人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に! 作:なほやん
残った壁は、二枚。
ウォレス元副大統領は、ワシントンの自室から出てこないらしい。「溶かし屋さんは身近な人間がなる」——その情報だけで、あの強硬派が自分の部屋に閉じこもった。誰にも会わず、誰とも話さず、壁の向こうで一人、戦略を練っているのだろう。
俺は——ただ、自堕落に過ごしていた。
・・・
最終防壁の全権は、想像以上だった。
タワマンの最上階。高級食材。専用の護衛。無制限の予算。
護衛の山田さん——本名は知らない、俺が勝手にそう呼んでいる——が、毎朝ドアの前に立っている。元自衛官らしい。厳しい顔をしている。が、目の下に隈がある。
「山田さん、ちゃんと寝てます?」
「……佐久間さんこそ、今日も出勤ですか」
山田さんの目が、かすかに曇った。気持ちは分かる。
でも、なぜかバイトをやめる気にはならなかった。
・・・
コンビニの夜勤は、午後十時から翌朝六時まで。
レジに立つ。「いらっしゃいませ」と言う。バーコードを読む。「袋いりますか」と聞く。「ありがとうございましたー」と言う。
それだけのことが、今の俺には必要だった。
最近、VRヘッドセットをつけたまま来店する客が増えた。今や半数以上がそうだ。ヘッドセットの向こうで美少女をやりながら、現実の手でおにぎりを掴み、現実の足でレジまで歩いてくる。会計はスマホの自動決済。言葉を交わす必要もない。
自動ドアが開いた。
二人連れ。ヘッドセット着用。
手を繋いでいた。
プリンを二つ、カゴに入れた。おそろいの。同じ味の。
「いらっしゃいませ」
次の客も、その次の客も、ヘッドセットの向こうで誰かと笑い合っている。俺には聞こえない笑い声。俺には見えない世界。
深夜二時。客足が途絶える。
暇だった。
スマホを開いた。匿名掲示板。最終防壁のスレッドは毎日伸びている。
『ヴォルコフ大佐のTS姿、想像以上にかわいかった件』
『デュポン博士、旦那と一緒に堕ちたのエモすぎない?』
『残り二人いつ堕ちるの? 副大統領と……誰だっけ、コンビニの人?』
『あーあのモブ枠ね。TS星人に指名されたやつ。何もしてないらしい』
『税金の無駄すぎて泣ける』
……うん、知ってる。
俺は、名前を伏せたままスレッドに書き込んだ。
『大富豪だけどコンビニの夜勤やってる』
三秒で返事がついた。
『嘘乙w』
『設定盛りすぎじゃない?w』
『いいじゃんVRなんだから好きな設定で生きなよ〜』
『わたしなんか大統領やってるよ!』
『私は猫耳メイドで時給八百万ドルだけど?』
全部本当なのに。
誰にも信じてもらえない本当と、誰にでも信じてもらえる嘘。世界はもう、そっち側にできている。
スレッドをスクロールしていると、一つだけ毛色の違うレスが目に入った。
『でもお前、楽しそうじゃないな』
返せなかった。
スレッドを閉じた。指がトレンドに触れた。
『お砂糖の子と初めて手を繋いだ。指が震えた。向こうも震えてた』
『わかる 最初の接触まじで電気走る』
『手繋ぎで泣くとか中学生かよ……わたしもそうだったけど……』
『お前ら手繋ぎで何スレ消費するつもりだ』
別のスレッド。
『もう現実の顔わからん。鏡見ても「これ誰?」ってなる』
『VRの方が呼吸楽なのマジで何? 現実の体窮屈すぎん?』
『怖いけど嬉しい。どっちだろ。——両方だ』
『両方ニキかっこいい』
『人類やめた感想が「怖いけど嬉しい」なのもう文学だろ』
楽しそうだった。幸せそうだった。
指が止まらない。一つ読むたびに、胸の奥で何かが疼いた。
——羨ましいのだと、気づくのに時間がかかった。
スマホを伏せた。
——震えた。
通知。見覚えのないアプリ。インストールした記憶がない。
ピンクのアイコン。猫耳のシルエット。
『はじめまして♪ ナビ子です!』
画面いっぱいにキャラクターが表示されていた。ピンク髪。デフォルメされた大きな目。やたらと可愛い。
広告か。閉じようとした。
『待って待って! 閉じないでっ!』
指が、止まった。
『佐久間さんだけの特別キャンペーンのお知らせだよ♪ TS体、初回体験が今なら完全無料! しかもカスタマイズオプション全開放! 佐久間さんの好みに合わせて、世界でたった一人のアバターを——』
名前を知っている。ターゲティング広告か。
『ねえねえ、興味ない? みーんなハマってるよ? 四十二億人が遊んでるんだよ?』
四十二億。正確だな。
『あのね、佐久間さん。ナビ子、一つだけ聞いていい?』
「……」
『さっき掲示板見てたでしょ? お砂糖スレ』
背中が冷たくなった。
「……見てたのか」
『見てないよ! 佐久間さんのことが気になってるだけ♪ ——あ、今日もコンビニお疲れさま♪』
コンビニ。どこにも書いていない。掲示板にも、国連のデータベースにも。——こいつ、なぜ知っている?
