薄暗い渡り廊下が伸び、その向こうに図書室の扉が見えているだけだった。
雨は少し強くなっていて窓の向こうから聞こえる雨音が校舎全体を包んでいる。
誰かが隠れているような場所もない。
教室の扉も開いているし角までは見通せる。それでも声は確かに俺たちのすぐ後ろから聞こえた。
「……いました?」
早苗が俺のすぐ隣で小さく尋ねた。
「いや。何も見えない」
「私にも見えません」
これが一番妙だった。
普通の生徒ならまだ分かる。
妖怪を見る目なんて持っていないのだから声だけ聞こえて姿が見えないこともあるだろう。
しかし俺にも早苗にも見えていない。
単に姿を隠しているのか、それともそもそも姿を持たないものなのか。
それすら分からない。
「今日は帰ろう。これ以上学校で調べるのはやめた方がいいかもしれない」
「はい。私もそう思います」
早苗はそう答えたものの俺の袖を掴んだ手はしばらく離さなかった。
俺も特に何も言わず、そのまま昇降口へ向かう。
途中で何度か後ろを確認したがそれ以上声はしなかった。
学校を出る頃には本降りになっていた。
傘を開き、俺と早苗は並んで守矢神社へ向かう。
雨のせいで街は普段より静かだった。
車が道路を通るたびに濡れた路面をタイヤが擦る音が響き、道沿いの家々から漏れる明かりが水溜まりに揺れている。
少し前までならこの時間でも明るかったのにもう夕方というより夜に近い。
早苗もそれを感じているのか今日はいつもより口数が少なかった。
「一条さん、大丈夫でしょうか」
少し歩いたところで早苗が言った。
「今のところ何も起きてないから大丈夫だとは思うが」
「でも返事をしましたよね」
「ああ」
「私たちには声が近づいてきました。一条さんにも同じことが起きたら……」
俺もそれは気になっていた。
昨日は廊下の奥から苗字を呼ばれ今日は名前だ。
そして一条が返事をしたあと俺たちの前では声が二度続いた。
それだけなら偶然とも言えたがそのあとに俺と早苗の声を真似し始めた。
少なくとも何かがこちらを認識している。
「明日、一条に一応聞いてみよう。妖怪がどうとかはなしで」
「そうですね。怖がらせるだけでしょうし」
一条に限らず、学校の生徒たちに俺や早苗が見ているものをわざわざ教える必要はない。見えないなら、そのまま見えない方がいい。妖怪も神も怪異も知らずに済むならそれに越したことはない。
まして一条は以前に怪異の相談事があったばかりだ。
これ以上変なものと縁を作らせたくはなかった。
守矢神社へ着くと境内にも細かい雨が降り続いていた。
石畳は黒く濡れ、屋根から落ちる雨水が一定の間隔で地面を叩いている。
早苗が先に社務所へ入り俺も靴を脱いで後に続く。
中へ入ると神奈子と諏訪子がいた。
神奈子は窓際で外の雨を眺め、諏訪子は畳の上で横になって何かの雑誌を読んでいた。
「おかえり、早苗。今日は遅かったね」
諏訪子が雑誌から顔を上げた。
「ただいま戻りました、諏訪子様。図書委員の仕事がありまして」
「護も一緒か。ずぶ濡れじゃないだろうな」
神奈子がこちらを見る。
「傘さしてるんだから大丈夫だよ。それよりちょっと聞きたいことがあるんだ」
俺がそう言うと、諏訪子が身体を起こした。
「なに。また何か見つけた?」
「何で嬉しそうなんだよ」
「別に嬉しくないよー」
明らかに少し楽しそうだったがそこは放っておくことにした。
俺と早苗は今日までにあったことを順番に話した。
一条が名前を呼ばれたこと。
翌日には別の生徒も同じような経験をしていたこと。
一条が返事をしてしまったこと。
そして俺と早苗がそれぞれ互いの声を真似されて最後にはすぐ背後から名前を呼ばれたこと。
話を聞いている間、神奈子は腕を組んだまま黙っていた。
諏訪子もいつの間にか笑うのをやめている。
「姿は?」
神奈子が尋ねた。
「見てない。俺にも早苗にも何も見えなかった」
「気配は?」
「それもほとんどないです、神奈子様」
早苗が答える。
「本当に声だけなんです。妖気らしいものも霊の気配も感じませんでした」
「ふむ」
神奈子が少し考える。
「声を返すもの、か」
諏訪子が呟いた。
「山彦…?」
俺が聞くと諏訪子はこちらを見る。
「一番分かりやすく言えばね。山で声を出すと返ってくるやつ。今じゃ現象としての山びこを思い浮かべる人が多いけど、昔は声を返す何かが山にいるって考えられることもあった」
「でも学校ですよ?」
早苗が首を傾げる。
