よう実×都市伝説解体センター   作:Shu@cosmos

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12話 対Cクラス

 廻屋渉は、学年の有名人である。

 所属するBクラスではもちろん、Aクラスでは入学生代表挨拶を飾った生徒が自分たちのクラス出身でないことに歯噛みする者、クラスポイントは僅かな差でしかないと警戒する者、そしてBクラスだと見下す者が僅かに居り、渉個人を知る坂柳有栖は直接競う日を心待ちにしている。

 Dクラスでは妖しい魅力を孕んだ整った顔立ちに浮足立つ女生徒が噂し、同じ部活動に所属している小野寺かや乃は『フォームは綺麗で活動にも真面目に打ち込んでいるが、どこか熱意に欠ける』として内心あまり快く思っていなかった。

 Cクラスでは相対的に注目度は低いが、クラスで随一の頭脳を持つ椎名ひよりは図書室の常連仲間として、初めは本の趣味こそ合わなかったが渉の熱心な語りに引きずられるように民俗学の本を読み始め、その奥深さと渉の知識の深さに畏敬の念を抱いていた。

 

 Cクラスは素行不良が目立ち、生活態度もDクラスほどではないが決して良好とは言えない。

 その例外である椎名ひよりにとって騒がしい教室は居心地の良いものではなく、余計に図書室の蔵書にのめり込んでクラスメイトの名前も碌に覚えていない有様だったのだが、それゆえに新たな知見を持ち込んでくれた廻屋渉を尊敬すべき友人として認識していた。

 ゆえに、自クラスの生徒たちが渉の所属するBクラスの生徒に図書室で絡んでいる姿を何度か見ており、渉に対して申し訳ない思いを抱えていた。

 

 そんな渉が単独でCクラスの教室に乗り込んできたとあっては、心中穏やかではないのも当然のことだった。

 暴力でこのクラスを支配している龍園翔と、線が細く喧嘩とは縁遠いように見える渉の相性は、悪いなんてものではない。

 しかし止めることもできず、椎名は申し訳なさと心配でどうにかなりそうだった。

 

 そして、渉と相対する龍園はといえば――。

 

「(何だこいつは……)」

 

 呆れ交じりの困惑の最中にあった。

 今学期が始まって最初にその名前と姿を学校中に晒した生徒、それが廻屋渉だ。

 実力主義――結果を出した者が評価されるこの学校において、目立つことは言葉通りの意味だけに納まらない。

 最初に結果を出して評価された者として、一挙手一投足を注目されるものだ。

 実際廻屋渉は注目され、堂々とした立ち振る舞いで周囲に応えた渉は龍園にとってAクラスを目指す上で食いでのある獲物であり、壊して屈服させる甲斐がある敵として認識していた。

 

 しかし、自クラスを掌握する片手間に探ってみれば渉はクラスのリーダーにならず、お人好しの一之瀬帆波にその座を譲って自身は多少意見するものの舵取りには文句も言わず従っている様子。

 おまけに椎名の話では5月の情報公開後もよく分からないマイナー趣味を公言して没頭しているようで、クラス対抗戦に真面目に取り組む気があるのかという体たらく。

 初めに期待してそれに応えていた分、龍園の落胆は大きかった。

 

 ゆえに。

 お人好しで甘ちゃんの一之瀬など自分の敵ではない、と自身の計画を進めるために仕掛けて見れば、廻屋渉が単独で乗り込んでくるとは龍園自身全く思っていなかった。

 いったいどういう意図かと訝しんで観察したものの、いつも通り薄く笑うばかりで内心など見通せやしない。

 龍園が暴力で支配したCクラスの雰囲気は仲良しこよしのBクラスとは比べ物にならないほど重く、その上で針の筵になっているというのに普段通りの微笑を保つ渉の容貌は龍園にとって不気味そのものだった。

 

「龍園さん、単刀直入に問いましょう。CクラスからBクラスの妨害行為の数々、貴方の差し金ですね?」

「はっ、だとしたらどうするってんだ? 一之瀬の腰巾着風情が、この俺に意見すると?」

「即刻止めることをお勧めします。今日も続くようなら、こちらとしても考えがあります」

「へえ、それは是非とも聞きたいもんだな」

 

