サガルマート編はゴリゴリにオリキャラ同士の恋愛話が出ますが、これはその片鱗です。
サフェルはたいてい、引き際を間違えなたことがない。幼くて走るのが遅い頃から、どの相手なら・どの品物なら盗み出せるのか、万が一バレた時には逃げ切ることができるのか、誰に教わらずとも彼女は知っていた。長じて足が速くなり、そうして詭術の半神となってからは、彼女に盗み出せないものはなくなったし、彼女に追いつけるものもまたいなくなったから、間違えるような引き際もまた消え去った。
──しかし、流石に今回ばかりは間違えたかもしれないな、とサフェルも思わざるを得なかった。
動いている物体のうち、一般的な人間が正しくその姿を捉えて認識するためには約0.1秒が必要になるという。感覚器官が脳に情報を伝達し、微弱な電気信号がその情報を処理して、何が起こっているか把握するまでの最低限の秒数。逆に言うと、その秒数よりも短い時間しか目視できなかった場合、人間の脳はそれを認識できない。ただの「よぎった気のする影」よりも希薄な何かとしか捉えられない、とか。その理屈が正しければ、オクヘイマの市民のほとんどは、今この瞬間にほんの鼻先を掠めて跳躍するものを、認識すらできていないだろう。
それは、しなやかな獣のようだった。タベルナの屋外テーブルから骨董店のカウンター、カウンターから道を飛ぶヤーヌスの創造物、創造物から屋根瓦へ、屋根瓦から別の屋根瓦へ。爪先で着地し、そのまま踏み切り、跳躍。その動作の全てが0.1秒以下という、人知を超越した神速で動いている。もはや跳躍というよりも消失と出現に近い。その速さでありながら誰ともぶつからず、足音もなく、認識の外側にある速さのせいでそれを指摘するものはいなかったが。
サフェルは無色透明の稲妻のように、屋根瓦に渡された布をすり抜け、手すりを飛び越え、一切スピードを落とすことなくオクヘイマの白昼に照らし出された市街地をジグザグに駆け抜けながらちらっと後ろを見た。ひゅう、と口笛を吹く。
「やるじゃん!今まで見てきたどの黄金裔より速い」
それもまた、尋常ならざる速さで動くものだった。ただし、こちらとは動きかたが違う。ある程度は足場を蹴る必要があるため、点から点へ跳ぶサフェルとは違って、一切の点を経由せず、まっすぐこちらへ突っ込んでくる。足場など必要ない。なぜなら、彼女には翼があるから。
それはひとの姿をしていた。具体的に言うとカーラとか言う、天外からのお客様だ。それが背中から生えた、6枚の蝙蝠にも似た翼を高速で羽ばたかせながら、サフェルを追っている。彼女もまた、すり抜ける人込みの誰にもぶつかっていなかったが、こちらは流石に飛んでいるからか、飛翔に伴って掻き分けられた空気が凄まじい風圧となって市民たちを衣服や髪を巻き上げていた。良いスピードだ、とお世辞抜きにサフェルは思った。空気抵抗すら跳び越した速度を手に入れてから、満足のいく鬼ごっこはできた試しがないが、この女はきっちり振り落とされることなく着いてこれている。それだけでも十分上澄みなのだ、誇っていいほどに。でもまだ、自分の方が速い。
もう一段、爪先でぐっと力を込めて走っている屋根瓦を押すと、消失に見まがうほどの速度で何百メートルも離れた、大通りを挟んだ屋根へと跳躍し、着地する──寸前で追っ手と目が合った。それは目がかち合うほどの距離を、既に詰めていた。サフェルよりもずっと濃い青の瞳がまっすぐこちらを見て、こわいほど剣呑な光り方をしているのが分かった。白い手が金のボテスに触れる、その一瞬手前で足を抜いて躱す。
(っ!遊び過ぎた、かな!?)
