️風の女神は我慢できない ~お供え物だけじゃ足りないので、分御霊になって直食いしに来ました~ 作:月影 流詩亜
少し離れた世界線だと思ってもらえると嬉しいです。
◇ 風の女神は清潔がお好き ◇
「耐えられぬ。もはや一刻の猶予もない。ムコーダよ、今すぐ余を清める場所を用意せよ!」
野営地に到着するなり、ニンニンは馬車の御者台を叩いて宣言した。その顔は、ポテトチップスを食べていた時の恍惚とした表情とは一変し、悲壮感すら漂わせている。
「急にどうしたのさ。……ああ、砂埃?」
「そうじゃ! この数日の強行軍、風の加護ある余の銀髪が、下界の塵と馬の放つ得体の知れぬ臭いに汚染されてしまった! 今の余からは、昨夜の焚き火の煙と、フェルの獣臭しかせぬ!」
『……言わせておけば。我の臭いではない。それはお主が昨夜、我の腹に顔を埋めて寝ていたからだろう』
「うるさい、毛玉! ムコーダ! お主、以前『風呂』という文化を語っておったな! 湯に身を浸し、心の汚れまで洗い流すという……。今こそ、その伝説を具現化する時じゃ!」
(……そっか。きっとニンニンちゃんの故郷じゃ、お風呂なんて贅沢品で、冷たい川の水で体を洗うのが精一杯だったんだろうな。だからこんなに必死なんだ……)
ムコーダの脳内では、またしても「貧しい村の苦行」エピソードが捏造されていた。
「わかったよ。少し準備するから待ってて。スイ、お湯をお願いできるかな?」
『はーい! スイ、あったかーいのでだすねー!』
◇ 現代文明のバスグッズ召喚 ◇
ムコーダは、カレリーナの街で購入した大きな湯船を据え、周囲に土魔法で高い壁を作った。そしてネットスーパーで、本日の主役とも言えるバスグッズ一式を召喚した。
「よし、結界……じゃなくて、この壁の中で入浴して。はい、これ。使い方は教えるから」
ムコーダは、色とりどりのボトルを並べた。
「このピンクのが『シャンプー』。髪を洗うやつ。こっちの白いのが『コンディショナー』。髪をさらさらにする。で、この青いのが『ボディーソープ』だ」
ニンニンは、プラスチックボトルの滑らかな曲線と、そこに描かれた花のイラストを食い入るように見つめた。
「なんじゃ、この精巧な意匠は。……そして、この蓋を開けた瞬間に広がる香りは……ッ!」
彼女がシャンプーの蓋を開けた瞬間、合成香料による圧倒的な「フローラルの楽園」が鼻腔を突き抜けた。
「……信じられぬ。余のいた場所の香油など、これに比べれば油の塊じゃ。ムコーダ、お主の国では、このような『神の雫』が庶民の手に入るというのか?」
「まあ、数百円で買えるけどね。あ、あと、この網状の『泡立てネット』も使って。これで泡を作るんだ」
「泡……? 石鹸など、ただの塊ではないのか?」
(……泡も知らないなんて。本当に体を洗うのも一苦労な場所だったんだな)
ムコーダは深く同情し、使い方のレクチャーを終えてから壁の外へと退いた。
◇ 泡の楽園と、背中流し交渉 ◇
湯気が立ち上る壁の中。ニンニンはおずおずと服を脱ぎ捨てた。
「……ふむ。まずは、この『ぼでぃそーぷ』とやらを……」
ネットに液体を垂らし、ムコーダに教わった通りに揉み込んでみる。すると――。
「な、なんじゃこれは!? 雲か!? 雲が生まれておるぞ!!」
ほんの数滴の液体が、瞬く間に白く、キメの細かい、弾力のある泡の山へと変貌した。ニンリルとして数千年を生きてきた彼女にとっても、これは未知の体験だった。
「おおお……触れておるのに、触れておらぬような……この繊細な感触、まさに天上の綿菓子じゃ!」
彼女は泡を全身に
「……む。背中が届かぬ。この泡、背中まで隅々まで塗り込みたいのに……! おい、ムコーダ! ちょっと入ってきて、余の背中を流せ!」
焚き火で肉を焼いていたムコーダは、持っていたトングを落としそうになった。
「は、はぁぁぁ!? 何言ってるの! 入れるわけないだろ!」
「何を照れておる! お主は余の……余の世話係ではないか! ほら、早く来い!」
「ダメなものはダメ! スイ、ニンニンちゃんに『ダメだよ』って言って!」
『おねーちゃん、だめー! あるじ、お顔、まっかだよー!』
「……チッ。硬い男じゃのう」
結局、ニンニンは魔法で操作した水流を器用に使い、自力で全身を洗い流した。
◇ ドライヤーの神器と至高の一杯 ◇
三十分後。壁から出てきたニンニンは、ムコーダが用意した「バスタオル」に包まれていた。その肌は上気して桃色になり、銀髪はしっとりと濡れて、夜の月光を反射している。
「……ふぅ。命の洗濯とは、まさにこのことじゃな」
「あ、ニンニンちゃん。髪、乾かさないと風邪引くよ。これを使って」
ムコーダが差し出したのは、魔石……という名の電池駆動の『ドライヤー』だ。スイッチを入れると、温かい風が勢いよく吹き出した。
「なっ……!? 温かい風……!? ムコーダ、これは風の精霊を閉じ込めた道具か?」
「いや、ただの道具だよ。ほら、貸して。乾かしてあげる」
ムコーダが背後に回り、ドライヤーを当てる。ムコーダの指が、さらさらになった銀髪を梳いていく。
「……気持ちよい。……お主、なかなか心得ておるではないか」
「はいはい。……よし、乾いたよ。で、風呂上がりの定番はこれだ」
ムコーダが取り出したのは、茶色の液体が入った瓶。『コーヒー牛乳』だ。
「……なんじゃ、この怪しげな色の乳は」
「腰に手を当てて飲むのが、正しい作法だよ」
ニンニンは言われるがまま、コーヒー牛乳を一気に喉に流し込んだ。
「……ッ!!」
コーヒーの香ばしい苦味と、ミルクの濃厚な甘み。それがキンキンに冷えた状態で、火照った体に染み渡る。
「……ぷはぁぁぁぁぁ!! なんじゃこれぇぇぇ!! 昨日の黒い水も凄かったが、この『こーひー牛乳』は……心がとろけるような優しさじゃ……!」
彼女は一気に飲み干すと、空になった瓶を見つめて、うっとりと呟いた。
「……ムコーダよ。余は決めたぞ。故郷に戻った暁には、全ての泉を風呂にし、全ての滝からコーヒー牛乳が流れるようにしてやるわ」
「そんなことしたら魚が住めなくなるよ」
(……本当に、暖かいお風呂も、甘いミルクも知らないまま育ったんだな。寝言で『おかわり……』なんて言ってるし。よし、明日はもっと美味しいものを食べさせてあげよう)
ムコーダの「聖なる誤解」は、もはや揺るぎない確信へと変わっていた。
一方、神界の鏡の前では……
「……ちょっと、あの泡! あれ何よ! 髪、さらさらじゃない! ズルい、ニンリルちゃん、ズルすぎるわよ!」
「……コーヒー牛乳。……飲みたい。……ずるい」
女神たちの嫉妬は、すでに臨界点に達しようとしていた。