夏休みが明けた後
夏休みが終わった。
長かったような、短かったような。
7月の終わりにはまだまだ先だと思っていた二学期も8月に入ってから守矢神社へ行ったり、学校へ来たり、妙なことに巻き込まれたり、花火を見たりしているうちに気付けば九月になっていた。
久しぶりに袖を通した制服も別に変わったところなんてないはずなのに夏休みの間ずっと私服で過ごしていたせいか妙に窮屈に感じる。
始業式そのものは特に変わったこともなく終わった。
長い話を聞いて教室へ戻って担任から二学期についての話を聞く。
提出するものを提出して、夏休み中に何をしていたとかどこへ行ったとかそんな話が教室のあちこちから聞こえてくる。
旅行へ行った奴もいれば、ほとんど家から出なかったと笑っている奴もいる。
俺の夏休みはどうだったかと聞かれれば、ずっと守矢神社に行っていた、という答えが一番正しいのかもしれない。
実際、夏休みに入ってから何度あの階段を上ったのか降りたのかもう覚えていない。
「明日からまた学校かー」
近くの席からそんな声が聞こえてくる。
「今日も学校だろ」
誰かがそう返すと、教室のあちこちから笑い声が上がった。
「いや今日は始業式だからノーカンだって。明日から授業じゃん」
「宿題終わった?」
「終わってなかったら今日ここにいない」
「いやいるだろ」
夏休み前と変わらない。
たった一ヶ月と少し離れていただけなのに、こうして教室に座っていると昨日まで普通に学校へ来ていたような気さえしてくる。
俺は机に頬杖をつきながらそんなやり取りを聞いて、それから少し離れた席にいる早苗へ目を向けた。
早苗も周りの女子と何か話していた。
何を話しているのかまでは聞こえない。
それでも相手の話に頷いたり、小さく笑ったりしているところを見ると、少なくとも困っているようには見えなかった。
そうして夏休み明け最初の一日は何事もなく過ぎていった。
放課後になると、久しぶりに教室中で一斉に椅子を引く音が響いた。
部活へ行く奴、友達と帰る奴、まだ教室に残って話している奴。
俺も鞄に荷物を入れて帰る準備をしていると早苗が自分の鞄を持ってこちらへやって来た。
「護くん」
「ん?」
「このあと神社に来ます?」
その聞き方がなんとなく夏休み中と同じで、俺は少しだけ笑った。
「そうだな、行こうかな」
「本当ですか?」
「あぁ。どうせ帰っても特にやることないし」
「では一緒に帰りましょう」
「そうするか」
早苗が嬉しそうに笑う。
夏休みが終わったからといって守矢神社へ行かなくなるわけじゃない。
むしろ学校が始まったなら、また学校から一緒に帰って神社へ向かう生活に戻るだけだ。
そんなことを考えながら鞄を肩に掛けた、その時だった。
「書本ー」
廊下から声がした。
俺を呼んでいる。
「ん?」
振り返ってみると教室の入口から知らない女子生徒がこちらを覗いていた。
制服を見る限り同じ一年だとは思うが少なくとも俺のクラスではない。
顔にも見覚えがなかった。
「書本っている?」
「俺だけど」
「あ、よかった。ちょっといい?」
なんだろう。
俺は鞄を机の上へ置き直して廊下へ向かった。
「どうした?」
「あのさ、ちょっと聞きたいことが――」
そこで女子生徒が俺の後ろを見て言葉を止めた。
俺も振り返る。
早苗がいた。
なんかほんの一瞬だけ、どことなくムッとしたような表情をしていた気がする。
けれど俺と目が合った頃にはいつもの顔へ戻っていてそのまま何も言わず俺の隣までやって来た。
女子生徒が少し戸惑った顔をする。
「あれ……えっと」
「一緒で大丈夫だ」
俺がそう言うと早苗が小さく頷いた。
「はい」
「そ、そう?じゃあいいんだけど」
女子生徒は俺と早苗を交互に見てから少し声を落とした。
「水泳部の先輩から聞いたんだけどさ。書本、オカルトに詳しいって聞いたんだけど……」
「詳しくないぞ」
即答した。
「え?」
隣で早苗までこちらを見る。
水泳部の先輩…か。