 龍園がそう言って顎で指図すると、先ほど渉に絡んだ石崎と龍園の傍に控えていた巨漢の黒人・山田(やまだ)アルベルトが動き、教室の扉をピシャリと閉めると門番のように仁王立ちになった。

 ただでさえ重い空気に物理的な閉塞感が加わってCクラスの生徒の視線もどこか固くなり、渉は感心交じりの息を吐く。

 

「よく統率したものですね。暴力による恐怖支配は長続きしませんよ? 有史以来、人間はそういうのが大嫌いですから」

「そうかよ。俺は大好きだが、なッ!」

 

 不意に、龍園の拳が飛ぶ。

 踏み込み、体重移動、スピード――技術面は格闘技を嗜む者のそれに及ばない。

 しかし独学の喧嘩殺法で編み出された右ストレートは荒々しく、直撃すれば容易く意識を奪うであろう威力を纏って完全な不意打ちで繰り出された。

 

 椎名をはじめ、暴力に苦手意識のある者たちは思わず目を背ける。

 鼻が折れ、血が舞い、細い体躯が吹っ飛ぶ――そんな光景を誰もが幻視した。

 

「支配する側は得てしてそう言うものです。そして結果が出せなければ――いや、これ以上は野暮ですかね」

 

 止められたわけではない、拳を止めたのは龍園自身だ。

 眼前数㎝で止まった龍園の拳に渉の意志や意図は介在していない。

 

 にもかかわらず、意にも介さずに問答を続ける渉に龍園は大きく目を見開いた。

 反応できたのか、それともできなかったのかさえ、龍園には判別できなかった。

 

「てめぇ、殺気を見抜いたとでも……?」

「まさか。此処で殴ったとして、Cクラスが背負う事になる重大なペナルティは流石に許容範囲外でしょう。妨害行為の数々のうち、お得意の暴力が無かったのがその証です。傷が残ったら誤魔化せませんから」

 

 天井の監視カメラを指差し、笑う渉。

 変わらぬ穏やかさを纏う表情には、その細い体躯に余る暴力に晒されかけたという意識は見えない。

 理論と理性で感情をねじ伏せたのか、それとも龍園の拳など脅威ではないとでもいうのか。

 渉の態度まるで談笑の延長戦だとでも言うようで、龍園は背中が粟立つのを抑えられなかった。

 

 龍園翔の原風景は、小学生時代の遠足で遭遇した蛇だ。

 周囲がその存在に慄く中、恐怖もなく石で撲殺した結果、彼は他者を屈服させる快楽――加虐嗜好(サディズム)に目覚める。

 以来、龍園は恐怖を感じることなく喧嘩に明け暮れ、何度地を這おうが最終的に対象を泣いて詫びさせ、その膝と心を折ってきた。

 

 恐怖を飼いならし、相手に恐怖を味合わせ、恐怖を以て支配する。

 それが、龍園翔が掲げる哲学だった。

 

 そして今、初めて自分の暴力を前に何の恐怖も見せない存在(廻屋渉)が現れたのだ。

 

「は、ははっ。いいねぇ、いいじゃねえか……!」

 

 誰もがひれ伏し、逆らう者のいない毎日――そんな刺激のない退屈な日々が崩れていくのを、龍園は肌で感じていた。

 気付けば龍園は粟立つ肌を武者震いと断じ、どうしたら渉が恐怖に咽び泣くのか、と思考を回していた。

 

 ああ、そうだ。このまま廻屋の言うとおりにするというのはあまりに芸がない。

 

「じゃあ言ってみろ、廻屋。俺がBクラスへの妨害行為を指示していたとして、それを取りやめる道理とはなんだ?」

「ふむ……推測するに、Cクラスの妨害行為はペナルティの程度を計るものです。であれば、Bクラスへの妨害行為を記録している我々にも、同じ情報が舞い込むことになりますね」

「確かにそれは美味くねえな。お前の思考速度と深度を考えれば、取れる方法に制限がかかっちまう。Aクラスの坂柳やお前を相手にするのに、それじゃあ心もとないと言わざるを得ない。――いいだろう、Bクラス相手の嫌がらせは俺の方で止めてやるよ」

 

 思ったとおり、思考の方向性が似通っている。

 いや、あえて似た方向の思考を組むこともできる、と評した方がいいだろう。

 

 最初と打って変わって上機嫌になった龍園に、思わず渉は目を細める。

 

