「好きなものに没頭してると食事とか忘れてしまいますよね。私にも経験があります」
「いえ、その……お恥ずかしい限りです……」
透き通るような白い頬を羞恥で淡い赤に染めながら、椎名は俯いた。
実際渉にとって食事を忘れて趣味に没頭することはよくあることではあるのだが、初対面の相手に気にするなと言われても受け入れるのは難しいだろう。
なので、多少強引だが渉は話題を変えることにした。
「読書は確かに好きですよ。未知の世界に触れるのは大きな刺激になりますから。椎名さんも読書家のようですが、なぜですか?」
「……私は、ミステリー小説が特に好きなんです」
椎名は先程まで自身が座っていた席に目を遣った。
そこに積まれていたのはミステリーの巨匠たちの代表作。
渉自身も読んだことがあるし、椎名もそれは同様だろう。
「有名な作品たちですね。貴女も読んだことがあるのでは?」
犯行やトリックが肝となるミステリーはネタバレに弱く、初回が一番面白い、と渉は思っている。
渉の類稀な頭脳は一度見聞きしたものの忘却を許さず、同じものを再び読むという行為は縁遠いものだからだ。
「確かに結末もトリックも既知のものです。もちろん内容も変わりません。でも、読み手の心持ちが変われば心情描写の受け取り方は変わってきます。同じ小説でも繰り返し読むことでそういうものを見つけられるんですよ」
読書を語る椎名の目は輝いており、まるで過去を写す鏡のようだと渉は思った。
趣味を語る自分の目もきっとこんな風に見えているだろうし……かつて犯した致命的な間違いが思い起こされ、渉の胸を刺激した。
同じ本を繰り返し読んだとしても、読み手の心情が違えば読み取る内容は変わってくる、と彼女は力説した。
本に限った話ではない。
創作物に対してポジティブ或はネガティブに受け取るかは、その人の内面次第である。
物語、絵画、音楽――創作物は受け手の心を写す鏡になっているというのは聞く話だ。
椎名の話に渉は自分自身に問い掛ける。
果たして自分はどうしたいのか――この内心に燻る炎をどうすべきなのか。
何度繰り返したのかも分からない命題だったが、相も変わらず答えは出なかった。
「……貴女は本当に読書が好きなのですね」
「はい。図書室の制覇してみたいとも思うんですけど……」
ざっと見渡しただけでも図書室の蔵書は小規模な街の図書館を思わせる規模で、その制覇には途方もない時間がかかるだろう。
「同じ趣味を持った人と語らうということにも興味があるんです。でも紙の本を読む習慣の人は少なくて……あの、廻屋くんさえ良ければどうでしょうか?」
初日に図書室に来るほどの読書家だと思ったからこその誘いだった。
渉にしてみれば受けるのは吝かではないが、もとより図書室に来たのは自身の趣味の探求のため。
であればこちらを優先したいというのが偽らざる本音だった。
「時間が合えば、で良ければ」
「! はい、勿論です。……そういえば、廻谷くんは何の本を探していたのですか?」
椎名の申し出に対して渉が返したのは部分的な同意に過ぎなかったが、それでも彼女は破顔した。
儚げな第一印象に違わぬ花の咲くような静かな笑みだったが、確かな喜色を湛える彼女に応えないというのも忍びなく思い、渉は口を開く。
「今日は校舎の探索も兼ねた下見のつもりだったのですが、せっかく会えたことですし。私も貴女と同じ趣味の探求ですよ。椎名さんは都市伝説のことは?」
「都市伝説ですか? ええと……ごめんなさい、よく知らないんです。オカルトやホラーの類ですよね」
「そうです。怪談や怪異、陰謀論――そういったものが『本当にあったもの』として語られる噂話が都市伝説です。現代ではSNSやネットの掲示板で語られるのが主流ですが、昔は店や寄り合い所で口コミによって広がっていました。当時のその地域の人たちが何を思い、何を恐れていたかを紐解く――すなわち、民俗学の分野にもなるわけです」
「民俗学?」
「簡単に言うとミクロな歴史です。私たちが授業などで学ぶ歴史はマクロ、つまり特定の年代・地域の全体的な流れを学ぶ学問ですが、民俗学はその中に生きている、あるいは生きていた人間たちの日常生活や民間伝承を再構成する学問です。とはいえ、学校の図書室でどれほどの情報が得られるかは疑問でしたが……この蔵書量なら期待できそうですね」
趣味の話となると相変わらず早口になってしまう渉だったが、椎名は興味深そうに相槌を打っていた。
図書室の制覇を目標とするほどの読書少女は、好奇心もそれに見合うものを持っているようだった。
