佐倉と渉が話した2日後の放課後、渉は一之瀬と共に暴力事件の現場である特別棟に来ていた。
通常の教室と違って特別棟は空調が働いておらず、夏場の蒸し暑さは短時間だろうと気を滅入らせるのに十分だったが、一之瀬の関心は別のところにあった。
「それにしても、どういう風の吹き回しなの、廻屋くん? 君はこういう事件に興味ないと思ってたけど」
「否定はしませんよ。龍園さんの思惑が透けて見えるとはいえ、今回の事件は単なる学生同士の喧嘩の域を出ません。これが何かの都市伝説や超常現象の関与が疑われるなら、知ってすぐに調査していました」
相変わらずの都市伝説フリークっぷりを隠さない渉に苦笑しつつ、一之瀬は追想する。
星之宮先生から事件の概要について公表されて目撃者を募った火曜日に一之瀬は軽いクラス会議を開いたが、その時の渉にはこの事件に対する興味や関心は皆目見られなかった。
しかしその次の日、その姿が幻であったかのように渉は一之瀬に事件の現場検証を誘いかけた。
渉が急に姿勢を翻したことは気に掛かったが、櫛田や平田をはじめとするDクラスの面々の情報収集を見ていた一之瀬からすればその申し出は渡りに船であり、あいにく渉が所属する水泳部の活動日だったためその日は調査できなかったが、その翌日の今、こうして現場検証のために特別棟に来たというわけだ。
「一之瀬さんは事件の目撃者については聞いていますか?」
「うん、Dクラスの人が名乗り出てくれたって櫛田さんから聞いているよ。誰かまでは聞いていないけど」
「身内が証人では証言の説得力がどれほど認められるか分かったものではありませんが、私が聞いた証言はDクラスを有利にするものではありませんでした。見せてもらった写真は須藤さんがCクラスの3人を殴った直後の物でしたから」
「証言に写真? 廻屋くん、その目撃者のこと知っているの?」
「はい。目撃者とは、彼女のことですよ」
そう言って渉が階段の踊り場を指差すと、真新しい一眼レフを手にした佐倉愛里が姿を見せた。
「こ、こんにちは、一之瀬さん」
「えっ、目撃者って佐倉さんなの?」
「自撮りのスポットを探していた際に暴力の場面を見てしまったそうです。夏場の特別棟は人気もありませんし、偶然の遭遇と言う他ありませんね」
仕掛けたのがどちらにせよ、夏場に空調のない特別棟を指定して相手を呼び出したのは客観的な証拠を排除して両者の言い分を対立させるためだろう。
なのに目撃者がいたら仕掛け人の目論見はご破算だ。
現場のリサーチ不足が原因とはいえ酷い偶然もあったものだが、幸か不幸か写真の内容は須藤が暴力を振るった直後を捉えたものであり、両者の言い分――どちらが相手を呼び出したかを確定させるものではない。
結局のところ、どちらが被害者なのか――この事件を冤罪事件とするか暴力事件とするかは、生徒会の審議の場での議論によって決まることになる、というわけだ。
そんなことを説明しつつ、渉と一之瀬は現場の写真を撮ったり佐倉の話を聞いてメモを取ったりして、現場検証を続けていった。
「貴方たち、此処で何をしているの?」
人気のない特別棟に3人のいずれでもない怜悧な声が奔る。
3人が振り返ると、綾小路清隆を伴った堀北鈴音が胡乱気なものを見る目で立っていた。
5月の中間試験対策で過去問の交渉をした時以来の堀北にしてみれば渉と一之瀬は他クラスの殆ど関わりのない存在であり、そんな2人が自クラスの人間とすらまともに話したことがない佐倉と仲睦まじそうな様子をしていればそういう目線にもなるだろう。
「貴女たちと同じ目的だと思いますよ、堀北さん。綾小路さんも、お久しぶりですね」
「……ああ、久しぶりだな」
「5月以来かな、2人とも元気にしてた?」
「挨拶はいいから、質問に答えてちょうだい。なぜBクラスの貴方たちが佐倉さんと事件の現場にいるのかしら? 事と次第によっては……」
堀北の視線が疑いを帯びた剣呑なものになっていく。
彼女からすれば佐倉は事件の目撃者であるのと同時に審議における証人であり、その正体は審議まで秘密にしておきたい存在だ。
そんな佐倉がこの時期に他クラスの人間と共にいるとなれば、その相手が中間試験で過去問を巡る交渉をしたBクラスの2人とはいえ、堀北が警戒するのも無理はない。
Aクラスに上がることを至上の命題としている彼女からすれば、他クラスの存在は競争相手――敵に他ならないのだから。
さらに踏み込めんで考えれば。
監視カメラの存在しない特別棟という密室で起こったこの事件、どちらも被害者だと訴えるCクラスと須藤、
