五月の諏訪は少し暖かい。
昼の空気はもう春というより初夏に近い。
その日、学校が終わると早苗が俺の机の横に来た。
「護くん」
俺は顔を上げる。
「なんだ」
早苗は少しだけ嬉しそうだった。
「明日、お祭りなんですよ」
「祭り?高島城祭?」
「高島城祭です」
俺は少し考えた。
聞いたことはある。
「城のやつか」
早苗は頷く。
「はい」
「屋台も出ますし、夜はすごく綺麗なんです」
俺は腕を組む。
早苗は少し間を置いた。
そして言った。
「……行きませんか?」
教室の空気が一瞬止まる。
俺はすぐに答えた。
「…怪談か……?」
早苗は笑った。
「半分です」
「半分…もう半分は?」
少し照れて言う。
「普通にお祭りです」
「分かった行こう」
早苗の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「どうせ早苗は行くんだろ」
「はい」
「なら行こう一緒に」
早苗は小さく笑った。
「ありがとうございます、護くん」
次の日
諏訪の町は祭りの空気だった。
提灯。
屋台。
太鼓の音。
子供の声。
城へ続く道は人でいっぱいだった。
城が見える。
堀の水に天守が映っている。
高島城。
昔は“諏訪の浮城”と呼ばれていた。
湖の水に囲まれていた城だ。
早苗が言う。
「綺麗ですよね」
堀の水面に夕焼けが映っている。
俺は言った。
「まあな」
屋台が並んでいた。
焼きそば。
りんご飴。
たこ焼き。
早苗が少しそわそわしている。
「……食べますか?」
「好きなの買いな」
早苗はりんご飴を見ていた。
でも遠慮している。
俺は屋台に行った。
「二つ」
店の人が笑う。
「彼女さん?」
俺は即答した。
「違う」
後ろで早苗が赤くなっていた。
りんご飴を渡す。
「ほら」
早苗は少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
小さくかじる。
「……甘いです」
その顔は少し子供っぽかった。
高島城の周りは、人で溢れていた。
提灯が並び、屋台の灯りが水面に揺れている。
堀の水は夜の色だ。
その上に城が浮かんでいる。
早苗が言った。
「すごい人ですね」
俺は肩をすくめる。
「祭りだからな」
広場の方から太鼓の音が聞こえた。
ドン……ドン……
腹に響く低い音。
早苗が目を輝かせる。
「始まります」
俺は聞く。
「何が」
「ステージです」
早苗は俺の袖を軽く引いた。
「行きましょう、護くん」
広場には小さな舞台が作られていた。
観客がぐるりと囲んでいる。
舞台の上には太鼓が並んでいた。
大きいもの。
小さいもの。
演者が構える。
掛け声が上がった。
「それでは――諏訪太鼓!」
ドン!!
音が空気を揺らした。
太鼓の連打。
腕が振り下ろされるたびに音が重なる。
ドン!ドドン!ドン!
早苗は目を丸くしていた。
「すごい……」
俺は腕を組んで見ていた。
音が身体に響く。
山の町の太鼓だ。
力強い。
リズムが速くなる。
観客の手拍子が増える。
最後に大太鼓が鳴った。
ドォン!!!
