️風の女神は我慢できない ~お供え物だけじゃ足りないので、分御霊になって直食いしに来ました~ 作:月影 流詩亜
◇ ちっぽけな背中 ◇
「……逃げ、て……ニンニンちゃん……。君じゃ、そんなの……っ!」
ムコーダは、震える声で絞り出した。目の前に立つ少女の背中は、あまりにも小さい。邪竜の、山のように巨大な影に比べれば、今にも踏み潰されてしまいそうなほど儚く見えた。
だが、立ちはだかる少女――受肉した風の女神ニンリルは、微動だにしなかった。彼女の背中からは、これまでの「残念な食いしん坊」としてのオーラが一切消え失せ、代わりに、万物を圧伏する絶対的な静寂が漂っていた。
「逃げよ、だと? ……ムコーダ、お主、大きな勘違いをしておるな」
ニンリルは、振り返らずに答えた。その声は、鈴の音のように澄んでいながら、世界の理を震わせる風のごとき重圧を孕んでいた。
「
「えっ……?」
「お主を失うことは、
その動機は、あまりにも不純。あまりにも俗世的。
だが、その瞬間、ニンリルの周囲で渦巻く魔力は、一国の軍隊を数秒で塵に変えるほどの密度にまで跳ね上がった。
◇ 神化 ◇
『ギギ……、愚カナ……。小サナ……神ノ欠片ガ……我ニ……抗ウカ……ッ!』
邪竜が咆哮し、再び『腐食のブレス』を吐き出した。全てを黒く染め、分子レベルで崩壊させる死の濁流が、ニンリルを呑み込もうと迫る。
「……五月蝿いと言っておるのじゃ、骨」
ニンリルは、胸元にそっと手を当てた。受肉した少女の肉体の深奥。そこに封じ込めていた「神の核」を、彼女は躊躇なく自らの手で握り潰すイメージを描いた。
『――拘束制御術式、全段解放《オール・リリース》』
ドォォォォォォォォォン!!
一瞬、世界の音が消えた。
夜空が、まるで見えない巨人の手によって引き裂かれたかのように割れ、そこから純白の光の柱がニンリルへと降り注いだ。少女の姿を依り代として、本来の「風の主神」としての膨大な神気が、現世へと逆流する。
光の中に現れたのは、成人の、あまりにも美しく、あまりにも神々しい女神の幻影。
銀糸の髪は天へとたなびき、瞳には暴風の智慧が宿る。彼女がただそこに立つだけで、邪竜が放った腐食のブレスは、まるで透明な壁に当たったかのように霧散し、逆に邪竜へと押し戻された。
『ナ、ナニ……!? 貴様……タダノ分身デハ……ナイ……ッ!?』
「ひれ伏せ。そして懺悔せよ。……お主は、神の楽しみ――おやつタイムを邪魔した。それは、この世界のいかなる法よりも重き罪、万死に値するのじゃ!!」
◇ 一方的な蹂躙 ◇
もはやそれは、戦闘と呼べるものではなかった。
ニンリルが細い指先をスッと横に振る。ただそれだけで、目に見えない「風の真空刃」が数百発、同時に放たれた。
『ギャアアアアアアアアッ!!』
邪竜の、鋼よりも硬い腐食の骨が、まるで紙細工のように容易く切り刻まれていく。再生能力を上回る速度、上回る密度。ニンリルは一歩も動かず、ただその瞳に冷酷なまでの怒りを湛え、空中に浮遊するだけであった。
「その再生、いつまで持つかのう? お主の腐った骨、一枚一枚、極薄の『ポテトチップス』のように削いでくれるわ!」
ニンリルが掌を邪竜へ向けると、巨大な竜巻が邪竜を包み込み、そのまま宙へと吊り上げた。
「ムコーダの唐揚げは、お主の腐った吐息より熱く、激しい。……お主のような、不味そうな骨に、一口たりともこの世の空気を吸う資格はないのじゃ!!」
◇ 聖なる誤解の極致 ◇
その凄まじい光景を、ムコーダは震えながら見つめていた。だが、認識阻害のフィルターは、この神威を「悲劇的な自己犠牲」としてムコーダの脳に焼き付けていた。
(……ニンニンちゃん、あんなに光り輝いて……でも、体が……体がどんどん透けていってる……!)
ムコーダの目には、ニンリルが命の蝋燭を無理やり激しく燃やし、その代償として存在が消えかかっているように見えていた。
(……俺を守るために。俺が食べさせた唐揚げの恩を返すために、あんな恐ろしい力を使って……。自分を犠牲にしてまで、俺を助けようとしてくれてるんだ……っ!)
「ニンニンちゃん! もういい! もういいんだ! 逃げよう! 君が死んだら、何の意味もないんだよ!!」
ムコーダの叫びは、吹き荒れる嵐の音にかき消された。
「……さて。あまり時間をかけると、ムコーダのスープが冷めてしまうからな。……とっとと、塵に帰すがよい」
ニンリルの頭上に、一点の光が集まった。
「魔法名:『【神罰・断罪の暴風《テンペスト・オブ・ニンリル》』」
ニンリルが指を弾いた。
光の弾丸が、邪竜の眉間を貫いた。直後、邪竜の全身から眩いばかりの銀色の光が溢れ出し、内側から吹き荒れる嵐が、骨を砕き、瘴気を焼き、呪いを風へと還していく。
邪竜は、断末魔の叫びを上げることすら許されず、文字通り「原子レベル」で分解され、夜空の彼方へと消滅していった。
静寂が戻った。
だが、ムコーダが駆け寄ろうとした瞬間、ニンリルの身体が、足元から光の粒子となって夜風に溶け始めていた。
「ニン、ニンちゃん……?」
「……あ、あら。……やはり、少しばかり張り切りすぎたようじゃな……」
崩壊していく器の中で、ニンリルは力なく微笑んだ。
ムコーダの「聖なる誤解」という名の涙が、静かに地面にこぼれ落ちた。