放課後、守矢神社へ向かう頃にはすっかり日が短くなったと感じるようになっていた。
夏休みの頃ならまだ明るかった時間なのに坂を上っている途中ですでに空は薄い藍色になっていて西の空にわずかに残っていた夕焼けも山の向こうへ沈もうとしている。
風も少し冷たい。
夏の夜とは明らかに違う風だった。
「今日は綺麗に見えそうですね」
隣を歩いていた早苗が空を見上げながら言った。
「月か?」
「はい。今日は中秋の名月ですから」
そういえばそうだった。
俺も空を見上げる。
まだ月は山の影に隠れているのか見えなかったが雲はほとんどない。
昼間から晴れていたし、この分なら夜になれば綺麗に見えるだろう。
「神社でもなんかするのか?」
「何かというほどではありませんよ。お団子を用意して、すすきを飾って、それくらいです」
「十分やってるじゃん」
「ふふ、そうですか?」
早苗はそう言って笑った。
守矢神社に着くと境内にはもう人の姿はほとんどなかった。
昼間に参拝に来ていた人たちも帰ったらしく社務所もそろそろ閉める時間らしい。
境内の端では諏訪子がすすきを何本か抱えて歩いていて、その後ろを神奈子がのんびりついて行っていた。
「お、来たね」
俺を見るなり諏訪子が声を掛けてくる。
「なんだそれ」
「見て分かんない?すすき」
「それは分かるよ」
「じゃあ聞くなよー」
「なんでそんな持ってるんだよ」
「いっぱいあった方が月見っぽいじゃん」
どういう理屈だ。
諏訪子が抱えているすすきは明らかに飾る量ではない。
両腕いっぱいに抱えていて顔の横から穂が飛び出している。
「諏訪子様、さすがに多すぎますよ」
早苗も同じことを思ったらしい。
「えー?」
「えー、じゃありません。そんなに持ってきたら置くところありませんよ」
「じゃあ護に持って帰ってもらおう」
「いやいらないよ」
「部屋に飾れば?」
「俺の部屋何だと思ってるんだ」
「祓い屋の部屋」
「それとすすきになんの関係があるんだよ」
横で神奈子が笑っていた。
結局すすきは半分くらいだけ使うことになった。
早苗が社務所の奥から小さな台を持ってきて、その上に白い皿を置く。
そこへ丸い団子を積んで、隣にすすきを飾った。
俺も手伝おうと思ったが団子を積むのにも一応形があるらしく早苗に「護くんはそこで見ていてください」と止められた。
「俺でも団子くらい積めるぞ」
「本当ですか?」
「そのくらいできる」
「この前じゃがいもの皮を厚く剥いてましたよね」
「それ関係ないだろ」
「ありますよ。少し不安です」
どういう評価をされているんだ俺は。
早苗は楽しそうに笑いながら団子を並べていく。
一段目を作ってその上にまた団子を積んでいく。
最後に一つを頂上へ置くといかにも月見らしい団子の山が完成した。
「できました」
「おぉ…」
「どうですか?」
「月見だ」
「感想が雑です」
「じゃあ上手い」
「ふふ、ありがとうございます」
それから少しして完全に日が落ちた。
境内には灯籠と社務所から漏れる明かりがあるだけで山に囲まれた神社の夜は街中よりずっと暗い。
その分、空がよく見えた。
俺たちは境内の縁側に腰を下ろした。
神奈子と諏訪子は少し離れたところにいる。二人とも団子は食べるらしいが月が出るまでは待つと言っていた。
「まだかな」
俺が空を見上げる。
「もうすぐだと思いますよ」
早苗も同じように空を見ている。
しばらく何も話さずに待っていた。
境内を吹き抜ける風がすすきの穂を揺らしている。
木々の葉が擦れる音がして、それ以外にはほとんど音がない。
こうして黙っているのも別に気まずくなくなった。
高校に入った頃だったらどうだっただろう。
早苗と知り合ってまだそんなに経っていなかった頃なら、こうして二人で縁側に座って何も話さずに空を見ているだけという時間は少し落ち着かなかったかもしれない。
今はそうでもない。
横を見ると早苗は膝の上に手を置いて山の方をじっと見ていた。
「早苗」
「はい?」
「月出てきた」
「あっ」
山の向こうから光が見えた。
最初は白い光だけだった。
それが少しずつ山の稜線から顔を出していく。
「わぁ……」
早苗が小さく声を漏らした。
大きな月だ。
山のすぐ上にあるせいなのか普段見ている月よりずっと大きく見える。
黄色がかった丸い月が山の向こうからゆっくり昇ってきて暗かった境内を淡い光で照らしていく。
「綺麗ですね」
「ああ」
それ以外に言葉が出てこなかった。
月なんて今まで何度も見ている。
家からだって見えるし学校からだって見える。
夜道を歩けば嫌でも目に入る。
なのにこうして神社の境内から眺めているといつもとは違って見えた。
すすきの穂が月明かりを受けて白く光っている。
その向こうに早苗が用意した団子があった。
「よし」
諏訪子が立ち上がった。
「団子食べよう」
「待ってたんですか?」
「そりゃ待つよ。月見だからね」
「さっき一個つまみ食いしてなかったか?」
「してないよ」
「しただろ」
「してないしてない」
「一個減ってるぞ」
俺が団子の山を指差す。
確かにさっきより一個少ない。
諏訪子が黙った。
神奈子が横で笑っている。
「諏訪子様」
早苗が少し低い声で呼ぶ。
「……月が食べたんだよ」
「月のせいにしないでください」
そんなことを言いながら結局全員で団子を食べることになった。
早苗が皿を持ってきて一人ずつ団子を取っていく。
「はい、護くん」
「ありがとう」
手渡された団子を受け取る。
「これ早苗が作ったのか?」
「はい。昨日の夜に作りました」
