風の祝が奇跡を運んでくれることを   作:ミスブルー

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放課後に名前を呼ぶ声 終

床へ散らばった紙吹雪は廊下の中央だけを不自然に避けていた。

 

そこには何も見えない。

 

俺の目にも早苗の目にも人の姿も妖怪の姿もない。

ただ白い紙片だけがまるで誰かの足元に触れることを嫌がるみたいに丸く空間を残している。

 

「……そこですね」

 

早苗が小さく言った。

 

「ああ」

 

俺は鞄から札を一枚取り出した。

隣では一条が完全に固まっていた。

今までなら誰かの悪戯だと思って済ませられたのだろう。

しかし自分のすぐ近くにいる早苗の声が誰もいない場所から聞こえ床に撒かれた紙が何かを避けるように動いた。

それでも一条には何かが見えているわけじゃない。

ただ、何もいないはずの場所に何かがいる。そこまで分かってしまっただけだった。

 

「書本……何してるの?」

 

「一条」

 

俺は廊下の中央から目を逸らさないまま言った。

 

「先に帰るといいよ」

 

「え?」

 

「今日はもう帰った方がいい」

 

「いや、でも……」

 

「大丈夫です」

 

早苗が一条の方へ向き直った。

 

「一条さんは先に帰ってください。私たちもすぐ帰りますから」

 

「でも東風谷さん、今の声……」

 

「大丈夫です」

 

早苗はもう一度同じ言葉を繰り返した。

 

一条は納得していない顔をしていた。

当然だろう。

俺だって同じ立場なら納得しない。

それでもしばらく俺と早苗を交互に見たあと小さく頷いた。

 

「……分かった。でも二人とも本当にすぐ帰ってね」

 

「ああ」

 

「はい」

 

一条は何度か後ろを振り返りながら廊下を離れていった。

 

足音が遠ざかる。

やがて階段を下りる音も聞こえなくなった。

それを確認してから俺は息を吐いた。

 

「これでいい」

 

「一条さん、かなり怖がっていましたね」

 

「仕方ないな」

 

早苗も廊下の中央へ目を戻した。

紙吹雪が避けていた空間はまだ残っている。

 

「……まだいます」

 

「ああ」

 

俺は札を指で挟み一歩踏み出した。

その瞬間だった。

 

「護くん」

 

早苗の声だ。

正面から聞こえた。

 

俺は足を止める。

本物の早苗は隣にいる。

 

「護くん」

 

今度は後ろから。

 

「護くん」

 

右側の教室。

 

「護くん」

 

左側とだんだん声が増えていく。

 

どれも早苗の声だった。

少し笑っている声。

普段俺を呼ぶときの声。

何かを尋ねるような声。

声色まで微妙に違う。

 

「……気味悪いな」

 

俺が呟くと早苗が少し困ったような顔をした。

 

「でも私の声ですよ」

 

「だからだよ」

 

「どういう意味ですか、それ」

 

早苗が少し怒ったような声になった。

 

「本物がここにいるのに周りから何人分も聞こえたらさすがに気味悪いだろ」

 

「それは……まあ、そうですけど」

 

こんな状況でも普通に返してくる。

少しだけ安心した。

だが声は止まらない。

 

「護くん」

 

「護くん」

 

「護くん」

 

あちこちから俺の名前が聞こえる。

そのうち一つがすぐ耳元まで近づいた。

 

「護くん」

 

俺は振り返らなかった。

代わりに札を指先から放る。

紙の札が空中で翻り、声のした方向へ飛んだ。

小さな破裂音を立てて札が弾ける。

何もいない。

 

「外しました?」

 

「多分」

 

「多分?」

 

「手応えがない」

 

その瞬間、廊下の反対側から笑い声がした。

一条の声だった。

 

「書本、外してるじゃん」

 

俺は眉をひそめる。

早苗もその方向を見た。

 

「一条さんの声まで」

 

「覚えたんだろうな」

 

昨日、今日と一条の声は何度も聞いている。

 

俺たちの声も同じだ。

こいつはただ名前を呼んでいるんじゃない。

学校の中にある声を覚え、それを使っている。

 

「山彦……」

 

早苗が呟いた。

 

「山の中で聞いた声を返すものが学校で声を覚え続けている……ということでしょうか」

 

「そんな感じなんだろうな」

 

だとしたら、ここはこいつにとって相当居心地がいい場所だ。

朝から夕方まで声が途切れない。

 

名前も呼ばれる。

笑い声も怒鳴り声も先生の声も生徒の声もある。

山の中で誰かが来るのを待つより学校にいた方がよほど多くの声を聞ける。

 

「でも」

 

早苗が少し考える。

 

「山彦なら声を返すんですよね」

 

「自分から声を作っているわけではないからな」

 

俺もそこで気付いた。

 

「ああ…そうか」

 

最初は一条の名前だ。

その次は俺の声で早苗を呼び早苗の声で俺を呼んだ。

 

どれもどこかで聞いた言葉を使っている。

 

「こいつ、もしかして自分の声がないのか」

 

