1話
1979年 7月初旬
地獄を観た。自身とは全く異なる人生の断片。 暗く淀み、国や自身の未来に希望を持てず、それを変えようとすらしない。 怠惰に人生を浪費する。 そんな地獄。
目を覚ますと、髪は汗で湿り、シーツは背中にべっとりと張りついていた。 昨夜、急に襲われた熱が引いたのを感じながら、まだ体は鉛のように重い。 気分が優れない中で、微かに映像が残っている。 見知らぬ街、見知らぬ声、様々な情報が折り重なり、頭が混濁してくる。扇風機による清風を感じながら、上半身をゆっくりと起こし、状況を把握しようと、焦点の合わない目を細めて周囲を伺う。 少ししてから、青臭く、それでいて落ち着く匂いとともに、畳の部屋が目に映った。 畳には親に買ってもらった学習机と机の脚で畳が傷つかないようにと敷かれているウッドカーペットが見えた。 学習机は以前から学校中の話題であり、クラスメイトの1人が買ってもらったという話を聞き、必死に親に強請ったのを覚えている。 買ってもらえると決まって次の日には友達に自慢していた。今振り返ると大分嫌な奴だったと思う。
「あら、起きたのね哲也」
不意の声に驚きながらその方向に視線を向けると、母が心配そうな顔で立っている。その瞳には、息子の体調を案じる優しさと共に、どこか一抹の不安の色も浮かんでいるように見える。
母からの心配を感じつつも、哲也には、どうする事も出来ない。その為、少しでも現状を把握すべく母に問いを投げる。
「母さん、今何時?」
起きてすぐ、飄々とした態度で自身に質問をしてくる息子の姿に少し呆れながら答える。
「もう夕方の4時よ。薬置いといたから飲んで安静にしてな」
そう言いながらリビングへと戻っていく。おそらく晩御飯の準備に向かったのだろう。
「夕方か…」
熱に襲われたのが夜で今が夕方という事はほぼ一日中寝っていた事になる。
「そりゃあんなに心配そうな顔をするよな」
申し訳なさを感じながら母が部屋から出ていくのを確認して、一息吐こうとぐっと背筋を伸ばす。
「んぐ〜〜〜」
数秒後、一息付き終えて、先程母に言われた薬を探そうと自身が眠っていた布団周辺に視線を向けると、布団の横には市販の解熱剤と水、そして枕には、時間が経ち冷たさの失われた冷凍枕が置かれていた。
解熱剤を水で流し込みながら、熱でうなされていた時の悪夢を思い返そうとする。この悪夢を目が覚めてからすぐに振り返ろうとしなかったのは、悪夢を見たのだと理解した後、無意識に振り返る事に嫌な予感を感じていたからであり、そんなものを何故振り返るのかと言われると、なんとなくとしか言えない。直感としてそう思ったからだ。
ただ、その曖昧な自身の思考も含めて悪夢に対する興味が湧いたのだ。
薬を飲み終えて空になったコップを畳に置く。哲也はゆっくりと再び横になりながら目を瞑り悪夢を思い返す。すると先ほどまで朧げだったものが蘇っていく。
最初は頭に沢山の情報が流れ込んできたように感じた。結構な間、ジンジンとした痛みに晒されると共に、自分のものではない遠い未来の記憶が入ってきた。2005年から2025年の間を生きた、全く見覚えのない人物の人生の断片。そこからゆっくり時間をかけて整理した人生の断片は、鮮明でありながら、これまでにない異質な体験だった。
記憶は、奔流のように哲也の意識に流れ込んできた。目まぐるしく変わる映像、聞いたことのない言葉や物、そんな言葉にならないほどの情報の波。それは、まるで他人の人生という映画を観客として見せられているかのようだった。ある時は、コンピューターが並ぶオフィスで、未来の技術に驚嘆する自分。ある時は、経済の低迷に嘆き、将来への不安を募らせる人々の声。そして、その記憶の底流には、常に「日本」という国の、未来への暗雲が漂っていた。
瞼をゆっくりと開き現実へと戻る。
戸の向こうから、夕方のニュース番組の音声が微かに聞こえてくる。解説者が、熱のこもった声で語っている。
「…現在の日本の経済成長は、まさに驚異的としか言いようがありません。この勢いは、もはや世界を凌駕するレベルに達しつつあります。この好景気は、今後も続くと見られています」
(世界を凌駕…?)
