16話 雫を探して
「神崎さん、この画像を見てください。どう思いますか?」
6月半ばのある日の放課後、廻屋渉からタブレットを渡された神崎隆二は思わず眩暈を覚えた。
そこに写っていたのは溌溂としたポーズを取っているスタイル抜群の美少女――いわゆる雑誌やブログに掲載されるようなグラビアアイドル。
およそ神崎自身には縁がなく、廻屋もそれは同様だろう、と神崎は勝手に思っていた。
……つまり、いつもの奇行かと頭を抱えるのも無理からぬことだった。
「どう思うって、俺に聞くことか? 柴田とか、そのあたりに聞けばいいだろう」
「呼んだか?」
例えとして出した柴田颯本人が顔を出し、2人が見ているタブレットに視線を落とす。
神崎がまずいと思ったのも束の間、好奇の声が上がった。
「え、なにこれ。どっかで見た……あ、『雫』じゃん!」
「雫?」
「神崎知らねえの? これ『雫』っていう俺たちと同年代のグラビアアイドルだよ」
「俺が知るわけないだろう。これは廻屋から渡されたものだ」
「じゃあ廻屋か。なんだよ、こういうの興味あるなら言ってくれればいいのに!」
バシバシと背中を叩く柴田に痛そうな顔をしている渉を横目に、神崎はもう一度タブレットに目を落とす。
どうやらこのグラビアアイドル『雫』は年頃の男子にとって有名人らしい。
異性や色恋への興味が薄い神崎は自分が知らなかったのに納得したが、問題はなぜ廻屋渉がこの画像を見せてきたのかということ。
まさか普段仙人じみた振る舞いをしておきながら、突然年頃の男子らしいリビドーに目覚めたというわけでもないだろうに、と半ば呆れていると……どうやら騒ぎが付近にも波及したようで。
「ねえ、何の話をしてるの?」
画面の少女にも勝るとも劣らない、魅力的で屈託のない笑みを湛えた一之瀬帆波が話に入り、神崎が手にしているタブレットに目を落とすと、目を泳がせる。
クラスのリーダーにして女性である一之瀬に、グラビアで騒いでいるところを見られた――当人である柴田はもちろん、色恋に興味が薄い神崎も居心地が悪く、沈黙するのも無理からぬことだった。
「あ、あはは、男の子だもんね。ごめんね神崎くん、邪魔して」
「……待て一之瀬、これは俺のじゃない。廻屋から渡されたんだ」
「え……」
曖昧な表情ながらも取り繕い、退散しようとした一之瀬だったが、神崎の弁明じみた言葉に今度こそ表情が硬直する。
タブレットに映った輝かんばかりの笑みを浮かべた少女と、廻屋渉――両者へと視線を泳がせた一之瀬の思考は混乱に満ちていた。
「……えっと。廻屋くんって、こういう女の子が好きなのかな」
件の『雫』はグラビアアイドルとして周知されているが、タブレットの雫は一般的なグラビア雑誌のように水着姿というわけではない。
白いTシャツにフリル付きのミニスカートという一般的な装いだが、その明るい表情から放たれる輝かしい魅力は彼女が一般人とは違うのだ、と明確に思わせるものがあった。
とはいえ、赤みがかった髪に他とは一線を画す顔立ち、そして抜群のスタイル――『雫』と一之瀬帆波の共通点は多く、周囲の空気は何とも微妙なものに変わりつつあった。
「? いえ、そういうわけではありませんが」
「え……」
「ふむ、一之瀬さんの方が分かるかもしれませんね。これを見て、どう思いますか?」
「えぇ……」
どうにも要領を得ないやり取りに、一之瀬の思考が再び混乱する。
この雫が好みかと聞けば否定され、あまつさえ自分自身に質問が降りかかる。
自分は別に女の子が好きというわけではないんだけどなと思いつつも渉の方に向けば、その表情は真剣そのものだった。
仕方なくタブレットを受け取って画像を観察してみても、見れば見るほど『雫』というグラビアアイドルが美少女であること、同年代でこういう仕事ができるのは素直に尊敬できることだとという感想しか出てこない。
「うーん……廻屋くんが何を知りたいのかが分からないから、なんとも……」
「被写体の少女ではなく、背景の方を見てください。何か違和感、既視感はありませんか?」
「背景……?」
グラビアアイドルの写真を見て女の子ではなく背景を見ろとはどういうことだと困惑しつつも、再び画像を見る一之瀬。
すると、確かに微かな既視感を覚え、驚愕に目を見開いた。
「――これ、寮の部屋……?」
カーテン、壁紙、エアコン、その他棚などの小物の数々が、その写真が高育の学生寮の一室で撮られたものだと物語っていた。