「山じゃありません」
「山彦だから絶対に山から出ない、なんて決まりもないよ」
神奈子が答えた。
「妖怪なんてものは人がそう呼んだからその形になったのか、それとも元からいたものに人が名前を付けたのか、曖昧な奴も多い。声を真似するものが山を離れて人里に下りても不思議じゃないさ」
「じゃあ山彦だと思う?」
「まだ決めつけるには早いね」
神奈子はそう言ってから、早苗を見る。
「特に気になるのは、声を真似したことだ。一条という子の名前を呼ぶだけなら、そいつを狙っているとも考えられる。でも護の声で早苗を呼び、早苗の声で護を呼んだんだろう?」
「はい、神奈子様」
「なら、人の声を覚えている可能性もある」
俺は学校の廊下を思い出した。
最初に聞いた、一条を呼ぶ曖昧な声。
そして次の日にははっきりとした声になり、その後は俺と早苗の声を真似した。
「聞いた声をわざわざ覚えるってことか」
「かもしれないね」
諏訪子が言う。
「それなら面倒だよ。学校なんて声だらけだから」
確かにそうだった。
朝から夕方まで、何百人もの生徒が話している。
先生が名前を呼び、生徒同士が呼び合い、部活動では大声を出す。
もしそいつが声を集めるものなら、これほど都合のいい場所もないな。
「返事をしたらどうなるんでしょうか」
早苗が聞いた。
神奈子は少しだけ眉を寄せる。
「それは分からない。何もないかもしれないし返事をした相手を覚えるのかもしれない。あるいは返事をしたことで、向こうから近づきやすくなるのかもしれない」
「一条さん……」
「まだ何か起きたと決まったわけじゃないよ」
俺が言うと、早苗は頷いた。
「はい」
「とりあえず明日は一条の様子を見る。あと放課後に声が出るならもう一回学校を調べてみる」
「私も行きます」
即答だった。
「分かってる。最初からそのつもりだよ」
「ならいいです」
諏訪子が俺たちを見て少し笑った。
「気をつけなよ。声っていうのは姿がない分、案外厄介だから」
「あぁ分かってる」
「特に知ってる人の声がしたときほどね」
その言葉だけは妙に頭に残った。
翌日の朝、一条は普通に学校へ来ていた。
教室へ向かう途中で早苗と一緒にいるところを見つけ俺もそちらへ向かう。
「おはようございます、一条さん」
「おはよう、東風谷さん。書本もおはよう」
「ああ。昨日のあと何かあったか?」
俺がいきなり尋ねたせいで、一条がきょとんとする。
「昨日?」
「名前呼ばれてただろ」
「ああ、あれ?」
一条は少し考えたあと、首を横に振った。
「別に何もないよ。家帰って、ご飯食べて、お風呂入って寝ただけ」
「えぇ…?変な声とかは?」
「ないない。何、まだ気にしてるの?」
笑われた。
「ならいいか」
「書本って意外と心配性なんだね」
「余計なお世話だ」
早苗が隣で小さく笑う。
一条に異変はない。
顔色も普通だし何かに憑かれているような気配もない。
俺から見ても早苗から見ても同じらしく教室へ戻る途中で早苗が小声で言った。
「大丈夫そうですね」
「ああ。そのようだな」
それで終わればよかった。
昼休み、一条が教室へ来た。
今日は一緒に昼を食べるらしい。
俺は自分の席で弁当を食べていたが途中で早苗が俺の机の横までやってきた。
「護くん」
「どうした?」
「一条さんが、少し変なことを言っていて」
声を抑えているので俺は箸を置いた。
「なんて…?」
「さっき廊下で、お母さんに呼ばれた気がしたそうです」
一瞬意味が分からなかった。
「ん??学校で?」
「はい」
「母親が来てたのか?」
「いえ。一条さんもそれがおかしいと言っていました。ただ…似た声がしただけだと思っているみたいです」
俺は教室の入口を見る。
廊下の向こうで一条が誰かと話していた。
特に怯えている様子もない。
「昨日、家では何もなかったって言ってたよな」
「はい」
「じゃあ学校にいる間だけか」
「その可能性はあります」
もし山彦と呼んでいる何かが学校にいるのなら、それはあり得る。
だが一条の母親の声をどうして学校にいるものが知っているのか。
「……一条が母親と電話でもしてたとか?」
「聞いてみましたけど、今日はしていないそうです」
「昨日は?」
「そこまでは分かりません」
まだ材料が足りない。
俺はそう思いながら弁当に戻った。
その日の放課後、俺と早苗は昨日と同じように校内へ残った。
一条には何も説明していない。
ただ名前を呼ばれても返事をしない方がいい、とだけ言ってある。