柱を蹴り、とっととオクヘイマからトンズラした方がいいかも、などと考え始めたところで、サフェルは風を切り裂く鋭い音に斜め後ろを見て、ぎょっとした。カーラではない。多分、彼女由来のものではあるだろうが、ヒト型をしていなかった。それは背骨や骨だけになった動物の尾のように長く、やや幅広で先端が刃物のごとく尖っている。
それが蛇のように意思を持ってくにゃりと曲がり、サフェル目掛けて襲い掛かってくる。スピードを減衰させずにバルコニーの手すりを蹴って躱そうとして、がつん!硬い感触に足をしたたかに払われた。やば、とバランスを崩した視界に、視界の目立たないところを這ってきたのだろう、2本目の骨の尾が見えた。避けた方は陽動で、こっちが本命。うまいことやってくれた、と感嘆気味に、骨の尾でぐるぐる巻きにされて吊るされるのを黙ってされるがままに見ていると、5秒も経たずに困り顔の本体も飛んできた。
翼を仕舞わずに手すりに着地し、自分を釣り上げている女をサフェルは見上げた。ミハニの光を背にした彼女の顔は怒っているようには見えなかった。物を盗まれて、追いかけてきた人間にしては珍しい顔だ、とサフェルは思う。
「……猫ちゃん、なんだか大人しく捕まってくれてるけど、追いかけっこはもうおしまいでいいんだよね」しゅるしゅると、骨の尾が彼女の背骨?に収納されて、長々と伸びていた部分が縮まる。1mの距離を保って、カーラは尾でぶら下げたサフェルをじとりと見た。
「猫じゃないよ、ドロス獣だってば。天外のお客さんは、違いが分からないわけ?」
「分かったよ、訂正する。それじゃあドロス獣耳の可愛いお嬢さん、追いかけっこは終わりにして、私から盗ったものを返してくれる気になった?」
「うーん」サフェルはとても捕まっているとは思えない呑気さで唸った。
「どうしようかなあ……不死身ちゃんの巾着袋からは、とーっても素敵なお宝の匂いがしてたからね。あたし、どうしてもこういう匂いに弱くてさ。どう?いたずらな風にでも攫われたと思って、スられたままにしておくってのは」
「あのね、そんな風にあっさり諦められるようなものをここまで追いかけたりしないよ。大事なものなの、返して」
カーラは呆れたように寄せた。
「言っておくけどこれは交渉じゃないし、お願いでもないからね。あなたが自分で返してくれなきゃ、今からあなたの服を漁って返してもらう。いい?私は本気だよ!」
「へえ!」
サフェルは、その言葉にもちっとも堪えた様子もなく、ふてぶてしく顎を持ち上げた。
骨の尾にぐるぐる巻きにされた状態でも、彼女はまるで自分が会話の主導権を握っているような態度を崩さなかった。事実、こんな拘束には何の意味もなかったし、カーラもそれは分かっているのだろう。捕まってやっているのだ。サフェルがただ、そうしてやろうと思ったから、二人は今会話をしているにすぎない。
「それじゃあ、鬼ごっこの続きをやるしかないかもね。あたしはお宝と同じくらいに鬼ごっこが好きだよ。なんてったって、」
彼女は片目を細めた。ちゃあんと配慮の行き届いた、ほどよい締め付けの尾の隙間から後ろ手を出して、ぴん、とコインをはじく。金で彩られた爪が慣れた様子で小気味よい音を立て、宙でくるりと猫によく似たそれが回転した。コインが重力に引かれてゆき、
「──絶対に勝てる勝負なんだから、しなきゃ損ってもんでしょ?」
そうしてコインがキャッチされるのを、カーラが目視することはできなかった。
釣り上げていたサフェルの輪郭がぎゅん、とぶれて、それを捉えるよりも速く、骨の尾で捕まえていたはずのコソ泥は消えていた。今度こそ跳躍ではなく、消失だった。巻き付けていた骨が抜け殻のように、間抜けにとぐろを巻いているのを見ながらカーラは海よりも深くため息をつく。
今日も今日とて快晴のオクヘイマ。泥棒は暗闇に紛れて盗みを働くと思っていたカーラの固定観念は、どうやら大いなる間違いだったらしい。二人の逃走劇がひと段落して、ようやくざわざわと騒ぎ出した市民たちを眼下にして、カーラは絞り出すような声で情けなく悲鳴を上げた。
「ど、泥棒~………!」