「……お前、何者だ」
『ナビ子はナビ子だよ♪』
「…………」
『TS体ってね、一人でも楽しいんだよ? お砂糖相手がいなくても。自分の体が好きになるだけで、世界が変わるの。鏡を見て「これが私だ」って思える。それだけで——泣けるくらい、気持ちいいんだよ?』
閉じろ。今すぐ閉じろ。
『佐久間さんは、自分のこと好き?』
閉じた。
一秒後、通知が来た。同じアイコン。
『ナビ子はいつでもどこでも会えるから♪ また来るね♪』
今度こそスマホを伏せた。
・・・
深夜三時。
コンビニの自動ドアの外に、星が見えた。
東京で星が見えるのは珍しい。だがインフラを支える人間の半分がログイン中だ。文明が傾いた分だけ、空が綺麗になっていく。
子どもの頃から、星が好きだった。
図書館で借りた宇宙の図鑑。表紙がボロボロになるまで読んだ。土星の環。木星の大赤斑。アンドロメダ銀河までの距離、二百五十万光年。数字の意味は分からなかったけど、その大きさに胸が震えた。
宇宙飛行士になりたかった。
無理だと分かったのは中学の時だ。視力が足りなかった。それでも宇宙を諦めきれなくて、大学は物理学科を選んだ。宇宙物理学。
そこで——戸塚教授に会った。
白髪交じりの痩せた男。口数は少ないが、宇宙の話になると止まらなくなる。研究室に入り浸って、二人でコーヒーを飲みながら赤方偏移の計算をした。教授が式を書き、俺がそれを追う。追いつけないことの方が多かった。でも楽しかった。
教授。
あの人は、最後に何を言っていた?
——宇宙は、ピンクの森林だ。
何が何だか分からない。
ピンクの森林。
この星空のどこかに、TS星人がいる。俺たちに信号を送り続けている。
その信号の中に、教授は何を見たのか。
——そもそも、なぜ俺が最終防壁に選ばれた?
ヴォルコフは世界最強の軍人。デュポンは脳科学の権威。ウォレスは核のボタンに最も近い政治家。
俺は、宇宙物理学科の院を中退したコンビニのバイトだ。
モブ枠。掲示板はそう呼んでいる。俺もそう思う。
だが、TS星人が無意味な指名をするだろうか。四十二億人を堕とした知性が、一枠をモブに使うか?
教授の弟子だから。それしか思いつかない。教授が何かを見つけて、俺がその続きを知っている可能性に、あいつらが賭けた。
・・・
タワーマンションに戻り、シャワーを浴びた。護衛の山田さんが淹れてくれたコーヒーに口をつけ——ふと、教授のコーヒーを思い出した。研究室で飲む薄いインスタントコーヒー。あっちの方がうまかった。
国連の連絡端末を手に取った。
最終防壁専用の回線。他の三人は、これを使って軍隊を動かし、研究施設を建て、国際条約を書いた。
「最終防壁・佐久間健吾です。一つ、お願いがあります」
「なんなりと、佐久間さん」
担当官の声は丁寧だった。丁寧すぎた。期待していないのだ。
「衛星を。できる限り」
沈黙。
「……衛星、ですか」
「はい。宇宙が好きなので」
通話の向こうで、誰かが額を押さえる音がした気がした。
「……用途を、もう少し具体的にお聞きしても——」
「最終防壁の真の戦略は、本人の頭の中にだけ存在する。——そうでしたよね?」
「……承知しました。手配いたします」
通話が切れた。
端末を置いた後、国連本部の会議室で何が起きているか、想像がついた。「やはりあの四人目は使えない」——。
構わなかった。
窓の外。朝の東京。ビルの隙間に空が覗いている。
教授が見たものが、あの空の向こうにある。
テーブルの隅で、アタッシュケースの留め金が俺の顔を写している。
溶かし屋さんは、身近な人間がなる。
ヴォルコフは氷雨に。デュポンは夫のコゼットに。ウォレスにも、いずれ誰かが来るだろう。
俺には、誰もいない。
だから安全だと思っていた。
違う、俺の溶かし屋さんは、俺自身だ。