その言葉を聞いた瞬間、哲也の頭の中に、先ほどの未来の記憶が浮かぶ。記憶の中の「未来」では、この熱狂の裏で、巨大なバブルが膨張し、やがて弾けることで、「失われた30年」と呼ばれる長期的な経済停滞期に突入する。株価と不動産の異常な高騰、それを急激に冷やした政策転換、そして銀行の不良債権問題…。自分が今生きているこの時代が、その巨大な崩壊の直前かもしれないという、戦慄すべき事実が、ニュースの楽観的な言葉とは対照的に、哲也の胸を締め付けた。
(あれは、夢じゃない…? あの記憶は、現実だったのか?)
熱で呆然としていた頭が、急激に冴え渡っていく。未来の記憶は、単なる個人的な体験ではなく、この国が辿るであろう、あまりにも過酷な未来への「警告」だったのだ。
(でも、なぜ俺が…? なぜ、俺がこんな未来を知らなければならないんだ?)
未来の記憶がもたらす危機感が子供であるはずの哲也の心に、そぐわないほどの重圧として伸し掛かる。目の前の現実と、脳裏に焼き付いた未来の光景。そのあまりの乖離に、哲也は激しい混乱と、どうしようもない無力感に襲われた。
(このままでは…この国は、どうなってしまうんだ…)
未来の記憶は、経済成長の裏に潜む構造的な問題を、いくつも提示していた。少子高齢化による生産年齢人口の減少、社会保障費の増大。企業の投資行動の鈍化と、イノベーションの停滞。非正規雇用の増大と、それに伴う消費の低迷。社会インフラのデジタル化の遅れ…。これらの問題が複雑に絡み合い、日本経済を徐々に蝕んでいく様が、記憶の中で克明に描かれていた。
(俺一人が、どうにかできるはずがない…)
子供である哲也には、あまりにも重すぎるその事実に、彼の幼い心は、無意識のうちに抵抗しようとした。
(そうだ、きっと夢なんだ。昨夜の高熱で、変な夢を見ただけだ)
そう自分に言い聞かせるように、哲也は数日間、熱が下がった後の日常を過ごした。家族と過ごし、学校に行き、友達と遊び、母の手伝いをする。しかし、どんなに平凡な日常を演じようとしても、脳裏に焼き付いた未来の光景は、まるで現実のように蘇る。ニュースで流れる「日本経済は世界をリード」という言葉を聞くたびに、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
(…あの記憶は、あまりにも鮮明すぎるんだ)
子供ながらに、それがただの夢ではないことを、本能的に理解していた。未来の記憶の中には、経済的な問題だけでなく、それによって苦しむ人々の姿、社会が活気を失っていく様が、痛々しいほどリアルに描かれていたのだ。
そして、ある日。
哲也がいつものように学校から帰宅すると、テレビでは、経済アナリストが、将来の人口減少による市場縮小の可能性について、真剣な顔で解説していた。
「…このまま少子高齢化が進めば、将来的に国内市場は大幅に縮小し、経済活動は著しく停滞することが予想されます。これは、社会保障制度の維持にも深刻な影響を与えかねません…」
その言葉を聞いた瞬間、哲也の心は凍り付いた。それは、未来の記憶で見た光景と、寸分違わぬ現実だった。ニュースで語られる「将来の可能性」が、自分が見てしまった「避けられない未来」と重なったのだ。
(これは、夢なんかじゃない…! このままじゃ、本当に…!)
これまで夢だと言い聞かせてきた未来の記憶が現実なのだと突きつけられた。経済の停滞は、単なる数字上の問題ではない。それは、人々の生活を、未来を、そしてこの国そのものを、静かに、しかし確実に蝕んでいくものなのだ。未来の記憶の中で見た、活気を失い、将来への希望を失った人々の顔が、哲也の脳裏を駆け巡った。
(俺は…俺は、あの未来を、ただ見ているだけなのか?)
