九月も終わりが近くなると、夏休みが終わったばかりだと思っていたのが嘘みたいに日が短くなった。
少し前までは放課後になっても窓の外は嫌になるほど明るかったのに今では部活動の声が校庭から響き始める頃にはもう西側の空が薄い橙色に染まり始めている。
暑さそのものはまだ残っているものの窓から入ってくる風には夏とは違う冷たさが混じっていた。
俺は帰りのホームルームが終わったあと、机の中に突っ込んでいた教科書を鞄へ適当に詰め込みながら窓の外を眺める。
野球部の掛け声と吹奏楽部が鳴らしている楽器の音、それから廊下を走っていく誰かの足音。いつも通りの放課後だった。
「護くん、今日も神社来ます?」
隣から声を掛けられて顔を向けると、鞄を抱えた早苗が立っていた。
「行くよ。特に用事もないし」
「特に用事がないから来る場所なんですか、うちは」
「駄目なのか?」
「いえ、そういう意味ではありませんけど」
早苗はそう言いながら少しだけ笑った。
こうやって放課後に守矢神社へ行くことが当たり前になっている。
もちろん毎日というわけではないが予定のない日は大体そうだ。
神奈子や諏訪子と話したり早苗の手伝いをしたり、ときどき何か妙なものに巻き込まれたり。
最後の一つだけはできれば減ってほしいが俺がそんなことを考えたところで怪異の側が遠慮してくれるわけでもない。
「あ、東風谷さん」教室を出ようとしたところで、後ろから声がした。
振り返ると、一条がこちらへ小走りで近づいてくる。
一条優。
少し前にあった一件から早苗とも話すようになったらしく最近は休み時間に二人で話している姿を見ることもある。
「一条さん。どうしました?」
「今日、図書室行く?」
「今日は当番じゃないので、このまま帰ろうかと」
「そっか。じゃあまた明日」
それだけ言って一条は手を振った。
早苗も「はい、また明日」と返す。
俺はその様子を横で見ながら少し前までならこういう光景もあまりなかったなと思った。
早苗が誰かと話していること自体は珍しくない。
先生や図書委員の生徒とも普通に会話はする。
ただ以前よりもこういう何でもない付き合いが増えた気がする。
「……なんですか?」
「いや、別に」
「今、何か考えてましたよね」
「何でもないって」
「怪しいです」
そんな話をしながら廊下へ出る。
そのときだった。
「……一条」
微かに声が聞こえた。
俺は足を止めた。
「ん?」
少し前を歩いていた一条も振り返っている。早苗も俺を見る。
「どうしました?」
「今……」俺が言いかけるより先に一条が廊下の奥を見た。
「誰か呼んだ?」
俺と早苗は顔を見合わせた。
どうやら聞こえたらしい。
ただ、それ以上のものは一条には分かっていないようだった。
そもそも一条には俺や早苗みたいに妙なものを見る目はない。
以前の一件でもそうだった。
怪異の存在そのものが見えていたわけじゃない。
ただ不可解な現象に巻き込まれていただけ。「一条さんを、ですか?」
早苗が尋ねる。
「うん。今、一条って……」
「誰の声だった?」
「分かんない。女子っぽかったような……男子だったような……」
随分曖昧だ。
「クラスの誰かじゃないのか」
「かなあ」
一条は首を傾げたあと廊下の角まで行って覗き込んだ。
しかしその先には誰もいない。
「いないや」
それだけ言って戻ってくる。
特に怖がっている様子もなかった。
放課後の学校なら誰かがふざけて名前を呼ぶことくらいある。
それに声なんて反響すればどこから聞こえたのか分からなくなることもある。
「じゃあ私、部活の友達待ってるから」
「はい。また明日」
「書本もまたね」
「ああ」
一条と別れ、俺と早苗は階段へ向かった。
俺は一度だけ後ろを振り返った。
