翌週の月曜日、その休み時間。
件の少女――佐倉愛里の席を櫛田からチャットで教えてもらった渉は通りすがりを装って1年Dクラスの教室を覗き見た。
その席には赤みがかったオレンジの長髪を2つに結っており、赤縁眼鏡の少女が座っていた。
顔立ちは確かに素晴らしく整っており、スタイルも一之瀬と遜色ないプロポーションを誇っているのだが、うつむきがちな暗い表情が自己表現を拒否しているようにも思える。
背中を丸めて目立たないように、他のクラスに輪をかけて騒がしいDクラスにおいて目立たず埋もれるようにしているかのような姿勢は、およそ画像やブログから想起されるグラビア活動に熱心な『雫』の印象からは遠い。
しかし、渉の類まれな頭脳は彼女の外見の特徴から確信を得ていた。
――佐倉愛里が『雫』で間違いない、と。
さて、問題はどう佐倉愛里と接触するかだが……。
「ベタな手ですが、連絡先も寮の自室も知らない以上、学生らしくいきますか」
『佐倉愛里』のネームプレートが入った校舎の下駄箱に便箋を投函。
クラスと名前が判明している以上、彼女の靴箱を探し当てるのは難しい作業ではなかった。
ラブレターにしろ果たし状にしろ、古今東西あらゆる創作で使い古された手法だが、王道は王道であるがゆえにある程度の効果は担保されているものだ。
「さて、問題は来てくれるかどうかですね」
自身の教室へ足早に戻りながら、渉は放課後を心待ちにするのだった。
『拝啓 佐倉愛里さん
突然のお手紙に混乱されたかもしれませんが、どうかご容赦願います。
先日貴女の容貌を拝見してから、居ても立っても居られない日々を過ごすばかりです。
つきましては、直接会って話をする機会を頂けないでしょうか。
もしも叶うなら本日の放課後、17時まで特別棟3階奥の空き教室でお待ちしています。
1年Bクラス廻屋渉より
敬具』
= = =
「「ラブレターだろ/でしょ、それ」」
放課後、特別棟にて神崎隆二と一之瀬帆波の指摘が渉に突き刺さる。
『雫』のストーカー疑惑について共有している2人でもあり、待ち時間に手持ちぶさたになったところに手紙の内容を聞かれて話したのだが、2人の指摘はごもっともという他なかった。
「言い回しは固いが、それも味と考えれば十分ラブレターの範疇だろう」
「神崎くんの分析はともかく、なんでそんな風に書いたの?」
呆れや心配交じりの感想を口にする2人だが、渉とてなにも朴念仁でもなければ天然で手紙を書いたわけではない。
「ある程度狙って書いたのは確かです。疑惑とはいえストーカー被害を受けている女性に『秘密を知っているから1人で来い』なんて脅迫したらパニックを起こしかねませんから」
もっとも、佐倉愛里はかなり内向的な人物のようだからそうなる可能性は低いだろうが、万一ということもある。
「それに『雫』の正体を知る者は少ない方がいいですからね。友達のいない彼女はラブレターをもらったとしても、相談できるような人はいないでしょうから」
「なるほど。配慮の結果ということは分かったが……時々お前に人の心があるのか心配になるな」
「人の心は観察対象ですよ。そこから噂が生まれ、都市伝説が生まれますから」
「あはは……でも、私は廻屋くんのこと、優しい人だと思うな。そうじゃなきゃ、ストーカー被害があるかも、って知っても此処までしないでしょ?」
一之瀬の慈愛と尊敬に満ちた視線に渉は肩を竦めるしかなかった。
タイムラインに流れてきた1枚の画像から始まったこの調査は、決して義務感や正義感といった綺麗な理由から始めたわけではないのだから。
否応なく渉の脳裏に過去の情景がよぎる。
怨恨による殺人とされながらも、上野天誅事件はいつしかまともに捜査されなくなった。
ネットやSNSでは『如月努が犯人である』と噂され、毎日のように兄に対する激しいバッシングが行われた。
警察にアリバイがあると訴えても封殺され、結果追いつめられた兄は自殺した。
それに対して世間では鬼の首を取ったような騒ぎに無責任な責任転嫁が相次ぎ――被害者や兄の名誉はついぞ回復されず、真実は置き去りにされてしまった。
なぜ警察が事件を捜査しなくなったのか。
事件を経て警察上層部の1人が警備局局長に降格しており、努のノートから事件の真犯人を知っている渉がその人物と犯人の関連性を照らし合わせれば、その理由は火を見るより明らかだった。
