妖の森と書かれた看板を持っていた妖怪に見送られ、俺と早苗は木々の生い茂る森の中へと足を踏み入れた。
公園から続いているとは思えないほど森の中は薄暗くまだ昼間だというのに木々の枝葉が空を覆い隠しているせいで足元には僅かな木漏れ日しか届いていなかった。
湿った土の匂いが漂い、時折どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。先ほどまで公園で聞こえていた子供たちの声や車の走る音も、森に入って少し歩いただけですっかり聞こえなくなっていた。
まるで現代の諏訪から切り離されたような、不思議な感覚だった。
「……本当に、この先で合っているんでしょうか」
隣を歩く早苗が不安そうに周囲を見回しながら尋ねてきた。
俺も正直なところ同じことを考えていた。
あの妖怪が嘘を教えたとも思えないし。
「多分な。少なくとも道は続いているし…あの妖怪もこっちだって言ってたからな」
「そうですけど……なんだか神社の裏山よりもずっと深い森みたいですね」
「やっぱり普通の森じゃないからだろう」
俺たちはそんな会話を交わしながら細い道を進んでいった。
途中で何度か道が曲がり苔の生えた石や倒木を避けながら歩くことになったが不思議なことに道そのものが途切れることはなかった。
人の手が入っているようには見えないのに歩く場所だけはきちんと確保されている。
しばらく歩いたところで木々の向こうに石造りの門が見え始めて、その傍らには古びた石碑が立っていた。
「あ……ここか」
「本当にありましたね。間違いなさそうです」
石碑を確認してから門をくぐると森の中に広がっていた景色が一変した。
てっきり寺の本堂や墓地でもあるのかと思っていたのだが、そこには大きな洋館が建っていたのだ。
赤茶色の煉瓦を使った外壁にいくつもの縦長の窓。
屋根には小さな塔のようなものまであり正面玄関へと続く石畳の道の両側には綺麗に手入れされた植え込みが並んでいる。
長い年月を経ているような建物ではあったが廃墟のような荒れた様子は一切なくむしろ今でも誰かが住んでいるように見えた。
「最初俺……寺かと思った」
「これは洋館ですね……」
「ああ…どう見ても洋館だ」
早苗も驚いたように建物を見上げていた。
常現寺という名前から想像していたものとはあまりにも違う。
「とりあえず行ってみるか」
「はい」
俺たちは靴から室内用スリッパに履き替えて洋館の中へと入る。
広い玄関ホールを抜けて奥の会場へ向かった。
建物の中は外観と同じく古めかしい造りで天井には大きな照明が吊るされて壁には風景画や年代物と思われる時計が飾られている。
床には赤い絨毯が敷かれ歩くたびに靴音が僅かに吸い込まれるようだった。
廊下を進んでいくうちに奥から大勢の人が話す声が聞こえ始め、やがて大きな両開きの扉の前へと辿り着いた。
扉の向こうには想像していた以上の光景が広がっていた。
広い会場の中には数十人もの人間が集まっており、いくつもの丸いテーブルを囲んで話をしていた。
年齢も服装も様々で白髪の老人もいれば、若い女性や俺たちより少し年上に見える男性もいる。
和服姿の者もいれば、普通の私服やスーツを着ている者もいた。
会場の隅には飲み物や軽食が並べられまるで何かの懇親会のような雰囲気だったが耳を澄ませば聞こえてくる会話の内容は普通の集まりとは明らかに違っていた。
「……それで、あの山に出た妖はどうなったんです?」
「三日前に封じた。ただどうも一匹だけじゃなかったらしくてな」
「護符を使ったのか?」
「ああ。だが今のやり方じゃ長くは持たんだろう」
妖怪の話、祓いの方法、術式や道具の話。
学校ではまず耳にすることのない言葉がそこかしこで当たり前のように飛び交っていた。
俺は思わず立ち止まってしまったが隣の早苗も同じだったらしい。彼女は目を丸くしながら会場を見渡していた。
「……すごいですね」
「思ってたよりもずっと人が多い」
「見える方がこんなに…?」
「…そうみたいだな」