早苗が頷いた。

 

「だから人の声を使うしかない」

 

その直後だった。

 

「だから、人の声を使うしかない」

 

俺の声が廊下の奥から返ってきた。

 

俺と早苗は同時にそちらを見る。

 

「……今のも覚えましたね」

 

「ああ」

 

「随分覚えるのが早いです」

 

「感心してる場合か」

 

俺は床に残った紙吹雪を見る。

さっきまで丸く避けていた紙が動き始めていた。

 

風はない。

それなのに廊下の奥へ向かって数枚ずつ滑っていく。

 

「移動してるな」

 

俺たちは紙を追った。

渡り廊下を抜け、階段を上がる。

紙吹雪は途中で止まったり別の方向へ飛ばされたりする。

そのたびに声がする。

 

「護くん」

 

「東風谷さん」

 

「書本」

 

「優」

 

いろんな声が混じっている。

まるで学校そのものが俺たちを呼んでいるみたいだった。

二階へ上がったところで突然強い風が吹いた。

廊下の窓は閉まっている。

俺は早苗を見る。

 

「今のは?」

 

「私です」

 

早苗が手を軽く前へ出していた。

 

「試したいことがあります」

 

風が廊下を通り抜ける。

床に落ちていた紙吹雪が一斉に流されていった。

右から左へ一定方向に。

 

「音も空気の震えですから」

 

早苗が廊下の先を見ながら言った。

 

「声があるなら、多少は風の影響を受けるはずです」

 

「なるほど」

 

「本当にただの声なら…ですけど」

 

早苗がもう一度風を起こした。

今度は少し強い。

窓が僅かに震え、廊下に貼られていた掲示物の端がぱたぱたと揺れる。

 

その中で声がした。

 

「護くん」

 

俺たちの後ろだった。

風は前へ吹いている。

 

「……逆だな」

 

「はい」

 

早苗の目つきが変わった。

声は風と逆方向から聞こえた。

 

「護くん」

 

また今度は少し右。

早苗がそちらへ手を向ける。

風向きが左から右へ変わる。

 

「護くん」

声はまた風とは逆の場所へ移る。

 

「逃げてます」

 

「見つけたな」

 

姿は見えないし妖気も感じない、

だけど風から逃げるならそこに何かがいる。

俺は札を数枚取り出した。

 

「早苗、風で追えるか」

 

「やってみます」

 

「無理に捕まえなくていい。行く方向だけこっちで作る」

 

俺は廊下の左右へ札を投げた。

紙飛行機の形に折られた札が二枚、低く飛んで壁際へ張り付く。

さらに前方に一枚、そして後方に一枚。

 

「これで横には逃げにくい」

 

「では、前へ押します」

 

早苗が手を振ると一気に風が吹いた。

紙吹雪が舞い上がる。

その中に一箇所だけ妙な空間ができた。

 

紙が当たらない。

風が何かを避けている。

そしてそれが廊下の奥へ動いていく。

 

「いた!」

 

俺たちは走った。

姿は見えないが何かが逃げる。

だが紙の動きで分かる。

 

階段を下り一階へ行く。

昇降口とは反対側。

校舎の端へだ。

 

「護くん、この先!」

 

「分かってる!」

 

廊下の突き当たりには窓がある。

その向こうには学校の裏手。

さらに遠くには山の影が見える。

 

何かが窓の前で止まった。

行き止まりだ。

紙吹雪がその周囲を舞っている。

 

「追い詰めました」

 

早苗が息を整える。

俺は札を構えた。

 

これで祓える、そう思った。

 

だが窓の向こうを見て手が止まった。

 

山が見えた。

夕方の空の下に黒く連なる山だ。

 

「……早苗」

 

「はい?」

 

「これは…祓わなくてもいいかもしれない」

 

早苗が俺を見る。

 

「どういうことです?」

 

「山彦なんだから」

 

俺は窓の外を見る。

 

「それなら帰せばいい」

 

少なくともこいつは今まで誰かを傷つけたわけじゃない。

名前を呼び声を真似した。

怖がらせたりもして一条に付きまとったりもした。

まぁ迷惑ではある。

 

 

でも人を襲ったわけでも命を取ろうとしたわけでもない。

ただ声の多い場所へ来て覚えた声を返していた。

 

「山にですか?」

 

「ああ」

 

早苗も窓の向こうを見る。

それから少しだけ笑った。

 

「確かにその方が山彦らしいですね」

 

俺は窓を開けた。

冷たい風が校舎の中へ入ってくる。

 

早苗がその隣に立つ。

 

「では少し…強く吹かせます」

 

「頼む」

 

早苗が手を伸ばす。

風が吹いた。

今までとは違う。

 

追い詰める風じゃなく山の方向へ続いていく風の道だ。

 

紙吹雪が一斉に外へ舞い上がった。

その中央に何もない場所が動く。

窓際から外へ。

一瞬だけ、声がした。

 

「護くん」

 

早苗の声だ。

それが遠ざかっていく。

 

「護くん」

 

もう一度、今度は校庭の方。

 