きらきらしたものは好きだ。つい目で追ってしまうし、盗めるものなら全部欲しくなる。ずいぶん昔にそう言うと、トリビーに「フェルちゃん、それじゃドロス獣っていうよりカラスだよ」と呆れられた覚えがある。サフェルはカラスではないし、光りものならなんでもいいわけではないのだから、そうじゃないってば姉さん……と口答えしていたはずだ。多分。
きらきらしたものとは、例えば宝石や古い硬貨や、緻密な宝飾品や彫刻、刺繍の施された美しい衣服のことだ。手間暇をかけて作られて、その価値が分かる人に大事にされてきたお宝たち。日の光を跳ね返して、見た人を立ち止まらせてしまうような力と価値を持つもの。そういうものは、ついつい自分だけが見える場所に置いておいて、ときどきそっと撫でては優越感に浸れないだろうか──むくむくとそんな妄想が膨らんで、サフェルは輝くものたちを「連れ出して」しまう。「これ」もそういう類のものだ。サフェルが思わず振り返ってしまうほどきれいだったから、盗んできてしまった。
「おお……近くで見てもやっぱりいいね。あたしってば見る目あるじゃん、当たり前だけど」
サフェルはヤヌサポリスの階段に腰かけて、懐の巾着から中身を取り出すとしげしげと眺めた。
先ほどまでオクヘイマで繰り広げられていた超高速鬼ごっこの原因となった、天外のお客人の持ち物だ。特に込み入った事情はない。たまたまクレムノスの王子様に彼女が見せてやっているのを目撃して、「欲しいな」と思ったから盗んで、意外にも目敏かったカーラが気づいて逃走劇になった。言葉にすれば単純だが、そんなことはどうでもいい。大事なのは、追いかけっこの勝者はサフェルで、これの持ち主もサフェルになったということだ。
戦利品は、指輪だった。オクヘイマでよく見るような、金属製の台座とリングに宝石が取りついたタイプではなく、リングそのものがひやりと冷たい石でできているという一風変わったものだった。ぱっと見では灰色のようにも見えたが、それは単に、背景がヤヌサポリスの石畳だから、というだけで、指輪を持ち上げて夜空に透かせば指輪はたちまち濃紺に変わる。
(すごい透明度の高い石だなあ)
サフェルはもっとよく見ようと目に近づけると、指輪は完全な無色透明というわけではなくて、中にちらちらと金粉のような……あるいは星のようなインクルージョンが含まれているのが分かった。大小さまざまな金の欠片を散りばめた、色のない石。水晶にも金剛石にも石英にも似ているようで違う。泥棒として多種多様な宝石に出合ってきたサフェルからしても、美しいけどよく分からない素材だった。
透明な指輪の表面には、彫刻が刻まれている。何の意匠かは読み取れなかった。辛うじて山?のようなものが彫られているのは読み取れたが、その他はさっぱり分からない。花や幾何学模様のような、アクセサリーに取り入れられることの多いものではないことだけは確かだ。つるつるとした表面に刻み込まれた意匠を指でなぞりながら、サフェルはご機嫌に喉を鳴らした。追い比べで誰かを負かすのは楽しいし、その上にきらきらと光る戦利品があるのならなおのこと。
「不思議な指輪ちゃん、あんたって一体何でできてるのかな?みんな大好きダイヤモンド?それとも水晶?氷翡翠、石英、うんと色の淡いアクアマリン?はたまたオンパロスにはないお宝鉱物……」
呑気に節をつけて調子っぱずれに歌いながら、サフェルは指輪の穴からうっとりと夜空を見つめる。遠い星々だけが光る星空を背に、濃紺に染まる指輪は、夜の美しい部分を削りだした結晶のようだった。
「──『無垢石』、ニルマライトだよ。良い名前でしょ?覚えて行ってね、泥棒さん」
そうして返答があった。無人のはずの背後から、気配もなく。サフェルが瞬時に屋根の上に飛び下がるのと、カーラが肉体の「構築」を終えたのはほとんど同時のことだった。先ほどとは違って翼を仕舞った姿の、息のひとつも乱していない追跡者はじっと頭上のサフェルを見ていた。
(ここまでやって追いつかれたの、初めてだ。……どうやって?不死身の上に瞬間移動みたいな能力持ってるわけ?)