「昨日?」
「今日だと学校がありますから。昨日のうちに作っておいたんです」
「へぇ…」
一口食べてみるともちもちしている。
ほんのり甘い。
「どうです?」
早苗がこちらを見ていた。
「うまいよ」
「本当ですか?」
「うん」
「よかったです」
早苗は嬉しそうに笑って自分の分の団子を取った。
月を見ながら団子を食べる。
ただそれだけだった。
神奈子と諏訪子が何か話している声を聞きながら俺と早苗も団子を食べる。
「護くん」
「ん?」
「こういうの…家ではします?」
「月見か?」
「はい」
「うーん…すごい昔はしてたらしいが今はしないな。母さんが団子買ってくることはあるけど」
「そうなんですね」
「早苗は毎年やってるのか?」
「だいたいは」
早苗が月を見る。
「神社ですからね。季節の行事は結構やりますよ。節分とか、お月見とか、お正月とか」
「節分って神奈子と諏訪子に豆投げるの?」
「なんでですか」
「神だから鬼じゃないな」
「当たり前です」
「でも早苗、昔諏訪子に投げたことあるよね」
神奈子が横から口を挟んだ。
「神奈子様!」
「あるのかよ」
「小さい頃です!」
早苗が慌てる。
「何歳くらい?」
「言いません」
「あれは五歳くらいだったかな」
「神奈子様ー!」
「諏訪子が鬼のお面被って追いかけたら、早苗が本気で泣いてねえ」
「やめてください!」
耳まで赤くしながら早苗が怒っている。
俺は笑いを堪えきれなかった。
「笑わないでくださいよ護くん!」
「いや、それは無理だろ」
「もう……」
早苗がむっとした顔で団子を一つ取った。
「じゃあ護くんにはもうあげません」
「それは困るな」
「困ってください」
「まだ食べたい」
「知りません」
そう言いながら皿はこちらに置いたままだった。
俺はもう一個取った。
早苗は何も言わなかった。
少しして神奈子と諏訪子が社務所の方へ戻っていった。
諏訪子は団子を三個くらい持っていこうとして早苗に止められていたが結局二個は持っていった。
境内に俺と早苗だけが残った。
月はもう山から完全に昇っている。
さっきより高い場所にあって黄色かった色も少し白くなっている。
「寒くないか?」
「大丈夫ですよ」
「ならいいけど」
風が吹くとすすきが揺れる。
早苗の髪も少しだけ風に流れた。
「もう秋ですかね」
早苗が言った。
「そうだな」
「夏休みが終わったばかりだと思ってたのに」
「早く感じるな」
少し前まで花火をしていた。
諏訪湖の花火大会にも行った。
暑いと言いながら神社で過ごして蜂の巣を見つけて学校が始まって…思えば色々あった。
まだ二学期は始まったばかりのはずなのに、もうずいぶん前のことみたいに感じる。
「色々ありましたね」
「色々ありすぎた気もするけど」
「ふふ、そうですね」
「普通はこんなに妖怪とかなんて相手にしないだろうに」
「普通の高校生は祓い屋じゃありませんから」
「早苗も普通じゃないだろ」
言ってから少しだけしまったと思った。
早苗は昔、普通でいたいと思っていた。
それを知っている。
けれど早苗は気にした様子もなく月を見たまま笑った。
「そうですね」
少し間が空いた。
「でも今は悪くないです」
「何が?」
「この普通じゃないことです」
俺は早苗を見る。
早苗は月を見上げていた。
「護くんと知り合えましたから」
静かな声だった。
それ以上何か続くのかと思ったが早苗は団子を一つ取って口に運んだだけだった。
俺も月を見る。
「……それなら俺も同じだよ」
「え?」
「早苗と知り合えた」
早苗がこちらを見る。
目が合った。
ほんの一秒くらいだったと思う。
早苗はすぐに月の方へ顔を戻した。
「……そうですか」
「ああ」
「それならよかったです」
それだけだった。
風が吹いてすすきが揺れる。
月は何も知らないみたいに空に浮かんでいた。
しばらくして早苗が皿を見た。
「あ」
「どうした?」
「最後の一個です」
団子が一つだけ残っていた。
「早苗食べたら?作ったの早苗だし」
「護くん食べます?」
「俺はいいよ」
「私も大丈夫です」
「じゃあ残す?」
「せっかく作ったのに勿体ないですよ」
確かにな。
俺と早苗は団子を見る。
「半分にしようか」
「そうします?」
早苗が少し考えてから団子を取った。
「じゃあ半分こですね」
どこかでやったようなやりとりだった。
この前料理をした時も最後に残った一切れを二人で分けた気がする。
「また半分だな」
「いいじゃないですか」
「そうだな」
早苗が団子を二つに分ける。
少し形が潰れた。
大きい方を俺に渡そうとする。
「いやいやそっち早苗でいいよ」
「護くんの方が大きいんですから」
「そこ関係ある?」
「あります」
「ないだろう」
「ありますって」
結局大きい方を渡された。
二人で団子を食べる。
これで全部なくなった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
早苗が皿を膝の上に置いた。
「護くん、また来年もやりましょう」
「月見?」
「はい」
「いいよ、やろう」
「約束ですからね」
「分かった」
一年後先なんてまだずっと遠い。
その頃俺たちが何をしているのかなんて分からない。
それでも早苗は当たり前みたいに来年の話をする。
俺も当たり前みたいに頷いた。
月は高くなっていた。
守矢神社の境内を白い光が照らしている。
すすきが風に揺れてその影が地面の上でゆっくり動いていた。
今年の中秋の名月は、きっとしばらく忘れないと思う。