人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に!   作:なほやん

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第三話 副作用

 

「あと少しよ。ワクチンの最終段階」

 

 パリ。七区のアパルトマン。朝。

 

 マルグリット・デュポン博士は、キッチンのテーブルでコーヒーを飲んでいた。ブラック。砂糖なし。脳科学者は甘いものを摂らない。報酬系を不必要に刺激したくないからだ。

 

「ヴォルコフ大佐、堕ちたね」

 

 向かいに座る夫のアラン(・・・)が、カップを傾けながら言った。臨床心理士。パリ第五大学の准教授。マルグリットが脳の構造(ハードウェア)を扱うなら、アランは脳の中身(ソフトウェア)を扱う。

 

「聞いたわ」

 

 マルグリットの声は平坦だった。最終防壁の一枚目。あの鬼大佐が、二年間隣にいた副官に——溶かし屋(とかしや)さんに、溶かされた。

 

「怖いかい?」

 

「いいえ」

 

 眼鏡を押し上げる。

 

「私は脳科学者よ。TS依存のメカニズムは私が世界で初めて解明した。報酬系の構造も、ドーパミンの分泌パターンも、全て論文にまとめてある」

 

 コーヒーを一口。

 

「理解しているものには、屈しない。——絶対に(・・・)

 

 アランは微笑んだ。穏やかな笑み。だがその奥に、マルグリットには読めない何かがあった。

 

「ねえ、マルグリット。君の論文、僕も読んだよ。素晴らしい研究だった。——一つだけ聞いていいかな」

 

「どうぞ」

 

「君が解明した依存のメカニズム——君自身()には、適用されないのかい?」

 

 マルグリットは笑った。

 

「されないわ。私は観察者(・・・)であって、被験者ではないもの」

 

「それより、厄介なことが一つ」

 

 マルグリットはコーヒーカップを置いた。

 

TSO(地球TS協会)が、溶かし屋(とかしや)さんという刺客を放ってきている。最終防壁を一人ずつ——溶かす(・・・)ための専任者。ヴォルコフ大佐の副官が、それだった」

 

「身近な人間に化けて、か」

 

「ええ。二年間隣にいて、何も気づかなかったそうよ。——残る壁は、三枚。私を含めて」

 

 マルグリットの声が、低くなった。

 

「研究室の助手も、同僚も。……もしかしたら、家族でさえ。誰も信用できない(・・・・・・・・)

 

 アランは、コーヒーを一口飲んだ。

 

「怖いね」

 

「ええ、怖いわ」

 

「——僕のことも、疑っているのかい?」

 

 マルグリットは笑った。

 

「あなただけは、大丈夫よ」

 

 アランは何も言わなかった。ただ微笑んだ。窓の外では、セーヌ川が三月の朝日を跳ね返していた。

 

 

  ・・・

 

 

『ヴォルコフさん来てるー!』

『あ、アレクちゃんだ! おはよ〜♪』

『お、おはよう……ございます』

『まだ敬語! もう仲間でしょー?』

『すまない。その……慣れなくて』

『かわいい……元軍人のギャップ、たまらん……』

『か、かわいいはやめてくれ。俺は——私は——』

『どっちでもいいよ〜。ここでは好きな自分でいていいの♪』

 

 ワールド「みんなのおへや♡」は今日も甘かった。

 

『ねえねえ、アレクちゃんにお砂糖申し込んだ子いるらしいよ』

『えっ だれ!?』

『ない! ないから! 俺は——私は——まだ——』

『「まだ」って言ったよこの子!』

『言い方〜!』

 

 氷雨が、静かにログインした。

 

『——みんな、ちょっといい?』

 

 チャットが、ふわりと静かになる。氷雨が真剣な話をする時の空気を、全員が知っていた。

 

『壁が一枚、溶けたね』

 

 沈黙。

 

『ヴォルコフ大佐——今はアレクちゃん、かな。おかえりなさい』

『……ただいま、です』

 

 短い返事に、ハートのスタンプが十個以上重なった。

 

『でも、まだ三枚あるよ』

 

 氷雨の文字が、ゆっくり流れた。

 