流石に何でもありすぎでしょ、と警戒を解かないままサフェルが胸中で自分の速度に追いつかれたことの焦りと、八つ当たりのように湧き上がってくる文句を噛みしめていると、カーラは彼女の心を読んだような調子で腕を組んだ。青い瞳には相変わらず怒りというよりも呆れの色が強く浮かび上がっている。永夜のヤヌサポリスで、カーラの瞳は内側から光を放っているようにも見えた。
「さっきの追いかけっこは私の負けかもしれないけど……あなた今、私がどうやってここに来れたか分かってないでしょ。私にはあなたがどこに行こうと追いつける手段がある。追いかけっこが好きって言ってたし、まだ続ける?あなたが飽きるまで付き合ってあげてもいいけど、『絶対に勝てる勝負』にはならないよ」
「……ずいぶんな自信じゃん。盗んだものを返すって言ったら、追いついた手段について教えてくれる?」
「良いけど、指輪を返すのが先。そうじゃないとあなた、聞くだけ聞いて逃げちゃいそうだもの」
まったく信用のない口ぶりに、サフェルは眉を上げた。どうやらただのお人よしのお馬鹿さんってわけでもないんだな、と失礼な感想が浮かぶ。巾着袋はまだサフェルの懐だ。有利なカードを持っているのはこっちだけど、それでも瞬間移動のネタが分からない以上、絶対はなくなってしまった。あと何回か試して種と仕掛けをバラしてやるか、カーラが諦めるのを待つか……とずる賢い脳を働かせていると、カーラはサフェルから目を離さないままに、ふう、と肩の力を抜いた。疲れてくれたのなら儲けものだけど、とサフェルはつかの間思ったが、目が合ってすぐに、そんなことは起こりようがないのだ、と理解する。
「……あのね、ドロス獣耳のお嬢さん。私、あなたと駆け引きや言葉遊びがしたいんじゃないの。そんなことやらないよ、『返してもらう』ことは決定してるんだから。もし私が諦めたり疲れたりするのを期待しているのなら、それは起こりえない未来だから謝っておくね。あなたが先に諦めて」
「……言うじゃん。そんなに大事なものなら、服のポケットじゃなくて金庫に入れておくべきだったんじゃない?」
「どうして?大事なものなら、一番近くにおいておきたいでしょ。だいたい、それ──」
なぜかカーラは途中で言葉を切って、少し迷うような顔をした。それでもコバルトブルーの瞳の裡で、読み取りがたい感情が揺れたのもほんの一瞬だった。唾を飲み込んで、骨ばった指がサフェルの持つ指輪を指して言う。ちらちらと輝く星を宿した、無色透明の、氷河を切り出してきたみたいな指輪を。
「──それ、私の婚約指輪だよ」
「………………」
「恋人がずっと前にきれいな箱に入れて、私にくれた約束なの。何にも替えたり、盗まれたりすることを許容したりなんてできない。あなたが盗んだのは、そういう代物なんだよ。あなたにとってその指輪は、ただの珍しいアクセサリーなのかもしれないけど、私にとっては違う。もう一回言うけど──返して。私の婚約指輪。あなたが持っていていいものじゃないよ」
サフェルはその言葉を聞いて、どんなに程よい言い訳を並べ立ててやろうかあれこれお考えて、しかし結局のところいいものはちっとも思い浮かばなかった。あらゆる窃盗には古今東西正当化するストーリーが付け加えられる──例えば相手が悪徳商人だから奪ってもいいとか、盗みだされたお宝は曰くつきのものだとか──人々はそういうお話が大好きで、ただのコソ泥を義賊なんて呼んだりする。でも、きっとどんなお話のなかでも、恋人に贈られた婚約指輪を盗む泥棒は、非難されるに違いない。