無力感と、未来への強い危機感。そして、それ以上に、あの記憶の中の悲惨な未来を、誰かが変えなければならないという、子供ながらの使命感。それは、単なる「日本を救いたい」という漠然とした思いではなく、未来で苦しむ人々への、具体的な共感と、彼らを救いたいという願いだった。
(いや…何もできないわけじゃないはずだ)
子供である哲也には、あまりにも重すぎる現実だったが、その絶望の淵で、記憶の奥底から、ある種の決意が芽生え始めていた。それは、未来を知ってしまった者としての、切実な思い。
(もし…もし、この知識を活かせるとしたら…)
記憶は、経済停滞の要因だけでなく、それを乗り越えるための「鍵」となりうる技術や産業の可能性も示唆していた。PC、通信、AI、GPU…。これらの分野が、未来においていかに重要性を増し、世界を牽引していくかを、哲也は知っていた。
(俺は、この国を…未来を、変えたいんだ!)
「俺にできることは一つだ。未来で確実に成長し、世界標準となる技術分野—PC、通信、CPU、AI—で、日本から世界有数の企業を立ち上げる」
記憶の中の日本は、やがて技術革新の波に乗り遅れ、経済的な停滞と活気の喪失に苦しむ。しかし、哲也は知っていた。未来では、アニメやゲームといった日本のポップカルチャーが世界を席巻し、莫大な収益を生み出すことを。
「ガラパゴス化を避け、世界に通用する標準を日本から作る。それだけじゃない。アニメやゲームといった、この国が誇るべき文化で、人々に楽しみを提供し、経済を活性化させるんだ。そうすれば海外から資本を呼び込み、この国の未来を明るく照らす、そんな起爆剤になれるはずだ!」
雇用を生み、国を活気づけ、停滞した金融システムに投資を呼び込む。さらに、世界を魅了するアニメやゲームで、国内外の人々を惹きつけ、消費を促す。それが、未来の日本が失いかけた「活気」を取り戻すための、もう一つの道標だ。
「よし、やってみよう。できうる限りで、この歴史の波に挑むんだ!」
しかし、起業するには資金も人材も設備もない。まずは通信機器やPCの製造につながる土台となる事業が必要だ。
目を閉じて、未来の知識を検索する。この時代、最も低コストで大きな利益を生む可能性を秘めているのはゲーム制作だ。すぐに任天堂やセガから次世代機が登場し、ゲームの黄金時代が来る。今のカセット時代のゲームは、個人の能力とひらめきで勝負できる。
「先ずはプログラミング言語を身につけることだ。父さんに習おう」
「哲也、ご飯よ」
母の声が、書斎の静寂を破った。哲也はハッとして顔を上げると、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっている。気づけば、夢中で今後について整理していた時間は、あっという間に過ぎ去っていた。
「はーい!」
急いでリビングへ向かう。食卓には、湯気の立つ炊き立てのご飯、味噌汁、そして焼き魚が並んでいる。いつもの、温かい家庭の食卓だ。父・高橋寛介(38)は、仕事のネクタイを緩め、新聞を片手に席についていた。母は、哲也の熱から回復し、元気を取り戻した姿をみて喜びを表情に浮かべている。
テーブルに座ると、新聞を読んでいた父に声をかけた。
「おかえり」
「あぁ、ただいま。熱が下がってから学校はどうだ」
父の声は、いつものように穏やかだった。哲也は、そんな父の言葉に、少しだけ罪悪感のようなものを感じていた。未来の記憶がもたらした重圧と、子供らしい日常との間で、自分が揺れ動いていることを、両親はまだ知らない。
「うん、楽しいよ。皆、熱のこと心配してくれたしね」
哲也は、努めて明るい声で答えた。食事が運ばれ、三人での他愛ない会話が始まる。今日の学校のこと、父の仕事のこと。いつもなら、哲也も無邪気にそれに加わるはずだった。しかし、彼の頭の中には、あの未来の記憶がちらつく。
(この、温かい食卓が…この日常が、今後失われてしまう可能性があるなんて…)
未来の記憶が、静かに、しかし確実に、この平和な日常に影を落としていく。子供である哲也には、まだその重圧を言葉にすることはできない。ただ、目の前の食事を、いつもよりゆっくりと味わうことしかできなかった。
食事が半分ほど進んだ頃、哲也は意を決して箸を置いた。リビングの空気が、一瞬にして張り詰める。