その言葉で思い当たる人物は一人しかいなかった。
……三隈先輩か。
夏休み前のプールでの一件が頭をよぎる。
あの件そのものを誰かに話したとは思わないがどういう経路なのか、この夏休みの間に俺がそういうものに詳しいという話だけがどこかへ伝わったらしい。
ちょっと面倒だな……。
「え?でも書本の家ってさ、なんか霊媒師みたいな家だったとか聞いたんだけど……?」
「あー……昔はそうだったらしいけど今はもうそんなことはしてないよ」
言いながら俺は隣に立っている早苗が首を傾げるのを横目で見た。
当然だろう。
俺が蔵から札を持ち出していることも妖を祓ったり封じたりしていることも知っている。
俺の祖父が祓い屋だったことだって知っている。
その早苗からすれば俺が今言ったことはかなり無理のある説明に聞こえるはずだ。
それでも早苗は何も言わなかった。
「じゃあ書本は霊媒師みたいなことは?」
「しないし、そんなことはできないよ」
「えっ?」
今度は早苗がはっきり声を出した。
俺はそちらを見ない。
「そっか。うーん……」
女子生徒は困ったように腕を組んだ。
早苗は俺を見る。
俺は女子生徒を見る。
早苗はまだ俺を見る。
頼むから今は何も言わないでくれ。
そんなことを思っていると早苗も察したのか口を閉じた。
ただ…どことなく納得していない顔だけはそのままだった。
「あ、あの」
今度は早苗から声を掛けた。
「お名前を伺っても?私は東風谷早苗です」
「あ、ごめん。私、一条。一条優。隣のクラスね」
「一条……優さんですね。よろしくお願いします」
「うん、よろしく東風谷さん」
一条。
隣のクラスか。
名前くらい聞いたことがあったような気もするが直接話したことはない。
「護くん」
早苗が俺を見る。
「せめて、お話だけでも聞きませんか?」
「……まぁ、それくらいなら」
俺がそう言うと一条の顔が少し明るくなった。
「わかった。力になれるかはわからないけど話だけでもよかったら」
「ありがとう。じゃあ聞いてくれると助かる」
俺達はそのまま図書室へ移動することになった。
夏休み中にも何度か来た図書室は、新学期が始まったからといって特に変わってはいない。
窓から入る九月の光はまだ夏とほとんど変わらず冷房がなければ十分暑い。
放課後になったばかりだから利用者もまだ少なく俺達は奥の方の机を選んで三人で座った。
一条が話し始めた。
家の近所に今は誰も住んでいない一軒家があるらしい。
少し前までそこには一人の男が住んでいた。
年齢までは一条も詳しく知らない。
ただ、一人暮らしだったことは確かなようだった。
近所付き合いはあまり良くなく、挨拶をしても返す時と返さない時があり、町内の集まりにもほとんど顔を出さなかったらしい。
それだけなら、別に珍しい話でもない。
妙なのは、その男の生活だった。
男は一週間ごとに家を出ていた。
火曜日になると姿を消し、水曜も木曜も金曜も帰ってこない。土曜も日曜も家は暗いまま。
それなのに月曜日になると必ず帰ってくる。
そして翌日にはまたいなくなる。
それを何度も繰り返していたという。
仕事なんじゃないかと近所では言われていたらしい。
泊まり込みの仕事でもしているんじゃないか。
遠くで働いているんじゃないか。
けれど本人が近所の人間に何かを話すことはなかったから本当のところは誰にもわからない。
ところが最近その男の家から夜中に突然雄叫びが聞こえたらしい。
近所の人が何事かと思って窓から外を確認すると、玄関の扉が勢いよく開き男が飛び出してきた。
叫びながら、そして途中からなぜか笑い始めて道路へ走っていき――そのまま走ってきた車に跳ねられたそうだ。
それ以来、その家には誰も住んでいないらしい。
けれど誰も住んでいないはずの家で夜になると物音がするようになったとか。
二階を歩く音。
誰かが廊下を行ったり来たりする音。
閉まっていたはずのカーテンが朝になると開いている。
誰もいないはずなのに窓の向こうに人影を見たと言う者までいる。