なんのことはない。
「――見て見ぬ振りをして、無かったことにするのが我慢ならなかっただけですよ、私は」
『なかったことにする』ことは渉にとってトラウマそのものであり、無視できるものではない。
今回のこともその代償行為でしかなく、決して善意からのものではない――少なくとも、渉の自認ではそうだった。
「一之瀬さんがそこに優しさを見出すのは勝手ですが、それは結果的にそうなっただけです」
「おいおい、そこまで頑なに否定しなくてもいいだろう。事態を解決できる力をもっているなら、それを振るうのは称賛されるべきだ」
「まだ被害が実在するかどうかも明らかではありませんがね」
「――そうかな」
一之瀬の静かな声は、渉と神崎の議論に対して挟まれたものではなかった。
彼女はじっと渉を見つめると、口を開いた。
「君は優しい人だよ、廻屋くん。少なくとも、そう信じるのは私の自由でしょ?」
自信に満ちたその表情と言葉を否定する気にはならず、渉は椅子に座って待ち人の到着を待つことにしたのだった。
= = =
手紙を手にした佐倉愛里が特別棟の教室に現れたのは16時30分を過ぎたころの事であり、渉以外の2人が『もう彼女は来ないのかもしれない』と不安に思い始めた矢先のことだった。
「あ、あの……え?」
遠慮がちに扉を開いて入室した佐倉愛里の瞳が困惑に見開かれた。
ラブレターめいた手紙に驚き、しかし相談できる人間もいないため迷いに迷い、やっとのことで勇気を出して赴いた先にいたのは送り主だけではなく男女混合の3人の生徒。
悪戯か、なにかの罰ゲームか……そんな佐倉の後ろ向きな思考を打ち消したのは待っていた3人のうちの紅一点、一之瀬帆波だった。
「良かったー! 来てくれてありがとう、貴女が佐倉愛里さん、だよね?」
「え……は、はい。そうですけど……」
太陽のように明るい笑顔を浮かべて近づき手を取った一之瀬に目を白黒させた佐倉は、彼女と手紙の主である廻屋渉――交友関係がゼロに等しい彼女でもその名前と容姿は知っていた――の方に忙しなく視線を行き来させた。
学年一といっても過言ではないほどの有名人が自分に手紙を送るというのは想像の埒外もいいところであり、
寮のポストに大量に届くそれらとは違い、下駄箱に忍ばせるという古典的な手法も手伝って会いに行くことを決心したのだが、この状況には無自覚な浮かれ気分がなくとも理解が追い付かなかっただろう。
「まずは自己紹介を。私が手紙の送り主であるBクラスの廻屋渉です。今日は来てくれてありがとうございます、佐倉愛里さん」
「あっ、ごめんね。私は一之瀬帆波、1年Bクラスだよ」
「同じく、神崎隆二だ」
「えっと……Dクラスの佐倉愛里です。えっと、この手紙は……」
空き教室の椅子に座り、3人と対面する佐倉はまるで状況を飲み込めていなかった。
手紙の内容は一目惚れを示唆してはいたが渉ほどの人物が自分を見初めるとは思えず、またこの状況はどう考えても告白のそれではない。
混乱の極致にいた思考を落ち着かせるように、中心の少年――廻屋渉がゆるやかに言葉を紡ぐ。
「先も言いましたが私が送り主です。貴女を呼び出したのは、確かめたいことがあったからです」
「そ、そうですか……」
やはり告白ではなかった――それが分かった時、佐倉の心中は落胆より安心の方が多かった。
人付き合いがお世辞にも得意ではない佐倉にとって、学年一優秀とも噂される渉との交際はあまり歓迎したい事態ではなかったからだ。
しかし、そんな彼が確かめたい事があるという。
皆目見当もつかなかった佐倉に掛けられた渉の言葉は、彼女を凍り付かせるのに十分だった。
「まずは佐倉愛里さん。貴女はグラビアアイドル『雫』ですね?」
「え……な、なんで……っ」
「その反応だけでも図星の指摘には十分ですが、説明はしましょう」
佐倉にしてみれば思いもしない指摘だっただろうが、渉にしてみれば『雫』の正体は前提条件。
顔色を青くして狼狽える彼女に内心申し訳ないと思いつつも、説明を続けることにした。
まずは最近ブログに掲載されている写真の背景が学生寮の自室であること。
熱心な活動が見られたブログのコメント返信が今年の4月から途絶えていること。