そしてその目撃者がBクラスの2人と密会しているとなれば、『Bクラスが裏で糸を引いてこの事件の絵を描いた』という可能性は導き出せるだろう。
下位クラスで小競り合いを演じさせて対立を深め、自分たちはAクラスとの戦いに集中する――そんなメリットを思いつけば、堀北が疑うのも無理はなかった。
「陰謀論も都市伝説の一種ですが、これは私の好みとは少し外れますね」
「……何を言っているの?」
「ああもう、廻屋くんてば……。あのね、堀北さん――」
まともに取り合わない渉に堀北は憮然とし、一之瀬は頭痛を堪えながら説明を始めた。
佐倉とは彼女のプライバシーのために詳細こそ省くが事件があって友人となり、その縁で信頼された渉が佐倉から相談を受けたこと。
Bクラスの自分たちが現場検証している理由は以前Cクラスからクラスぐるみの嫌がらせを受けており、今回の事件もその延長線上にあるのではないかと考えているから。
そのため一之瀬個人としてではあるが、真実を明らかにするためにも協力したいと思っていること。
一之瀬の丁寧な説明に堀北は溜息を吐いて一之瀬、渉、そして佐倉へ視線を遣ると、臆病な佐倉は身を縮こまらせた。
「……佐倉さん、廻屋くんたちと知り合った事件とは何かしら?」
「っ、その……ストーカー、です。学校には報告して、もう解決しました」
「ストーカー……なるほど。それで自クラスの人間より廻屋くんたちを信頼しているのね」
「そ、れは」
「責めているわけではないわ。私たちには気づけなかったのだから、そんな権利はない。でも、今回の目撃者の件を相談するなら一言欲しかったところね。Cクラスにこの情報が漏洩したら、『証言を取り下げろ』と脅迫されるかもしれなかったのよ」
「ご、ごめんなさい。あの、このことは他の人には……」
「安心しなさい、こんなことを吹聴するほど人でなしではないわ。ほら、綾小路くんも」
「ああ、誰にも言わない」
ほっと胸をなでおろした佐倉をよそに、堀北は渉と一之瀬に向き直った。
「佐倉さんについては、一応納得したわ。でも、貴方たちに裏がある可能性が完全に拭えたわけじゃない」
「うーん、心象的な理由もあるけど、個人的に嘘をついた方が得をするのは前例作ると良くないと思うんだよね。それじゃ理由にならないかな?」
「堀北、そこまで警戒しなくていいんじゃないか? Bクラスが前にCクラスから嫌がらせを受けたっていうなら、Dクラスとは協力できる道もあるだろ」
「……それは」
綾小路が一之瀬の援護に回って2対1。
旗色が悪くなったのを悟ったのか、それとも損得勘定の天秤が傾いたのか――不承不承といった様子だが堀北は協力を承服するのだった。
「仕方ないわね。廻屋くんも同じ考えと思っていいのかしら?」
「協力に異論はありません。もっとも、部外者の我々にできることはそう多くありませんが」
「そう。それで、そちらで分かっていることは何かあるの?」
「そうだね……まずは、やっぱり監視カメラは現場にはなかったね。目撃者、佐倉さん以外にもいるといいんだけど……」
「正直そちらの線はないでしょう。趣味で普段から撮影スポットを探している佐倉さんだからこそ偶然目撃した今回の一件、彼女以外にも目撃者が出るならそれはもう偶然ではなく必然。さらに言えば仕掛け人の可能性が高いですね」
「仕掛け人……審議の場でCクラスに有利な証言が出るかもしれない、ということか?」
「審議の場で身内からの証人の、身内を有利にする証言が認められるわけがないわ。佐倉さんの写真だって須藤くんの暴力を補強するものだったから証拠として認められたようなものよ」
渉の言葉に呼応した綾小路に、堀北は鼻を鳴らす。
にべもない彼女の言葉に綾小路は肩を竦めたが大して気にした風でもなく、渉の方に目線が向けられる。
一見してそれは助けを求めるかのようでもあったが、渉には何処か観察するかのような視線に見えた。
「他クラスや他学年の生徒を脅迫するなり買収するなりして偽りの証人を立てる、という方法もありますが、今回は考えにくいですね。偽証を見抜かれれば審問の場での心象が一気に悪化するうえ、弱みを握らせるリスクもあります。もとより彼らにとって、この事件は検証実験の一環でしょうから」
「検証実験……そんなものに他人を巻き込まないで欲しいわね」
「でも堀北さん、須藤くんが嘘をついていたらどうするの? もし有罪確定の証拠が出たとして」
都合の悪い結果を無理に覆して強引に捻じ曲げたところで、歪みは必ず発生する。
その歪みの犠牲になるのは大抵無関係な人間だ。