サフェルは名残惜しげに透明の指輪を眺めてから、しぶしぶ刺繍の施された巾着袋にしまい込んだ。それを二度、三度手の中で弄びながらむぎゅっと口をしかめる。ドロス人として、盗んだものを返すなんてプライドに反するどころの話ではない──しかしながら、今回ばかりはこう判断せざるをえなかった。
(はあ。あたしとしたことが……盗むものを間違えたな、これは)
「……分かった分かった。いいよ、あんたの指輪は返してあげる、不死身ちゃん。ほら、」
ひょい、とヤヌサポリスの夜闇に、ミントグリーンの巾着袋が浮かんで、それを慌ててキャッチしたカーラは巾着袋の中身をしげしげと眺め、何やら指を突っ込んで確かめた。一通りごそごそとして気が済んだのか、ほっと肩を落としてカーラは腰帯にそれを引っかけると大事そうに指の背で撫ぜた。
「さ、指輪を返してあげたんだから次はあんたの種明かしの番だよ。あたしの移動にどうやって追いついたのか、教えてくれないとね」
「元から私のものなのに。あげるって何、あげるって……」
ぶつぶつ言いながら、カーラは一足でサフェルの立っていた屋根まで飛び上がると、ずぼっと無遠慮に彼女の服のポケットに手を突っ込んだ。
「にゃに!?」
「あ、これこれ」
全身の毛を逆立てる猫みたいに距離を取ったサフェルにもお構いなし、カーラの手には黒い一本の髪の毛が握られていた。夜に溶けこむような色の、すこし跳ねた毛。訝し気に見るサフェルがそれが何?と問うとカーラは私の髪の毛、と答える。
「私は、特殊な方法で切り分けた肉体の一部から、新しく体を構築することができるんだよ。だからさっきオクヘイマであなたに追いついたとき、万が一に備えてあなたのポケットと…フードの内側に何本かこっそり入れておいたの。それであなたがここに着いたときに、髪の毛の切れ端のひとつから再構築したってわけ。だから瞬間移動ではないかな」
「なんでもありすぎでしょ!えっ、じゃあ『オクヘイマにいたあんた』はどうなってんの?今二人になってる訳じゃない……よね?」
「もちろん違うよ。『オクヘイマにいた私』は一旦死んで、そこからこっちで再生したの」
本当になんでもありすぎでしょ……とサフェルは引いた顔でカーラを見つめた。天外からのお客さんは何でも不死身らしいという噂を聞いたときには、へー王子様とキャラ被りしてんじゃんと舐めたことを考えていたが、こいつはなんかもうちょっと生態がヘンだ。どうやって『オクヘイマにいたカーラ』が一旦死んだのかはもはや怖すぎて聞けなかった。
まあなんにせよ、と気にした様子のないカーラは、すこし相好をくずして笑った。鬼ごっこを始めてから初めての、力の抜けた笑い方だった。
「あなたが、婚約指輪の意味を分かってくれるひとでよかったよ。荒っぽい手段に出るのは嫌だしね」
「…………はあ。せっかくのお宝をみすみす返すなんて、ドロス人としてはすっっごく信条に反するんだけどね。て言うか、あんた」
まるで自分が良識あるやつみたいに言われて、サフェルはケ゚ッと苦いものでも食べたみたいな顔になった。話題を逸らそうと、彼女は金のネイルを施した手で、せっかく返して「あげた」巾着袋をびし、と指さす。
「大事な指輪、返してあげたのに付けないんだ?……あでも、さっき王子様に見せるときも袋から出してたか。傷つきやすい石なわけ?」
「……?」
きょとんと青い目を丸くしたカーラは、はてと考えてから、ようやく合点がいったように破眼した。
