もう……どうして二人とも普通に花火ができないんですか……」
「早苗」
神奈子が言う。
「なに?」
「花火って普通にやるものなのかい?」
「普通にやってください」
俺は笑ってしまった。
「護くんまで笑わないでください!」
「ごめんごめん」
「まったく……」
早苗は呆れた顔をしながら、燃え終わった花火をバケツへ入れる。
ジュッ。
水の中で小さな音がした。
その音を聞いた諏訪子が振り返る。
「それいいな」
「何がです?」
「ジュッてやつ」
「燃え終わった花火を入れただけですよ?」
諏訪子も自分の花火が終わるとバケツへ入れた。
ジュッ。
「おお…」
「何が楽しいんだ……」
「護もやってみなよ」
「もうやったことあるよ」
「もう一回」
「なんでだよ」
「いいから」
仕方なく俺も燃え終わった花火を入れる。
ジュッ。
「……」
「どう?」
「普通だ」
「つまんない男だなぁ」
「花火を水に入れるだけでそこまで感動できる方がすごいと思うぞ」
そんな調子で何本も花火を使っていく。
途中から誰が一番長く燃える花火を引けるかという謎の勝負が始まり神奈子が二本同時に点けようとして早苗に止められ、諏訪子は色が変わる花火を見つけて大喜びし俺はその度に火を点ける係になっていた。
「護くん」
「ん?」
「私、自分で点けられますよ?」
「知ってる」
「さっきから全部護くんが点けてくれていますけど」
「流れでそうなってるだけだよ」
「そうですか?」
早苗が少し笑った。
「では次もお願いします」
「結局俺なのか」
「お願いします」
「はいよ」
新しい一本を受け取る。
ライターの火を近づける。
今度は白い火花だった。
早苗がそれを眺めながら小さく笑う。
その向こうでは神奈子と諏訪子が花火の袋を漁っていた。
「あった!」
諏訪子が何かを取り出した。
「最後はこれでしょ!」
線香花火だった。
「まだ普通の残ってるぞ」
「これは別枠!」
「別枠なんだ」
「線香花火は最後にやるものだからね」
神奈子まで当然のように頷く。
「そういう決まりがあるのか?」
「雰囲気だよ雰囲気」
四人でしゃがみ込む。
さっきまで騒いでいたのが嘘みたいに静かになった。
線香花火に火を点ける。
小さな火の玉ができる。
そこから細い火花が一本、また一本と伸び始めた。
パチ、パチ、と静かな音がする。
先ほどまでの派手な花火とは全然違う。
風が少し吹くだけでも消えてしまいそうな小さな光だった。
「……なんか急に静かになったな」
俺が言う。
「線香花火ってそういうものじゃないですか?」
早苗が答える。
「さっきまであれだけ騒いでたのに」
「誰のせいだと思ってるんだい?」
神奈子が言った。
「主にそこの二人」
「私は普通にやってたよ」
諏訪子が言う。
「どの口が言うんだ」
「護くん」
早苗が小声で言った。
「落ちますよ」
見ると俺の線香花火の火の玉が細く揺れていた。
「やば」
俺は慌てて手を動かさないようにする。
その瞬間ぽとりと、
「あ」
落ちた。
「護、一番!」
諏訪子が嬉しそうに言う。
「何が一番だよ」
「最初に落ちた1番!」
「嬉しくない一番だな」
「護くん、残念でしたね」
早苗が笑っている。
「まだあるからもう一本やるぞ…!」
「負けず嫌いですね」
「違う。今のは風だ」
「はいはい」
「本当に風だって」
「風の神様二人の前でそれ言う?」
諏訪子がニヤニヤしている。
「じゃあお前らのせいじゃないか」
「違う違う。今の風は私じゃない」
「私でもないよ」
「じゃあ普通の風だろ!」
「護くん、声が大きいですよ」
早苗が笑う。
その直後だった。
「あっ」
今度は神奈子の火が落ちた。
「神奈子二番〜!」
「くっ……」
「何悔しがってるんだよ」
「いや、なんとなく」
残ったのは早苗と諏訪子。
二人とも黙って線香花火を見つめている。
「……」
「……」
「急に真剣勝負になったな」
俺が言っても反応しない。
パチパチと小さな火花だけが散る。
やがて諏訪子の火が弱くなった。
「あっ、待って待って待って」
「声をかけても待ってくれないだろ」
「頑張れ頑張れ……!まだいける!」
「何を応援してるんだ」
そしてぽとりと落ちる。
「ああああ!」
諏訪子が叫んだ。
「早苗の勝ちだね」
神奈子が笑う。
「やりました」
早苗が嬉しそうにこちらを見る。
まだ早苗の線香花火だけが残っていた。
「護くん、見てください」
「見てるよ」
「まだ残っています」
「強いな」
「ふふっ」
早苗が笑う。
その顔を小さな火花が照らしていた。
やがて火花は少しずつ弱くなる。
大きかった火の玉が小さくなり、最後に一度だけぱちっと光った。
そして落ちた。
「終わりましたね」
早苗が言った。
「ああ」
周囲が急に暗くなった気がした。
目が花火の明るさに慣れていたからだろう。
袋を見ると、まだ少し残っている。
「どうする?」
俺が聞く。
「もうちょっとやろうよ!」
諏訪子が即答する。
「私も賛成だね」
神奈子も言った。
「早苗は?」
俺が聞くと早苗は残った花火と俺達の顔を順番に見てから笑った。
「もちろんです。せっかくですから全部やってしまいましょう」
「さっき余ったらまた今度って言ってなかったか?」
「予定変更です!」
「早いな」
「夏の夜ですからね」
そう言って早苗は新しい花火を一本取った。
「護くん、火をお願いします」
「また俺?」
「はい」
「自分で点けられるんだろ?」
「点けられますよ?」
早苗はそう言いながら、当たり前のように花火を俺の方へ差し出してくる。
「でも、護くんが点けてくれるので」
「わかった」
ライターを点ける。
小さな炎を花火の先へ近づける。
再び夜の駐車場に光が弾けた。
その光を見て神奈子と諏訪子も次の花火を手に取る。
空に上がる大きな花火とは違う。
遠くから眺めるものでもない。
音だって小さい。
それでも四人で囲むにはこのくらいの小さな光がちょうどいいのかもしれない。
「護!次これやろうよ!」
「諏訪子、それ噴き出すやつじゃないか?」
「手持ちって書いてある!」
「本当に?」
「多分!」
「早苗、袋確認して!」
「分かりました!」
「護くん!まだ点けないでくださいね!」
「点けないよ!」
「神奈子もです!」
「いや私まだ何もしてないんだけど」
「念のためです!」
夜の守矢神社の外にある駐車場にまた俺達の声が響く。
夏休みはまだ終わっていない。
でももう終わってしまう。
もうすぐ8月が終わる。
だったら…こんな夜がもう少しくらい続いてもいいだろう。
俺はそう思いながら次の花火を手に取った。