「ご心配なく。録音などしていませんよ」
人気のない特別棟とはいえ、渉の本名をこともなげに言い放った坂柳有栖は目を細めた渉の表情をどう受け取ったのか、制服のポケットから端末を取り出すと画面を見せてきた。
端末はホーム画面のままで、録音機能を起動している様子はない。
「別に心配はしていませんよ。3年ぶりですね、坂柳さん」
「3年と35日ですよ、渉くん。遅ればせながら、見事な入学挨拶でした」
呆れたような渉の言葉を訂正した坂柳。
夕暮れに染まる特別棟で話す2人の間には友人への気安さがあり、普段の彼らを知る者が見れば間違いなく驚くいただろう。
彼らの出会いは小学生時代、渉がまだ養護施設に居た頃に遡る。
その養護施設は坂柳の父親がパトロンをしており、彼に連れられて施設を訪れたのが切っ掛けだ。
6歳の時に父親に連れられて訪れた白い施設で淡々と課題をこなす少年*1に人生初の衝撃を受けた彼女はその少年を追うようにチェスを始めており、既に小学生ながらに大人顔負けのチェスプレイヤーとなっていた。
そんな彼女を接戦の末にチェスで渉が負かし、天狗になっていた彼女の鼻を折った。
同い年に敗北を喫して人生で2度目の衝撃を受けた坂柳は渉を生まれながらの天才、自身の同類と認めつつも生来の負けず嫌いを発揮して盤上遊戯や知恵比べを挑むようになり、話の合う数少ない友人として渉も坂柳を歓迎していた。
2人は確かに友人だが、ライバル関係でもあったというわけである。
天才とは生まれ持ったDNAによって決まるもので、教育によって決まるものではない。
その自負を胸に、教育によって天才を作ろうとしている白い施設・ホワイトルームの成果を打ち砕くことを命題としていた坂柳だが、渉とのチェスをはじめとする様々な競い合いや弁論は使命遂行のための研鑽や家で受ける英才教育とは別種の充足感を覚えていた。
そのため坂柳は度々その養護施設を訪れていたのだが、中学進学の際、渉が助教授となった兄に引き取られて施設を出たため、私立中学に進学して通院生活を送っていた彼女とは疎遠になってしまった。
「お兄さんの事は、残念でした」
兄の事を言われても、星之宮の時のような動揺はなかった。
坂柳が施設を出入りしていた時、如月努は大学生で下宿していたが弟に会いに頻繁に施設を訪れていたため、彼女と努に面識があることを把握していたからだ。
父親以外の男性である努を当初坂柳は警戒していたようだが、穏やかな彼の人柄に触れるうちに次第に打ち解けていた。
渉の視点からも、兄・努は弟と同年代ながら自分の話についてくる彼女に驚きつつも可愛がっていたように見えていた。
「20代で大学の助教授というのは誰にでもなれるものではありません。それに渉くんにとっての努さんは私にとってのお父様と同じ立場の人です。肉親の温もりは何物にも替えがたきものですから」
坂柳が自身に掲げている打倒ホワイトルームは、天才の自負を発端としたものではない。
ホワイトルーム生が他者より優秀な結果を世間に示し、かの施設の方策が当たり前になってしまったら、という父親の危惧。
そしてホワイトルームという存在そのものへの憂いを父親が示したから――つまり肉親への情が大きな割合を占めていた。
彼女の肉親への親愛は本物であり、疑う余地はない。
しかし渉は過去に親交があったとはいえ慰めを聞きたいわけではないし、そもそも坂柳有栖という少女は無意味にそういうことを言う人間性ではない。
渉が無言で先を促していると、彼女はいつもの他者を試すような、挑発するような笑みを引っ込めて、神妙な表情になった。
「だからこそ、それを喪う無念は分かるとまでは言えませんが、誰より想像できます。身を引き裂かれるような痛みから逃れるためには、全てを忘れて無かったことにしてしまうか――」
どんなに激しく燃え盛る炎も、燃料がなくては燃え続けることはできない。
蓋をして見ないふりをして、時間と共に鎮火を待って傷ついた心を癒やすのも選択肢の一つだ、と坂柳は嘯く。
――しかし、燃料が今も投下され続けているとしたら?
