人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に! 作:なほやん
「あなたが、最後の希望なのです」
国連事務総長がそう言った。
ニューヨーク。国連本部。安全保障理事会の大会議場——のはずだが、出席者はまばらだった。各国の代表席の半分以上が空席で、残りの席についている人間も、目の下に隈を刻んだ者ばかりだ。
ゲームのやりすぎで寝不足なのだ。全員。
「
事務総長の声が、がらんとした議場に落ちる。
「地球外知性体が散布したVRプログラムによる人類の
俺——
なぜ、俺がここにいるのか分からない。
壇上には四つの椅子が並んでいた。うち三つにはすでに人が座っている。
一人目。アレクサンドル・ヴォルコフ元ロシア陸軍大佐。歴戦の猛者。腕が俺の胴体ほどもある。VR機器を物理的に破壊する特殊部隊を率いていた男だ。分かる。こいつが選ばれる理由は分かる。
二人目。マルグリット・デュポン博士。フランスの脳科学者。TS依存のメカニズムを世界で初めて論文にし、ワクチンの開発を公言している。分かる。
三人目。ジェームズ・ウォレス元アメリカ合衆国副大統領。ゲーム禁止法を議会に提出し、VR機器の焼却処分を命じた強硬派。分かる。
四つ目の椅子が、空いていた。
「佐久間健吾さん。壇上へどうぞ」
立ち上がる。足が震えている。会議場にいる全員の視線が俺に集まるが、何人かはこっそりスマートグラスの奥でゲームを続けていた。国連の会議中に。
壇上に上がり、四つ目の椅子に腰を下ろす。隣のヴォルコフ大佐が、丸太のような腕を組んで俺を一瞥した。
「人選ミスではないか」
デュポン博士もウォレス元副大統領も、明らかに同じことを思っている顔だった。俺も思っている。
事務総長が咳払いをした。
「佐久間さんが選ばれた理由は——」
言い淀んだ。初めて見せる躊躇だった。
「……TS星人からの、
議場が、凍りついた。
「三日前、TS星人から人類に向けて二度目の通信がありました。内容は短いものでした——『佐久間健吾を最終防壁に加えよ。さもなくばゲームのサーバーを停止する』」
意味が分からなかった。
俺のことを知っている? TS星人が? コンビニのバイトの俺を?
ヴォルコフ大佐が鋭い目で俺を見た。デュポン博士の眉が跳ね上がった。ウォレス元副大統領が、初めて口を開いた。
「……なぜ、こいつを?」
「分かりません」
事務総長は首を振った。
「ですが、サーバー停止は全人類への脅迫になります。数十億の依存者が暴徒と化す。従うほかなかった」
サーバーを止めるぞ、と言われて屈する人類。敵に「ゲームを取り上げるぞ」と脅されて泣く人類。
……情けなさすぎないか。
「最終防壁としての任務を説明します」
事務総長は続けた。
「四名の最終防壁には、対TS戦略の立案と実行について全権が委任されます。予算、人員、設備——あらゆるリソースを自由に使用できます。ただし」
事務総長の目が、俺をまっすぐ射抜いた。
「最終防壁の真の戦略は、本人の頭の中にのみ存在しなければなりません。
「TS星人が監視しているからですな」
ヴォルコフ大佐が低い声で言った。
「その通りです。通信は傍受されている可能性があります。文書も電子データも危険です。最終防壁の戦略が安全に存在できる場所は、最終防壁自身の
・・・
話を少し巻き戻そう。
それは、静かに始まった。
最初にネットで話題になったのは、一年ほど前のことだ。
出所不明の無料VRゲームが世界中にばら撒かれた。名前は『
最初は誰もがネタだと思った。
『やってみたwww』
『マジでヤバい。触覚フィードバックの精度おかしい。既存のVR技術じゃ説明できない』
『アバター生成がやばい。骨格と筋肉のデータ入れたら「あなたが女性だったら」の理想形を自動で出してくる。AIなんてレベルじゃない』
『しかも全言語リアルタイム翻訳。日本語で喋ったら相手にはフランス語で聞こえる。遅延ゼロ。地球の技術じゃねえだろこれ』
『開発元どこ?→不明。サーバーの物理的所在地も特定できず。謎すぎる』
『3日やったけどもう現実に戻りたくない。助けて』
『助けない。こっち来い』
SNSのタイムラインが、一週間で埋め尽くされた。
#MyTSLife がトレンド入りし、体験レビューが爆発的に拡散された。プレイした人間は全員、同じことを言った。
——現実に戻りたくない。
俺はそれを、スマートフォンの画面越しに眺めていた。
「健吾、お前もやれよ」
大学の同期の
「興味ねーよ」
と言いながら、俺の目は泳いでいた。
興味がないわけがない。タイムラインに流れてくるレビューを、俺は毎晩読み漁っていた。ブックマークのフォルダ名は「情報収集用」。誰に見せるわけでもないのに、言い訳がましい名前をつけていた。
「お前さあ」山崎が身を乗り出す。「一回やったらわかるって。マジで。人生変わるぞ」
「人生変えたくねーんだよ」
「嘘つけ。お前コンビニバイトだろ」
「……うるせえ」
山崎は笑って、それから真剣な目になった。
「なあ健吾。俺な、生まれて初めて思ったんだよ。——ああ、
俺は何も言えなかった。
翌週、山崎は大学に来なくなった。連絡だけは返ってきた。絵文字だけの、やけに明るいメッセージが。
翌月、講義の出席率が三割を切った。
だが——