「そっか、ニルマライトを知らないとそう見えるよね。ええと、傷つきやすいなんてことはないよ、この石は故郷の特産品で、鉄やダイヤモンドよりも硬くてへき開もしにくい。私がこの指輪を付けないのはそんなに大した理由じゃないんだよ」
カーラは、面白がるような色をその瞳に浮かべてサフェルを見た。ちょっと嫌な予感を覚える彼女が首を傾げると、客人はあなたとは楽しい追いかけっこができたから、お礼に見せてあげる、とにんまり笑った。
「きれいでしょ、ニルマライト。サガルマートでは無垢と浄化を象徴する聖なる石で、主に婚約指輪と」
袋から出した指輪を、カーラはそうっと衣服の端でつまんだ。まるで、触れるのも躊躇われるとでも言うような仕草だった。透明の、星の欠片みたいな金がちらちらと舞う、不思議で美しい指輪を、彼女が右手の薬指に嵌めた瞬間に、
──じゅう、と音がして、細い煙が立ち上った。肉の焦げる嫌な臭いが鼻をつく。
「アスラを殺す弾丸に使われるの。不死の私たちを殺せる、たった二つの手段のうちのひとつがこのきれいな石なんだよ。この石で損傷した部位はふつう、治らない。まあ、私は厳密に言うとニルマライトでは死なないし傷も治るんだけど、それでも有害ではある。こんな感じに」
カーラの骨ばった白い指は、指輪が触れた部分が肉どころか骨が焼き切れていた。とてつもない高温の鉄がその部分に振るわれたように、断面が黒く炭化して、辛うじて残った皮一枚を頼みにして、ぷらぷらと千切れかけた指先が揺れている。くすりと笑ったカーラは、指を焼き切りかけたその美しい、透けた凶器をまた服越しにつまんでするりと指から抜く。そうしてサフェルがさっきそうしたように、色のない指輪をかざして、輪の中からこちらを見た。
「あはは、びっくりさせちゃった?少ししたら治るから、心配しなくても大丈夫。……でもまあ、この指輪を付け続けてると流石に治るものも治らないから、結局もらってから一度も指に嵌めたことがないんだけどね。かわいそうだけど、ずっとこの巾着でお留守番」
「……あ、あんた……」
ぎょっとサフェルは焼き切れかけた指を見た。その、明らかに他人様にお見せするもんではないだろう血生臭い光景を目の当たりにしながら、心の奥の方からさあっとなにか、熱が冷めていくような感覚がするのを自覚した。先ほどまで、婚約指輪と聞いて返しはしたものの、「欲しかったなあ」というような僅かな未練が、みるみるうちにしぼんで消えていく。
大切にされているお宝が好きだ。もちろん、悪人がせっせと貯めこんだテミスの山だって好きだけれど、やっぱり、持ち主に大事にお手入れをされて、身に着けるときにはきらきらと輝くようなものの方に惹かれてしまう。この指輪だって、そうだと思ったから欲しくなった。ひかる透明な指輪をモーディスに見せているときのカーラが、あんまりにも幸せそうに、嬉しそうに青い眼を細めているから欲しくなった
(……でも、)
そんなに大事そうにしているものは、彼女の肉体を灼いている。煙を上げて焦げ付き、嫌な臭いとともに肉と骨を蝕むような代物を、カーラは後生大事にして、盗んだサフェルを地の果てまで追いかけまわした。人間のほとんどは、ガラスの小瓶に入った毒薬を愛することはできないのに、カーラにはそれができるのだ。それがひどく奇妙で、理解しがたい行いに思えて、サフェルはなんだか目の前の女が哀れなような、それでいてほんの僅かに共感できるような……あるいは純度の高い愛情を垣間見たような心持ちになった。
「……その、指輪」
「ん?」カーラが首を傾げる。
「あんたの恋人は、何て言って渡してきたわけ?付けられもしない、あんたの肉を焼くものを婚約の証に……って?」