それが意味するところは、もはや語るまでもないだろう。
「『雫』ってうちの生徒なのか!?」
柴田の驚愕を皮切りに、興奮混じりのざわめきが教室に波及する。
雑誌の中の存在としか思っていなかったグラビアアイドルが身近にいるかもしれないとなれば、無理もないだろう。
「ちょっと待て、流石に特定は良くないんじゃないか?」
「そうだよみんな! 本当かどうかも分からないし、芸能人の正体を探るなんて駄目だよ!」
神崎と一之瀬の呼び掛けに冷静になって思い直す1年Bクラス一同。
リーダーの気質が影響してか、善性の者が大半を占めているのは、このクラスの美点だった。
一之瀬の号令で各々が放課後の余暇に移ったのを確認した彼女は、声を潜めて渉に向き直る。
「それで、どういうことなの廻屋くん。流石に君が考えなしにアイドルの特定騒ぎを誘導したとは思わないけど」
一之瀬にしては本当に珍しく、どこか刺を感じさせる物言いだった。
女生徒のプライバシーに踏み込みかねない問題のため、無理もないだろう。
「もちろんです。順を追って説明しますが……急を要する事態になりかねない状態である、ということは念頭に置いてください」
頷いた渉の表情はどこか固く、アイドルの正体という浮わついた話題とは程遠い雰囲気に一之瀬と神崎は思わず顔を見合わせるのだった。
= = =
その週の土曜日になり、渉と一之瀬は喫茶店――入学して間もなく、神崎も交えて話をしたあの店だ――にいた。
傍から見ればデートのようにも見えるが、2人の間にはそのような浮ついた雰囲気はない。
目的はグラビアアイドル『雫』の正体を探るため、というゴシップ記者めいたものだったが、それには理由がある。
きっかけは、渉のSNSのタイムラインに件の『雫』の画像が流れてきたことだ。
普段なら不要な情報として流すところだったが、画像の背景が学生寮の自室だと気づき、興味本位で掲載元のブログにアクセスしてみれば、ほぼ毎日の投稿や書かれた全てのコメントへの丁寧な返信が見られ、グラビアアイドルとして熱心に活動している痕跡が見て取れた。
だが、ここ2ヶ月――つまり、渉たち1年生が高育に入学してからは投稿がまばらになり、コメントの返信もなくなっていたのだ。
先の背景と合わせて考えれば『雫』が自分たちと同じ高育の1年生であることは想像に容易い。*1
だが、それだけなら正体を探る意味や必要性は興味本位以外にはない。
渉としても個人的な趣味や活動に口を挟むこともなく、むしろ陰ながら応援するつもりだったのだが。
「本当にストーカーなんて居るのかな?」
問題は今年の4月の投稿に付けられた『運命って信じる?』というコメントと、それ以降の全ての投稿に残された悍ましいコメントの数々。
同一犯によるものではない可能性はあるが、時間や場所を示唆するコメントの数々はなりすましや模倣犯という可能性を考慮してなお、一之瀬の嫌悪感を煽った。
「居なければ居ないでいいんですよ。外部に助けを呼びにくいこの状況では、早期解決に越したことはありませんから」
「それもそうだね。でも私たちだけで解決できるかな?」
「ああは言いましたが、現時点では被害が実在しているかも不透明な段階です。実際に被害があったとしても、被害者が訴えなくては大人も動けないでしょう」
「問題は『雫』が誰なのか、私たちにも分かってないことだよね」
実際のところ、手がかりがブログに掲載された『雫』の自撮り写真のみとあっては、ウィッグやメイクでいくらでも誤魔化しが効く以上、外見だけでは判別が難しいかもしれない。
芸名で活動している以上、身バレ防止のための変装もしているだろう。
……実際のところ、ITに強い渉のハッキングをもってすれば『雫』の正体を知ることはできる。
自室の備え付きデスクトップPCはもちろん、購入したタブレットPCだろうとネット回線は学園のものを使うことになるため、発覚のリスクを思えば本当に最後の手段だが。
とはいえ、彼女が高育の1年生である可能性は非常に高いため、情報通の生徒を頼ろうということになったのだ。
「お待たせ! ごめんね、迷っちゃって」
いくつかのメッセージをやり取りしてから店内に現れた彼女は
明るい表情を印象付けさせる、美少女と評して差し支えない1年Dクラスの中心人物だ。
交友のきっかけは渉たちが提供した中間試験の過去問であり、その礼を言うために試験が終わってから平田と共にDクラスを代表してBクラスに来たことだ。
