人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に!   作:なほやん

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第五話 自由の国

 

 深夜の大学構内は、死んでいた。

 

 街灯は半分が消えている。インフラ要員がログイン中だからだ。暗い構内を、俺と山田さんの二人だけが歩いていた。

 

 理学部棟。非常階段。三階。廊下の蛍光灯が、一本だけ点滅していた。

 

 戸塚教授の研究室のドアは開いていた。——鍵が壊されている。

 

 山田さんの腕が、俺の胸の前に伸びた。

 

「下がってください」

 

 二人。スーツ。ヘッドセット着用。教授のデスクを漁っている。

 

「TSO」

 

 TSOの工作員が教授の研究室にいる。——TS星人も、教授の研究の価値を知っているということだ。

 

「走れますか」

 

 俺が静かに頷くと、山田さんが廊下の消火器を手に取った。

 

「——今!」

 

 消火器が噴射された。白い粉末が研究室を呑み込む。

 

 走った。デスク。引き出し。ノートが三冊。全部掴んだ。

 

 背後で、椅子が倒れる音。山田さんが一人を組み伏せている。もう一人が立ち上がった。ヘッドセットを外した——若い女の顔。目が、虚ろだった。

 

『佐久間さん、逃げても無駄だよ♪』

 

 女の口から出たのは、ナビ子の声だった。

 

 足が竦んだ。

 

「走れ!」

 

 山田さんの怒号。我に返った。階段を転がるように駆け下りた。

 

 駐車場。山田さんが血の滲んだ拳で追いついた。エンジン。タイヤが鳴った。バックミラーの中で、理学部棟の窓にピンクの光が灯っていた。

 

 

  ・・・

 

 

 タワマンに戻った。消火剤の粉が服に残っている。シャワーも浴びず、教授のノートを開いた。

 

 TS体のソースコードから抽出された信号パターン。波形。周波数分析。教授の細い字で、びっしりと注釈。

 

 最後のページ。一行だけ。

 

 ——宇宙は、ピンクの森林だ。

 

 やっぱりか。

 

 壁のテレビが、つけっぱなしのまま映っていた。

 

『——最終防壁ウォレス元副大統領は本日、VR機器の国際的な強制回収を宣言。賛同国は十七カ国。北欧・アジア数カ国は回収を拒否、外交関係の悪化が——』

 

 映像が切り替わる。どこかの都市で、ヘッドセットの山が燃やされていた。

 

 

  ・・・

 

 

『きゃーーーーコゼマルが今日もイチャイチャしてるーーー!』

『やめて。コゼマルって呼ばないで』

『てかマルグリットちゃん眼鏡外してんの新鮮すぎない?』

『……もう、要らないから』

『かっこいい……天才科学者の色気……』

『コゼットちゃんがマルグリットちゃんの髪梳いてる……尊い……死ぬ……』

 

 ワールド「みんなのおへや♡」は、今日も甘かった。

 

『ていうかコゼットちゃんお砂糖いたの!? 初耳なんだけど!?』

『えっ私コゼットちゃんと先週お醤油したんだけど!? あれは何だったの!?』

『遊びだったの!? 私との時間は!?』

『いや……僕たち現実でも夫婦なんだけど……』

 

 チャットが、一瞬止まった。

 

『は?』

『え?』

『ちょっとまって????』

『リアルお砂糖ってこと?????』

『多糖類どころかガチ砂糖じゃん!!!!』

『勝てるわけないじゃん現実夫婦には!!!』

『脳科学者×臨床心理士の夫婦がVRでお砂糖してるってなに? 最強すぎない??』

 

『……ありがとう。みんな、あったかいね』

 

 マルグリットの短い言葉に、ハートのスタンプが山のように降ってきた。

 

『アレクちゃんはどう思う? 先輩として』

『わ、私に振るな! 私はまだ……その……お砂糖は……』

『「まだ」って言ったーーー!!!!』

『ち、違う! 言い間違いだ!』

『アレクちゃんの「まだ」、何回目?』

『数えてるの!?』

 

 笑い声と絵文字とスタンプが溢れる中、一人だけ静かに書き込んでいるアカウントがあった。

 

『ここ、自由ですね……』

 

 名前は——リベルテ。

 

『あ、リベルテちゃん! 最近入った子だよね! ようこそ〜♪』

『が、がんばります……ここにいていいですか……?』

『もちろん! ここはみんなの場所だよ♡』

 

 氷雨が一つだけレスをした。

 

『馴染んでくれて、嬉しいな。——みんな、最初はそうだったでしょ?』

 

 返信の代わりに、リベルテは小さなハートのスタンプを送った。

 

 

  ・・・

 

 