長い廊下から橙色の光が窓から差し込み床へ細長く伸びている。
教室から出てくる生徒もいる。
誰かが笑っている声もする。
妙なものは見えなかった。
「護くん」
階段を下り始めたところで早苗が小さな声で言った。
「聞こえましたよね」
「一条の名前か?」
「はい」
俺は頷いた。
「聞こえた」
「私もです」
早苗も後ろを振り返る。
だがそれ以上は何も言わなかった。
俺も同じだった。
声が聞こえた。
それだけなら別に怪異とは限らない。
俺たちは少しそういうものに慣れすぎている。
何か変なことが起きる度に全部妖怪の仕業にしていたらそれこそ神奈子あたりに笑われるだろう。
よくない癖、なんかもう職業病みたいだ。
次の日の昼休み、俺はそのことをほとんど忘れていた。
早苗は一条と一緒に昼を食べるらしく俺は教室で弁当を広げていた。
昨日の夕飯の残りが詰められた弁当を食べながら窓の外を眺める。
空は曇っていた。
朝から雲が多く午後には雨が降るかもしれないと天気予報で言っていた気がする。
「なー書本」
不意に前から声を掛けられた。顔を向けると同じクラスの男子が立っている。
「何だ」
「お前、昨日放課後残ってた?」
「あぁ、少しだけな」
「やっぱりか。お前さ、俺のこと呼んだ?」「いや呼んでない」
即答するとそいつは「だよなあ」と頭を掻いた。
「何だよなんかあったのか?」
「昨日、階段の辺りで名前呼ばれたんだよ。書本の声に似てた気がしたから」
「俺は早苗とそのまま帰ったよ」
「東風谷さんと?あ〜…じゃあ違うか」
特に気にした様子もなく自分の席へ戻っていった。
俺は箸を止めた。
昨日、一条…。
そして今日聞いた話では別の生徒。
どちらも放課後だ。
名前を呼ばれたという。
ただ、それだけの話。
偶然と言えば偶然で済む。
「……まさかな」
俺は小さく呟いて再び弁当を食べ始めた。
放課後になる頃には空はさらに暗くなっていた。
雨こそまだ降っていないがいつ降り出してもおかしくない。
今日は図書委員の仕事があるらしく、早苗は先に図書室へ向かった。
俺は特に用事もなかったので教室で少し待つことにした。
窓際の席に座りぼんやり外を見る。
部活動へ向かう生徒が校庭を横切っていく。十分ほど経った頃、俺は立ち上がった。
図書室まで迎えに行く必要もないが教室に一人でいても仕方がないから廊下へ出る。
まだ生徒はそれなりに残っていた。
階段を下り一階へ向かう。
図書室は別棟側にあるから渡り廊下を通らなければならない。
そこへ向かっている途中、前から一条が歩いてきた。
「あ、書本」
「まだいたのか」
「部活の友達待ってたんだけど、今日は休みだって今連絡来て。東風谷さんは?」
「委員会だから図書室だ」
「そっか」
一条はそのまま昇降口へ向かおうとした。そのとき。
「……優」
声がして一条の足が止まった。
俺も止まった。
昨日よりはっきり聞こえた。
声は廊下の奥からだ。
一条が振り向く。
「え?」俺は何も言わず声がした方向を見る。
でも誰もいない、教室の扉はいくつか開いている。
でも近くに人影はなかった。
「まただ」と一条が言った。
「昨日もだったよね?」
「ああ…そうだな」
「誰なんだろ」
一条は不思議そうにしているだけだった。
怖がってはいない。
見えないのだから当然なのかもしれない。
いや…俺にだって今のところ何も見えていないのだ。
「優」
そしてもう一度聞こえた。
一条が「はい?」と反射的に返事をした。
「おい」俺は思わず一条の肩を掴んだ。
「え、なに?」
「……いや」
しまった…。
返事をするなと言いかけて止めた。
まだ何なのか分かっていない。
それなのに変に怖がらせる必要はない。
「誰かの悪戯かもしれない。もう帰れ」