『次は——デュポン博士。フランスの脳科学者。TS依存のメカニズムを解明して、ワクチンを作ってる人』

 

『ワクチン……あれ本当にできるの?』

『こわい……治されちゃうの?』

『やだよ、元に戻りたくない……!』

 

 氷雨は一つだけスタンプを送った。にっこり笑う猫。

 

『大丈夫。——溶かし屋(とかしや)さんは、もう隣にいるよ』

 

 

  ・・・

 

 

 パリ。ラ・サルペトリエール病院。神経科学研究棟。深夜。

 

 マルグリット・デュポン博士は、モニターの前で十四ヶ月ぶりに笑っていた。

 

 ワクチン。TS依存症に対する、人類初の根本治療薬。

 

 十四ヶ月の研究が、ようやく一つの分子構造に収束した。明日、国連に報告する。

 

 研究室のドアが開いた。

 

「まだいたのかい」

 

 アランだった。コートを羽織り、マフラーを巻いている。パリの三月の夜は寒い。

 

「迎えに来たよ。もう午前二時だ」

 

「あと少し——」

 

「いつも、あと少し、だろう」

 

 アランは研究室に入り、マルグリットの背後に立った。モニターを覗き込む。

 

 分子構造式。臨床データ。

 

「……完成したのかい。ワクチン」

 

「ええ。明日、国連に——」

 

「マルグリット」

 

 アランの声が変わった。穏やかさの底に、硬いものが覗いた。

 

「これは、ワクチンじゃないね」

 

 マルグリットの指が、キーボードの上で止まった。

 

「……何を言っているの」

 

「僕は臨床心理士だよ。十四ヶ月、君の横で研究ノートを読んでいた。公開されたものも、されていないものも。——君が何を隠しているか(・・・・・・・・)を読むのが、僕の仕事だ」

 

 アランがマルグリットの椅子をゆっくりと回した。向き合う形になる。

 

「この薬の標的は、ドーパミン受容体じゃない。性ホルモン系(・・・・・)だ。TS星人の技術を逆算した分子設計。投与から七十二時間で、男性の身体を不可逆的に女性化する。骨格、筋肉量、脂肪分布、声帯、肌質——全部」

 

 マルグリットの顔から、表情が消えた。

 

性転換誘導剤(フェミナイザー)。——それが君の『ワクチン』の正体だろう?」

 

 沈黙。

 

 長い、長い沈黙。

 

「……そうよ」

 

 マルグリットは、ゆっくりと眼鏡を外した。

 

「TS体の依存メカニズムの核心は、VRの理想体と現実の肉体とのギャップ(・・・・)にある。美少女になってログアウトすると男の体に戻る。この落差が渇望を生む。——ならギャップを消せばいい。現実の体を女性にしてしまえば、VRに逃げる理由がなくなる」

 

「水道水に混ぜるつもりだったのかい」

 

「フランスから始めて、結果を示す。各国が追随するわ」

 

 アランは頷いた。静かに。

 

「完璧な論理だ。脳科学者として報酬系を知り尽くした人間だからこそ辿り着く結論だね。——一つだけ、致命的な欠陥を除けば」

 

 アランがポケットから、小さなものを取り出した。

 

 ピンク色の、猫のバッジ。

 

 TSOの会員章だった。

 

「アラン——」

 

「僕のTSOでの名前は、コゼット。——溶かし屋(とかしや)さんの、二人目だよ」

 

 マルグリットの顔から、血の気が引いた。

 

「……いつから」

 

「TS体が出回り始めた頃——君が論文を書き始めた頃だよ。君が毎晩遅くまで研究室にいる間、僕は一人で家にいた。臨床心理士にとって、あのゲームは興味深い研究対象だった。——最初はね」

 

 アランの目が、マルグリットをまっすぐ見た。

 

「君の戦略の、致命的な欠陥を言い当てるよ」

 

「……聞くわ」

 

 科学者として、聞かないわけにはいかなかった。

 

「君の薬は完璧に機能する。男性の体は女性になる。骨格も、声も、肌も、七十二時間で」

 

「……ええ」

 

「じゃあ聞くよ」

 

 アランの声が、一段下がった。

 

「——女性になった彼らは、美しい(・・・)のかい?」

 

