人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に!   作:なほやん

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第二話 溶壁

 

『おはよー!』

『おはよ〜♪ 今日もかわいいね』

『えへへ、ありがと。そっちこそ、新しいアバター? 髪の色変えた?』

『うん! ちょっとピンク強めにしてみた。どう?』

『やばい、かわいすぎ。なでなでしていい?』

『いいよ〜。……えへ』

 

 TSO——地球TS協会のワールド「みんなのおへや♡」は、今日も甘かった。

 

 ここでは全員が美少女だ。中身が四十代の会社員でも、十代の学生でも、六十代の定年退職者でも——関係ない。アバターの姿が、ここでは「本当の自分」だ。

 

『ねえねえ、お砂糖募集してる子いない?』

『あ、わたし気になってる子いるんだけど……まだお醤油かな』

『お醤油! いいじゃん攻めなよ〜』

『で、でも人工甘味料で終わったらどうしよ……』

『大丈夫大丈夫。最初はみんなそうだから』

 

 甘い。とにかく甘い。

 

 砂糖を溶かした蜂蜜をシロップで煮詰めたような空間。誰も傷つけない。誰も否定しない。あなたはあなたのままでいい。かわいいは正義。かわいいは——

 

『ねえ』

 

 一人の美少女が、チャットの流れを止めた。

 

 銀髪のボブカット。赤い瞳。名前は「氷雨(ひさめ)」。TSOの中でも古参で、信頼の厚いメンバーだった。

 

『発動されちゃったね。あの計画』

 

 チャットが、一瞬だけ静かになった。

 

『最終防壁、だっけ』

『うん。四人選ばれたんだよね?』

『軍人と、科学者と、政治家と……あとなんか、普通の人?』

 

 氷雨は、微笑むスタンプを一つ送った。

 

『最終防壁は、私たちの世界を壊そうとしている人たち。この場所を——みんながやっと見つけた、本当の自分でいられる場所を、奪おうとしてる』

『……そうだよね』

『わたしたち、ここがなかったら死んでた。大げさじゃなく』

 

 甘さが、一瞬だけ翳った。

 

 だが氷雨は、すぐに柔らかい声に戻った。

 

『大丈夫。私たちが、壁を溶かすから』

『溶かす……?』

『うん。四枚あるけど、順番にね』

 

 絵文字も、スタンプも、何もつかない短い文章が並んだ。

 

『氷雨ちゃん……?』

『大丈夫。全部うまくいくよ』

 

 氷雨は最後にもう一つだけ書き込んだ。

 

『壁を壊すのはね、力じゃないんだよ。——かわいい(・・・・)だよ』

 

 

  ・・・

 

 

 アレクサンドル・ヴォルコフ元大佐は、作戦会議の席に座っていた。

 

 カザフスタン。荒野に建てられた前線基地。退役していたヴォルコフは、最終防壁に選ばれたことで指揮権を取り戻し、ここを拠点にしていた。かつて率いていたVR機器破壊部隊の残党——まだTS体に手を出していない数少ない軍人たち——の練度は申し分ない。

 

「明日の作戦概要を説明する」

 

 ヴォルコフは、部下たちの前に立った。

 

「VRヘッドセットの闇市場ルートは、我々の調査で三十七箇所を特定済みだ。明日〇四〇〇、そのうち最大規模のカザフスタン経由の密輸拠点に対し、一斉摘発(・・・・)を実施する」

 

 作戦マップが投影された。中央アジアを横切る密輸ルートに、複数の矢印が描かれている。

 

「第一中隊が正面から拠点を制圧。第二中隊は周辺の通信塔を押さえ、増援を遮断。第三中隊は撤退路の確保。——目的はヘッドセットの流通網の破壊だ。供給を断てば、新規の依存者を減らせる」

 

 部下たちが頷く。

 

 副官のイリヤ・ペトロフ中尉が、ヴォルコフの隣で静かにメモを取っていた。二年前から副官を務めている。寡黙で、有能で、ヴォルコフが最も信頼する部下だ。

 

「質問は」

 

「ありません、大佐」

 

 会議が終わった。

 

 

  ・・・

 

 

 その夜。

 

 ヴォルコフは一人で、もう一つの作戦マップを広げていた。

 

 私室。鍵をかけた部屋。机の上の地図には、会議で見せたものとは全く違う矢印が引かれている。

 

