夜。
俺の家の中で何かが割れるような大きな音がした。
最初は何か重たい物でも床に落としたのかと思ったがそれにしては音が妙に甲高く何かが砕け散るような音だった。
自分の部屋で本を読んでいた俺は一度顔を上げたものの特に誰かが呼びに来る様子もなかったのでそのまま本に視線を戻した。
しかしそれから間もなくして一階の方から父さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
「妖に関わってきたからこんなことになるんだ!家に報復に来たんだ……!」
「落ち着いてください。まだそうと決まったわけじゃないでしょう?」
父さんの声に続いて母さんの宥めるような声が聞こえてきた。
どうやら何かが割れたことよりもそれが妖怪の仕業なのではないかということの方が父さんにとっては大問題らしい。
俺は読んでいた本を閉じて机に置くと椅子から立ち上がった。
夜になっても騒がしい家だと思いながら部屋を出て階段を下りる。すると廊下には母さんが立っていてその向こうには何かの破片が散らばっているのが見えた。
「母さん…何があったんだ?」
「ああ、壺が割れちゃったのよ」
「壺?」
母さんが指差した先を見て俺は思わず「ああ」と声を漏らした。
そこにあったのは以前から廊下の隅に飾られていた背の高い壺だった。
いや、正確には壺だった物と言うべきだろうか。
確かあれは白い地肌に藤の花が描かれていた中々立派な壺だったはずだ。
紫色の小さな花がいくつも垂れ下がるように描かれていて、俺が小さい頃からずっと同じ場所に置かれていた記憶がある。
誰が買ってきた物なのか、どのくらい昔からあった物なのかまでは知らないがそれなりに値段の張る物だったのではないかと思う。
もっとも今となってはそんなことを考えても仕方がない。
床に散らばった破片を見れば、それがもう元の形に戻らないことくらいはわかる。
壺は見事に粉々になっていた。
「急に割れたの?」
「そうなのよ。誰も触っていなかったんだけど、いきなり大きな音がしてね。見に来たらこんなことになっていたの」
「ふうん……」
俺は壺の破片を踏まないように気をつけながら近づき、その場にしゃがみ込んだ。
父さんが妖怪の仕業だと騒いでいたこともあって、最初は俺も何かいるのではないかと考えた。
これまで色々な怪異に関わってきた以上、家に何かが入り込んだとしても不思議ではない。
ましてやこの家は昔から祓い屋をやってきた家だ。
蔵には祖父が使っていた道具や書物がいくつも残されているしそういった物に引き寄せられて妙なものがやって来る可能性だってある。
もっとも、そんなことを考え始めるときりがないのだが。
しかし周囲を見渡しても何かがいるような気配は感じられなかった。
床にも壁にも妙な痕跡はないしそもそも壺そのものからも妖気らしいものは感じない。
俺は比較的大きな破片を一つ拾い上げ断面をじっと眺めてみた。
すると内側の釉薬に細かな亀裂が入っているのが見えた。
それは今回割れた部分だけではなくまだ形を保っている破片の内側にも走っていた。
恐らく長い年月の間に少しずつ傷みが進んでいたのかもしれない。
何かの拍子に内側から亀裂が広がりそれが限界に達して一気に割れてしまったのではないか。
陶器についてそこまで詳しいわけではないので断言はできないが、少なくとも妖怪が壺を叩き割ったような痕跡は見当たらなかった。
「妖怪の仕業じゃないと思うよ」
「そうなの?」
「壺の内側に古い亀裂がある。多分…長年使っていたせいで脆くなっていたんだ。何かが入り込んだ様子もないし普通に割れただけだと思う」
「そう…それならよかったわ」
母さんはそう言って小さく息を吐いた。
いや、よかったと言っていいのかはわからない。
壺が割れたこと自体は残念なことだしこれだけ粉々になってしまえば修理するのも難しいだろう。
ただ何かが報復に来たのではないというだけでも母さんにとっては安心できることだったらしい。
父さんはというと先ほどまで散々怒鳴っていたくせに今は奥の部屋に引っ込んでしまっていた。
あの人のことだから俺が何を説明したところで簡単には納得しないし余計揉めるだけだろう。