その際に櫛田はクラスを隔てない社交性を遺憾なく発揮して、2人とも連絡先を交換したのだ。
「櫛田さん、久しぶり! ごめんね呼び出しちゃって」
「気にしないで一之瀬さん。過去問の件もあるし、2人なら大歓迎だよ! それで、相談って?」
「それは私から。あらためて、ご足労頂きありがとうございます、櫛田さん。今日は奢りますよ」
着席を促してメニューのタブレットを渡しつつ礼を言う渉に、櫛田は笑みを深めた。
「ううん、こちらこそお招きありがとう、廻屋くん。会うのは3回目だけど、しっかり話すのは初めてだよね」
「図書室と教室では顔合わせみたいなものでしたからね」
「よく覚えてるね。うん、だから今日はちょっと楽しみにしてたんだ。それにしても、静かでいいお店だね。廻屋くんが見つけたんだよね? 良いセンスしてるなぁ」
「ここは立地上、目立ちにくい場所に立っていますから。……内緒話にも最適というわけです」
内緒話という言葉に背筋を伸ばす櫛田。
心なしか目の輝きが深くなっている。
「もちろん、私にきることなら喜んで協力するよ。でもチャットでもできない相談って?」
「少々複雑かつセンシティブにもなりかねない問題でして、情報を耳に入れる人間をできるだけ制限したかったのです。人を探しているのですが、そのために学年で随一の社交性を持っている櫛田さんの力を借りたかったのですよ」
学年で随一――その言葉を耳にした櫛田の目に強く、しかしどこか粘着質な光が灯る。
クラスは違うけど皆と仲良くなりたい――Bクラスに来た櫛田はそう言ってみせ、実際に見せた社交的な一面は初対面の人間にも物怖じしない、一種の才能を感じさせるものだった。
少なくとも誰にでも真似できるものではないものだったが、その一面だけでその人間の全てが見えるはずもない。
強い社交性が彼女の全ての本音であるとは渉も思っていなかったが、腹に一物抱えているのは確かなようだった。
「――ふふっ。私なんてそんな大したものじゃないよ。でも、学年で一番って言ってもいいぐらい優秀な廻屋くんが相談したい事って何?」
「……まずはこれを見てください」
最初にSNSに流れてきた『雫』の写真を見せ、それから渉は事情を説明していく。
背景が寮の自室だと気づいたこと、個人ブログの更新具合から『雫』の正体が高育の1年生である可能性が高いこと、そしてブログに寄せられたコメントから高育の敷地内にストーカーがいる可能性があること。
説明が進むにつれて櫛田の表情は喜悦から真剣なものに変わっていく。
個人ブログやコメントの話題が出た瞬間に櫛田の表情が強張った気がしたが、渉は気に留める程度に留めておく。
「……うん、話は分かったよ。ストーカーがもし本当にいるなら他人事じゃないし、協力する。それで、何が聞きたいの?」
「ありがとうございます、櫛田さん。貴女の社交性を見込んで聞きたい事とは、『雫』の正体の心当たりです。先も言ったように、彼女は我々と同じ高育の1年生である可能性が高い。もちろんネットで活動している以上、変装している可能性もありますが……どうです? 心当たりはありますか?」
件の『雫』の正体がBクラスのクラスメイトなら、話は早かった。
変装しているとはいえ、毎日接している一之瀬や渉が違和感を見逃すはずがないからだ。
櫛田の交友関係はDクラスのみに留まらず、他のクラスにも及んでいる。
そのため、第一のとっかかりとして彼女に助力を頼んだのだ。
もし櫛田にも心当たりがないならAクラスの坂柳有栖やCクラスの椎名ひよりにも話してみるつもりだったが、前者は無用な貸し借りへの忌避、後者は観察力に優れているが他人への興味が薄く人探しには向いていない、とできるならば避けたかった。
渉のその願いが通じたかは定かではないが、タブレットの画像を凝視していた櫛田が挙げた声に渉は意識を向けた。
「……あっ、もしかして」
「櫛田さん、心当たりあるの?」
「うーん……個人情報だから本当はいけないと思うんだけど、事情が事情だから。もしかしたらがあったらいけないし、言うね」
遠慮がちに断ったが、櫛田の目には好奇の光が宿っているのを渉は見逃さなかった。
同年代のグラビアアイドルの正体に思い当たったと考えれば年頃の少女の反応としては自然だが、先の粘着質な喜びやブログのコメントに言及した際の表情を思えば気には掛かる。
櫛田桔梗、頂点への執着に秘密への好奇心、過去の経験か?