ということらしい。
「………」
「………」
俺と早苗は黙っていた。
「どうよ!」
一条が聞いてきた。
「いや、どうよって……」
「結構やばめな話でしたね……」
早苗が小さな声で言う。
俺も同感だった。
本当ならだが…。
「お母さん……あ、母も近所の人も結構怖がっちゃってさ。もう誰も住んでないんだけど、近所だから嫌でも家の前通ることあるし」
「それで俺か」
「そう。こういうのわかる人って身近に相談できそうな人がいなくて。たまたま図書室で三隈先輩に会ってさ。話してるうちに怪談の話になって」
「俺の名前が出たか……」
「そうそう。なんか書本なら詳しいかもって」
三隈先輩……。
俺は心の中で名前を呼んだ。
何をどう話したんだよ。
「まぁ…わかった。とりあえずその家……付近まで行ってみようかな」
「ほんと?」
「あぁ。でも今日はやめとくよ、先約があるし」
俺は早苗を見る。
早苗は一瞬きょとんとしてから、自分のことだと気付いたらしい。
「あぁ……いえ……」
なぜか少し困ったような、それでいて嬉しそうな声を出した。
一条は俺達を見て、それから「あぁ」と納得したように頷いた。
「なるほどね。分かったよ」
何がなるほどなんだ。
「あ、その家の住所だけ聞いておきたい」
「え?なんで?私も行くよ」
「来なくていいぞ」
「なんでよ」
「仮にもしなんか起きたら、安全の保証はできないからな」
「ええー、私見捨てられるー?!」
「おぅ、見捨てる見捨てる」
「ひどーい……!」
そう言いながら一条は笑っていた。
さっきまで怪奇現象の話をしていた人間とは思えないくらい明るい。
そのくらいの方がいいのかもしれない。
本人の家ではなく近所の空き家ということもあるのだろう。
一条は鞄からノートを取り出すと、その端に住所を書いた。
紙を破って俺に渡してくる。
「ここね」
「分かった」
受け取った紙を折ってポケットに入れる。
「じゃあよろしくね、東風谷さん、書本」
「え……あ、はい……!」
「あぁ」
一条は椅子から立ち上がるとこちらへ軽く手を振って図書室を出ていった。
窓から廊下を見れば、そのまま体育館の方へ向かっていく。
もしかしたらバスケ部かバレーボール部なのかもしれないな。
というかあの様子だと最初から一緒に空き家へ行く気なんてなかったんじゃないだろうか。
さて……。
図書室に残ったのは俺と早苗だ。
早苗は一条が出ていった扉をしばらく見ていた。
「早苗」
「はい?」
「大丈夫か?」
「えっと……大丈夫です。でも、ちょっとヒヤヒヤしてしまいました」
「俺と一条の会話か」
「はい……」
早苗は少し考えるように視線を机へ落とした。
「私は護くんとは…こうして普通に話せていますけど……」
そこで言葉が止まった。
どう言えばいいのか探しているようだった。
俺は急かさず待つ。
やがて早苗が口を開いた。
「こういう時、難しいですね…」
「こういう時?」
「はい。見えることを…それを知らない人と話す時です。会話をしているのに、何かを隠して……でも隠していると思われないようにして……自分を自然に振る舞わせながら話すのが…難しいです」
「……」
「護くんが『できない』って言った時、私、思わず声を出してしまいました」
「出してたな」
「だって…できますよね?」
「まぁな」
「なのにできないって言うので……」
「だから誤魔化したんだ」
「それが難しいんです…」
早苗は困ったように笑った。
その言葉を聞いて俺は何も言わず早苗を見る。
きっとこれは早苗がずっと抱えてきたものの一つなのだと思う。
見える自分と、見えない人。
自分には当たり前に存在しているものが相手には存在していない。
見えると言えば変な人間だと思われるかもしれない。
見えないふりをすれば自分自身を否定しているように感じるかもしれない。
だからといって誰にでも本当のことを話せるわけじゃない。
俺だって似たようなものだ。
昔から見えていた。