中にはこちらを見て小さく会釈する者もいたが特に声を掛けてくるわけでもなかった。
誰がどこの人間なのかもわからず、知り合いも見当たらない。
俺はひとまず壁際に寄って会場の様子を眺めることにした。
早苗も俺の隣に立ち周囲の会話に耳を傾けているようだった。
初めて来た場所ではあったが少なくともここにいる連中には妖怪が見えるということを隠す必要はない。
それだけでも普段とは違う空気を感じた。
そんな中、会場の奥に少しだけ妙な場所があることに気がついた。
そこには他の椅子よりも立派な背もたれの高い椅子が置かれている。
その周囲に数人の年配の祓い屋らしき人間が集まっていた。
何か重要な話でもしているのかと思ったがそういうわけでもなさそうだった。
年配の男性が頭を下げながら話しかけ別の女性が湯呑みを差し出している。
その様子は客をもてなしているというより何かを祀っているような雰囲気だ。
その中心に座っている人物を見て俺は思わず首を傾げた。
そこにいたのは俺たちと同じくらいの年齢に見える少女がいた。
薄灰色の髪をした少女は古風な衣装を身にまとい頭には変わった形の帽子を被っていた。
背筋を伸ばして椅子に座り、周囲の大人たちと何やら話をしている。
その態度は堂々としているというよりどこか偉そうにも見える。
とても年上の人間たちから丁重に扱われている理由がわからなかった。
「……早苗、あそこ」
「はい?」
「あの椅子に座ってる子。誰なんだろうな」
早苗も俺の視線を追い、会場の奥にいる少女を見つけた。
「……私たちと同じくらいの年齢でしょうか」
「なんかすごい扱いを受けてるぞ」
「そうですね……」
俺たちがそんな会話をしていると少女がふとこちらへ顔を向けた。何かに気づいたように目を細めてそれから隣にいた老人との会話を止めて椅子から立ち上がる。
周囲の人間が何事かと顔を向けたが少女は特に気にする様子もなく真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
そして俺たちの前で立ち止まると早苗の顔をじっと見つめた。
「そこのお主、緑髪のお主じゃ」
突然そう声を掛けられ早苗は驚いたように目を見開いた。
「……え?私、ですか?」
「そうじゃ。お主以外に誰がおる」
少女は当たり前のことのように答えた。
だが俺も早苗もその言葉に驚いた。
早苗の髪は確かに緑だ。でも普通の人間には黒髪に見えている…はずだ。
学校でも街中でも早苗の髪を緑色だと言う人間にはほとんど会ったことがない。
ここにいる連中が普通の人間ではないことはわかっていたがそれでも初対面からそんなことを言われるとは思わなかった。
「あ、あの……私の髪が緑色に見えるんですか?」
「見えるも何も緑ではないか。まさか自分の髪の色を忘れたわけでもあるまい」
「い、いえ!そういうわけでは……」
早苗は少し困ったように笑った。
少女はそれを不思議そうに眺めていたが今度は俺へと視線を向けた。
「それにしてもお主らは随分と若いのう。こんな場所に来るとは珍しい」
「そういうあんたも若いだろ」
思わずそう返すと少女はむっとしたように眉を寄せた。
「無礼な。若いで言うならお主も似たようなものじゃろ」
「いや、そうだけどさ。言葉遣いのわりに若いなと思って」
「言葉遣いと歳に何の関係があるというのじゃ。我は十五じゃぞ」
「……十五?…15歳?」
「ああ、十五じゃ」
何故か胸を張って言われてしまった。
俺より年下ということになるがその口調や態度はどう考えても十五歳の少女には見えなかった。
もっとも祓い屋の集まりにいる時点で普通の女子中学生とは違うのだろう。
世の中には色々な人間がいるものだと無理矢理思うことにした。
「それで、お主らは何処の者じゃ?」
少女は話題を変えるように尋ねてきたが俺達が答えるよりも早く再び早苗の方へ向き直った。
「……いや、待て。その髪…ひょっとして守矢の東風谷さんか?」
「あ、はい。東風谷早苗です」
「おお、やはりそうか!お神社さんか。なるほどのう……」
少女は納得したように頷いた。