「殊勝な態度ですね。正直認めるとは思いませんでしたが」

「はっ、漸く表情が変わったな、廻屋。なに、この程度録音していたとしても悪ふざけの範疇、証拠になんかならねえよ。俺はお前に怪我1つさせてないんだしな」

 

 心変わりの方が不気味なのだが、と内心で零しつつ、渉は帰路につく。

 

「覚えておきな、廻屋。坂柳がメインだと思っていたが、お前も俺の手で直々に屈服させてやるよ。石崎」

「は、はい!」

 

 2人のやり取りを呆気に取られて見ていた石崎が龍園の一声で扉を開けると、渉は軽い足取りで教室を後にするのだった。

 

 その後を追うように椎名が出ていくが、龍園は気にも留めない。

 久しく見ない難敵を前に、退屈に飢えていた彼の心は燃え上っていた。

 

「面白くなってきやがったな……!」

 

 クラスメイトが各々の感情を持って2人を見ていたが、そんなことを気にせず、龍園は思考を回していた。

 

 

   =   =   =

 

 

「廻屋くん……!」

 

 Cクラスとの問答の帰り道。

 渉が廊下を歩いていると名前を呼ばれたため、振り返れば椎名ひよりが足早に駆け寄ってきた。

 

「おや、椎名さん。すみませんね、先ほどは挨拶もできず」

「そんなことはいいんです! なんであんな、1人で乗り込んでくるような真似をしたんですか……! 心臓が、止まるかと思いました……!」

 

 クラスメイトが渉のクラスに迷惑をかけている事への罪悪感、止めることができなかった自分自身への無力感。

 妨害行為を止めるためという目的は理解しているが、それらを棚上げしてでも友人への心配が勝った椎名は、彼女にしては本当に珍しく声を荒げた。

 

「心配してくれたんですか?」

「そ、それは……! ……そうです。お友達が危ない目にあって、心配しないわけないじゃないですか」

 

 言ってから、椎名は俯いた。

 危険を顧みず単独でCクラスの前に立った渉と、暴力を好まず他人との衝突も避けた結果、渉のいるBクラスへの嫌がらせを見て見ぬ振りをしていた自分(ひより)

 友達と口にしたことすらおこがましく感じられ、いつも通りの渉の凪いだ表情を直視することができなかった。

 マイペースさが災いして今まで親しい友人ができなかった椎名にとって、渉は初めてできた友人も同然なのに、と惨めな思いだった。

 

「廻屋くん――わっ、とと!」

 

 そのまま何かを話すこともなく廊下を歩いているとBクラスの教室に到着――する寸前、一之瀬が慌てた様子で扉を開いた。

 扉の前にいた渉に驚いて衝突を回避しようとした一之瀬がつんのめって転びそうになり、渉はその手を取って支える。

 

「おっと。大丈夫ですか一之瀬さん」

「う、うん、大丈夫……って、そうじゃなくて!」

 

 体勢を整えた一之瀬がホッと息をつくのも束の間、渉が支えるために取った手を逆に握り返して口早にまくしたてた。

 

「廻屋くん、Cクラスに1人で行ったって聞いたよ!? 暴力による強引な支配って言ったのは君なのに黙って行くなんて、なんでそんなことするの!」

「分担するって言ったでしょう。私は対Cクラスで、貴女は中間試験対策。勉強会の方はどうなりましたか?」

「ああ、それなら二宮さんと初川さんが講師のサポートに名乗り出てくれたから、なんとか――って、話逸らさないでよ」

 

 ジト目で抗議してくる一之瀬を宥めながら、名前が出た2人について渉が思考を巡らせる。

 二宮(にのみや)(ゆい)初川(はつかわ)舞峰(まほ)――2人とも、先月行われた小テストでは、渉、一之瀬、浜口、神崎に次いで高得点を取っていた女生徒だ。

 急な試験範囲の変更に対応を余儀なくされる一之瀬に協力するため、自分から名乗り出たということだろう。

 

「なら安心ですね。彼女らは神崎さんと浜口さんのサポートに?」

「うん、そうなると思う。……はあ、それよりも」

 

 一之瀬は勉強会の話題もそこそこに視線を渉の頭から爪先へと運ぶと、漸く安堵の息を吐いた。

 