「なるほど……。オカルトの本は哲学ですが、民俗学の本は社会科学。どちらの書架に行くかで悩んでいたんですね」
「そうですね。哲学の宗教か、社会科学の民俗学か。都市伝説を調べるにあたってどちらから行くか、考えあぐねていたのは確かです。まあさっきも言ったとおり、今回は下見で何かを借りるつもりはなかったの、ですが……」
歩きながら話していた2人だが、不意に渉の足が止まる。
椎名が不審に思って振り返れば、渉の視線が書架のある一点で止まっている。
そこは哲学の中の宗教に関する書籍が置かれている棚。
話に夢中になっていた椎名は気が付かなかったが、もう目的の書架に到着していたようだ。
「なぜ、この本がここに……」
「廻屋くん……?」
まるで熱に浮かされているような足取りで、椎名のことなど気にも留めていないかのように書架に手を伸ばした渉はその本を手に取った。
呼びかけた椎名の声など聞こえていないようにその本の表紙を見ている渉が気になったのか、彼女は隣からその本を覗き込んだ。
表紙に書かれているのは、眼鏡と帽子が特徴的な男性のバストアップ写真。
――――オカルトグレートリセット、著者:
「……その本がどうかしたのですか?」
「椎名さん、如月努について知っていますか?」
「如月努? 如月努、如月努……どこかで聞いたような気がするのですが……」
食い入るようにその本の表紙を見ていたと思えば、突然質問してきた渉に椎名は思案したが、思い当たるものはなかった。
引っかかることこそあったのだが、それよりも渉の声音のほうに意識を割いていたのだ。
先ほどまで楽しく話していた声とは違う、微かな威圧感さえ錯覚させる、静かだが固い声だった。
「……上野天誅事件の容疑者ですよ。2年前の9月です」
「ああ、そういえばそんな事件もあったような……」
「テレビやネットでかなり話題になったんですよ」
「うーん……ごめんなさい、ニュースとかあまり興味がなくて……」
読書に費やしすぎた結果、色々なものを犠牲にしていないか、と椎名のマイペースと天然さに溜め息をつき、渉は知らず知らずのうちに緊張させていた身体を緩ませる。
それほどこの本の存在は学校の図書室に似つかわしくなく――渉にとって不意打ちだったのだ。
「如月努は大学の助教授であり、オカルト研究家としても何冊か本を出していました。この『オカルトグレートリセット』は彼の著書の一冊で、オカルト界隈ではバイブルとして扱われています」
「
「はい。内容としては自己啓発本に近いですね。『趣味・志向が陽に当たらないものだとしても恥じたりする必要はない。いつか周囲の理解を得て、報われるときは必ず来る』――要約するとこんなに様です。オカルトは趣味としてはマイナーなもので、そんな趣味の者たちがこれを読み、心の支えとしたのでしょう」
「なるほど。でも、如月努が有名になったのはその本の著者だったから、ではないんですね?」
どこか悲しげに、確かめるような椎名の問いに渉は頷く。
読書は決してマイナーな趣味ではないが、彼女の周囲には同じ趣味を持つ者が少なかったのだろう。
そんな自分と重ねたのかもしれない、と渉は推測した。
「彼が有名になったのは、2年前の9月に発生した上野天誅事件の容疑者として名前が挙がったからです」
硬質な声音のまま、渉は事実を列挙していく。
上野天誅事件。
2年前――つまり、今年の新1年生が中学2年生の時に東京・上野公園で発生した殺人事件だ。
被害者には複数の殴打痕があり、倒れていた付近に『天誅』と書かれた紙があったことから怨恨による殺人と判断された。
また、その紙の存在が事件名の由来となっている。
ここまでは興味を持った者なら新聞やネットで誰でも調べられる範疇だが、『誰もが知る』となるには少し弱い。
この事件がネットミーム化するほど有名になったのは、容疑者として挙げられた如月努が現行の大学助教授という肩書を持っていたからであり、オカルト研究家という多数の人間にとって怪しいと思われる面も持っていたからだ。
叩いていい存在が現れ、各種SNSのタイムラインでは如月努に対する攻撃が毎日のように行われ、事件の話題性に便乗した『天誅Tシャツ』なる悪趣味なものまで作られた。
「如月努はネットやSNSで大バッシングを受け、事件発生の3ヶ月後に自殺しています」
「自殺……」
「容疑者の自殺という結末も、この事件の名前が大勢に記憶される一因となっているのです」
一通りの説明を聞き終えた椎名ひよりの顔色はもともと良いものではなかったが、さらに悪化していた。
渉自身も気分が良いとはとても言えないが、これからする説明の前提なので、せざるを得なかったのだ。