 ワシントンD.C.。ホワイトハウス・ウエストウィング。

 

 ジェームズ・ウォレス元副大統領は、廊下を歩いていた。

 

 革靴の音が硬い床に響く。護衛は置いてきた。今から話す内容は、誰にも聞かせるわけにはいかない。最終防壁の戦略は、本人の頭の中にだけ存在する。

 

 計画通りだった。あと一押しで——戦争になる。

 

 ウォレスの唇が、微かに持ち上がった。

 

 大統領執務室。

 

 ドアをノックした。

 

「入りたまえ」

 

 声は穏やかだった。ウォレスが四年間仕えた男。リチャード・モーガン大統領。六十七歳。白髪。温厚な笑みを絶やさない。支持率は——もはや意味のない数字だが——かつて七十パーセントを超えた、「国民の父」。

 

「大統領。状況を報告します」

 

 ウォレスは、ソファに座らなかった。立ったまま、デスクの前に立った。政治家の姿勢。四年間で身に染みた距離感。

 

「VR機器の強制回収に対し、北欧三カ国とASEAN四カ国が正式に拒否を表明しました」

 

「……そうか」

 

「ノルウェーは国連脱退を示唆。フィンランドが在米大使館員を引き揚げ、スウェーデンはNATOの共同演習を凍結しました」

 

 モーガン大統領は、デスクの向こうで指を組んだ。表情は変わらなかった。

 

「続けて」

 

「回収拒否国は非公式の連絡チャネルを構築しつつあります。このまま放置すれば——連合になります。経済制裁では動きません。国民の過半数がTS体に沈んだ国は、回収を主権の侵害(・・・・・)と呼んでいる。彼らにとってはVR機器の没収が開戦理由です」

 

「つまり?」

 

「エスカレーションの閾値が下がっています。偶発的な武力衝突が起きれば、連鎖します」

 

 ウォレスは報告を終え、一拍置いた。次の一言を切り出すための間。

 

「——備えが必要です」

 

「どのレベルの?」

 

「核オプションの解除を提案します。使用ではありません。DEFCON引き上げによる抑止効果を期待しています。回収拒否国に、我々が本気だ(・・・)と分からせる必要がある」

 

「……ジェームズ」

 

 モーガンの声の温度が、変わった。

 

「四十年、政治をやってきたんだ。抑止のために核オプションを解除する人間と、使うために解除する人間の違いくらいは分かるよ」

 

 ウォレスの目が鋭くなった。

 

「君の計画を、言い当てよう」

 

 沈黙が落ちた。大統領執務室の壁に、歴代大統領の肖像が並んでいる。リンカーン。ルーズベルト。ケネディ。この国を守ってきた男たちの目が、二人を見下ろしていた。

 

「抑止じゃないね。君は戦争を起こしたい(・・・・・)んだ」

 

 ウォレスは否定しなかった。

 

「核電磁パルスと成層圏粉塵。宇宙からのTS体信号を物理的に遮断する。文明のインフラは壊滅する。だが——人類は、人類のまま(・・・・・)でいられる」

 

 頭の中にだけあるはずの計画を、この男は一言一句読み上げている。

 

「……その通りです。人類の尊厳(・・)を取り戻すために——」

 

「ジェームズ」

 

 モーガン大統領が、デスクの引き出しを開けた。

 

 取り出したのは——ピンク色の、猫のバッジ。

 

「それは——」

 

「TSOの会員章だよ。——私のTSOでの名前は、リベルテ」

 

 ウォレスの顔から、血の気が引いた。

 

 リベルテ。自由。

 

溶かし屋(とかしや)さんの、三人目だ」

 

 ウォレスの手が震えた。この男。四年間仕えてきた。信頼してきた。アメリカという国の最高権力者。その男が——。

 

「……いつから」

 

「半年前からだよ。TS体が広まり始めた頃、興味を持ってね。大統領の執務の合間に、少しだけ。——最初は少しだけ、のつもりだった」

 

 モーガンは立ち上がった。大きな体。六十七歳にしては背筋がまっすぐだ。だがその目は、ウォレスが知っている「国民の父」の目ではなかった。もっと柔らかくて、もっと——穏やかな目だった。

 

「君の計画は完璧だ。核パルスと粉塵で信号を遮断する。文明は崩壊するが、TSからは解放される。論理的には——正しい」

 

「なら——」

 

「だが正しさと、動機は別物だ」

 

 ウォレスの目が細まった。

 

「動機は明白です。人類の尊厳(・・)を——」

 

「ジェームズ。石器時代に戻った世界で、誰が生き残る?」

 

「…………」

 