サフェルの意地のわるい問いかけに、カーラは苦笑して違うよ、とゆるく首を横に振った。
「ニルマライトは人間には無害な石だからね。私は一時期、人間に戻る予定だったから……そうしたらこの指輪だって、私の指に嵌めることができるはずだったんだ。人間に戻ったら結婚しようって。そういう約束だった」
カーラはうっとりと、巾着袋をそっと撫ぜた。サフェルは、どうしてか──この、話すのが初めてのこの奇天烈な女に、なにか言ってやりたいという衝動がもぞもぞと唇を震わせて、それから口を開いた。
「あのさあ。あんたの恋愛関係なんて、あたしの知ったことじゃないけど……」
「けど?」
「ふつうは、婚約指輪にそんな石を選ばないんじゃないの。大事な人を、一時的にでも傷つける可能性があるようなものを……」
彼女はその言葉にきょとんと眼をまるくした。縦長の瞳孔を宿したコバルトブルーが、子供みたいら仕草でサフェルを捉えて、それからふっと目を細めた。永夜の帳のもとで、その美しい薄闇にふちどられたカーラの顔を瞬く間にたくさんの感情と時間がよぎって、彼女は蚊のなくような声で、そうかもしれない、と呟いた。
「彼に、いつか嵌められるかもしれない指輪より、今私が嵌められる指輪をちょうだい、って言えばよかったのかも。……でも、あの時の私には彼が差し出してくれたニルマライトの指輪が本当に嬉しかったし、どんなに高価な宝石やブランドものよりも、自分の肉を焼く石でできた指輪がいちばん美しく見えたの。違うな。そう見えてるんだよ、今もね」
「……へんなの。自分を傷つけるものを、後生大事に持っておく必要ある?」
「あるよ。プレゼントは、何を貰ったかじゃなくて、誰に貰ったかでしょ?皆、このひとがくれるものなら、毒でも宝石でも紙屑でも嬉しく思えちゃうような相手がいて、私の場合はそれが昔の恋人だったってだけの話」
あなたにもいるんじゃないの、そういうひと。
思わず気圧されるような、つよい光を放つ目でカーラはサフェルを見ていた。サフェルの名前さえ知らないだろうに、全てを見透かされているような奇妙な居心地の悪さを覚えた。
いる。いるとも、こんなコソ泥にだって、何にも替えがたいほど敬愛するひとくらい。この人に貰うものなら、塵の一粒だって輝いて見えるようなひとが、サフェルにもいる。
そう思うと、それ以上は言い募るのが憚られて、サフェルは黙った。もし、彼女が履いている金のボテスが足に合わなくって、歩くたびに靴擦れを起こすとしても──サフェルはこれを履かないという選択肢がない。アグライアが在りし日の自分のために選んで、贈ってくれたものだというそれだけで、サフェルは絆創膏を足に貼りながらでもこれを履いて歩くことを選ぶだろう。カーラにとっては、それがこの指輪の送り主なのだ──サフェルと違うのは、本当にそれが自分の身を削るものである、という点だけ。
きっと、いい思い出があるんだろうな、とサフェルは勝手に想像した。口ぶりからして長いこと会っていなさそうなのに。婚約指輪であって結婚指輪ではないことから、たぶん、結婚には至らなかったんだろうに。それでも、自分の肉を焼く指輪を取り返そうと必死になれるほどの、けざやかな愛の記憶がカーラにはあるのだ。
ふたりの間に短い沈黙が流れ、それをタイミングよく破るように電子音が鳴った。
「ん?なんだろ」
カーラが音の出所の端末を操作して、何やらじいっと画面を見てから視線を上げた。碧眼が面白がるように、にんまりと笑みを湛えてサフェルを捉えている。