渉が脳内メモにそう刻みつつ櫛田が語る情報に耳を傾けると、どうやらDクラスの佐倉愛理という女生徒かもしれないと櫛田が言った。
「クラスメイトでも声も聞いたことない人がいるんじゃないかってぐらい消極的な子でね。明るい『雫』のイメージとはちょっと合わないんだけど、外見が似てる気がするの」
「佐倉愛理さんですか……一之瀬さん、知っていますか?」
「ううん。櫛田さん、写真とかある?」
「うーん、ごめんね。遊びに誘ったことはあるんだけど、断られちゃって」
櫛田でも写真を持っていないとなると、その佐倉という少女の交友関係は0に等しいのだろう。
プライベートポイントを使って寮の自室を調べ、郵便物からストーカーの有無を調べるという手もあるが、明確にプライベートに踏み込むことになり、ストーカー被害疑惑の少女に向ける手段としては最悪に近い。
一之瀬や櫛田の顰蹙を買うことになるのが容易に想像できる上、そもそも倫理的にまずいため実行するにしても最後の手段とするべきだろう。
「候補を絞り込めただけでもお手柄ですよ。それに、翌週の月曜にDクラスに行ってみれば済む話です」
「そうだよ! ありがとう、櫛田さん!」
「どういたしまして。こんなことでよければいつでも協力するよ!」
ニコニコと笑う櫛田の表情は、前評判や実際に見せたように彼女の社交性や善性を感じさせるものだった。
……しかし、渉にはどうにもそれらに対する違和感を拭えない。
そう、まるで演出されたもののような気がしてならないのだ。
善性に関しては天然物の一之瀬帆波という少女と日々接しているからこその直観だと分析したが、取り繕う事が悪いことだとは渉は思わなかった。
表面と本音の剥離など珍しい事ではないし、露悪的に振舞うならまだしも、本音がどうあろうと外面を整えて人と接することは社会において必要なスキルだからだ。
むろん、世の中には善意を装った詐欺などもある以上、諸手を挙げて肯定とはいかないが。
『雫』に関する話が一段落ついたため、コーヒーや軽食を楽しんだりして談笑していると、櫛田がじっと渉と一之瀬を見たかと思えば真剣な表情で口を開いた。
「ねえ、聞いてもいいかな?」
「私は構いませんよ」
渉の言葉に続くように、丁度パンケーキを口に入れた一之瀬も頷いたのだが……。
「一之瀬さんと廻屋くんって、付き合ってるの?」
「っ!? ゴホッゴホッ!」
櫛田の質問に激しくせき込むことになった。
惨状を演出しなかったのは乙女の矜持故と評するほかないだろう。
慌ててお冷を手に取ろうとした一之瀬だったが、間が悪くコップは空。
そのため隣に座っていた渉が自分のお冷を渡した。
「どうぞ、一之瀬さん」
「あ、ありがとう……」
一之瀬はコップを渡されるや否や一気に水を呷ったが、それを見逃す櫛田ではない。
「……間接キス」
「――え? ……あっ」
櫛田の言葉の意味するところを察した一之瀬は真っ赤になって俯き、コップと渉の唇へと視線を行き来させる。
創作ではもはや使い古された定番の一幕ともいえる展開だが、一之瀬ほどの美少女が、となると櫛田の琴線に触れたようだった。
「……可愛いなあ、一之瀬さん」
「もう、櫛田さんっ!」
「あはは、ごめんごめん。でも、2人が付き合っているのか気になってるのは本当のことだよ。廻屋くんってミステリアスだし、何かと話題になってるから。うちのクラスにも気になってるって子が何人かいるよ」
「――そうなの? あ、そういえば前にもAクラスの神室さんに呼び出されてたっけ。Cクラスの椎名さんとも仲が良いし」
「へー、廻屋くんモテモテだね」
神室は坂柳の遣いでしかなく、神室本人とは話したことすらないのだが、それを言ったところで今度は坂柳の方に話題が移るだけだ。
その坂柳とは昔馴染みで何かと競い合ってきた仲だが……この分では、むしろ燃料を注ぐ結果にしかならないだろう。
椎名に関しては話が合う友人以上でも以下でもなく、こちらも櫛田が期待して一之瀬が邪推するような関係ではない。
というか、椎名に関しては一之瀬の方も知っているだろうに。
恋愛絡みとなると女性が色めき立つのは、それこそ源氏物語のころから現在まで不変の事なのだろう。