「う、うん……?」
一条は明らかに不思議そうな顔をしたがそのまま昇降口へ向かった。
俺は一人で廊下に残る。
しばらく待っても声はしない。
何も見えない。
妙だった。
昨日より声がはっきりしている。
それに昨日は苗字で今日は名前だ。
「……距離が近くなってる?」
自分で言って、嫌な感じがした。
図書室へ行くとちょうど早苗が仕事を終えたところだった。
「護くん。待ってたんですか?」
「まあな」
「すみません、もう少し早く終わると思ったんですけど」
「別にいいさ、大丈夫だよ」
早苗は机の上を片付け図書委員の生徒に挨拶をして俺のところへ来た。
俺たちはそのまま図書室を出る。
「なぁ早苗」
「はい?」
「昨日の声なんだけど」
「一条さんを呼んだ声ですか?」
俺は今日あったことを説明した。
昼休みに聞いた話。
そして今、一条がまた名前を呼ばれたこと。昨日よりもはっきりしていたこと。
「一条さん、返事をしたんですか?」
「反射的にな…」
「……何もなければいいですけど」
早苗の表情が少しだけ変わる。
「早苗は何か知ってるのか?」
「いえ。ただ…昔から名前を呼ばれて返事をしてはいけない、という話は色々ありますから。山の中だったり、夜道だったり」
「まあ…あるな」
そういう怪談なら俺もいくつか知っている。返事をすると連れていかれる。
返事をすると憑いてくる。
三度返事をすると姿を取られる。
地域によって内容はいくらでも変わる。
「ただ、ここ学校だぞ?」
「妖怪が学校に入ってはいけない決まりはありません」
「それはそうだけどな…」
そんな話をしながら渡り廊下へ差しかかった。
外はいつの間にか雨が降り始めていた。屋根を細かく叩く雨音が続いている。
空が暗いせいでまだ夕方なのに廊下の奥は薄暗い。
「……護くん」
早苗が突然足を止めた。
「どうした」
「今……」
早苗が後ろを見る。
俺も振り返った。
でも誰もいない。
「何か聞こえたのか?」
「いえ……気のせいかもしれません」
その瞬間だった。
「早苗」
俺の声がした。
俺の隣にいる早苗が目を見開いた。
俺は何も言っていない。
「護くん……今」
「言ってないぞ」
俺たちは同時に廊下の奥を見る。
だが誰もいない。
雨音だけが続いている。
早苗が俺の袖を僅かにでも…それでもしっかり掴んだ。
「……護くんの声でした」
「俺にもそう聞こえた」
俺の声だった。
少なくとも俺自身がそう思うくらいには似ていた。
「早苗」
もう一度、だが今度は少し遠い。
俺たちの後ろと廊下の角の向こうから。
早苗は返事をしなかった。
俺も動かない。
数秒してまた声がした。
「早苗」
今度は近い。
角の向こうではない。
さっき俺たちが通ってきた図書室の辺りから聞こえた。
「……近づいてます」
早苗が小さく言う。
「みたいだな」
俺は鞄の中へ手を入れた。
札は持っている。
学校で使うことになるとは思っていなかったが。
「護くん」
今度は違う声だった。
早苗の声だ。
俺の名前を呼んだ。
けれど本物の早苗は俺の隣にいる。
しかも口を閉じたままだった。
「……私の声ですね」
「ああ」
一条の名前を呼んだ何か。
それが今度は俺たちの声を使っている。
俺は薄暗い廊下の奥を睨んだ。
「どうやら、ただの聞き間違いじゃなさそうだな」
早苗が俺の隣で静かに頷く。
「神奈子様と諏訪子様にも相談した方がよさそうですね」
「そうだな。何なのか分からないうちに追いかけるのはやめよう」
そう言った直後だった。
「護くん」
今度の声は、早苗のすぐ後ろから聞こえた。
俺は何かそれが嫌になり反射的に早苗を自分の方へ引き寄せた。
早苗は少し驚いたが俺の隣に寄ってくれた。
息を呑んで振り返るもそこには誰もいなかった。