「父さん、話があるんだ」
テーブルの空気が変わる。先に口を開いたのは母だった。
「哲也。急に何よ?」
母の声には、戸惑いが感じられるが、哲也は、母には目もくれず、父の目を真っ直ぐに見つめた。父は、新聞を静かに畳み、哲也の真剣な眼差しを受け止めた。
「俺、ゲームを作れるようになりたいんだ。だから、プログラミング言語を教えて欲しい。できれば、明日からでも」
書斎に響いた「ゲームを作る」という言葉に、父と母は、それぞれ異なる表情を見せた。父は、一瞬、驚きと戸惑いが混じったような表情を浮かべた後、静かに問いかけた。
「何故だ。つい昨日まで、ゲームなんて少し遊ぶ程度だっただろう」
その問いには、父としての当然の疑問と、息子への期待と困惑が入り混じっていた。一方、その言葉を聞いた母の表情は、一瞬の驚きの後、すぐに喜びへと変わった。
熱にうなされていた息子が回復してから、どこか大人びたように感じ、不安に思っていた矢先の突然の宣言だった。しかし、その言葉には、子供らしい無邪気な響きと共に、真剣な決意が感じられた。
「あら、ゲーム作り? 哲也、そんなこと考えてたの。いいじゃない、パパに教えてもらえば」
母は、哲也の頭を優しく撫でながら、父に同意を求めた。普段はゲームにあまり関心を示さない哲也が、自ら「作る」と言い出したことが、彼女には新鮮で、何よりも息子が夢中になれるものを見つけたことが嬉しかったのだ。
「父さんて、コンピュータ作ってるんでしょ? コンピュータって、どんどん色んなことが便利になるすごいものだと思う。だから、これからもっとみんなが使うようになる」
哲也は、子供なりに、未来の知識を噛み砕き、父に理解してもらえるように言葉を選んだ。
「そしたら、きっとゲームももっと面白くなるし、遊ぶ人が増える。でも、俺は遊ぶだけじゃ嫌なんだ。お父さんみたいに、未来を変える『すごいもの』を作る人になりたい!」
その言葉は、子供の勢いだけではなかった。未来の記憶がもたらした客観的な視点と、この国を救いたいという切実な思いが、彼の言葉に重みを与えていた。
父は、哲也の言葉を、一言一句聞き漏らさないように、真剣な眼差しで受け止めていた。息子の突然の申し出に、彼は驚きつつも、その言葉の背後にある熱意と、コンピュータへの深い理解に、父親としての関心を強く刺激されていた。
「なるほど…。哲也の考えは、確かに筋が通っている。これからコンピュータは社会を変えるだろう。そして、お前のような熱意ある人間が必要になる」
父は小さく息を吐いた。
「よし。いいだろう。明日は半日勤務だから、午後に少し教えてやる。ただし、その熱意が本物かどうか、しっかり見せてもらうぞ」
「やった!」
父の承諾を得て、哲也の心は歓喜で満たされた。それは、世界を変えるという壮大な夢への、確かな第一歩を踏み出した瞬間だった。母も、息子の輝くような笑顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。
次の日の午後、父の書斎に入ると、そこにはテレビに繋がれたパーソナルコンピュータというには小さなコンピュータが置いてあった。
「これが、お前が使うマイコン。つまり、機械の動作を制御するための小型のコンピュータだ。これは、ウチの会社の製品でTK-80と、拡張ボードのTK-80BSといい、ゲーム制作にはアセンブリ言語が主に使われるが、今回お前に教えるのはBASICだ」
「どうして?」
「覚えやすいし、ゲーム一本を作る時間が圧倒的に短いからだ。子供がアセンブリでやるよりも飽きにくい」
父の言葉に納得する。合理的だ。自社の製品を教材として試したい気持ちもあるのかもしれない。
「ただし、BASICはロードも遅いし、容量を食う。リアルタイムで操作を行うゲームには向かない。最終的にはアセンブリ言語も覚える必要がある」
父も自分の目指す先の厳しさを分かっている。
「わかった! 頑張る」
そこから哲也は、驚異的な集中力でBASICの学習にのめり込んだ。まるで、脳の容量が飛躍的に増大したかのように、新しい知識を次々と吸収していく。それは、元来の彼からは考えられないほどの変化だった。
(なぜ、こんなに早く理解できるんだろう…?)