「護くん」

 

さらに遠くから聞こえて

 

「護くん」

 

山の方から小さく返ってきた。

俺と早苗はしばらく黙っていた。

 

「……帰りましたかね」

 

「多分な」

 

風が止まる。

紙吹雪が何枚か校庭へ落ちていった。

それ以上、声は聞こえなかった。

 

俺は窓を閉める。

 

「明日、一応確認かな」

 

「はい」

 

早苗はそう答えたあと少しだけ窓の向こうを見ていた。

その日の帰り道、学校ではもう誰にも名前を呼ばれなかった。

 

翌日。

 

一条は普通に学校へ来ていた。

昨日までと変わらない顔で朝から友達と話している。

 

俺と早苗が廊下を歩いていると一条がこちらに気付いて手を振った。

 

「おはよう、東風谷さん。書本」

 

「おはようございます、一条さん」

 

「ああ」

 

一条は何事もなかったように笑っている。

俺は少し迷ったあと尋ねた。

 

「昨日のこと覚えてるか?」

 

「え?昨日?」

 

「放課後のことだよ」

 

一条は少し考える。

 

「えーっと…昨日……三人で学校にいたよね?」

 

「ああ」

 

「なんか変なことがあったような……」

 

一条は眉間に皺を寄せた。

 

「なんかに呼ばれたんだっけ…?」

 

早苗が俺を見る俺も早苗を見て顔を見合わせる。

 

「誰に呼ばれたか覚えてますか?」

 

早苗が聞いた。

 

「うーん……」

 

一条はしばらく考えた。

 

「東風谷さんだったかな。書本だったかな……いや、お母さんだったような……」

 

自分で言って、一条は笑った。

 

「いやなんでお母さん。学校でお母さんに呼ばれるわけないし」

 

「……そうですね」

 

早苗も小さく笑った。

昨日あれだけ青ざめていたのに、一条からはもう恐怖が消えている。

 

俺が札を使ったことも誰もいない廊下から早苗の声が聞こえたことも、何も見えない場所を紙吹雪が避けていたことも覚えていない。

 

いや見えていなかった。

一条が見たものは最初から何もなかった。

聞いたものだけだ。

 

だから声が消えれば記憶も薄れていく。

山に向かって叫んだ声が返ってきたあとに消えてしまうように。

 

「まあ、いいや」

 

一条が言った。

 

「何だったか思い出せないなら大したことじゃなかったんでしょ」

 

「そうかもな」

 

俺はそれ以上何も言わなかった。

早苗も言わなかった。

 

一条は「じゃあまた昼休み」と早苗に声を掛けそのまま教室へ戻っていった。

 

その背中を見送ってから早苗が小さく呟く。

 

「……本当に忘れてますね」

 

「ああ」

 

「昨日はあんなに怖がっていたのに」

 

「まあ…その方がいいんじゃないか」

 

俺がそう言うと早苗は少しだけ考えた。

 

「……そうですね」

 

その返事がほんの少しだけ寂しそうに聞こえた。

 

放課後。

 

守矢神社へ行き、俺たちは神奈子と諏訪子に一通りのことを話した。

 

山彦らしきものを学校から追い出したこと。

早苗の奇跡の風で山の方へ返したこと。

そして一条が昨日の出来事をほとんど覚えていなかったこと。

 

縁側に座って話を聞いていた諏訪子が境内の向こうを眺めながら小さく笑った。

 

「声なんてそんなもんだよ。消えたら案外思い出せないものさ」

 

神奈子も腕を組んだまま頷いた。

 

「まあ、あれだけ怖がった記憶まで消えたなら一条という子にはその方がいいだろう」

 

「……そうですね、神奈子様」

 

早苗はそう答えた。

 

それで話は終わると思った。

けれど少しだけ間が空いた。

 

早苗は境内の向こうを見る。

 

もう少しで九月の終わり。

夕方になるのは随分早くなった気がする。

 

木々の隙間から見える空はもう橙色に染まり始めていて境内を抜ける風も夏の頃よりずっと冷たい。

 

「忘れなければよかったんですけどね……」

 

早苗がぽつりと言った。

神奈子と諏訪子が早苗を見る。

 

「そうすれば私だけじゃない記憶になったのに……」

 

神奈子は何も答えなかった。

諏訪子も何も言わない。

 

二人ともただ少しだけ寂しそうに笑った。

 

何でそんな顔をするのか俺には分からなかった。

ただ、早苗が一条の方を見ていたときと同じような顔をしていたことだけは分かった。

だから俺は言った。

 

「俺は忘れてない」

 

早苗がこちらを向く。

 

「護くん……?」

 

「早苗と同じ景色が見えてるんだから」

 

早苗はしばらく何も言わなかった。

神奈子も諏訪子も黙っている。

風が境内を通り抜け、木の葉を揺らした。

少し冷たい、秋の風だった。

 

やがて早苗は目を伏せ、それから小さく笑った。

 

「……そうでしたね」

 

その声だけは山彦でも何でもない。

確かに俺の隣にいる早苗の声だった。

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