「正直に申告させるわ。嘘をついたところで、後々になって自分たちの首を絞めることになるのは明白なのだから」
「そうだね、私もそう思うよ」
クラスがペナルティを被る結果になろうとも、その場しのぎは許さない。
そう言い切った堀北の高潔さが伺えた。
「じゃあ、逆の場合はどうかな? Cクラスが嘘をついていた場合は」
「挑発されたにせよ、須藤さんがCクラスの3人に怪我を負わせたのは明確な事実です。残念ですが審議では無罪を勝ち取るのは厳しいと言わざるを得ませんね」
「マイナスが小さくなるなら無意味ではないわ」
審議について話し合う彼らを、綾小路清隆は一歩引いた位置から眺めていた。
=
「(審議では、か)」
綾小路はほぼ確信していた――廻屋渉が自分と同じ考えと結論に辿り着いていることを。
審議で無罪を勝ち取るために何をするべきなのか、を。
――この世は勝つことが全てだ。
どん底のDクラスからAクラスを目指すと息巻いていた堀北鈴音を見やる。
上のクラスを目指すなら、この程度の謀略など跳ねのけなくてはならない。
――勝利のためならば、全ては道具に過ぎない。
はっきり言わずとも、今のDクラスはAクラス争奪戦に臨む以前の集団だ。
クラスメイトの殆どが向上心もなく、低下する生活レベルと枯渇していくポイントに嘆くばかりで意思の統一が為されているとは言い難い。
不良品の誹りを受けたところで客観的な否定は難しいだろう。
しかし個々を見れば粒揃いであるのも確かであり、リーダーを擁立して一丸となって対抗戦に臨むことができたなら、1年Dクラスは他クラスが無視できない存在になるだろう。
堀北鈴音のAクラスを目指すという目的意識の強さは他の追随を許さない。
壊滅的なコミュニケーション能力や搦め手を想定できない思考の固さなど短所は多くあるが、
――最後にオレが勝っていれば、それでいい。
綾小路清隆はAクラスの座になど興味はない。
単純にクラスをAクラスに導いたところで、それは彼にとって勝利と呼べるものではない。
惨めに舞台を去る者を大勢見てきた綾小路からすれば退学は紛れもなくこの学校における『敗北』だが、その逆――勝利とはなにかは掴み切れていなかった。
しかし、綾小路清隆は好奇心旺盛だ。
どん底から頂点へ駆け上がろうと諦めない堀北鈴音、一時の損失を飲んででも未来の勝利のため狡猾に動くCクラス、そして半生を過ごした施設が目標とする
まだ見ぬAクラスにも、興味を惹く存在が居るかもしれない。
その中の誰かが自身を凌駕しうるなら、それもまた面白いだろう。
そんな彼らを知るのに、クラス対抗戦は好都合だ。
「審議では無罪を勝ち取るのは厳しい、と言ったな。ならば無罪を得る方法自体はあるのか?」
まずは小手調べだ、と綾小路は廻屋渉を見据えて口を開いた。
=
綾小路の言葉に、渉は目を細める。
質問の体を装っていたが、渉にはまるで答え合わせでもしているかのように感じられたのだ。
とはいえ、馬鹿正直にその方法を伝えるほど渉はお人好しではない。
その義理もないし、なにより
「示談で訴えを取り下げてもらえばいいんですよ。訴えがなければ審議も何もありませんから」
「受け入れられないわ。クラスポイントが減らされないだけで、それは事実上の敗北宣言だもの」
拒絶した堀北の表情に溢れる不快感は、特別棟の蒸し暑さだけが原因ではないだろう。
訴えを取り下げてプライベートポイントの支給を待ってもらい、示談金を捻出する――審議で戦うより確実かつ穏便だが、プライドの高い堀北には受け入れられないのは想像に容易かった。
しかめっ面の堀北の返答に肩を竦めつつ、渉は質問の主である綾小路に視線を向ける。
「なかなか鋭い着眼点と質問です。答えはこんなところでよかったですか、綾小路さん?」
「……そうだな。感謝する」
一応の感謝で問答は一区切りとなったが、綾小路は渉を注視している。
むろん渉はそれに気づいていたが、わざわざ取り合うことはなかった。
綾小路は実力を隠したいようだが、それはいつまでも続けられるものではない。
この学校では高い実力を持つものは否応なく目立つことになるのだから。
= = =
Dクラスと協力体制を構築したとはいっても、何かが急に特別変わるわけではない。
一応の業務連絡としてクラスのグループチャットにDクラスとの協力の旨を通知し終えた渉は自室でタブレットPCを操作していた。
ダークウェブに存在する自身が運営するサイトを管理しつつ――例によって情報の発信は高育の回線から弾かれてしまうため、できることは限定されているのだが――ネットサーフィンに勤しんでいると、渉の学生証端末が振動して電話の着信を告げた。