「……本当に、本当に如月さんが犯人なんでしょうか……」
「冤罪を叫ぶ者もいます。犯人説と冤罪説の議論がしばしばおこるのも、この事件が騒がれる一因ですね」
「真犯人はわかっていないんですか?」
「そこです。おかしいでしょう? 如月努の名前が出たのは容疑者としてで、犯人としてではない。しかし彼が自殺して以降、事件の発展はすっかり止まってしまった。容疑者が自殺したからって事件が解決するわけではないのに」
椎名は沈んでしまった。
彼女の頭にあるのは犯人説か、冤罪説か、それとも何かの陰謀説か……ここまでのやり取りで彼女が優秀な頭脳を持っていることを渉は察しているが、彼女に答えを出せるはずもなかった。
「さて、椎名さん。このオカルトグレートリセットですが、貴女がこの図書室を管理する立場だったとして、図書室に置きますか?」
「……それは」
パラパラとページをめくりながら聞く渉に、椎名は言葉を濁した。
筆者が犯罪者だろうが成人だろうが本の内容が変わるわけではないが、本が自己啓発本で場所が学校の図書室であれば、多くの者がそう答えるだろう。
高校生という多感な時期に殺人という罪を犯した者――実際にそうであるかはこの際関係ない――が書いた自己啓発本を受け入れるかどうか。
真っ当な学校ならその答えは否であるべきだ。
しかし、現実としてこの本はここにある。
それがどういうことなのか……渉は本に挟まっていた
「この本は持ち主に返しましょうか」
「持ち主……?」
「はい。この本は図書室の蔵書ではありません」
渉は本の背表紙を椎名に見せた。
図書室の本の背表紙には納められている場所を占めるラベルが貼られているはずだが、そんなものは何処にもなかった。
それが意味するところは明確だ――この本は図書室の蔵書ではなく、誰かの私物であるということに他ならない。
「持ち主には心当たりがありますので、私が返しておきます」
「誰かの私物なら、勝手に読むわけにはいきませんね……」
「読みたいのですか?」
「はい。オカルト関係には明るくありませんが、
残念そうな声と表情の椎名に渉が聞けば、肯定が返ってくる。
犯罪者の自己啓発本と聞けば物怖じしそうなものだが、そんな雰囲気はない。
彼女の表情には純粋な興味の色が強く表れていた。
このオカルトグレートリセット、ひいては著者の如月努は渉の人生において重要な意味を持っている。
椎名の趣味に没頭するその姿勢は渉自身にも覚えがあり、好奇心にも共感はできる。
まだ大して話してはいないが、彼女の性質が穏やかで善性に寄っていることは分かった――だからこそ、渉は彼女に踏み込んで欲しくなかった。
渉は椎名と一言二言交わして静かに図書室をあとにした。
……未だ癒えていない、どう向き合えばいいのかも明確ではない自身の心がささくれ立っているのを自覚しながら。
= = =
嫌な事、億劫な事に対してどう向き合うか……そんな大げさな話ではないにしても、廻屋渉は夏休みの宿題は7月中に終わらせてしまうタイプだった。
故に、図書室を出た渉はその足で職員室へ行き、扉をノックした。
「失礼します。1年Bクラスの廻屋渉です。星之宮先生はいらっしゃいますか?」
「はいはーい。どうしたの、廻屋くん」
「少しお話したいことがありまして」
「分かったわ。生徒指導室でいい?」
「はい、ご足労おかけして申し訳ありません」
午前中で入学式を終えて星之宮先生がいない可能性もあったが、彼女はいた。
本日2度目の訪問に好奇の目を向ける教師たちをよそに、これまた2度目の生徒指導室に案内され、扉を閉める。
防音、カメラの有無、録音――セキュリティをチェックして抜かりがないことを確認すると、渉は図書室から持ち出した本、『オカルトグレートリセット』を机の上に置いた。
「――これは貴女のですよね、星之宮知恵先生」
しかし、対峙する星之宮に慌てた様子はなく、静かに渉が置いた『オカルトグレートリセット』の上に手を乗せた。
「……どうしてそう思ったの?」
「今朝、この生徒指導室で私に図書室へ向かうように促したのは貴女です。もちろん貴女に言われずとも私は近いうちに図書室に行っていたでしょうが、問題はそこではない。……図書室に置かれていたこの本――よりにもよって『オカルトグレートリセット』が見つかるとは思いませんでしたが、これに挟まっていたメモ。これが決定打です」
渉は制服のズボンのポケットから畳まれたメモを取り出し、開いて机の上に乗せた。
――――『入学おめでとう。C.HからA.Kへ』
「どうやら色々と知っているようですね、
「こんなに早く辿り着くとは思ってなかったよ、