この2点から『雫』が今年入学した1年生であると推測し、情報通の櫛田から『雫』の外見的特徴に最も近い生徒として佐倉愛里が上げられたこと。
推理の披露が進むにつれて、佐倉の顔色は青を通り越して白くなりつつあり、最後の方は何処か諦めたような表情になっていた。
ネット上での自撮り写真掲載は、身バレのリスクと隣り合わせだ。
雑誌に出演したこともある彼女だがまだ学生、リスクヘッジが少々甘いのは仕方がないのかもしれない。
しかし、外界から隔絶された高育に入学してなお継続された活動は、グラビアアイドルとしての活動が佐倉愛里にとって大事なものであることの証明に他ならない。
個人的な活動へのこだわりは渉にもあるため、彼女の活動を止めるつもりはなかった。
「……そうです。私が『雫』、です」
「へえ、本当に芸能人なんだ! すごいなぁ」
「いえ、その……私なんて、まだまだです。あの、このことはどうか……」
「分かっています。現在貴女が『雫』であるということを知っているのは私たち3人とDクラスの櫛田さんだけです。櫛田さんについてはこの場では何とも言い難いですが、この3人は貴女の秘密を口外したりしませんよ。一之瀬さん、神崎さん、事後承諾ですがいいですね?」
「うん、もちろんだよ」
「ああ、俺も了解した」
一之瀬と神崎を同席させたのは本人の前で秘密の口止めを約束させるためでもあった。
神崎については本人から『今後のために廻屋の手腕を見て学びたい』という理由を聞かされていたため、利害の一致とも言えるだろう。
ともかく、この3人だけでも秘密を守ることを明言されて漸く佐倉の表情が少し和らいだ。
しかし渉にはまだ不安の色が強く見え、交渉はここからが本番だと気を引き締めた。
「佐倉さん、個人的な事を聞いてもよろしいですか?」
「は、はい……」
「ブログに掲載された写真をいくつか見ましたが、どれも活動の熱心さが伺える素晴らしいものでした。私にも個人的な趣味があり、将来はそれに関連する仕事をしたいと思っていますので、実際に活動している佐倉さんには尊敬の念を禁じえません。これからも応援していますよ」
「あ、ありがとうございます」
「しかしこう言ってはなんですが、実際の貴女と『雫』には正反対の印象を受けます。――佐倉さん、貴女は現状に不安や不満を抱えているのではないですか?」
「っ、どうしてそれを」
この学校に限ったことではないが、高校生の身分で現状に不安や不満を抱えていないものはよほどの自信家か、何も考えていない・想像力が欠如しているかのどれかだ。
大抵の者が当てはまるような問いをもっともらしく語り、それに対する反応から情報を得る――コールドリーディングと呼ばれる手法の一種だが、それに対する佐倉の反応は如実なものだった。
恐らく対人経験の乏しさからくるものだったのだろうが、渉からすれば
「先も言いましたが、私は貴女を尊敬しています。それは自身の活動を世間に出し、一定の評価を得ているからだけではありません。今の貴女と正反対の『雫』――その存在は、自分を変えたいという意思の表れであり、貴女のなりたい姿なのではないですか?」
「ぅ、それは……」
「自分を変えたいというのは多くの人間が持ち得る望みです、何も恥ずかしい事ではありません。しかし実際に行動に移せる人間はほんの一握り、誰にでもできる事ではありません。私が貴女を尊敬しているのは、『雫』だからではない。佐倉愛里さんの勇気ある行動ゆえなのですよ」
「私は、そんなんじゃ……」
言葉では否定しているが、佐倉の意志の揺らいでいるのが渉には手に取るように分かった。
話しているのは紛れもなく本音なのに詐欺師にでもなったような気分の渉だったが、もう一押しなのは間違いないだろう。
「佐倉愛里さん。私たちは貴女の味方です。勇気ある貴女の力になりたいのです。貴女の抱えている不安をどうか教えてはくれませんか?」
誠実に訴えたつもりだが、佐倉は逡巡している。
渉から伸ばせる手は伸ばしたので、あとは彼女次第だろう。
答えを待つ渉は傍らの2人の様子を窺う。
神崎の表情からは、驚愕と畏敬が読み取れた。
渉の手腕、話術を見たいという希望は叶えられたようだが、話術は悪用すれば詐欺となるため気を付けて欲しいと願うほかなかない。