 密輸拠点の見取り図ではない。その奥——拠点の地下に隠されたTS体の中継サーバーの構造図だった。冷却システムの配管。内部の電力系統。そして——爆薬の設置箇所。

 

 流通の摘発ではない。

 

 明日、サーバーごと自爆する(・・・・)

 

 一斉摘発は嘘だ。本当の作戦は、ヴォルコフ自身がたった一人で地下の心臓部に潜入し、体に巻いた爆薬でサーバーを道連れにすること。部下たちには知らせていない。最終防壁の真の戦略は、本人の頭の中にのみ存在しなければならない。

 

 誰にも言えない。誰にも見せられない。

 

 最終防壁(ラストウォール)——人類最後の壁。

 

 悔いはない、とヴォルコフは思った。サーバー一つを潰したところで、TS星人の技術の前では焼け石に水だ。分かっている。だが、意味はある。最終防壁が命を賭けて抵抗した——その事実が、四十二億の堕落した魂を叩き起こす。俺の死が、人類の目を覚まさせる。軍人として、これ以上の最期があるか。

 

 ヴォルコフは地図を丁寧に畳み、軍服の内ポケットにしまった。

 

 ドアがノックされた。

 

「大佐。ペトロフです」

 

「入れ」

 

 副官が入ってきた。手にはコーヒーが二つ。いつもの習慣だ。夜の作戦前に、二人でコーヒーを飲む。

 

「明日の準備は万全です。各中隊の配置も確認しました」

 

「ご苦労」

 

 ヴォルコフはコーヒーを受け取り、一口飲んだ。

 

 ペトロフも椅子に座り、静かにカップを傾けた。

 

 沈黙が流れた。

 

「大佐」

 

「何だ」

 

「一斉摘発——あれは(・・)ですね」

 

 コーヒーカップが、止まった。

 

「密輸拠点の地下にサーバーがある。本当はお一人でそこに入り、体に巻いた爆薬でサーバーごと自爆するおつもりでしょう。部下には流通の摘発だと伝え、自分だけが本当の作戦を知っている。——最終防壁の原則通りに」

 

 ヴォルコフは、カップをゆっくりとテーブルに置いた。

 

「……なぜ分かった」

 

「二年間、あなたの隣にいましたから」

 

 ペトロフが、立ち上がった。

 

「地下サーバーの構造図を、三週間前に個人端末でダウンロードしましたね。軍の倉庫からC4が消えているのも確認済みです。摘発のルートは、わざと第一中隊を地上の拠点に集中させる配置になっている。第二中隊の通信塔制圧は、大佐が地下に潜る間の露払いです。——全部、見えていました」

 

 ヴォルコフの目が鋭くなった。右手がゆっくりと腰のホルスターに向かう。

 

「お前——何者だ」

 

「あなたの副官です。二年間ずっと。それは嘘じゃない」

 

 ペトロフの声が、変わった。

 

 低い男の声が——溶けた。輪郭を失い、一音ずつ柔らかさを帯びていく。最後に残ったのは、透き通った少女の声だった。

 

「ただ——もう一つの名前があります」

 

 ペトロフの手が、自分の首元に触れた。軍服の襟の下に隠されていた小さな装置。ボイスチェンジャー。それを外す指先は、軍人にしては細すぎた。二年間、なぜ気づかなかったのだろう。

 

「TSOでの名前は、氷雨(ひさめ)。——溶かし屋(とかしや)さんです」

 

 氷雨は、一歩だけ近づいた。

 

「最終防壁に選ばれるずっと前から、TSOはあなたをマークしていました。TS体に最も強く抵抗する人間は、最も深く渇いている(・・・・・・)人間ですから」

 

最終防壁(ラストウォール)・ヴォルコフ大佐。あなたの真の戦略を言い当てます。——自爆は手段じゃない。目的(・・)です。この九十三キロの肉体ごと消えたかった。サーバーを道連れにすれば英雄として死ねるから。——でもその本当の理由は、この体から逃げたかった(・・・・・・)んでしょう?」

 

 ヴォルコフの右手がホルスターに向かった。

 

 指が、グリップに届かなかった。

 

 体が沈んでいく。椅子の背もたれが、全体重を受け止める。腕が鉛になった。足の感覚が薄れていく。心臓は動いている。肺は膨らんでいる。意識は——恐ろしいほど明瞭だ。

 

 体だけが、自分のものではなくなっていた。

 

「……コーヒーに」

 

「筋弛緩剤です」

 

 氷雨の声が、近い。

 