半ば諦めの境地に達しつつも、どうしたものかと頭を悩ませる渉だった。
= = =
人は誰しも演じるものだ。
理想の自分、未来、過去、現在――それらと実際の自分の差異を埋めるために。
そうした剥離が大きい人間ほど、追い詰められた時に剝き出しになる本性は醜悪なものになる。
聞くに堪えない秘密を抱えきれなくなり、八方美人を演じていた自分にそれを相談してきたかつてのクラスメイト達。
演じるストレスに耐えかねてブログに秘密と悪態を暴露して誹謗中傷したかつての櫛田桔梗。
容姿やスタイルに磨きをかけ、善行を積むことでみんなが頼りにして認められる人気者になる――そう振舞うことで、櫛田は他人の秘密という思わぬ副産物を手に入れることがあった。
文字通り蜜のように甘露なそれは櫛田にとって麻薬のようで、人の秘密を得ることはその人から信頼されること、ひいては認められることと同義と考えた彼女は秘密を握ることに躍起になっていった。
だが櫛田桔梗本来の性格は利己的で、周囲を見下す傲慢そのもの。
やりたくもない善行や劣った存在へふりまく愛想、男子からの隠しきれない下心は櫛田の精神にストレスを蓄積させ、その結果が秘密の暴露による阿鼻叫喚とクラスの崩壊だった。
そして後悔して誰も自分を知らないはず高育に来たくせに、同じことを繰り返している。
きっと生まれたときからこういう性質なのだ、と櫛田は開き直ってすらいた。
まさかの同じ中学出身――自分の本性と所業と知っているかもしれない堀北鈴音と同じクラスになったことと、綾小路清隆に堀北への悪態をついているところを見られたのは、櫛田の誤算というほかないが、因果でもある。
その堀北が中間試験の過去問を手に入れてクラスメイトから感謝されたこと、その感謝を堀北は受け取らず無碍にしたことで、櫛田の精神は二重にも三重にも荒れていた。
そのきっかけである1年Bクラスの2人――廻屋渉と一之瀬帆波にも、櫛田の悪態は向けられる。
「根暗なマイナー趣味のオタクが」
廻屋の方はまだいい。
彼は自分が培ってきた能力を認め、頼りにしてきた。
自分よりも頭のいい存在が自分に感謝して頭を下げる様は、溜飲を下すのに十分だった。
頼みごとの『雫』の正体というのも魅力的だったが、グラビアアイドルの正体など悪用すれば訴えられ、所属事務所から追いつめられるのが関の山だ。
それに、現状の可能性に過ぎないとはいえ佐倉愛理が今置かれているかもしれない状況は、櫛田桔梗をして同情を禁じえないものだったため、これを利用することはないだろう。
できれば廻屋自身の秘密を握ってマウントを取りたいところだが、BクラスをAクラスに迫るところまでもっていったのは間違いなく彼の力だ、踏み込めば本性を握られるのはこちらだろう。
だが、一之瀬帆波の方は駄目だった。
「八方美人のいい子ちゃんのクソ女が」
みんなに親切な善人を演じている自分だからこそ、今日直接話してみて分かったことがある――一之瀬帆波は天然物の善人だ、と。
自分がストレスを貯め込んでまで噛り付いている場所に労せず立っている様は、櫛田の神経を逆撫でするのに十分過ぎた。
自然な振る舞いでクラスの人気者というポジションに納まるのは、櫛田にとって地雷もいいところであり、一之瀬帆波の名前は櫛田のブラックリストの堀北・綾小路に次ぐ3番目に載ることになった。
なんとしても貶めたいが、他クラスのリーダーでもある一之瀬には味方が多く、簡単にはいかないだろう。
だが、一之瀬と廻屋に関する噂や高校生にもなりながら間接キス程度で真っ赤になる初心な反応を思えば……。
「――例えば、廻屋くんを奪ってやればどんな顔するかな?」
いくら話題の天才とはいえ自分の身は安いものではなく、本気で付き合うわけではない。
適当にその気にさせて、適当に弄んで、適当にポイ――実現すれば、特等席で一之瀬の表情が歪むのを堪能できるだろう。
その過程で廻屋の秘密を得られるかもしれないと思えば、やる価値はあるように思えた。
「ふふ、今日のことは貸し1つにしてあげるよ、廻屋くん」
具体案があるわけではないがその未来を思い、寮への帰路で口角をあげる櫛田だった。
一之瀬さんと櫛田さんって絶対相性悪いですよね。
とはいえ、なんか勝手に筆が乗ってしまった。