「怪我がないようで良かったよ。Cクラスとの話し合いは上手くいったの?」

「はい。口約束ですが、リーダーの龍園さんは妨害行為を止めると言いました。もちろん全面的に信用するわけにはいきませんから、皆さんに言った対策は今後も続けてもらうことに――」

「あ、あの……」

 

 遠慮がちに挟まれた声に、一之瀬は漸く渉が1人ではないことに気付き、驚きの声を上げた。

 

「え! あ、ごめんなさい、気づかなくて」

「い、いえ。それよりも、Bクラスのリーダーの一之瀬さんですよね。私はCクラスの椎名ひよりといいます。この度は私のクラスがすみませんでした」

 

 名乗るや否や、椎名はペコリと礼儀正しく頭を下げる。

 対する一之瀬は椎名の顔をじっと見ると、合点がいったという風に掌を合わせた。

 

「椎名さん椎名さん……あ、よく図書室にいるよね? 何回か見たことあるよ。廻屋くんの友達?」

「は、はい。私、読書が趣味で、廻屋くんとは図書室でよく会います」

「やっぱり! 知ってると思うけど、私は一之瀬帆波。よろしくね、椎名さん」

 

 屈託のない顔で笑って右手を差し出す一之瀬に、椎名は目を白黒させて一之瀬の手と顔を見た。

 

「どうしたの?」

「……いいんですか? 私はCクラスで、一之瀬さんはBクラスなのに」

「ああ、嫌がらせのこと? 椎名さんがやったわけじゃないし、クラスと個人は別だから。確かに他のクラスはAクラスを目指すライバルだけど、仲良くしちゃいけないってことはないでしょ?」

「!」

 

 何の疑いもなく言い切って見せた一之瀬の言葉に、椎名は驚愕と喜びで菫色の瞳を輝かせた。

 元来心優しい性格の彼女は争いを好まず、今までも大した諍いを起こしたことはない。

 そんな彼女が暴力と不良の色が濃いCクラスに馴染めるはずもなく、本に囲まれて過ごすことができるのならばそれでいい、と諦観すらしていた。

 

 クラス間抗争の情報が通達され、クラスの垣根を越えてできた友人(廻屋渉)と距離ができても仕方がないと思っていた。

 Cクラスという重苦しい薄闇の中にいる椎名にとって、一之瀬から掛けられた言葉は希望の光だったのだ。

 

「……私も、そう思います。クラスなんて関係なく、仲良くなりたい、と」

「良かった。じゃあ私たちも友達だね!」

「はい……!」

 

 溌溂と笑う一之瀬に椎名は温かな気持ちになり、彼女の手を取ってしっかりと握りしめる。

 自分のクラスに対する思い入れはない椎名だが、彼女がリーダーになるならBクラスはきっと良い場所なのだろう、と自然と思った。

 

 ふと、椎名は傍らを見上る。

 一之瀬をリーダーに推したという渉の表情は、椎名には普段図書室で見るものより穏やかに見えた。

 

 見たことのない彼の表情に、椎名ひよりの心にトゲが刺さったような小さな痛みが奔る。

 

 理由の分からない痛みに内心で首を傾げながら、彼女は新しく友人ができたことを喜ぶのだった。

 

 

   =   =   =

 

 

「いい子だね、椎名さん」

「はい。彼女とは図書室で本の感想交換をよくしていますが、善き友人です。民俗学や都市伝説にはあまり触れてこなかったとのことですが、優れた着眼点や鋭い洞察力には私も驚かされる時があります」

 

 最後にもう一度2人に頭を下げて去って行った椎名を見送った一之瀬の言葉に、渉は率直な感想を述べた。

 

 都市伝説に対する考察は正解というものがなく、解釈の余地が残されているものも多く残されている。

 例えば代表的なUMA――未確認生物として知られている雪男・イエティ。

 ヒマラヤ山脈に生息すると言われて20世紀中ごろに目撃例が多く、有名人ではエベレスト初登頂のエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが下山途中に巨大な足跡の発見報告を残している。

 その正体は様々な説があり、現地生物だったり古代生物の生き残りだったり、果ては宇宙から飛来した寄生生物なんて説もあるのだ。

 