「意識には影響しません。見えるし、聞こえるし、感じる。——ただ、動けない」

 

 指を動かそうとした。小指一本。それすら叶わなかった。百八十センチ、九十三キロの体が、呼吸する肉塊に変わっていた。呼吸だけが自分のもの。吸って、吐いて、それだけ。

 

 氷雨が——ペトロフだったものが、ゆっくりとヴォルコフの前にしゃがんだ。視線の高さを合わせるように。

 

「怖いですか?」

 

 答える代わりに、ヴォルコフは氷雨を睨んだ。眼球だけが、まだ自分のものだった。

 

「二年間、あなたの隣にいて思ったんです」

 

 氷雨の手の中に、いつの間にかヘッドセットとタブレット端末があった。

 

「大佐は、本当に強い人だって」

 

 タブレットの画面が灯った。氷雨の細い指が、画面をヴォルコフの方へ傾ける。

 

「この体も、この精神も、三十年かけて鍛え上げた本物だって」

 

 画面に映っていたのは、美少女だった。

 

 軍服を着ている。ロシア陸軍の制服。肩には大佐の階級章。短く刈り上げた銀髪の毛先が、顎のラインに沿ってわずかに跳ねている。睫毛が長い。鋭い目だが、その鋭さの奥に光がある。鎖骨が軍服の襟元から覗いていて、華奢だが甘さはない。引き締まった顎。薄い唇。

 

 美少女が、こちらを見ていた。

 

 ヴォルコフが目を細めると——画面の中の美少女も、同じように目を細めた。

 

 鏡だった。

 

 リアルタイムで顔の動きをトレースしている。ヴォルコフの表情が、美少女の表情になって返ってくる。

 

「……誰だ」

 

 声が掠れた。喉の筋肉すら思うように動かない。絞り出すような音だった。

 

 画面の中の美少女の唇が、同じ形に動いた。——誰だ、と。

 

「あなたです」

 

 氷雨は静かに言った。

 

「TS体で、あなたの身体データから生成しました。骨格、筋肉の付き方、姿勢の癖、目線の角度——全てあなたのもの。ただ性別だけが、違う」

 

「やめ——」

 

 画面の中の少女が、眉を寄せた。苦しげに。——やめ、と唇が動いた。その表情が、苦しんでいるのに、美しかった。

 

「やめません」

 

 氷雨の手が、ヴォルコフの額に触れた。指先がこめかみを滑る。汗が浮いていた。体は動かないのに、汗腺だけが正直に恐怖を告白している。

 

「何も壊れていません。三十年間、あなたが鍛え上げたもの。全部ここにあります」

 

 氷雨の親指が、ヴォルコフの眉間の皺をそっと押さえた。力を抜け、と言うように。

 

 画面の中で、美少女の眉間の皺もほどけた。

 

「ただ、美しくなっただけ(・・・・・・・・)

 

 ヴォルコフは目を閉じようとした。だが閉じられなかった。薬のせいではない。自分の意志で、閉じられなかった。

 

 ヴォルコフは顔を歪めた。拒絶。嫌悪。怒り。——画面の中の美少女も顔を歪めた。同じ怒りが、あの顔に乗ると、こうなるのか。唇を噛み、眉を吊り上げ、目を見開く。凄絶な美しさだった。

 

 怒っている自分が、こんなに綺麗だったことは、一度もない。

 

 不意に——口元が緩んだ。自嘲だった。馬鹿馬鹿しくなったのだ。動けない体で、画面の中の美少女に怒りをぶつけている自分が。

 

 画面の中の少女が、笑った。

 

 同じ自嘲——のはずだった。だがその笑みは、ヴォルコフが三十年間鏡の前で見てきたどの表情とも違った。力が抜けて、少しだけ口角が上がって、目尻が柔らかくなって。

 

 ああ、と思った。

 

 俺は、こんなふうに笑えたのか。

 

「大佐」

 

 氷雨の手が、ヴォルコフの髪に触れた。短く刈り上げた銀髪を、指先で梳くように。額にかかった一房を、横に流す。

 

「強がらなくていいんですよ」

 

 ヘッドセットが取り出された。氷雨の両手が、それをゆっくりとヴォルコフの頭に近づけていく。

 

「二年間、ずっと見てました。鏡の前に立つ時のあなたの目。自分の体を確認する目。——あれは誇りの目じゃなかった」

 

 ヘッドセットが、額の上で止まった。あと数センチ。

 