哲也自身も、その変化に戸惑っていた。高熱で倒れたあの日以来、頭の中に流れ込んできた未来の記憶。それは、単なる断片的な情報ではなく、膨大な知識の集合体だった。その膨大な情報を、脳が必死に整理しようとした結果、物事を客観的に捉え、瞬時に分析する能力が飛躍的に向上したのかもしれない。それは、子供であったはずの哲也の精神に、どこか大人びた深みを与えていた。
しかし、それはあくまで「記憶」であり、「経験」ではない。未来の知識はあっても、それをどのように活かすべきか、子供の哲也にはまだ分からないことだらけだった。
能力の向上で当初簡単だと考えていたBASICは、子供の哲也にとって想像以上に難解だった。画面に文字を表示させるPRINTコマンド一つをとっても、その裏側では複雑な処理が動いている。変数とは何か、ループとは何か、条件分岐とは。最初は、父が丁寧に教えてくれた。
「これは『箱』だと思え。この箱に数字を入れたり、取り出したりできる。そして、この箱の中身によって、コンピューターの動きを変えることができるんだ」
父は、身振り手振りで、まるで絵本を読み聞かせるように説明してくれた。
「父さん、この『IF ELSE』って、どういう時に使うの?」
「例えば、もし哲也が宿題を終わらせたら、テレビを見てもいい。そうでなければ、ダメだ。そういう『もし~なら~、そうでなければ~』という条件で、コンピューターの動きを決めるんだ」
父は、子供にも理解できるように、日常の例えを用いて説明した。しかし、哲也は、その単純な命令の羅列の中に、無限の可能性を、そして未来の複雑なプログラムの片鱗を見ていた。
「そうか…じゃあ、もし『点数』が『100点』だったら、『最高』って表示して、そうでなかったら、『頑張ろう』って表示する、とかもできるってこと?」
「そうだ」
父は、哲也の理解の早さに、目を見張った。熱でうなされるまでボウっとしていた子供が、まるで別人のように、プログラムの世界に没頭していく。その吸収力、理解力は、父親である寛介でさえ驚嘆せざるを得なかった。
「まるで、スポンジみたいに吸収するな…」
父は、内心、哲也の才能に舌を巻いていた。確かに、将来コンピュータの分野で活躍する人材は、こういう子供なのかもしれない。
数週間後、哲也は、BASICの基礎を習得し、簡単なゲームを作り始めた。それは、『月刊アスキー』というゲームのプログラムが載っている専門雑誌で、そこに書いてある迷路ゲームから取り掛かった。ゲーム内容は、#を壁、Aを自キャラとする単純なものだ。それはすぐに完成した。
次にテトリスの再現を試みたが、やはり処理速度の壁は高かった。キー入力の遅延、ブロックの不自然な落下、ライン消去時の長いフリーズ。まともなゲームとは呼べないものにしかならない。縦スクロール型ゲームも同様で、カクカクとした描画速度に阻まれた。
「クソ、キーを叩いてから、画面のAが動くまで1秒もラグがある」
「父さんのいう通り、リアルタイム性のあるアクションゲームは、今の俺の技術とTK-80BSの性能じゃ、無理だ」
現実の技術的な限界を叩きつけられ、哲也は方針を転換した。
「BASICの強みは、計算と論理だ」
そして取り掛かったのが、ターン制の経営シミュレーションゲームだった。プレイヤーが毎ターン、生産量、販売価格、広告費、研究費を数値で入力し、それに市場変動の乱数を加えて、企業を成長させていく。描画処理や演算に時間をかけても、次のターンに進むまでプレイヤーは待ってくれる。
BASICを学び始めてから5ヶ月が経ち12月に入って、ついにゲームが完成した。
1979年12月
「父さん、俺の作ったゲーム見て欲しいんだ」
哲也は自信と不安が入り混じった顔で、父の書斎のドアを開けた。視線を新聞からこちらに向けて、喋り出した。
「もう出来たのか。意外と早かったな」
「うん」という俺の返答に対して父さんは思いもよらない発言をした。
「哲也。ただ見せるだけじゃ面白くない。俺にプレゼンしてみろ」
父さんはソファに深く座り、腕を組んだ。
「プレゼン?」