「――大切な人を奪った者たちに思い知らせるか。如月渉くん、貴方はお兄さんの復讐計画を立てているのではありませんか? 努さんが容疑者となった上野天誅事件の真犯人、そして彼を追い詰めた一般の人間たちへの復讐計画を」
根拠のない邪推、一方的な意見の押し付け、無責任な対立煽り、好奇心のままに暴き拡散する愚者――。
高度に発達した情報社会にそうした掃き溜めは枚挙にいとまがなく、少しSNSを覗けば嫌でも目に入る。
そこにあったのは兄を追い詰めたものとなんら変わらない数々の呪い――燃料には事欠かなかった。
「それが事実だとして、告発でもしますか?」
「まさか、その逆です。あの事件の顛末に憤っている者は渉くんだけではありませんよ。それに、凡人たちはそろそろ自分の立場を自覚するべきでしょう。当然のように立っている場所が、如何に脆いかをね」
坂柳は事件の真相について詳しく知っているわけではないが、努の穏やかな人柄を知る彼女からすれば推察はで可能だった。
ゆえに、
だから……。
「まったく、油断も隙もあったものではないですね」
おもむろに渉は坂柳のブレザーのポケットに手を入れる。
そして先ほど携帯端末を入れた方とは逆のポケットから掌に納まるような黒い直方体――ボイスレコーダーを引っ張り出した。
最初に携帯で録音していないと見せかけての子供騙しだったが、あいにく渉の観察眼にかかれば看破は容易かった。
「女性のポケットに手を入れるとは、セクハラですよ渉くん」
「秘密録音自体は犯罪ではありません*2が、親しき中にも礼儀ありというでしょうに。……ほら、返しますよ」
渉は呆れつつも
子供騙しに重ねた罠だがその実録音はしておらず、渉を揶揄うためのものでしかない。
自身の病弱さすら計算に入れた振る舞いをする彼女に幾度か振り回されたことを思い出し、渉は溜息を吐いた。
「相変わらず狡賢いというかなんというか」
「あら、引っかかった負け惜しみにしか聞こえませんね」
「どこまで看破していたかは水掛け論でしかないですし、止めておきましょう。貴女の負けず嫌いに付き合う気はありません」
「それは残念ですね。……それで、お返事は?」
渉は立ち上がり、階段を一段降りると坂柳と目線の高さを合わせた。
「私の復讐は私だけのもの、すでに計画は
「ブラフ、ではありませんね。そのキレは錆び付いていないようで安心しました」
米神に指をあてて皮肉気に笑う渉に、坂柳も上機嫌に返す。
「渉くんと競うなら、退屈などあり得ませんから。実力がある程度拮抗していた方が、競争は面白い。一方的な蹂躙と格付けによる支配も好みではありますが、そちらはAクラスの方で愉しむとしましょう。……時に、渉くん」
「なんですか?」
「来たるクラス対抗戦、どう参加するつもりで?」
もはや当然のようにクラス対抗戦の到来を口にする坂柳に、渉は異を唱えない。
自身も同じ結論に達していたため、否定する意味がないからだ。
「リーダーとして立つ気はありません。対抗戦の報酬は進路保証でしょうが、興味はないですし。クラスの方針に異を唱えるつもりもないので、Aクラスとはいずれぶつかることになるでしょう」
「それは重畳。できればリーダーになって欲しかったですが、強制したところで満足のいく戦いができるとは限りませんから。となると噂の一之瀬さんがリーダーになるでしょうが、彼女が渉くんを御しきれるかは見ものですね」
「坂柳さんはAクラスのリーダーに? 確か葛城くんでしたっけ、派閥のようなものができていると聞きましたが」
Aクラス所属のスキンヘッドが特徴的な実直で冷静な生徒で、一之瀬からは彼女と同じく生徒会を志望していると渉は聞いている。
聞く限りでは保守的な印象を受け、攻撃的な思考の坂柳とは水と油だろうと思い聞いたのだが。
予想通り、彼女は好戦的な笑みを浮かべた。
「あぁ、そのことならご心配なく。私の見立てでは、2学期になるころには葛城くんの派閥は空中分解しているでしょう。彼自身は優秀ですが、それでも凡人の範疇。演技でも彼に降ることは私のプライドが許しませんので」
「気の毒な事ですね」
助けを求められたならいざ知らず、現状特に関わりのない他人に手を差し伸べるつもりは、渉にはなかった。
現状、誰に対しても穏やかに接している廻屋渉は一之瀬ほどではないにしても博愛の精神を持つ人物と見られがちだが、実際にはそんなことはない。
むしろ渉は人間という集団の在り様を嫌悪し、憎悪すらしていた。
誰にでも同じように接するのは、誰にも期待していないことの裏返しでしかない。