「確認してたんでしょう? まだこの体だ、まだこの体で戦える、って。毎朝、自分に言い聞かせてた」

 

 ヴォルコフの呼吸が乱れた。吸って、吐く。それだけが自分の動作なのに、そのリズムすら崩れていく。

 

「本当は——」

 

 氷雨の指が、ヴォルコフの耳に触れた。ヘッドセットのバンドを通すために、耳の上の髪をかきあげる。軍人の耳。傷だらけの、大きな耳。

 

「——こうなりたかったんでしょう?」

 

 ヴォルコフの目が揺れた。乾いた瞳が、不意に潤んだ。

 

「……違う」

 

 声が震えていた。否定の言葉が、肯定の響きを帯びていた。

 

「じゃあ、なぜ目を逸らさないんですか?」

 

 答えられなかった。

 

 氷雨の手が、ヴォルコフの額の汗をそっと拭った。ハンカチ越しの指先が、額から眉を辿り、こめかみを通り、耳の後ろへ抜けていく。

 

「きれいにしますね。——初めてのログインですから」

 

 ヘッドセットが降りてきた。

 

 額に触れた。継ぎ目のない、つるりとした表面。金属でも樹脂でもない、地球上に存在しない素材の、ひんやりとした滑らかさ。

 

 それが額から側頭部へ、耳を覆い、後頭部を包む。視界の端から光が消えていく。上から、横から、じわじわと。

 

 最後に残ったのは、タブレットの画面だけだった。暗くなっていく視界の中心に、軍服の美少女の顔がある。

 

 微笑んでいた。

 

 自分の顔だった。自分の笑い方だった。

 

 三十年間、鏡の前で一度も浮かべたことのない表情だった。この体でできなかった笑顔が、あの体にはある。

 

 視界が閉じた。

 

 暗転。

 

 そして——光。

 

 視界が開いた瞬間、ヴォルコフは自分の手を見た。

 

 小さかった。

 

 自分の手のはずなのに、記憶にある手の半分ほどしかない。指が細い。爪が薄い。手首から肘にかけてのラインに、傷跡が一つもない。

 

 見覚えのない手。なのに——自分だと分かる。

 

 握ってみた。拳を作る。その動きが、たしかに自分のものだった。三十年間握ってきた拳と同じ力の入れ方。同じ角度。ただ——

 

 こんなに軽いのか。

 

 こんなに、きれいなのか。

 

 息を吸った。肺が小さかった。胸が軽い。肩幅が狭い。首が細い。全てが小さくて、全てが軽くて——三十年間背負ってきた鋼鉄の鎧を脱ぎ捨てたような解放感。なのに弱くなった感覚はない。むしろ体が最適化された(・・・・・・)ように、隅々まで自分のものだった。

 

 軍服の襟を正した。反射的に。毎朝やる癖だ。指先が襟の端をつまみ、左右対称に整える。

 

 その指が、細かった。自分の指なのに。自分の動きなのに。

 

 三十年間、一度も思ったことがない。——きれいだ、と。

 

 膝から力が抜けた。

 

 泣いていた。

 

 声を上げて泣いていた。新しい声で。高く、透き通った声で。

 

 自分のものではない声——いや、自分の声だ。たった今、自分の声になった。

 

「——ようこそ」

 

 氷雨の声が、どこか遠くから聞こえた。

 

「こちら側へ」

 

 

  ・・・

 

 

 俺——佐久間健吾は、モニター越しにその映像を見ていた。

 

 国連から割り当てられた個室。最終防壁には互いの拠点の映像が共有されている。仲間の安否確認——という建前の、相互監視だ。

 

 画面の中で、ヴォルコフ大佐がヘッドセットを被っていた。椅子に深く沈んだまま、微動だにしない。口元だけが微かに——笑って、いた。

 

 命を賭けてサーバーを潰すはずだった男が、二年間隣にいた人間に溶かされた。最終防壁の、一枚目が崩れた音は、泣き声だった。

 

 モニターの横に、俺のアタッシュケースが置いてある。国連で支給されたヘッドセットが入ったままだ。まだ一度も開けていない。留め金に触れた跡だけが、いくつもついていた。

 

 あの鬼大佐が、笑っている。生まれて初めて安らいだ顔で。

 

 俺はモニターから目を逸らした。逸らしたはずの視線が、アタッシュケースの上で止まった。

 

「……俺は、やらない」

 

 声に出して言った。

 

 声に出さないと、負けそうだったからだ。

 

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