️風の女神は我慢できない ~お供え物だけじゃ足りないので、分御霊になって直食いしに来ました~ 作:月影 流詩亜
◇ 最強の魔獣、沈む ◇
常緑の迷宮からの凱旋。ムコーダ一行は、予定を遥かに上回る魔石と素材を手にカレリーナの街へと戻った。ギルドでの換金を済ませ、懐が温かくなったムコーダは、意気揚々と宿の厨房を借りて「打ち上げ」の準備に取り掛かっていた。
「よし、今日は奮発して『オーク・ジェネラルのカツレツ』だ! ニンニンちゃんがダンジョンで獲ってくれた極上の肉だよ」
黄金色に揚げ上がった、顔の大きさほどもある巨大なカツ。サクサクの衣に包まれたジューシーな肉の香りが、食卓を満たしていく。
だが、いつもなら「よし! 出せ!」と一番に吠えるはずのフェルが、今日は動かなかった。
「……フェル? どうしたの、食べないの?」
ムコーダが不思議そうに声をかける。フェルは床に伏せたまま、力なく鼻を鳴らしただけだった。
『……む。……主よ。……今は、肉の匂いが、少しばかり……きついのだ』
「ええっ!? フェルが肉を拒否するなんて、明日、槍でも降るんじゃないか!?」
ムコーダは慌ててフェルの傍らに駆け寄り、その大きな頭を撫でた。熱はないようだが、心なしか黄金の毛並みが元気を失い、パサついているように見える。
「……ふん。呪いなどではない。ただの『知恵熱』じゃ」
隣で既に自分のカツレツを半分平らげ、口の端にソースをつけたニンニンが、冷淡な声で言い放った。
「知恵熱? フェルが?」
「そうじゃ。お主のために魔物を狩り、余の隠蔽魔法を維持し、さらに神界の連中……いや、余の『親戚』からの念話という名の罵声を、中間で受け止めておったのじゃからな。精神的な胃痛、といったところか」
ニンニンは、他人事のように最後の一口を飲み込んだ。だが、その瞳は、伏せったままのフェルを盗み見るように、僅かに揺れていた。
◇ 献身と、深まる「聖なる誤解」 ◇
その夜。宿の部屋は、これまでにないほど静まり返っていた。ムコーダはフェルのために、肉を一切使わない「消化に良い卵雑炊」を特別に作った。ネットスーパーで『紀州南高梅』を取り寄せ、出汁の香りを優しく立たせた一品だ。
「フェル、これなら食べられるかな? 無理しなくていいからね」
『……うむ。……すまぬ、ムコーダよ』
フェルは、ムコーダがスプーンで運ぶ雑炊を、ゆっくりと口にした。
そんな一人と一匹の温かな輪から少し離れた場所で、ニンニンは独り、窓の外の月を眺めていた。
(……なんじゃ。あやつら、余をのけ者にして。……フェルめ、たかが少し中てられたくらいで、ムコーダに甘えおって。……情けないのう)
ニンニンは、手に持っていた『ヨネ・コーラ』を一口飲んだ。だが、いつもは刺激的で美味しいはずの炭酸が、今はひどく味気ない。
自分がわがままを言い、神界との板挟みにさせ、さらにはダンジョンで暴れた。そのしわ寄せが、この不器用な魔獣に行っていたことに、彼女は気づいていた。
「……ふん。余は先に寝る。……ムコーダ、明日の朝食はパンケーキを五枚重ねにするのじゃぞ。わかったな」
「あ、ああ、お休み。……ニンニンちゃん、本当は心配してるんだよね?」
「……知らぬわ!」
ニンニンは毛布を頭まで被り、背中を向けた。
(……やっぱり。ニンニンちゃん、本当はフェルを心配してるんだ。でも、自分の気持ちを素直に言えない……。きっと、故郷じゃ弱音を吐くことも許されない、厳しい環境だったんだろうな……)
ムコーダの脳内では、またしてもニンニンの不遇な過去が「介護に明け暮れる幼少期」へと書き換えられていた。
◇ 深夜の「風の癒やし」 ◇
深夜。ムコーダが寝息を立て、スイもマジックバッグの中で丸まって眠りに落ちた頃。
ニンニンは静かに毛布を剥ぎ、月明かりの下、フェルの傍らに歩み寄った。
フェルはうなされていた。微かな唸り声は、次元の壁を越えて飛んでくるアグニたちの罵声を、無意識に追い払おうとしているかのようだった。
「……まったく。お主は、我慢強いのか、それともただの阿呆なのかのう」
ニンニンは膝を突き、フェルの額に白く細い手をそっと置いた。受肉している今の彼女には、本来の神力の極一部しか残っていない。だが、それでも彼女は「風の女神」である。
「……風よ。彼の者の内にある淀みを、濁った気を、全て空の彼方へ運び去れ」
ニンニンの手から、淡いエメラルドグリーンの光が溢れ出した。それは傷を癒やすためのものではなく、魂の疲労を洗い流し、安らぎを与えるための「風」であった。
数分後。フェルの呼吸が穏やかになり、険しかった表情が解けていく。ニンニンは満足げに鼻を鳴らすと、懐から「あるもの」を取り出した。
「……これ、明日のおやつにしようと思っておったのじゃがな。特別じゃぞ。本当に、今回限りじゃからな」
彼女がフェルの枕元に置いたのは、ネットスーパーでも人気の『特選・生クリームプリン』であった。
◇ 雨降って地固まる ◇
翌朝
「……んおっ!? 身体が……軽いぞ!!」
フェルの咆哮が宿中に響き渡り、ムコーダは飛び起きた。
「フェル!? 治ったの!?」
『うむ! 胃の重みも、あの五月蝿い声も、綺麗さっぱり消えておる! むしろ昨日よりも力が漲っているほどだ! ムコーダ、肉だ! カツレツを五枚持ってこい!!』
「良かったぁ~! やっぱり卵雑炊が効いたんだね!」
ニンニンは、部屋の隅で欠伸をしながら、その光景を冷ややかに見守っていた。
「……やかましいわ。朝から獣が吠えるでない」
『……
フェルが、ニンニンの方を見た。その視線は、枕元の「空になったプリンの容器」と、彼女の僅かに寝不足な目を行き来した。
『……礼を言っておこう。あの、冷たくて甘い「ぷりん」というやつ、案外悪くなかったぞ』
「……はぁ!? 何のことじゃ! それはムコーダが勝手に置いたのであろう!」
「え? 俺、プリンなんて出してないけど……」
ムコーダが不思議そうに首を傾げた瞬間、ニンニンの顔が爆発したように真っ赤になった。
「……し、知らぬ! 妾……余は知らぬ! きっと、故郷の家族が間違えて転送してきたのじゃ! お主、そんなゴミをいつまでも見ておるでない!」
ニンニンは風の魔法で強引にプリンの容器を窓の外へ吹き飛ばし、プイッとそっぽを向いた。
(……ああ。ニンニンちゃん、自分の大切なおやつをフェルにあげたんだね。自分はパンケーキ五枚なんて言っておきながら、実はフェルを一番に考えて……。なんて健気な子なんだ!)
ムコーダの「聖なる誤解」は、もはや止まることを知らなかった。ニンニンが「ダメ女神」であることを示す証拠さえも、彼のフィルターを通せば「不器用な愛」へと変換されてしまう。
「よし! フェルの快気祝いだ! 今夜は豪華なバーベキューにするよ!」
『うむ!』
『わーい!』
「……ふん。余のパンケーキも忘れるなよ」
銀髪を揺らしながら歩き出すニンニンの口元は、ほんの少しだけ、緩んでいた。