 マルグリットの目が見開かれた。

 

「君の薬は体を女性にする。でも理想の美少女(・・・・・・)にはしない。四十代のサラリーマンは四十代の女性になるだけだ。二十代の学生は二十代の——普通の(・・・)女性になるだけ」

 

「TS体が見せるのは、『あなたが女性だったら』の理想形(・・・)。骨格から最適化された、この世に存在しない完璧な美少女だ。——君の薬が作るのは、現実の、不完全な(・・・・)女性の体」

 

「ギャップは消えないよ、マルグリット」

 

 アランの目が、まっすぐマルグリットを射抜いた。

 

「——広がる(・・・)んだ」

 

 マルグリットの呼吸が止まった。

 

「今まで男性だった人間は、VRに入らなければ女性の体を知らなかった。君の薬で現実に女性の体を手に入れたら? ——今度は二十四時間(・・・・・)、自分の体の不完全さを突きつけられる。鏡を見るたびに。服を着るたびに。あの子(・・・)には敵わない、と思うたびに」

 

「今まで『ログイン中だけ』だった渇望が、永遠に(・・・)になる」

 

「君が作ったのは、ワクチンじゃない」

 

 アランの声が震えた。

 

「——入り口(ゲートウェイドラッグ)だよ」

 

 マルグリットは動けなかった。椅子に座ったまま、自分が組み上げた完璧な論理が、一音ずつ崩壊していく音を聞いていた。

 

 ギャップを消す? 逆だ。ギャップを永続化()する薬を作っていたのだ。

 

「……なぜ」

 

 声が掠れた。

 

「なぜ、あなたにそれが分かるの」

 

 アランは、マルグリットの手を取った。

 

「僕は——もうやっているからだよ。TS体を」

 

 マルグリットの顔が歪んだ。

 

「三ヶ月前から。君が研究室にいる夜、僕はログインしていた」

 

「あなたは——男でしょう? それなのに——」

 

「それなのに、じゃない。だからこそ(・・・・・)だよ」

 

 アランの声が、少しだけ揺れた。臨床心理士の冷静さの下に、隠しきれない何かが滲んでいた。

 

「僕は知っている。VRの中で理想の自分に出会って、ログアウトした後に鏡を見る。そのときの——落差(・・)を。君の薬は、あの落差を四十二億人に配るんだ」

 

 アランの手が、コートの内側に伸びた。取り出したのは——ヘッドセット。つるりとした表面。地球上に存在しない素材。

 

「見てほしい。——君の理想の君を」

 

「やめて」

 

「見るだけでいいんだ。脳科学者として。データ(・・・)として」

 

「データ……」

 

 マルグリットの手が震えた。科学者としての好奇心。それは言い訳だ。分かっている。報酬系の構造を世界で一番理解している人間が、自分の報酬系に負けようとしている。

 

理解しているものには屈しない(・・・・・・・・・・・・・・)」——自分の言葉が、頭の中で反響した。

 

「そう。君はメカニズムを理解している」

 

 アランの声が、ゆっくりと耳に染み込んできた。

 

「でもね、マルグリット。——理解と、抵抗は、別物だよ(・・・・・・・・・・・・・)

 

 ヘッドセットが、マルグリットの手の中にあった。いつ受け取ったのか分からなかった。

 

「……一回だけ」

 

「ああ。一回だけ」

 

 アランが微笑んだ。あの朝の微笑みと同じ顔。全てを知っていた顔。

 

 ヘッドセットが、額に触れた。

 

 暗転。

 

 そして——光。

 

 光が満ちた。——マルグリットは、反射的に自分の手を確かめた。観察者の癖だ。

 

 自分の手だった。同じ指。同じ爪。——でも毛穴が消えている。三十八年分の小傷も、日焼けのムラも、乾燥で荒れた指先も、全部なくなっている。

 

 腹側被蓋野(ふくそくひがいや)からドーパミンが放出されている——と、脳科学者が分析した。報酬系の初期反応。想定内。まだ制御できる。

 

 指を一本ずつ折って、握ってみた。拳を作る。関節の動きは自分のもの。だが指の腹が、やけに滑らかだった。タイピングで荒れたはずの皮膚が、一枚布のように均一に整っている。自分の手の完成形(・・・)