早苗は自分の名字を知っていたことに驚いているようだったが相手はそれを気にせず話を続けた。
「しかしお神社さんの巫女がこんな場所に来るとは珍しいのう。それもまだ若いというのに……」
そう言いながら少女は俺を見た。
「まさかお主、……えっと何という名前じゃったか」
「俺は書本。書本護だ」
「書本……?」
少女は一瞬考え込むように俺の顔を見つめ、それから驚いたように声を上げた。
「ぬ?書本?あの書本か!?」
「……あのってなんだよ」
「絶えた書本以外何がある?まさか……お主、見えるのか?」
「ああ。妖怪も霊も、一応はな」
俺がそう答えると少女は額に手を当てて小さく唸った。
「……今日の会合は一体どうなっておるんじゃ。守矢の巫女に書本の若造とは……いやいやそれよりもじゃ!」
急に声を大きくした少女が俺を指差した。
「おい、若いの。守矢の巫女をこんな場所に連れ回すとはどういう神経をしておるんじゃ!」
「……は?」
「は、ではない!ここは祓い屋どもの集まる場所じゃぞ。
妖やら霊やら呪いやらでろくでもない話ばかりしておる場所に巫女を連れて来るとは何を考えておる!血迷っておるか!よもや肴にする気ではあるまいな?」
「肴って…しないしそもそも別に無理やり連れて来たわけじゃないぞ。早苗も行きたいって言ったから……」
「そういう問題ではないわ!」
今度は俺が驚く番だった。
初対面の相手にまさかこんな勢いで説教をされるとは思わなかった。
しかも見た目は俺より年下の少女である。
周囲にいた何人かがこちらを見ていたが特に止めに入る様子はない。
むしろまた始まったとでも言いたげな顔をしている人間までいた。
「まったく……書本の祓い屋は昔からそうじゃ。お主の曾祖父もそうじゃった。あやつは人の話を聞かない、何かあるたびに自分のやり方を押し通す。そうかと思えば孫の方はもっと酷かったのう。後先も考えずに首を突っ込み他人に迷惑を掛けることばかりしおって……」
「……ちょっと待て。曾祖父と祖父を知ってるのか?」
「知っておるとも。あの二人のやり方は今の物部とも……んん…!ああ酷いものじゃった」
「いや、あんた十五歳じゃ……」
「細かいことはよい!」
まったくよくないと思うのだが少女は俺の疑問をあっさりと切り捨てた。
俺の祖父はもう亡くなっている。
曾祖父に至っては写真でしか顔を見たことがない。
それなのに目の前の少女はまるで昨日の出来事でも話すかのように二人の悪口を並べていた。
年齢については明らかにおかしいがここで問い詰めてもまともな答えが返ってくる気がしなかった。
「それにしてもまさかあの書本の孫がこのような若造とはのう。どうせお主もあの祖父らと同じでろくな祓い屋ではないのは間違いない」
「違います!」
突然、隣から大きな声が聞こえた。
俺も少女も驚いて顔を向けるとそこには真剣な表情をした早苗が立っていた。
普段の穏やかな様子とは違い少しだけ怒っているようにも見える。少女も予想していなかったのか口を開いたまま早苗を見つめていた。
「護くんは違います!」
「……早苗?」
「護くんは、誰かが困っていたら放っておかない人です。
怖い思いをしている人や辛いことがあれば…悩んでいる人がいたら、ちゃんとその人の話を聞いて力になろうとしてくれるんです!」
早苗の声は決して怒鳴るようなものではなかった。
それでも周囲に聞こえるほどはっきりとした声だった。
「私は護くんに何度も助けてもらいました。
だから……だから護くんはそんな人じゃありません。
護くんは誰かの辛さや不安の中にいる人の力になれる人なんです!」
その言葉を聞いて俺は何も言えなくなってしまった。
自分ではそこまで立派なことをしてきたつもりはない。
祓い屋としてもまだまだ未熟だし失敗したことだって何度もある。それでも早苗がそう思ってくれていたことが意外だった。
それがなによりうれしかった。
言い終えた早苗はそこでようやく自分が大きな声を出してしまったことに気づいたらしい。
周囲の視線を感じたのか急に顔を赤くして俯いてしまった。