「はい、廻屋です。どうしましたか、一之瀬さん」
「ごめんね、急に電話かけちゃって」
「構いませんよ、夕食も終えて暇を持て余していたところです」
「そうなんだ」
ちらりと閉じられたタブレットPCを見つつもそう返した渉だが、電話の主である一之瀬帆波の言葉はどうにも歯切れが悪い。
普段の快活な彼女らしくない様子を不思議に思い、渉は一之瀬を促した。
「あの、さ……」
「一之瀬さん?」
「……廻屋くんの声が聞きたかった、って言ったらどうする?」
面喰らって数秒沈黙する渉の反応に我に返ったのか、一之瀬の慌てる声がすぐに続いた。
「ご、ごめん、今の無し! 変な意味じゃないからね!?」
「私は自分の声の美醜について意識したことはありませんが、そう思っていただけるのは光栄なことですね。ありがとうございます、一之瀬さん」
「だから……うう、確かにいつも冷静で、聞いているとこっちも落ち着けるような声だけど」
電話口の向こうで深呼吸を繰り返す一之瀬に、渉は思わず笑い声を喉の奥で鳴らす。
都市伝説がらみではない時間でこうも愉快な心持になったのはいつ以来だろうか。
「落ち着きましたか?」
「……うん。あのね、廻屋くんって告白されたことあるんだよね?」
この手の話題を一之瀬が挙げてきたことに意外に思うのと同時に、
「一之瀬さん。申し訳ありませんが、この件について私はあまり力になれないかと」
「え……あの、まだ何も言ってないんだけど」
「おや、告白されたけどどうしていいのかわからない、という相談だと思っていましたが、違いましたか?」
「な、何で分かったの? 廻屋くんってエスパー?」
息をのんで驚愕の声を漏らす一之瀬に笑いをかみ殺しながら、渉は答えた。
「
「……それって」
渉は
複雑かつ様々な感情をにじませた沈黙は電話口の向こうで頭を抱えている一之瀬の姿を想起させるのに十分だった。
「ちなみに、一之瀬さんはどうするつもりでしたか?」
「まず、彼女には悪いけど断ろうと思っているの。クラスメイトで大切な友達だけど、流石にそういう対象としては見れないから……いや、そういう人がいるわけじゃないんだけどね?」
「そこまで聞いたつもりはありませんが、わかりました。貴女が決めることですから、そこに口は挟みません。しかしそこまで決めているなら、何を相談するつもりだったのですか?」
「傷つけずに断る方法が思いつかなくて。ネットで調べたらもう交際している人がいるって伝えるのが鉄板みたいだから、廻屋くんに彼氏役をお願いしたかったんだけど……」
口ごもる一之瀬に、渉は呆れ交じりに口を開いた。
「ネットの記事を鵜吞みにするものではありませんよ、一之瀬さん。その様子だと薄々分かっていたとは思いますが」
「そうだよね……クラスメイトなんだし、すぐにバレちゃうよね」
「人間関係において直ぐにバレる嘘ほど信頼を損ねて相手を傷つけるものはありません。それに彼女に味方するわけではありませんが、私に相談した彼女は本気で、真剣でした。貴女に想いを伝えるのも相当な勇気を要したでしょう。彼女を受け入れるにせよ、断るにせよ、本気で応えるべきだと思います。彼女のためにも、貴女自身のためにもね」
「…………うん、そうだね。ありがとう、廻屋くん」
渉自身に恋愛経験がない以上、この方法で正しいのかどうか判断することはできない。
しかし数秒の沈黙の後、一之瀬の言葉はどこか晴れやかだった。
「それにしても力にはなれないって言ったのに結局アドバイス貰っちゃって、廻屋くんも大概お人好しだよね」
「ふむ。そう見えたのなら、私は無意識に貴女に肩入れしているのかもしれませんね」
「え?」
「貴女のことを好ましく思っているということです。善き『解』を得られるように、と」
「にゃっ!?」
正しい方法をとった者がより善い結果を掴めるほど人生は単純ではなく、求めるべき解があるのに世界は不条理なまでに残酷で冷たく、時に善良だろうと無関係だろうと残酷に牙を剥く。
それを身をもって経験していた渉だが、善良な人間には良き結末が与えられるべきだという願いを捨てることはできなかった。
自分の進めている
「では話は終わりですね。おやすみなさい、一之瀬さん」
「ちょ、廻屋く――」
なんとなくそんな気分ではなくなってタブレットPCの電源を落とすと、渉は電話を切った。
ちなみに白波千尋の一世一代の告白がどうなったかについては……翌日以降いつも通りの距離感だが、他の女子と一緒に下の名前で呼び合うようになった2人の姿が、その答えだった。