 

 髪に触れた。同じ色。同じ癖毛。だが指を通すと——抵抗がない。毎朝格闘していた寝癖が嘘のように、髪が重力に従って肩に落ちる。毛先が鎖骨を掠めた。その感触が、甘かった。

 

 ——側坐核(そくざかく)の活性化。ドーパミンD2受容体の——いや。ただ髪が揺れただけだ。

 

 顔に手を当てた。顎のラインが、数ミリだけすっきりしている。頬骨の位置が僅かに高い。目は同じ形。だが睫毛が長い。ずっと長い。瞬きするたびに、視界の端を自分の睫毛が掠める。

 

 背筋が、勝手に伸びた。

 

 猫背だった。三十八年間ずっと。モニターの前で丸まった背中。矯正ベルトを買っては三日で棄てた背中。それが——今、何の力みもなく、まっすぐに伸びている。肺が広がった。息を吸うと、胸郭が素直に開く。今まで自分の体が、ずっと窮屈だったことに初めて気づいた。

 

 ——報酬系の活性が、想定を超えている。前頭前皮質(ぜんとうぜんひしつ)の抑制機能が——。

 

 逃げろ(・・・)

 

 科学者としての本能が警告した。マルグリットは目を閉じた。四秒吸って、七秒吐く。迷走神経刺激法。副交感神経を活性化させ、報酬系の暴走を鎮める。自分が論文に書いた手法だ。被験者に教えてきた手法だ。

 

 三回繰り返した。心拍が落ち着いた。——よし。制御下(コントロール)にある。まだ、観察者でいられる。

 

 目を開けた。

 

 白衣の裾が、腰に沿って落ちている。いつもは引っかかるヒップの出っ張りが消えて、布がまっすぐに流れている。肩に乗る白衣の重さが、僅かに変わっている。同じ白衣のはずなのに、体に合っていた(・・・・・)。初めて。

 

 声を出してみた。

 

「……マルグリット」

 

 自分の名前。自分の声。同じ声だ——だが僅かに透明度が増している。雑味が消えている。自分の声の、一番綺麗な瞬間だけを集めたような声。

 

 もう一度。

 

「マルグリット・デュポン」

 

 フルネーム。響きが、違った。同じ名前なのに、こんなに綺麗に聞こえるのか。

 

 涙が出た。なぜか分からなかった。嘘だ。分かっている。腹側被蓋野(VTA)から側坐核(NAc)へのドーパミン投射が閾値を超えた。報酬予測誤差が——。

 

 分析は完璧だった。メカニズムの全てを理解していた。理解した上で、涙が止まらなかった。

 

 鏡があった。

 

 白衣。眼鏡。まとめた髪。いつもの自分——の、こうなりたかった(・・・・・・・・)姿。

 

 腰回りのラインが自然に流れている。白衣の下の体が最適(・・)のバランスを持っている。モデルでも女優でもない。自分()の、一番いい版(・・・・・)

 

 眼鏡を外してみた。鏡の中の自分も外す。その仕草が、さまになっていた。眼鏡を持つ指。傾ける手首の角度。三十八年間やってきた動作が、この体では全部、絵になった(・・・・)

 

 ——依存形成までの推定時間。

 

 計算しようとした。脳科学者として。

 

 できなかった。数字が、出てこなかった。代わりに鏡の中の自分が微笑んでいた。泣きながら微笑んでいる顔が、綺麗だった。

 

 分かった上で、鏡の前から動けなかった。

 

「——マルグリット」

 

 声がした。

 

 振り向くと、少女が立っていた。

 

 栗色のショートヘア。柔らかい目。口元に、見覚えのある微笑み。アランの微笑みだ。あの穏やかさが、少女の顔に乗ると、こうなるのか。

 

「アラン……?」

 

「コゼット、だよ。ここでは」

 

 コゼットが、一歩近づいた。白いワンピース。細い鎖骨。アランの面影が、少女の輪郭の中に溶けている。目の色だけが同じだった。二十年間見つめてきた、あの目。

 

「綺麗だね、マルグリット」

 