「あっ……す、すみません!初対面なのにいきなりこんなことを……」
少女はしばらく黙って早苗を見つめていた。
先ほどまでの勢いが嘘のように静かになり何かを考えるように目を伏せる。
そして小さく息を吐いてから口を開いた。
「……いや、我こそすまない。お主の友を悪く言うつもりはなかった。少々昔のことを思い出してしまってのう。若いのもすまなかったの」
少女は俺にも顔を向け軽く頭を下げた。
「いや、いいんだ。まさかこんなところで祖父の話を聞けるとは思わなかったしな」
「……そうか」
「ああ。それに祖父が他人に迷惑を掛けてたのは何となく想像はできたよ」
俺がそう言うと少女は僅かに目を丸くしそれから小さく笑った。
「ふふっ、そうじゃろう。まったくあやつは昔から変わらんかったからのう」
その笑い方には先ほどまでの棘のようなものは感じられなかった。祖父のことを悪く言っていたが本当に嫌っていたわけではないのかもしれない。
長い付き合いのある人間だからこそ言える悪口というものもあるのだろう。
「ああ、そうじゃった。まだ名乗っておらんかったのう」
少女は思い出したように背筋を伸ばした。
「我は物部布都。物部の布都じゃ。よろしくな若き祓い屋よ」
「……物部?」
名字には聞き覚えがあった。
祓い屋の家系として物部という名を耳にしたことは何度かある。
古くから続く家で俺の祖父が残した書物の中にも名前が乗っている。
実際にその家の人間と会うのは初めてだった。
そしてあの魔封時の壺を寄越した祓い屋の大家でもある。
「物部家の人間だったのか」
「うむ。まあ、そのようなものじゃ」
妙に曖昧な答えだったが布都と名乗った少女はそれ以上説明するつもりがないらしい。
俺も無理に聞こうとは思わなかった。
ここは色々な家の祓い屋が集まっているのだからそういう人物がいても不思議はない。
布都は改めて早苗へと向き直った。
「それにしても守矢の巫女がこのような場所にいるとは思わなかったのう。東風谷の家には世話になったことがあってな。お主の両親とも何度か顔を合わせたこともある」
「……私の両親と、ですか…?」
早苗が驚いたように聞き返した。
「うむ。神社の祭事でのう。何度か話をしたことがある程度じゃが二人を覚えておるぞ。それにお主が生まれた頃の話も聞いておる。守矢に力の強い巫女が生まれたと風の噂じゃが妖どもが随分と騒いでおった」
「……そう、だったんですか」
「そうじゃ。あの神社には二柱の神もおる。いやはや東風谷の家も随分と賑やかになったものじゃと思ったわ」
布都は懐かしむように笑った。
俺は隣の早苗を見たが彼女は驚いたまま布都の話を聞いていた。
これまで俺は早苗の両親について詳しい話を聞いたことがない。
早苗自身もその話をすることはほとんどなく俺も無理に尋ねようとは思わなかった。
だからこそ初対面の人物から突然そんな話が出てきたことに戸惑っていた。
「ところで両親は元気にしておるか?」
布都はごく自然に尋ねた。
それは昔の知り合いの近況を聞くような、ごく普通の口調だった。きっと布都にとっては深い意味のない質問だったのだろう
その言葉を聞いた瞬間に早苗の表情は一気に変わっていた。
「……え?」
「両親じゃよ。最近はどうしておる?我もしばらく顔を合わせておらんのでな。元気にしておるか」
早苗はすぐには答えなかった。
先ほどまで少し緊張しながらも笑っていた顔から表情が消えていて視線が床へ落ちている。
両手を身体の前で重ね、指先を小さく握りしめていた。
「……父親は…いなくなって、しまいました」
その声は先ほど俺を庇ってくれたときとはまるで違っていた。
「……ん?」
「母親は……私が、幼い頃に……」
そこまで言ったところで早苗は言葉を止めた。
何かを説明しようとしているようにも見えたがそれ以上の言葉は出てこなかった。
布都もようやく様子がおかしいことに気づいたのか少しだけ眉を寄せた。
「……そうか。事故か?」
「…え……その…」
「もしや妖にでも?」