一方、一之瀬の方はといえば……机の上に置かれた手が色を失うほど強く握られている。
どういう反応なのかとも思ったが、渉の弁に何か感じ入るものがあったのは確かなようだった。
「佐倉さん」
「っ、一之瀬さん……」
「私も、貴女の力になりたい。困っているなら、教えてくれないかな……?」
殊更強い意志の込められた一之瀬の瞳と言葉は祈るようですらあり、その言葉を受けて佐倉の腹は決まったようだった。
一之瀬と渉の方を交互に見ながら、佐倉はおずおずと口を開いた。
「……私、ストーカーされているみたいなんです」
最初におかしなブログのコメントが投稿され、次第に自分が行った時間や場所が書かれ始めて監視されているような気分になり、最近では寮の自室に大量の手紙が届くという。
渉にしてみれば半ば予想通りだったが、神崎と一之瀬、特に一之瀬は同じ女性として強い嫌悪感を滲ませていた。
「酷いね……」
「教師や大人には言ったのか?」
「『雫』だとバレるのが嫌で……それに、もし言ったのがバレたらもっと酷い事になる気がして」
「そんなこと……!」
「学校側は入学生のことは事前に調べているでしょうから、『雫』のことは知っているでしょう」
でなければ、入学時に各自の能力に準じたクラス分けなどできるはずもない。
……渉の交友関係のある人物に何人かクラスの序列と能力に矛盾がある人物がいるのだが、今は置いておこう。
ともかく、『雫』のことを学校に知られていると言われた佐倉は動揺したが、それでもなお決めきれないようだった。
「首尾よく学校側と連携してストーカーを捕まえたとしても、『雫』のことが公表されることはないでしょう」
「え……?」
「廻屋、それはどういうことだ? 現役のグラビアアイドルのストーカーなんて公表されるに……そういうことか」
「気づきましたか、神崎さん。佐倉さん、件のストーカーは生徒ですか、それとも大人ですか?」
「えっと、ケヤキモールの電気屋の店員です。デジカメを買ったときに知られたみたいで」
「じゃあなおさらですね。この高度育成高等学校は国が運営しており、敷地内の施設も然りです。施設の職員の醜聞は国の醜聞も同じ、内々で処理してわざわざ公表するわけがありません」
ストーカーが生徒だとしても素行調査を事前にしている以上は同じことだし、犯人が未成年である以上公表の可能性はもっと低いだろう。
日本政府の隠蔽体質を体験して、何なら
「幸か不幸か、手紙という物的証拠を残していて、佐倉さん本人から特定もされている迂闊なストーカーのようですし、大人を動かすのには十分でしょう。もちろん、本人の訴えが前提条件ですけどね」
「この学校の教師は生徒には干渉しないのではなかったか?」
「実際に被害が出て証拠もある以上、否とは言わせません。それに被害が出てからでないと警察が動けないのは外と同じですよ。佐倉さんがそれでも嫌だと言うなら、ストーカーを呼び出して犯行を誘発・撮影するなりして現行犯で捕まえる手もありますが、こちらは佐倉さんにも私たちにも危険が及びますからお勧めできませんね」
渉の理詰めに根負けしたのか、佐倉は教師に報告することを選んだ。
まずは口裏合わせも兼ねてBクラス担任の星之宮に会って事情を説明し、翌日の放課後にDクラス担任の茶柱や事情を共有している櫛田も交えて学校側へ直談判に臨んだ。
被害者たる佐倉愛里本人の訴えと物的証拠であるストーカーからの手紙が決め手となり、学校側は対処を決定。
件のストーカーは職場から永久に姿を消すことになり、彼を雇った責任として学校側は被害者たる佐倉愛里に慰謝料として100万プライベートポイント、協力者として解決に携わった渉、一之瀬、神崎、櫛田には報酬としてそれぞれ5万PPが支払われることとなった。
ストーカー被害の慰謝料の相場は数十万~200万円であり、被害者が受けた精神的苦痛の度合や通院料、引っ越しに掛った額などによってその値は上下することになる。
病院でケアを受けたわけでもない今回の件では100万という値は慰謝料としてはあまりにも巨額であり、佐倉は当然慌て、渉に言われるがまま今回の件に協力しただけの一之瀬、神崎、櫛田も受け取るのを躊躇っていた。
だが、渉にしてみれば醜聞を公表したくない学校側と『雫』の件もあって目立ちたくない佐倉の利害が一致しているのが透けて見え、口止めも兼ねているのが見え見えで内心の失笑を禁じえなかった。