「あなたも——」

 

 コゼットの指が、マルグリットの頬に触れた。アランの指より細くて、ひんやりしている。でも触れ方は同じだった。頬から顎をなぞり、耳の後ろへ滑らせる。二十年分の癖。

 

 ——接触報酬(タッチリワード)の増幅。VR触覚フィードバックは現実の三倍の報酬系活性を——。

 

 分析が、走る。

 

「ねえ」

 

 コゼットの顔が近づいた。

 

「キス、していい?」

 

 ——オキシトシンの分泌予測。扁桃体の活性低下による警戒心の解除。これは——。

 

 唇が、触れた。

 

 思考が、消えた。

 

 二十年間繰り返してきた感触ではなかった。少女の唇が、少女の唇に触れている。柔らかい。温かい。甘い呼吸が鼻先にかかる。アランの唇は乾いていて、少し硬くて、でもそれが好きだった。コゼットの唇は——違った。柔らかさの()が違う。果実の表面のような、押せば沈む弾力。そこに自分の唇が溶けていく。同じ柔らかさが、互いの境界を消していく。

 

 膝が折れた。

 

 コゼットの華奢な腕が腰を支えた。アランの逞しい腕ではない。でもその支え方だけが、アランだった。腰に回る手の角度。引き寄せる力の加減。二十年分の記憶が、少女の腕に宿っている。

 

 目を開けた。至近距離にコゼットの睫毛がある。長い。その奥に、アランの目がある。

 

 二十年間、この人とキスしてきた。こんなの、初めてだった。

 

「…………もう一回」

 

 マルグリットの声が、震えていた。脳科学者(・・・・)としてではなく、ただの女(・・・・)として。

 

「何回でも」

 

 コゼットが微笑んだ。

 

 二回目は、目を閉じた。コゼットの指がマルグリットの後頭部に触れた。髪を掻き上げるように。うなじに指先が触れた瞬間、背筋に甘い痺れが走った。唇が離れない。離したくない。コゼットの吐息がマルグリットの唇の上で溶ける。マルグリットの吐息がコゼットの唇の上で溶ける。どちらのものか分からない呼吸が、二人の間で行き来している。

 

 三回目は、マルグリットの方から触れた。

 

 唇が離れた後、コゼットがマルグリットの髪を指で梳いた。

 

「ねえ、マルグリット。こういうの——お砂糖(・・・)って言うんだよ。知ってた?」

 

「……知らない」

 

「特別に親しい関係。VRの中だけの。——僕たち、二十年夫婦だったけど」

 

 コゼットの指が、マルグリットの耳にかかった髪を後ろに流した。

 

「お砂糖は、初めてだね」

 

 マルグリットは何も言えなかった。二十年の結婚より甘い関係が、ここにあった。

 

 ——報酬系の分析。依存形成の予測。離脱症状の計算。

 

 全部、もういい。

 

 マルグリットは眼鏡をかけなかった。

 

 

  ・・・

 

 

 俺——佐久間健吾は、モニター越しにその映像を見ていた。

 

 パリの研究室。デュポン博士がヘッドセットを被っている。隣にいる男性——博士の夫が、その手を握っていた。

 

 博士がヘッドセットの下で、ゆっくりと眼鏡を外した。外した眼鏡を、机の上に置いた。もう要らない、とでも言うように。

 

 二枚目の壁が溶けた音は、眼鏡がテーブルに触れる小さな音だった。

 

 モニターの横に、俺のアタッシュケースがある。国連で支給されたヘッドセットが入ったままの。留め金の跡が、昨日より増えていた。

 

「……俺は、やらない」

 

 声に出して言った。三回目だった。

 

 回を追うごとに、声が小さくなっていることに、俺は気づいていた。

 

 溶かし屋さんは、身近な人間がなる。副官。夫。——最も信頼している相手が、最も正確に壁を溶かす。

 

 俺は、ふと考えた。

 

 コンビニバイト。友達は山崎だけで、その山崎もとっくにTS体に沈んだ。家族とは疎遠。恋人はいない。

 

 身近な人間が、いない。

 

 じゃあ——俺の溶かし屋さんは、誰だ(・・・)

 

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