その一言に、早苗の肩が僅かに揺れた。
「……あ……いえ……えっと…」
彼女は顔を上げようとしたがすぐに視線を逸らした。
「……そんなこと、聞ける余裕はなくて……」
俺は何も言えなかった。
これまでにも早苗が悲しそうな顔をするところは見たことがある。学校で昔の話をしたときも怪異に巻き込まれた誰かを心配していたときも彼女は時折寂しそうな表情を浮かべていた。
だが今の早苗はそれとは違っていた。
悲しんでいるというよりどう答えればよいのかわからず何かを必死に押し込めているような顔だった。
こんな顔をする早苗を俺は今まで見たことがなかった。
周囲では相変わらず祓い屋たちの話し声が響いていた。
誰かが笑い別の場所では茶器の触れ合う音が聞こえてくるか俺たち三人の間だけはそこから切り離されたように静かになっていた。
布都はしばらく早苗を見つめていたがやがてゆっくりと口を開いた。
「……そうか。辛いことを聞いてしまったな。すまぬ」
「……いえ」
早苗は小さく首を横に振った。
「……気にしないでください」
「……うむ」
布都はそれ以上何も尋ねなかった。
少しだけ言葉を探すような様子を見せた後、思い出したように会場の奥へと顔を向ける。
「……こういう話の最中にすまないが、我は用があるゆえ行かねばならぬ」
「……あ、はい」
「二人とも折角来たのじゃ。色々と話を聞いていくとよい。ここには面白い者も多いからのう」
そう言って
「ではな」
最後まで何を言いたいのかよくわからなかったが布都はそれだけ言うとくるりと背を向け会場の奥へと歩いていった。
途中で別の祓い屋らしき人物に声を掛けられ何やら話をしながら廊下へと姿を消していく。
随分と自由すぎる人物だった。
15歳だと言っていたが早苗の両親…そして俺の曾祖父や祖父のことを知っているという話も含めてしまうと疑問ばかりが残ってしまった。
ただ今は布都のことを考えている場合ではなかった。
俺は隣に立つ早苗へと顔を向けた。
「……早苗」
「……はい」
「大丈夫か?」
早苗は少しだけ間を置いてからゆっくりと頷いた。
「……はい。大丈夫です」
そう答えたもののいつものような笑顔は浮かんでいなかった。
何か言葉を掛けるべきなのかそれとも何も聞かない方がいいのか。俺にはわからなかった。
早苗の両親について俺はほとんど何も知らない。
もちろんずっと気になっていなかったわけではない。
守矢神社に行けば神奈子と諏訪子がいて早苗は二柱と一緒に暮らしている。
それが当たり前になっていたからこそ、その前にどんな生活があったのかを深く考える機会がなかったのかもしれない。
「……無理して話さなくてもいいからな」
俺がそう言うと早苗は僅かに顔を上げた。
「……護くん」
「別に今じゃなくてもいいし、話したくないなら聞かない。だからあんまり気にするな」
自分でも随分と不器用な言い方だと思った。
もっと気の利いた言葉があればよかったのだがこういうときに何を言えばいいのかはよくわからない。
相手が早苗だからこそ余計にそう感じてしまう。
早苗はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……ありがとうございます」
「……ああ」
それから少しの間、二人とも何も言わなかった。
会場の向こうでは相変わらず大勢の人間が話をしており、その声が少しずつ耳に戻ってくる。
妖怪を退治した話、古い札の話、どこかの山で起こった奇妙な出来事。
俺たちが普段経験しているようなことがこの場所では珍しくもない話題として扱われていた。
そんな会場を眺めながら、早苗がぽつりと呟いた。
「……ここは、言葉が通じるんですね……」
「……ん?」
「……いえ。なんでもありません」
そう言った早苗は、もう一度会場を見渡した。
「学校ではこういう話をしても誰もわからないじゃないですか。神様のことも妖怪のことも見えているもののことも……」
「ああ、そうだな」
「でもここにいる人たちはきっと違うんですね。私の髪の色も守矢神社のことも……当たり前みたいに知っていて……」