「あなた……そういえば名前を聞いてなかったけど、まさか今知ることになるなんて」
「な、なに。何の話さ、急に」
「セファリアって言うんだ?かわいい名前だね」
ぎょっとサフェルが誰からのメッセージかと身構えると、カーラはあっさりと今しがた送られてきたメッセージ欄を見せてきた。よくわからない風景を背景にしたトーク画面には、送り主の名が左上に明記されている。アグライア。見覚えのありすぎる、黄金の蝶のアイコンに、サフェルは毛を逆立てた。
『カーラ、先ほど雲石市場であなたとセファリアがとてつもない速さで逃走劇を繰り広げていたようですね。その後急に金糸で捉えられなくなりました』
『まさかとは思いますが、互いの血を流すような事態にはなっていないことを願います。事態がひと段落ついたら、顛末を必ず報告してください』
相変わらず、絵文字も感嘆符のひとつもついていないのに、妙な威圧感を醸し出すメッセージ……怒る前のアグライア特有の文に、サフェルは反射でぎゅっと自分の体を抱きしめた。反対に、カーラはむしろ面白がるような顔でメッセージとサフェルを見比べると、その顔に満面の笑みを浮かべた。何笑ってんの、と唇を尖らせるとカーラはだって、と楽しそうに言った。
「アグライアもこんなに分かりやすいメッセージ、送るんだって思ったらおもしろくて。セファリアはアグライアと仲がいいんだね。彼女ったら、私と追いかけっこをしてあなたが痛い目にあってないか心配でたまらないんだ」
「……ずいぶん分かったみたいなこと言うんだね。あの裁縫女は雲石市場をしっちゃかめっちゃかにしたあたしたちに、怒り心頭ってだけかもよ?」
「そう?彼女、私が不死身で血なんか流したところでどうもないこと、知ってるんだよ。だからこれはつまり、『お前、うちのセファリアちゃんに怪我をさせてんじゃないだろうな』ってことかと思ったんだけど。付き合いの長いあなたには、また違う風に読み取れるものなの?」
まあ私はあなたたちの関係をよく知らないからなんとも言えないけど。
サフェルは押し黙った。
癪なことに、たぶん、その読みは当たっているだろうと彼女も思ったからだ。アグライアは昔とちっとも変わらず、大きくなったサフェルをまるで子供みたいに扱うし、こうやって盗みを働いた彼女が怪我をしていないか心配している。馬鹿らしく、すこし過保護に、そうして真剣に。
(そんなこと、しなくていいのに)
サフェルはもう金のボテスが履ける大人になったし、アグライアの手元にはもうボテスはない。オクヘイマにいるときに、サフェルを思い出すような、素敵な贈り物はついぞ渡せなかった。昔のふたりを繋いでいた縁なんてとっくに切れているはずなのに、浪漫の半神の金糸がちゃんと繋がっていることをサフェルはこういう時にしみじみと実感する。
「あなたが私の婚約指輪を盗んだから、追いかけっこする羽目になったのになあ。アグライア、怒ってると思う?」
「……さあね!金織様のことだから、市民をビビらせたかどで怒られるのかもよ」
カーラはため息をついて、ゆるい顔の猫のスタンプを送った。なぜか『全員無事です!』の文字のついた、状況にあっているんだかなんだかよく分からないものだ。1秒もまたずして、既読が付いたので、カーラは更に肩を落とすことになった。
ニルマライト
サンスクリット語の「純粋な」「汚れのない」等の意味からとった鉱石。サガルマートの特産品。武器でもあり、半導体的な用途もある異様便利鉱石。高い。
カーラの元カレ
ホントにキモい奴。カーラさんは男の趣味が悪い。知り合いの呼雷にすら普通に嗜められたことがある。