そんなことを考えながら拾った破片を母さんに見せると母さんも内側の亀裂を確かめるように覗き込んだ。
「父さんにも言っておいてくれるかな…。俺が見る限りじゃ妖怪の報復なんかじゃないから」
「わかったわ。お父さんには私から話しておくから」
「ありがとう」
母さんが箒とちり取りを持って来たので俺も一緒になって床に散らばった破片を片付けた。
大きな物は手で拾い、小さな物は箒で集める。
途中、藤の花が綺麗に残っている破片が一つあったので何となく手に取ってみたが、やはり割れてしまった物は元には戻らない。
俺はそれを他の破片と一緒にちり取りの中へ入れた。 母さんが雑巾で床を拭き終える頃にはそこに壺があったということさえわからないほど綺麗になっていた。
長い間ずっと同じ場所にあった物が突然なくなると思っていた以上に妙な感じがするものだ。
何も置かれていない廊下の隅をしばらく眺めた後、俺は母さんに声をかけて自分の部屋へ戻ることにした。
階段を上がりながら俺は少し前から密かに考えていたことを思い出していた。
この家の敷地に大きな結界を張ろうかと思っていたことだ。
祖父さんが残した書物の中には家や土地を守るための結界について記されている物がいくつかある。
もちろん簡単な術ではないし敷地全体を覆うとなれば相応の準備も必要になるだろう。
それでも時間をかければ俺にもできないことはないと思っていた。
家の中や敷地に潜んでいる妖怪を残らず追い出して、それから外から妖怪や霊の類が入り込めないように強い結界を張る。
そうすれば少なくともこの家が怪異に巻き込まれる可能性は今よりもずっと低くなるはずだ。
父さんがああやって何かあるたびに妖怪の仕業だと騒ぐことも減るだろうし母さんだって安心して暮らせるようになるだろう。
何よりも俺自身、家族が怪異に巻き込まれることを心配せずに済む。
祓い屋の家に生まれた以上、そういうことまで考えるのは当然なのかもしれない。
俺が妖怪に関わることを父さんはよく思っていない。
昔からそうだったし今もその考えが変わったようには見えない。
恐らく父さんにとっては俺が祖父さんと同じようなことをしているという事実そのものが気に入らないのだろう。
だからといって俺も今さら何も見えないふりをして暮らすつもりはないし困っている誰かを見つけた時に何もしないでいられるかと聞かれれば…それも難しい。
結局、俺と父さんの考え方はどこまでいっても噛み合わないのだと思う。
母さんはその間に入ってくれているがそれで全てが上手くいくわけでもない。
今日のようなことがあるたびにまた同じようなやり取りが繰り返される気がする。
そんな家だ。
だからせめて家だけは安全な場所にしておきたかった。
俺が自分の部屋に戻ると机の上には読みかけの本が開かれないまま置かれていた。
椅子に座り直し何となく窓の外を見る。
夜の住宅街は静かで遠くの方にいくつかの家の明かりが見えるだけだった。
今日の壺が割れたこと自体は何の怪異でもない。
長い間そこにあった古い壺が寿命を迎えてたまたま今夜割れてしまった。
それだけの話なのだろう。
父さんが怒鳴る必要もなかったし調べるほどのことでもなかったのかもしれない。
それでもこういうことが起こると以前考えていた結界のことが頭に浮かぶ。
もしも俺があの日…早苗に出会っていなかったら…。
桜の咲く春の日。
東風谷早苗という一人の少女に出会っていなかったら、きっと俺はもうとっくにこの家に結界を張っていたかもしれない。
父さんと母さんを守るためという理由をつけて外から余計なものが入り込まないようにしていたと思う。
それは間違った判断ではなかったはずだ。
少なくとも家族の安全を考えるという意味ではむしろ正しいことだろうと考えている。
でも今の俺には気になることがあった。
結界というのは基本的に内側にいるものを守るために外側から来るものを拒む術だ。
もちろん術式の組み方次第で通すものと通さないものをある程度選ぶことはできるが強い結界ほど扱いは面倒になる。
妖怪や霊を完全に拒もうとするならそれ相応の力を持つ存在に対しても作用することになるだろう。
そうなれば、神様である神奈子や諏訪子はどうなるのだろうか。