宇宙物理学。がらんとした教室に、俺と、教授だけ。
戸塚教授は白髪交じりの痩せた男で、俺の指導教官だった。研究室に入り浸っていた頃から、妙に気が合った。
「佐久間くん。君は、やらないのかね」
「やりません」
「そうか。賢明だ」
教授は窓の外を見た。キャンパスは静まり返っている。誰もいない。
「あの信号を、私なりに解析してみた」
教授は何かを語った。TS体のソースコードの中に見つけた構造。宇宙物理学者の目で読み解いた、何かの仮説。
正直に言えば、半分も理解できなかった。だが最後に教授が言った一言だけ、妙に耳に残っている。
「——宇宙は、ピンクの森林だ」
意味が分からなかった。今も分からない。ただ、あの時の教授の目だけは覚えている。穏やかな人が、初めて見せた恐怖の目だった。
翌週——戸塚教授は、教壇に立っていた。
VRヘッドセットをつけたまま。
講義は続いていた。宇宙物理学。
「では前回の続きなのじゃ。赤方偏移の計算式をホワイトボードに書くのじゃ」
ただし教授の声は、ボイスチェンジャー越しの高い少女の声になっていた。
俺ともう一人の学生が、石になった。
「どうしたのじゃ? 早くノートを開くのじゃ」
六十一歳の宇宙物理学の権威が、のじゃ口調で微分方程式を解いている。
ヘッドセットの奥で、教授がどんな姿をしているのか、俺は知らない。知りたくもなかった。ただ一つ確かなのは——
その講義を最後に、戸塚教授も大学に来なくなった。
・・・
世界は、驚くほどあっさりと壊れていった。
ウォール街。ニューヨーク証券取引所のトレーダーが全員ログイン中であることが判明し、取引が停止した。ダウ平均株価という概念が意味を失った日だった。
モスクワ。ロシア軍の司令官がゲーム内で魔法少女をやっている映像がリークされた。軍服の上に変身ステッキを構える五十七歳の男——四十八時間で二十億回再生。政権が倒れた。
リヤド。宗教指導者が「神への冒涜である」と
東京。秋葉原が聖地と化した。巨大モニターに映し出されるのは株価でもニュースでもなく、TS体のプレイ映像だ。路上にVRヘッドセットをつけた人間が並んで座り込み、誰一人動かない。外国メディアはその光景を「東京の瞑想」と呼んだ。瞑想じゃない。全員、中身は美少女だ。
そして——ゲームの出所が判明した。
MITとCERNの合同チームが、TS体のソースコードに埋め込まれた信号パターンを解析した。結論は一行で済んだ。
——このプログラムは、地球上の技術では作れない。
宇宙からの信号だった。
パニックが起きた。だが、その方向が間違っていた。
人々は「宇宙人が攻めてくる」と怯えたのではない。「宇宙人がゲームを
各国政府は規制を試みた。ゲーム禁止法。VR機器の没収。サーバーへのサイバー攻撃。
全て、失敗した。
禁止した国から暴動が起きた。没収された機器の代わりに闇市場が生まれた。サーバーは攻撃を受け付けなかった——地球の技術では、そもそもその所在を特定できなかった。
TSO——地球TS協会が結成された。彼らのスローガンはこうだ。
「これは病気ではない。
国連が動いたのは、世界のプレイ人口が四十億を超えた頃だった。
最終防壁計画。TS未経験者の中から対抗策の立案者を選出する。
——TS未経験者。
もはやそれ自体が、絶滅危惧種だった。
・・・
俺は手を挙げた。
「あの……辞退は、できますか」
議場の空気が凍った。三人の最終防壁の視線が突き刺さる。事務総長だけが穏やかに微笑んだ。
「もちろんです。最終防壁は強制ではありません。辞退届を提出していただければ、すぐに手続きいたします」
ほっとした。のも束の間——
「ただし」
事務総長は、同じ微笑みのまま続けた。
「最終防壁の真の戦略は、本人の頭の中にしか存在しません。あなたが辞めたとしても——
息が詰まった。
「TS星人にも、TSOにも、あなたが最終防壁でなくなったことを
ああ——そうか。
最終防壁に選ばれた時点で、もう降りられないのだ。
「では最後に、最終防壁への支給品を渡します」
事務総長の声が、一段低くなった。
四人の最終防壁に一つずつ、事務員がアタッシュケースを手渡す。
中身は、ヘッドセットだった。
継ぎ目を感じさせないつるりとした表面が、それが地球で作られたものではないことを物語っている。
「なぜ……これを?」
誰かが呟いた。俺かもしれなかった。
「敵を知るために、VRに入る必要が生じることもあるでしょう。その場合に備え、闇市場の粗悪品ではなく新品を用意いたしました」
議場の空気が、微かに揺れた。
「ふん!」
ヴォルコフ大佐がアタッシュケースを閉じた。力任せに。金属の留め金が悲鳴を上げた。
「こんなもの、絶対に使わない。
「私も同意見です」
デュポン博士が、眼鏡を押し上げた。
「脳科学者として断言しますが、私は自分の報酬系を完全に理解しています。依存のメカニズムは既に論文にまとめました。理解しているものに屈するはずがない。——
「その通りです」
ウォレス元副大統領が、深く頷いた。
「私は大統領に次ぐ立場でこの国を守ってきた男だ。得体の知れない玩具に心を奪われるような真似は、
三人が、それぞれ言い切った。
絶対に。絶対に。絶対に。
俺は、ただ静かにそのヘッドセットの表面に映る自分の顔を見つめていた。
つるりとした曲面に歪んだ俺の顔が、少しだけ笑っているように見えた。