大きな拍手が広がる。
早苗が言った。
「諏訪の太鼓、好きなんです」
俺は言った。
「分かる気がするよ」
次の演目が始まる。
舞台の横に男たちが並んでいた。
着物姿。
頭には手拭い。
誰かが言った。
「木遣りだ」
早苗が小さく説明する。
「御柱の時にも歌うんです」
「詳しいな」
そう言うと早苗は笑った。
男たちが声を上げる。
「ヨイサァー!!」
低く、伸びる声。
山に響くような歌。
木遣り唄。
諏訪の古い労働歌だ。
観客が静かに聞いている。
早苗も静かだった。
「昔の人も」
小さく言う。
「こうやって歌ってたんですね」
俺は答える。
「たぶんな」
歌が終わると、また拍手が起きた。
その後。
少し騒がしい準備が始まる。
舞台の裏から、長い布が出てきた。
青と金の模様。
頭の部分が大きい。
早苗が言った。
「護くん」
「なんだ」
「これです」
「諏訪龍神の舞」
舞台の上に龍が現れた。
長い体。
布の中に何人も入っている。
笛の音が鳴る。
太鼓も加わる。
ドン……ドン……
龍が動き出す。
うねるように舞う。
頭が空を向く。
観客から声が上がる。
「おお……」
早苗は龍を見上げていた。
目が少し真剣だ。
「諏訪には」
小さく言う。
「龍神の伝承が多いんです」
俺は聞いた。
「神様か?」
早苗は頷く。
「水の神様です」
龍が大きく跳ねる。
舞台の上で旋回する。
その瞬間。
俺は少しだけ感じた。
風が変わる。
空気が揺れる。
ほんの一瞬。
龍の舞の後ろに――
本物の影。
湖の方から。
早苗も同時に息を止めた。
「……今」
俺は小さく言う。
「ああ」
龍神の舞は続く。
観客は誰も気づいていない。
ただの演舞。
ただの祭り。
でも俺たちは見た。
舞の影の奥に。
ほんの一瞬だけ。
諏訪湖の龍。
早苗が小さく手を合わせた。
「こんばんは」
龍の影はすぐ消えた。
太鼓が鳴る。
龍の舞が終わる。
観客は大きな拍手を送る。
祭りの音が戻ってくる。
早苗が少し笑った。
「護くん」
「なんだ」
「今の見えましたよね」
俺は答える。
「まあな」
早苗は少し嬉しそうだった。
「神様まだ元気ですね」
俺は城を見上げた。
月が出ている。
提灯が揺れている。
祭りはまだ続いていた。
そして俺たちは
その灯りの中を
ゆっくり歩いていた。
夜になる。
提灯の灯りが増える。
城がライトアップされる。
堀の水に光が揺れる。
早苗が言った。
「護くん」
俺は振り向く。
早苗は城を見ていた。
「この城、怪談があるんです」
俺は笑った。
「やっぱりそれか」
早苗は少し真面目な顔になった。
「祭りの夜だけ城主が現れるって」
俺は聞いた。
「城主?」
早苗は頷く。
「昔のこの城の人です」
堀の水が揺れる。
夜風が吹く。
その時だった。
水面に影が出た。
人の形。
鎧のような輪郭。
俺は小さく言った。
「……いるな」
早苗も頷く。
「はい」
影は堀の中に立っている。
水の上に。
ゆっくり城を見上げている。
早苗が小さく言った。
「帰ってきたんですね」
俺はヒトガタを取り出す。
「敵か?」
早苗は首を振る。
「違いますね…」
影が歩き出す。
水の上を静かに。
堀の中央へ。
俺は言った。
「祭りに呼ばれたのか」
早苗は考えていた。
「たぶんですけどね」
祭りの音。
太鼓。
笑い声。
提灯。
信仰ではない。
でも人の想い。
影が城を見上げる。
しばらく…
本当にしばらく。
動かない。
そしてゆっくり頭を下げた。
城に向かって。
次の瞬間。
水面に溶けるように消えた。
堀は静かになる。
俺はヒトガタをしまう。
「……害はなかったんだな」
早苗は少し安心した顔だった。
「よかった」
風が吹く。
提灯が揺れる。
祭りの音が戻ってくる。
早苗が言った。
「護くん」
「うん?」
「今日は」
少し照れながら言う。
「楽しかったです」
俺も言った。
「俺もだ。楽しかったよ」
早苗が驚いた顔をした。
「本当ですか?」
「祭りは嫌いじゃないぞ」
城の上に月が出ている。
水面に映る静かな夜だ。
でもこの町にはまだ物語がある。
神様。
怪談。
そして祭りの灯りの中で俺は少し思った。
この時間と
この町。
この子と歩く夜。
ずっと続くわけじゃないんだと…
でもそれでもとーーー