個人同士の付き合いならば普通に接することができるのが、逆に渉の精神の複雑な在り方を見抜く難易度を著しく上げていた。
まさか、目の前で穏やかに笑い、真摯に相談に乗っている者が憎悪と嫌悪の坩堝にいると考えるなど、できるはずもないのだから。
とはいえ。
目の前で凡人への嫌悪を露にする坂柳に、自分という天才と関わり競い合ったことで思考が先鋭化してしまったのではないか、と一抹の責任を感じた渉は心中で葛城へ謝るのだった。
= = =
そして来る5月1日。
渉が端末を確認すると、支給されたポイントは90,000ポイント。
前月から10,000ポイント減った状態だが、元から減ることを確信していた状態だったため、渉の所感は思ったより減っていないな、というものだった。
気になったのは同じ水泳部であるDクラスの
彼女とは特段仲が良いというわけではないが、悪いわけでもないため記憶に留めつつ普通に返信をしておく。
その他クラスメイト達の納得や動揺を含んだチャットに返信しながら登校すると、ほどなくして朝のSHRの時間となり、模造紙を持った星之宮が姿を見せた。
「みんなおはよー。さて、聞きたいことがある子もいると思うけど、まずはこっちの話を聞いてね」
柔和だが有無を言わせない真剣な口調に頷くと、星之宮はチョークを手に黒板に書き込んでいく。
Aクラス:940
Bクラス:900
Cクラス:490
Dクラス:0
「これが、各クラスの成績、クラスポイントだよ。この値を100倍した額が各月の1日に皆に支給されるプライベートポイント。だから、Bクラスのみんなには90,000ポイントが支給されているはずだよ。ここまではいい?」
元々ポイントが減るというの『10万ポイントは支給額として多すぎる』という切り口から広がった疑惑のため、9万でも多いというのが渉の本音だった。
しかし結果を見ればAクラスはBクラスよりさらに多くポイントを残している。
おそらく1週間は様子を見た渉と違い、初日近くにクラスメイトにポイント減少疑惑を共有したのだろうが、クラスの主導権を握りたいであろう坂柳有栖の意図を感じざるを得ない渉だった。
さらに下を見れば、特にDクラスは何をやらかしたのやら0の文字が眩しい。
朝の小野寺からのチャットに納得を得たが、ストイックに部活動に打ち込んでいた彼女を思えば同情を禁じえなかった。
「4月時点では全クラスに一律1,000クラスポイントが与えられていたけど、授業態度とか先日の小テストの結果とか諸々で差っ引かれて、この結果になりました。細かい査定基準や数値は話せないけど、4月から5月は減点方式で増えることはないんだよね。だから900は立派な結果だよ。例年ならAクラス間違いないくらいのね」
違和感に気付いたのは渉だけではなかった。
隣の一之瀬が挙手すると、立ち上がる。
「Aクラス間違いないとはどういう意味ですか? クラスポイントが上回るとクラスが変わるんですか?」
「そうだね。このクラスポイントの数値はそのままクラスの序列を表しているよ。Aは優秀、Dは不良品ってね。このクラスがAクラスのポイントを上回ればAクラスに昇格、逆に現AクラスはBクラスに降格するってわけ。この学校が宣伝している進路保証だけど、これAクラスにしか適用しないから頑張ってほしいな」
星之宮の言葉の意味を理解した瞬間、クラス中に動揺のざわめきが奔る。
『希望する進学・就職先にほぼ100%応える』というお題目を当てにしていた生徒がどれほどいるかは定かではないが、詐欺同然の後出し条件に憤るものは多かった。
「悪いけど、これが学校のルールだから受け入れて欲しい。相応しくない不真面目な生徒まで進路を保証しちゃったら評判に関わるからね。それと――――」
持ってきた模造紙を貼りだす星之宮。
書かれていたのはこのクラスの各人の名前と点数だった。
渉は100点、一之瀬は90点の他、80点代や70点代が多く、低くても60点代となっている。
「これは先日行った小テストの点数。小テストだけじゃなくて中間や期末テストでもこうやって貼りだすからね。で、ここからが大事な話。5月末の中間テストでは赤点を取ったら退学になっちゃうから、気を付けてね。今回だと、36点を下回ると赤点だけど、該当者はいないね」
星之宮は優秀優秀と嬉しそうに頷いているが、生徒たちの胸中は穏やかではなかった。
一回赤点を取ったら一発で退学が決定する。