「なんで?」
当然そう聞かれたが、
「悪戯してる奴が面白がるからかもしれないからね」
と適当に誤魔化した。
一条は納得したのかしていないのか分からない顔をしていたが一応「分かった」と答えた。
放課後の校舎は昨日より明るかった。
雨は上がり、西の空には雲の隙間から夕日が見えている。
俺と早苗は昨日声を聞いた渡り廊下へ向かった。
「今日は聞こえませんね」
「まだ人が多いからか?」
「どうでしょう」
俺たちはしばらく廊下を歩いた。
特に変なものはない。
俺は紙吹雪を少しだけ指先に乗せ、息を吹きかけて飛ばしてみた。
白い紙片が床へ落ちていく。
何かの気配に引っ張られる様子はなかった。
「なにも反応ないな…」
「妖気も感じません」
早苗も周囲を見る。
「本当にいるんでしょうか」
「昨日あれだけ声聞いといて今更それ言うのか?」
「いえ、いるとは思いますけど……ここまで何も感じないと少し自信がなくなります」
分からなくもない。
そのとき廊下の向こうから足音がした。
一条だ。
鞄を持ち、こちらへ歩いてくる。
「あれ、二人ともまだいたんだ」
「一条さんこそ」
「先生にプリント届けてた。これから帰るところ」
一条が俺たちのところまで来る。
「そういえば、さっきの声なんだけど」
俺と早苗が同時に一条を見る。
「また聞こえたのか?」
「うん。でも今度は東風谷さんだった」
早苗の表情が変わった。
「私、ですか?」
「うん。『一条さん』って呼ばれた。図書室の方から」
俺は早苗を見る。
早苗も俺を見る。
「その時間って早苗は?」
「護くんと一緒でした」
「だよな」
一条は俺たちの顔を交互に見た。
「……何?」
「いや」
俺が答えるより先だった。
「優」
声がした。
一条の表情が固まる。
俺と早苗も振り返った。
廊下の奥は誰もいない。
「また……」
一条が小さく呟く。
「返事するなよ」
俺はすぐに言った。
「う、うん」
「優」
今度は少し近い。
一条が俺の横へ寄った。
さすがに昨日までとは違い、少し怖くなってきたらしい。
「ねえ、これ誰なの?」
「分からん」
「悪戯じゃないの?」
「だったらいいんだけどな」
「優」
また近づいた。
声は一条の母親らしきものではなかった。
若い女の声にも聞こえるし男の声にも聞こえる。
昨日最初に聞いた、あの曖昧な声に似ていた。
一条が黙ったまま俺の袖を掴む。
さすがに怖くなったのだろう。
「……書本」
「大丈夫だ。返事だけするな」
俺は鞄へ手を入れ、札を取り出した。
早苗も一歩前へ出る。
「護くん」
「ああ」
「います」
俺にはまだ見えない。
「見えるのか?」
「いえ。でも……今、一瞬だけ」
早苗が廊下の奥を見つめる。
「風が逆に流れました」
窓は閉まっていた。
俺は札を構える。
その時だった。
「一条さん」
早苗の声がした。
一条がびくりと肩を震わせる。
本物の早苗は俺の目の前にいる。
「今の、東風谷さん……?」
「私ではありませんよ」
早苗が静かに答えた。
一条の顔から笑いが消えた。
一条にもこれは誰かの悪戯ではないのかもしれないという感覚が生まれたらしい。
「優」
今度は俺たちの後ろから声がした。
三人同時に振り返る。
でも誰もいない。
「優」
右側の教室。
「一条さん」
左側の階段。
「優」
正面。
声が一つではない。
俺は紙吹雪を掴み、廊下へ撒いた。
白い紙片が空中へ広がる。
最初はただ落ちるだけだった。
しかしその中の数枚が突然、廊下の奥へ引っ張られた。
「いた…!」
俺は走り出す。
「護くん!」
早苗も追ってくる。
「一条はそこにいろ!」
そう叫んだ直後、背後から声がした。
「書本!」
一条の声だった。
俺は振り返りそうになった。
だが止めた。
今、一条は俺を「書本」と呼んだ。
いつもの呼び方だ。
だから一瞬、本物だと思った。
けれど声は俺のすぐ耳元から聞こえていた。
「……なるほどな」
俺は振り返らないまま呟く。
「人の声だけじゃない」
後ろにいる何かへ聞かせるように言った。
「呼び方まで覚えているのか」
返事はなかった。
代わりに少し離れたところから早苗の声が聞こえた。
「護くん」
俺の前には、本物の早苗が立っている。
早苗もその声を聞いていた。
「護くん」
もう一度、俺たち二人は声のした方を見る。
でも誰もいない。
だが床に落ちた紙吹雪だけがまるで何かの足元を避けるように廊下の中央を丸く空けていた。