あの二人がそんな結界を簡単に破れないとは思わないが…そもそも人様の家に遊びに来るために結界を破らせるというのも妙な話だ。
現人神である早苗が俺の張った結界にどんな影響を受けるのかもわからないのだ。
……そういう術式の問題ではないのかもしれない。
俺はいつからか、この家に早苗を招きたいと思うようになっていた。
こんな少し物音がしただけで父さんが怒鳴り出すような家だ。
決して居心地のいい場所だとは思わないし誰かを招くのに向いているとも思えない。
家の中には祓い屋の道具が色々とあるし蔵には他人に見せられるのか見せられないのか分からない物まで置かれている。
俺自身、友達を家に呼ぶということをあまりしてこなかったので誰かが遊びに来たところで何をすればいいのかもよくわからない。
それでも…いつか早苗がこの家に遊びに来るかもしれないと思うようになっていた。
『もしよかったらなんですが護くんの家に遊びに行ってもいいですか?』
何となく、そんな早苗の声が聞こえたような気がした。
実際にそんなことを言われたわけではない。
それでも早苗らいつものように少し遠慮がちな笑みを浮かべながら、そんなことを言い出しても不思議ではない気がする。
俺がいいぞと答えればきっと嬉しそうに笑うのだろう。
そして何日か後には本当にこの家の玄関に立っているのかもしれない。
早苗のことだから手土産の一つくらい持って来そうだし何なら神奈子や諏訪子までついて来る可能性だってある。
そうなったらさぞかし騒がしくなることだろう。
神奈子はうちの蔵に何があるのか興味を持ちそうだし諏訪子に至っては俺の家を面白がってあちこち見て回りそうな気がする。
そんなことを想像して少しだけ笑ってしまった。
いつからだろうか。
俺が自分の家に誰かを招待したいと思うようになったのは。
正確な時期はあまり覚えていないが少なくとも春の頃にはそんなことは考えていなかった気がする。
学校が終われば守矢神社へ行き、早苗と一緒に過ごして神奈子や諏訪子とくだらない話をする。
時には怪異に巻き込まれたり妙な事件に首を突っ込んだりもしたがそれでもあそこへ行けばいつもの三人がいる。
そんな毎日を繰り返しているうちに俺にとっては守矢神社へ行くことが当たり前になっていた。
だからなのかもしれない。
俺があの神社に足を運ぶようにいつかあいつらにも俺の家に来てもらいたいと思うようになったのは。
もちろん実際に早苗が遊びに来るかどうかはわからない。
神奈子や諏訪子がこの家に来ることだって今のところは俺が勝手に想像しているだけの話だ。
父さんがあの二人を見たらどういう反応をするのかもわからないしそもそも見えない。
それに早苗を家に招くこと自体、父さんがどう思うのかはあまり考えたくない。
とはいえまだ起こってもいないことを心配して最初から誰も来られないようにする必要はないのではないかと思った。
家族の安全を守ることは大切だ。
それは今でも変わらないしこれからも変わることはないだろう。
けれど何もかもを外から遠ざけてしまうことだけが家を守るということではないのかもしれない。
もし本当に早苗が遊びに来たいと言ったならその時は普通に玄関から入って来てほしい。
神奈子や諏訪子が一緒でも構わない。
あいつらが家の中で騒ぎ出したらそれはそれで俺が何とかすればいいだけの話だ。
少なくともせっかく訪ねて来てくれた相手に結界があるから入れないなんてことは言いたくなかった。
俺は机の上に置いてあった本を閉じて窓の外にもう一度目を向けた。
先ほどまで一階から聞こえていた声はすっかり静かになっていて、家の中にはいつもの夜が戻っていた。
明日の朝になれば父さんも少しは落ち着いているだろう。
結局、今夜の出来事は古い壺が一つ割れただけで終わるのだろう。
だから俺はこの家に大きな結界を張ることをやめた。
いつか早苗が遊びに来るかもしれないから。
神奈子や諏訪子がやって来るかもしれないから。
そんなまだ何一つ決まっていない未来のために…この家の玄関は開けておこうと思った。
桜の咲くあの日、東風谷早苗と俺は出会わなかったらこんなことはきっと考えもしなかったのだろう。
それだけの話だ。