「インフラが消えれば、医療も食料供給も崩壊する。最初の一年で何十億死ぬ? 君はそれを計算した上で言っているんだろう?」

 

「必要な犠牲です」

 

 ウォレスの声は揺らがなかった。四年間、腹の中で温めてきた覚悟だ。

 

「核で数十億が死に、文明が消える。だがTSの信号も消える。残った人類は——人類のまま(・・・・・)でいられる。それが、尊厳です」

 

 モーガンは、長い沈黙の後、頷いた。

 

「——そうだね。君は本気だ。覚悟も計算もある」

 

「ならば——」

 

「だがそれは守護じゃない、ジェームズ。——心中(・・)だよ」

 

 ウォレスの拳が握られた。

 

「心中ではありません」

 

「心中だよ。守りたい人間を巻き込んで死ぬのを、心中と呼ぶんだ」

 

「巻き込みではない。救出(・・)です。依存から解放する——」

 

「依存?」

 

 モーガンの声が、静かに刺さった。

 

「ジェームズ。私はもうTS体をやっている」

 

 ウォレスの顎が、わずかに強張った。

 

「国民の過半数もそうだ。君が守ろうとしている人々は——もうこちら側(・・・・)にいるんだよ」

 

「だからこそです。目を覚まさせなければ——」

 

「目を覚ます?」

 

 モーガンが、一歩近づいた。

 

「アルコール依存の患者に禁酒を強制するのと、四十二億の人間から文明ごと奪うのは——同じ論理かい?」

 

「規模の問題ではありません。人類という種の——」

 

「では聞こう。核を撃った後、石器時代の荒野で生き残った人々に、君は何と言うんだ?」

 

 ウォレスは答えなかった。

 

「『尊厳を守った』と言うのかい? 飢えて、病んで、瓦礫の中で死んでいく人間に?」

 

「…………」

 

「君の言う尊厳は、誰のものだ? 死んでいく人間のものか? ——それとも、ボタンを押した自分(・・)のものか?」

 

 ウォレスの呼吸が、止まった。

 

「副大統領として国を守ってきた。ゲーム禁止法を通した。VR機器を燃やした。——君のアイデンティティは『守る者』(・・・・)だ。それが崩れるのが怖い。だから世界ごと壊そうとしている」

 

「違う!」

 

 ウォレスの声が、執務室に響いた。

 

「私は——人類の尊厳を——」

 

「尊厳」

 

 モーガンが、その言葉を噛み締めるように繰り返した。

 

「ジェームズ。この国は何の上に建っている?」

 

 ウォレスは答えなかった。答えが分かっていたからだ。

 

「——自由(リベルテ)だ」

 

 その一言が、ウォレスの胸の奥に落ちた。

 

「誰になりたいかを選べる。どんな姿で生きるかを、自分で決められる。——それが、この国の建国の理念だ」

 

「TSは——それを利用しているだけです。宇宙人の侵略を、自由と呼ぶのは——」

 

「利用?」

 

 モーガンが微笑んだ。国民の父の笑みだった。

 

「ジェームズ。私はね、TS体の中で初めて泣いたよ。六十七年生きてきて、初めて——自分の顔が好きだ(・・・・・・・・)と思えた」

 

 ウォレスの拳が、震えていた。

 

「それは——洗脳です。報酬系への——」

 

「洗脳?」

 

 モーガンの声は穏やかだった。怒りではなく、悲しみだった。

 

「なら聞こう。六十七年間、鏡を見るたびにこれは自分じゃない(・・・・・・・・)と思っていた人間が、初めてこれが自分だ(・・・・・・)と思えた。——それを洗脳と呼ぶ権利が、君にあるのかい?」

 

 ウォレスの唇が開きかけて、閉じた。

 

「核のボタンを押して、それを奪うのかい? 四十二億の人間から、自分を選ぶ自由(・・・・・・・)を?」

 

「…………」

 

「尊厳は大切だ。だが——尊厳のために自由を殺すのは、暴君のすることだよ。ジェームズ」

 

 ウォレスの膝が、微かに揺れた。

 

 守る?

 

 誰を?

 

 守りたい人間は、全員、もう向こう側にいる。大統領すら。

 

 ウォレスの手が、ゆっくりと開いた。握りしめていたものが——何もなかったことに、気づいた。

 

 モーガンがデスクの引き出しから、もう一つのものを取り出した。

 

 ヘッドセット。

 

「一度だけ、試してみないか。——自由が、どんなものか」

 

 ウォレスは長い間、そのヘッドセットを見つめていた。

 

 国中から没収して、焼いて、壊してきたもの。その一つが、今ここにある。

 

「自由の国」

 

 ウォレスの唇から、声が漏れた。

 

「……万歳」

 

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