4人は実際にその旨を説明されることでようやく慰謝料を受け取り、あとは大人の仕事だとお開きになったのだった。
= = =
「その、今回のこと、本当にありがとうございました」
「気にしないで、佐倉さん。結局私たちはほとんど何もしなかったし」
事件後、しばらくして今回の件で連絡先を交換した佐倉から誘いを受けて渉と一之瀬は学外の少しお高いカフェに来ていた。
開口一番頭を下げた佐倉に一之瀬は苦笑しながら謙遜しており、その言葉通りの理由から同じく誘いをかけられた神崎はこの場を辞退していた。
「いえ、廻屋くんや一之瀬さんの言葉が無ければ、勇気を出すことなんてできなかったですから」
「その後、近況はどうですか?」
「すっかり元通りです。ブログの変なコメントも手紙もなくなりました」
「それは重畳。よかったですね」
ストーカーは消え、その影響まですっかりなくなって平和が戻ったというのに、佐倉の表情は明るくない。
渉が追求しようとする一之瀬を目で制して佐倉の言葉を待つと、彼女は意を決したように口を開いた。
「は、はい。……それで、あの……質問というか、相談があるんですけど……」
「なになに? まだなにかあるの?」
「いえ、その……こんなこと相談するのもどうかと思うんですけど……ポイントの使い道についてなんです」
聞けば、ストーカー事件の慰謝料として学校からもらった100万PPの使い道に悩んでいるという。
口止め料込みとはいえ一介の女学生には大金もいい所であり、いきなり渡された佐倉が尻込みするのも無理はない話だった。
「あ、あー……確かにいきなり100万円なんて渡されても困っちゃうよね。誰かと一緒に遊ぶとか?」
「えっと、遊びに行く友達なんていなくて……」
「いたとしても止めておいた方が賢明かもしれませんね。Dクラス女子の事情は同じ部活の小野寺さんから聞きかじったものしかありませんが、その範囲でも金づるにされかねません」
現状、1年Dクラスは中心人物である平田洋介と交際している
身体能力向上を目的として部活に属しているだけの渉は水泳という競技そのものに熱心な小野寺とは部活への打ち込み具合というスタンスの違いから特別仲が良いというわけではなく世間話をする程度の仲だが、それでなお愚痴を聞かされるということは軽井沢たちの無心具合は相当なものなのだろう。
彼らがポイントをもらえないのは彼ら自身の行動によってクラスポイントを吐き切ったからで自業自得と言えなくもないのだが、それもきっと今月までの話。
7月からは中間試験を乗り越えた報酬として多少なりともCPが増えてPPがもらえるそうなので、そこまでの辛抱だろう。
「うーん……ごめん、私はお手上げ。今でも割と持て余してるのに、100万の使い道なんてすぐには思い浮かばないよ」
「そうですか……そうですよね。うう、お金が怖いと思う時が来るなんて」
申し訳なさそうな一之瀬の言葉に肩を落とす佐倉。
貯金という手もあるのだろうが、ストーカー被害の慰謝料であるという点を考慮すれば、被害者の佐倉としては手元に置いておくのに忌避感があったとしても不思議ではなかった。
「じゃあ、こういうのはどうですか?」
渉が提案したのはデジカメをはじめとする撮影機材の更新。
本来なら佐倉本人が思い付いていて然るべきことだったが、ケヤキモールの電気屋に近づくという選択肢そのものを無意識に避けていたのだろう。
元凶たるストーカーは既に取り除かれたとはいえ、佐倉が負っていた精神的負担の重大さが伺い知れた一幕だった。
ともかく、善は急げということで方針を決定した一同はカフェを出るとその足でケヤキモールに向かうのだった。
= = =
いくつかの議論を経て納得のいく性能のデジカメを購入した佐倉愛里は寮の自室で試しにと新しいデジカメで撮った写真を眺めていた。
カメラというものは安価なものであれば学生のお小遣いでも買えるが、性能や諸々を突き詰めればとんでもなく高価なものもある。
その中には10万円――4月にもらったポイントを全てつぎ込んでも手が届かない代物もあり、今佐倉の手にある一眼レフもそうした一品の1つだ。