早苗はそこで一度言葉を止めた。
「……少し、不思議です」
その言葉を聞いて俺も改めて周囲を見回した。確かにここでは誰も妖怪や霊の存在を疑っていない。
それどころかそれらをどう扱うかについて真剣に議論している。
普段の生活では隠さなければならないことがここでは何一つ隠す必要のない話題になっていた。
俺にとっても珍しい場所だったが早苗にとってはもっと特別な場所なのかもしれない。
「……まあそうだな。でも全員がいい奴ってわけでもないだろう。そこは気をつけないとな」
「ふふっ、そうですね」
ようやくいつもの早苗らしい笑顔が戻ってきた。
「それにしても布都さんって不思議な方でしたね」
「ああ。十五歳って言ってたけどあれ絶対におかしいだろ」
「そうですね……護くんのお祖父さんのことまで知っているんですから」
「曾祖父のことまでな。どういうことなんだか」
「でも悪い人ではなさそうでしたよ」
「……あー…そうかもな。説教はされたけど」
そう言うと早苗はくすりと笑った。
「護くん、随分と怒られていましたね」
「完全にとばっちりだし笑い事じゃないぞ。初対面であそこまで言われるとは思わなかった。生まれてはじめてだよ」
「でも最後はちゃんと謝ってくれましたよ」
「そこはそうだけどな」
俺は苦笑しながら布都が消えていった廊下の方へ目を向けた。
物部布都。
何度も聞いたことのある名字だが本人については何もわからなかった。
なんであれほど周囲から特別扱いされていたのか祖父や曾祖父のことを知っているのか疑問は多い
でもそれ以上に気になっていることが俺にはあった。
早苗の両親を知っているという話だ。
守矢神社で行われていた祭事のことも早苗が生まれた頃の噂話も布都はまるで当然のように語っていた。
俺が知らない早苗の過去をあの少女は少なからず知っているということになる。
もちろん知っているからといって何かを聞き出すつもりはない。
ただ早苗の様子を見てしまった以上何も気にならないと言えば嘘になる。
「……護くん?」
考え込んでいると早苗が俺の顔を覗き込んできた。
「どうかしました?」
「……いや…」
俺はそう言いながら今何か早苗にできる事を考えてしまっていた。
だから早苗の頭を撫でた。
「なんでもないよ」
嫌がられるかと思ったけどそんなことはなく早苗はそれを受け入れた。
「それはなんでもなくはないですね」
早苗は嬉しそうに頭をこちらに傾けた。
なんかその早苗の仕草がちょっと嬉しくなり俺は早苗の頭を撫で続ける。
「せっかく来たんだしもう少し会場を見て回ろう」
俺がそう言うと早苗は少し考えるように周囲を見回してから頷いた。
「はい。私も色々なお話を聞いてみたいです」
「じゃあ行くか」
「はい!」
俺たちは壁際から離れ、再び大勢の祓い屋たちが集まる会場の中へと歩き始めた。
誰もが自分の知っている怪異について語り、時には笑い時には真剣な顔で話し合っている。
今まで俺が知らなかった祓い屋としての世界がこの場所にあった。
今日初めて会った布都という少女は俺の知らない祖父を知っていた。
そして早苗の知らない頃の東風谷家も知っていた。
それが不思議に感じた。
自分たちが生まれるよりも前から続いてきたものがあってそれを知る人間が今でもどこかにいる。
祓い屋も守矢神社という場所もきっとそうやって長い年月を繋いできている。
隣を歩く早苗はもう普段と変わらない表情で会場の様子を眺めていた。
けどさっきの早苗の顔だけは忘れられそうにない。
俺は早苗のことを何も知らないんだ。
早苗が幼い頃に何を経験してどんな思いを抱いてきたのか。
神奈子と諏訪子がどうして早苗と暮らすようになったのか。
それらについて俺はまだ知らないことばかりだった。
でも今はそれでいいのかもしれない。
いつか早苗が話してくれる日が来たらそのときはちゃんと聞けばいい。
そんなことを考えながら俺は早苗と一緒に人々の間を歩いていった。
物部布都という不思議な少女が一体何者なのか俺たちはまだ知る由もなかった。