「そうだ。将来お前が面白いゲームを作ったとしても作ったものがどれだけ素晴らしいか、熱意を持って人に伝えられなきゃならない。『私が作ったのはこれです』と機械を指さすだけじゃ誰も動かない。そのゲームの魅力と、お前が工夫した点を、俺に説明してみろ」
今までプログラムを組むことにばかりに集中してきたが、それを言葉で説明することなど考えもしなかった。哲也は顔には困惑が張り付いていた。
「このゲームのタイトルは『フロンティア・カンパニー』て言って『フロンティア』は、開拓者って意味なんだって父さんが前に教えてくれたろ?俺は、これから始まるコンピュータの時代を切り開くようなゲームを作りたいからそう名付けたんだ」
「ええと…その、このゲームはプレイヤーが会社を経営するゲームなんだ。生産量とか、価格とかを入力して…」
「それは見ればわかる。そうじゃなくて、何が面白いんだ?なぜ、他のゲームを差し置いて、このゲームを制作しようと考えたんだ?」
父の真剣な問いに、哲也は言葉に詰まった。彼はゲームを徹夜で作り上げ、そのロジックには絶対の自信を持っていた。だがその「面白さ」を他人に伝えるための言葉を持っていなかった。一度深呼吸をし、画面の前に立った。頭の中で、未来の知識と、自分がプログラムに込めた意図を必死に繋ぎ合わせる。
「…このゲームは、現実の会社の経営をシミュレーションしているんだ」
哲也は再び、父の目を見て話し始めた。
「アクションゲームみたいに反射神経はいらない。必要なのは、先を読む力と、決断力で、市場は毎ターン、予測不能な動きをする。プレイヤーは、広告費や研究費をケチるのか、それとも未来への投資として大胆に使うのか、常に悩まされる」
彼は、特定のロジックを指し示した。
「工夫したのは、この価格弾力性のロジックで、価格を下げすぎると、市場が荒れて需要が増えすぎて供給が追いつかず、かえって利益率が下がるように組んである。逆に、研究開発費を一定以上投入すれば、生産効率が上がり、次のターンの経営が楽になるようにした」
「このゲームの魅力は、プレイヤーが下した『判断』の結果が、数字として明確に返ってくるところだ。ただの遊びじゃなくて、経営の厳しさと楽しさが体験できる。これを遊んだら、大人になって本当に社会に出た時に自分の会社はどんなんな意図で経営されているのかを考えれるようになって欲しい」
「そんな気持ちを込めて作った」
哲也が言い終えると、書斎には静寂が戻った。父は、ゆっくりと立ち上がり、哲也の頭を優しく撫でた。
「よく言えた。完璧とは言えないが、哲也がこのゲームに込めた思いは伝わった」
「ありがとう」
「技術的な評価としては、BASICを学んでたった五ヶ月で、ここまで論理的なシミュレーションを完成させたのは、十分すぎるほどの合格点だ。お前は、与えられた環境の中で最大限の結果を出した」
父は、一転して厳しい表情になった。
「だが、哲也。覚えておけ。これからお前が、誰かを雇うとき、銀行から融資を受けるとき、作ったソフトを企業に売り込むとき、なぜこのゲームが面白いのか、なぜこのロジックが必要なのか、今日の何倍も詳しく聞かれることになる。今日みたいに言葉に詰まっていたら、誰もお前の才能を信じてはくれない」
「技術力と、それを他者に伝える力。その両輪があって初めて、世界を変えるような『すごいもの』が生まれるんだ。今日のプレゼンは、その第一歩だ」
父さんは、書斎の隅にある技術書の一冊を手に取った。それは、アセンブリ言語の分厚いマニュアルだった。
「お前は、自分の作ったゲームの面白さを言葉にする練習と並行して、これからこのアセンブリ言語を学ぶことになる」
「このマニュアルに書いてあるのは、コンピューターの心臓部がどう動くかという『理』だ。これでお前のロジックは飛躍的に速くなり、お前の夢に大きく近づく。だが、BASICとは比べ物にならないほど難解だ。それでも、やるか?」
哲也は、分厚いマニュアルをじっと見つめ、その重みを受け止めるように頷いた。
「うん、やるよ!父さんの言う通り、最高の技術と、それを伝える力を、両方手に入れる!」
彼の目には、もう戸惑いの色はない。世界有数の企業を目指すという、哲也の壮大な夢は、この父との対話と、分厚い一冊の技術書から、本格的に加速し始めたのだった。