幸い今回の小テストで該当者はいなかったが、もし名前を書き忘れたら、もし解答欄がずれたのに気づかなかったら――あまりにも厳しい宣告に思わず想像してしまい背筋が凍る者が多く出た中、渉が手を挙げる。
ざっと計算して、クラスの平均が72点だったことに気付いたからだ。
「この36点は中間テストでも適用されますか? それとも、平均の半分でしょうか」
「よく分かったね、廻屋くん。そう、赤点は平均点の半分だよ。テスト範囲は追って伝えるけど、全員が赤点を回避する方法はあると確信しているから。優秀な皆なら大丈夫だと思うけどね」
動揺が治まらないクラスメイト達を背に、星之宮は退室していく。
それを見計らうと、一之瀬が教壇に立った。
「みんな、いいかな。これからのことを話し合いたいと思うんだけど、今日の放課後でどうかな? 都合の悪い人はいる?」
渉も部活に参加している人間だが、今日は週に3回あるはずの活動日のはずなのに『今日は1年生は休み』と通告されていた。
5月1日のこれは毎年の通例なのだろうと考えていると、一之瀬と目が合う。
頷いて放課後の集会に参加の意を示すと、彼女は笑って頷いた。
「うん、大丈夫そうだね。クラスのこととか退学のこととか、考えなきゃいけないこと、話し合わなきゃいけない事は沢山あるけど、このBクラスの皆ならきっと乗り越えられる。私はそう思っているよ」
一之瀬がそう結びの言葉を吐くと、クラスの動揺が目に見えて小さくなっていく。
1時間目の授業が始まるころにはいつも通りの皆に戻っているだろう、と渉が何度目かも分からない一之瀬のカリスマぶりに感心していると、隣の彼女から声をかけられた。
「ありがとね、廻屋くん。ポイントのこととか事前に知ることができたから、皆それほど動揺せずに済んだんだと思う」
「一之瀬さんはAクラスを目指すつもりですか?」
「うん、そのつもりだよ。進路保証がAクラスだけっていうのはショックだけど、だからって諦めたくないから」
卒業後の進路保証を目当てに高育を受験し、狭き門を潜り抜けた生徒がAクラスを目指すのは極自然なことだ。
例え進路保証はAクラスのみという詐欺じみた現実に直面したとしても、学校のルールである以上は生徒に変えることは不可能であるため、思い描いた自分の人生を現実のものにするために足掻くのは、なにも不思議なことではないのだから。
= = =
そしてその日の放課後になり、1年Bクラスでクラス会議が開かれた。
「さて、まずはこのクラスのリーダーを決めようと思うんだけど、立候補する人はいない?」
最初の議題はクラス対抗戦に臨むにあたってクラスを引っ張るリーダーの選出。
例によって壇上に立った一之瀬がリーダーの立候補者を募るが、手は挙がらない。
一之瀬帆波というカリスマを差し置いてリーダーになれという方が酷だろう、と渉が納得していたのだが。
「じゃあ他薦だけど……私は、廻屋渉くんにリーダーをやってもらいたいと思うんだけど、どうかな」
一之瀬が推薦したのは、他ならぬ渉だった。
自身に集まった視線とざわめきに渉がクラスメイトを見回しつつ様子を伺うと、賛同者は4割といったところだった。
「(ポイント減少疑惑の指摘に先の小テストの成績、そしてなにより一之瀬さんの推薦だから――賛同の理由はこんなところでしょう。反対理由は言うまでもなく、一之瀬さんにリーダーをやって欲しいから、か)」
一之瀬帆波の自己評価の低さを考えれば、彼女からの推薦は予想できたことではあった。
問題は、渉自身にその気がないことなのだが……。
仕方ない、と渉は立ち上がった。
「一之瀬さん、貴女の推薦は嬉しく思います」
「やってくれるかな?」
「その前に確認したいのですが、今決めているのはAクラスを目指すためのリーダーということですよね?」
「そうだよ」
「ならば、私ほどリーダーに相応しくない人間はいないでしょう」
渉のその言葉をクラスメイト達が理解するのに、数瞬を必要とした。
「……どういうことだ、廻屋。入学式の挨拶に始まり、ポイントの減少を言い当てて、小テストでは唯一の満点。お前がこのクラスで随一の実力者であることは明白だ。一之瀬がリーダーに相応しくないとは思わないが、実力主義のこの学校で実力者のお前がリーダーに相応しくないとはどういうことだ?」
神崎の困惑しながらも的確な指摘に、クラスメイト達も頷く。
一之瀬帆波にリーダーをやって欲しい層にとっても、廻屋渉が実力者であることは共通認識だった。
「理由は簡単です。Aクラスに執着していないリーダーなんて、争いに臨む以前の存在ですから」