それを話していい相手と話さない方がいい相手がいた。
家族にさえ否定されたこともある。
早苗の場合は、俺よりずっと複雑なのかもしれない。
妖が見えるだけじゃない。
守矢神社には神奈子と諏訪子がいる。
本人自身も普通の人間とは少し違う。
それでも学校では普通の高校一年生として過ごしている。
「……」
「すみません。難しいですよね、こういうの」
「そんなことはないよ」
「え?」
「最初から上手くやろうとしなくていいんだ」
俺は少し考えてから続ける。
「何を話していいのか、何を話したくないのか。誰になら話してもいいのか。それが分かってくればいつかは自然にできるようになる。まずは自分を知ることから始めればいいんだ」
早苗は黙って聞いていた。
「俺もそうだからな」
「護くんも?」
「あぁ。さっきみたいに普通に嘘つくし」
「それはどうなんでしょう……」
「自分を守ることと誰かの為に必要な噓ならな」
早苗が小さく笑った。
その笑顔を見て俺も少し安心する。
「はい……!はい護くん。そうですね」
「あぁ」
早苗はもう一度頷いた。
「私も少しずつやってみます」
「うん」
そのくらいでいいと思う。
別に明日から急に誰とでも話せるようになる必要なんてない。
教室のみんなとも話せていたし俺とも話せる。
図書委員の生徒とも話せる。
先生とも話せる。
さっきだって自分から一条に名前を聞いた。
それなら十分始まっている。
俺はポケットに入れた紙を思い出した。
「さてと……とりあえずこの件、どうするかな」
「向かうんですよね」
「今日は行かないけどな」
「はい」
「そもそもこれ本当かどうかもわからない話だからな……」
男が一週間ごとに家を空けていたこと。
月曜日だけ帰ってきたこと。
家を飛びだし高笑いしながら事故ってんだから。
その後の空き家で起きる怪奇現象。
全部が繋がっているとは限らない。
近所の噂が混ざって話が大きくなっている可能性もある。
誰も住んでいない家なら風で何かが動いただけでも怪奇現象になる。
カーテンだって誰かが確認したわけでもないのに「昨日は閉まっていた」と思い込んでいるだけかもしれない。
ただ――。
「一週間ごと……か」
俺は呟いた。
「そこが気になりますか?」
「少しな」
怪奇現象より、むしろそっちの方が引っ掛かる。
なぜ月曜日だけ帰ってきていたのか。
仕事なら説明はつく。
けれど、その生活と最後の出来事に何か関係があるなら。
「まぁ、今考えても仕方ないか」
「後日ということですね」
「あぁ。明日にでも場所だけ見に行ってみるかな…」
「私も行きますよ」
即答だった。
「まだ何があるか分からないぞ」
「だからです」
「だからって」
「護くん一人で行かせる方が心配です。それにこれまで一緒に解決してきたじゃないですか」
早苗は当然のようにそう言った。
夏休み前だったら俺は一人で行こうとしていたかもしれない。
けれど今は早苗がそう言うこともなんとなく分かっていた。
「分かった」
「はい」
「ただし最初は外から見るだけにしよう」
「分かりました」
「変だと思ったら近付かない」
「はい」
「勝手に先に行かない」
「それは護くんにも言えます」
「はい…」
早苗が少し得意そうに笑った。
その顔を見て、俺は立ち上がる。
「じゃあ今日は予定通りにするか」
「はい。では今日は神社に来ませんか?」
「行こうかな」
「では帰りましょうか」
「あぁ」
俺達は椅子を戻して図書室を出た。
廊下にはまだ部活へ向かう生徒達の声が響いている。
体育館の方からはボールが床を叩く音が聞こえてきた。
その中に一条がいるのかもしれない。
夏休みは終わった。
今日からまた学校が始まる。
授業があって放課後があって早苗と一緒に帰って守矢神社へ向かう。
きっと夏休み前と同じ日々に戻る。
――そう思っていた。
ポケットの中には一条優から渡された住所の書かれた紙が入っている。
その紙が歩くたびに僅かに擦れる音を立てていた。