グラビアアイドルとしての活動のクオリティを追求するため、学生証端末のカメラに満足行かなかった佐倉はデジカメについて調べあげ、今では一家言あるようになった。
佐倉は思わず笑みが漏れてしまうほど高揚していたが、それは高価ゆえに入手を断念していた高性能なカメラを手に入れたからだけではない。
「廻屋くん……」
カメラの液晶に写っているのはタイマー機能を試すためと言って撮影者の佐倉を含めた3人で撮った写真。
中心の少年・廻屋渉に触れる。
『雫』を演じているときはポジティブで明るい理想の自分になることができた。
しかし、引っ込み思案で自分を主張できない臆病さは、グラビアアイドルとしての活動を経ても変えることができなかった。
ストーカーからの手紙やエゴサから見える『雫』の姿と本当の自分自身との差異に、知らず知らずのうちに追い詰められていたのだ。
そんなときに出会った廻屋渉は、『雫』ではなく『佐倉愛里』を認め、あまつさえ尊敬していると言った。
嘘偽りなく真っ直ぐに、佐倉愛里本人を見てくれたのだ。
不思議や光を湛えた黄色の瞳を思うと、佐倉の胸中に温かな熱が灯った。
「一之瀬さん……」
渉の隣で朗らかに笑う一之瀬帆波。
美人で、明るく、それでいて飾らず社交的で人気者な彼女は、佐倉からすれば理想であり、憧れそのものだった。
そんな彼女は渉と共に真摯に佐倉を心配して、彼女もまた自分を見てくれた。
自分を見てくれる存在――佐倉が自身の臆病さから諦めていたそれは流れ星のように突然現れ、2人の言葉と願いが今回ストーカーを告発する勇気を奮い立たせてくれたのだ。
カメラのボタンを操作して画像を切り替えると、液晶に一之瀬と渉のツーショットが映った。
これもまた佐倉が2人にカメラを試したいと言って、被写体を快く引き受けてくれた写真だ。
2人とも美男美女であり非常に絵になっているが、佐倉がそう見えたのは高性能なカメラによる写真という理由だけではない。
「……付き合ってるのかな」
渉という初めてできた気になる異性に彼女がいるのではないかという不安はあったが、でもそれが一之瀬だったら熱いな、という物語の中の組み合わせを妄想するような期待もあった。
そのどちらがより大きいのかは佐倉自身にも判別できなかったが、ベッドに寝転んでカメラを抱きしめ、高揚する夢見心地で憧れる2人を想うのだった。
= = =
多くの者が変わりたいと願うが、それを実行できるのは一握りだ――佐倉愛里を説得する渉のその言葉を聞いた時、一之瀬帆波は人知れず身を固くしていた。
かつて自分は過ちを犯し、それを受け入れられずに中学3年の重要な時期にもかかわらず半年もの長期間を自宅に引き籠ってしまった。
だからこそ、担任からこの高度育成高等学校の推薦を打診されたときに、一からやり直そう、今度こそ正しい人間になろうと飛びついたのだ。
渉は一之瀬の過去に何かがあったことを察している節はあるが、詳細は知らないはずだ。
だから渉のその言葉には一之瀬のことを示す意図はなかっただろうが、一之瀬にしてみれば気が気ではなかったし、臆病な自分を変えたい佐倉のことも自分の事のように思えてならなかった。
だからこそ一之瀬は佐倉の力になりたいと願い、それが叶ったときは我が事のように喜んだ。
自分を変える一歩を踏み出す尊さを目の当たりにした一方で、他人を言い訳にしている自分の浅ましさに気付き愕然とした。
何を調子に乗っているのだ一之瀬帆波、佐倉さんが勇気を出したからと言って自分が変わったわけではないだろうに、と。
自然と考えるのは、彼女が勇気を出したきっかけである廻屋渉のこと。
渉は一之瀬に善人であることを望み、一之瀬はそんな渉を理解したいと思っている。
Aクラスの座に興味がないことを明言しながら、渉は一之瀬が望めばクラスのために力を貸してくれている。
一方的に頼っておきながら理解したい、対等になりたいなど、傲慢にもほどがある。
そんなものは渉が望む善人とは程遠い行いだ。
彼を理解したいなら、少しでも彼のいるところに近づかなければならない。
対等でありたいなら、胸を張って隣に立てるように成長しなければならない。
――だから。
「確か、一之瀬帆波だったな。生徒会に入りたいんだって? 知ってるだろうが俺は生徒会の――」
一之瀬帆波は変わりたいと願う――例えそれが