 話が逸れたが、都市伝説の解釈は多岐にわたり、その混沌が醍醐味であると渉は考えている。

 マイナー趣味であることは重々承知で、現代に生きる多くの人が一笑に付したところで気にする渉ではないが、重度の愛書家(ビブロフィリア)である椎名ひよりには『解釈が分かれる』というところに共感できる部分があったようで、渉の趣味に付き合うことがあった。

 その時に見せた彼女の観察眼と洞察力には、渉をして感心することがあったのだ。

 

「ふーん……ねえ、彼女大丈夫かな?」

「大丈夫、とは?」

「ほら、Cクラスって悪い噂も多いからさ。今回の妨害も龍園くんの指示だっていうし」

 

 どうやら一之瀬は椎名のことを心配しているようだ。

 確かに物静かで、強い主張をしない穏やかな雰囲気の彼女は、暴力と恐怖が支配する龍園のCクラスにはミスマッチだ。

 実際にその渦中に飛び込んだ渉には、その事実を否定することはできない。

 

「クラス移動の権利を使うつもりですか?」

「……無理かな?」

「2,000万プライベートポイントは、個人で貯めるのは難しいと言わざるを得ませんね」

 

 その権利を行使しようとしたかは定かではないが、過去にBクラスの生徒が1,200万ものポイントを貯蓄したことがある、と星之宮からクラス移動の権利について聞いたときに例を挙げられた。

 その生徒は知識の薄い下級生に詐欺をはたらくことでポイントをかき集めていたが、学校側にその行為が発覚した結果、卒業目前にも拘らず退学処分になったそうだ。

 

 個人で2,000万を貯めるのは現実的ではない、だが集団でなら?

 

「クラスメイト全員を説得して1人50万ポイントを出してもらえば、椎名さんをBクラスに移籍させることは現実的に可能でしょう」

「Bクラスのクラスポイントは900だから、1ヶ月の支給は9万。50万貯めるのに半年、か」

「その間、彼らに極貧生活を強いなければなりません。そして、今のクラスに馴染めないのは何も椎名さんだけではないでしょう。その人を見つけるたびに、50万貯めさせますか?」

 

 一度上がった生活レベルを下げて、その上で保ち続けるのは人間の精神構造上難しい。

 それでも、1人のクラス移籍は可能か不可能かで言えば、可能だ。

 

 だがクラス移動は何をどうやっても悪目立ちするだろう。

 静かに過ごしたい椎名にとって、辛い展開になることは想像に難くない。

 

 それに前例を作ってしまえば、所属クラスを裏切ってまで売り込みに来る生徒が確実に出るのは間違いない。

 優秀な生徒にとってはそうでもないが、下位クラスの生徒にとってAクラスの進路保証はそれほど魅力的に映るだろうから。

 そうでなくともひと月毎の支給ポイント目当ての俗物な生徒が、本心を隠して善意に付け込んでくるかもしれない。

 

「一之瀬さん、確かに貴女の慈悲は人を救うかもしれませんが、救われた者やその周囲がそれを納得して受け入れるとは限りません。貴女が背負い続けて潰れてしまうのは、私も見たくありませんから」

 

 人の善意に付け込んで、悪意を持って謀を企む者は後を絶たない。

 一之瀬が善意を貫くのなら、『自分さえ良ければいい』という自分勝手な輩から自分自身を守る術を身に着けて欲しい、と渉は願った。

 

「……善意って難しいね。意識して考えると、頭がこんがらがりそう」

「一之瀬さんなら意識せずとも自然体で十分だと思いますよ。そこまでやれるのは一種の才能です」

「にゃはは、大げさだなあ」

 

 一之瀬は顔を逸らしてはぐらかしたものの、耳が赤くなっていた。

 それを指摘することなく渉は彼女と寮への帰路を共にしていたが、ふと彼の端末からチャットの通知音が鳴る。

 内容を確認した渉は思わず漏れてしまった笑いと共に画面を一之瀬に見せるのだった。

 

「――少なくとも、彼女は貴女に感謝しているようですよ」

 

 

『今日はありがとうございました。クラスの垣根を越えて仲良くできるという考えが私の独りよがりでなく安心しました。一之瀬さんや廻屋くんに心配かけぬよう、クラスで自分の居場所を見つけられるよう頑張ろうと思います。

       P.S.一之瀬さんに好きな本のジャンルを聞いておいてください』

 

 

 

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