人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に! 作:なほやん
深夜の大学構内は、死んでいた。
街灯は半分が消えている。インフラ要員がログイン中だからだ。暗い構内を、俺と山田さんの二人だけが歩いていた。
理学部棟。非常階段。三階。廊下の蛍光灯が、一本だけ点滅していた。
戸塚教授の研究室のドアは開いていた。——鍵が壊されている。
山田さんの腕が、俺の胸の前に伸びた。
「下がってください」
二人。スーツ。ヘッドセット着用。教授のデスクを漁っている。
「TSO」
TSOの工作員が教授の研究室にいる。——TS星人も、教授の研究の価値を知っているということだ。
「走れますか」
俺が静かに頷くと、山田さんが廊下の消火器を手に取った。
「——今!」
消火器が噴射された。白い粉末が研究室を呑み込む。
走った。デスク。引き出し。ノートが三冊。全部掴んだ。
背後で、椅子が倒れる音。山田さんが一人を組み伏せている。もう一人が立ち上がった。ヘッドセットを外した——若い女の顔。目が、虚ろだった。
『佐久間さん、逃げても無駄だよ♪』
女の口から出たのは、ナビ子の声だった。
足が竦んだ。
「走れ!」
山田さんの怒号。我に返った。階段を転がるように駆け下りた。
駐車場。山田さんが血の滲んだ拳で追いついた。エンジン。タイヤが鳴った。バックミラーの中で、理学部棟の窓にピンクの光が灯っていた。
・・・
タワマンに戻った。消火剤の粉が服に残っている。シャワーも浴びず、教授のノートを開いた。
TS体のソースコードから抽出された信号パターン。波形。周波数分析。教授の細い字で、びっしりと注釈。
最後のページ。一行だけ。
——宇宙は、ピンクの森林だ。
やっぱりか。
壁のテレビが、つけっぱなしのまま映っていた。
『——最終防壁ウォレス元副大統領は本日、VR機器の国際的な強制回収を宣言。賛同国は十七カ国。北欧・アジア数カ国は回収を拒否、外交関係の悪化が——』
映像が切り替わる。どこかの都市で、ヘッドセットの山が燃やされていた。
・・・
『きゃーーーーコゼマルが今日もイチャイチャしてるーーー!』
『やめて。コゼマルって呼ばないで』
『てかマルグリットちゃん眼鏡外してんの新鮮すぎない?』
『……もう、要らないから』
『かっこいい……天才科学者の色気……』
『コゼットちゃんがマルグリットちゃんの髪梳いてる……尊い……死ぬ……』
ワールド「みんなのおへや♡」は、今日も甘かった。
『ていうかコゼットちゃんお砂糖いたの!? 初耳なんだけど!?』
『えっ私コゼットちゃんと先週お醤油したんだけど!? あれは何だったの!?』
『遊びだったの!? 私との時間は!?』
『いや……僕たち現実でも夫婦なんだけど……』
チャットが、一瞬止まった。
『は?』
『え?』
『ちょっとまって????』
『リアルお砂糖ってこと?????』
『多糖類どころかガチ砂糖じゃん!!!!』
『勝てるわけないじゃん現実夫婦には!!!』
『脳科学者×臨床心理士の夫婦がVRでお砂糖してるってなに? 最強すぎない??』
『……ありがとう。みんな、あったかいね』
マルグリットの短い言葉に、ハートのスタンプが山のように降ってきた。
『アレクちゃんはどう思う? 先輩として』
『わ、私に振るな! 私はまだ……その……お砂糖は……』
『「まだ」って言ったーーー!!!!』
『ち、違う! 言い間違いだ!』
『アレクちゃんの「まだ」、何回目?』
『数えてるの!?』
笑い声と絵文字とスタンプが溢れる中、一人だけ静かに書き込んでいるアカウントがあった。
『ここ、自由ですね……』
名前は——リベルテ。
『あ、リベルテちゃん! 最近入った子だよね! ようこそ〜♪』
『が、がんばります……ここにいていいですか……?』
『もちろん! ここはみんなの場所だよ♡』
氷雨が一つだけレスをした。
『馴染んでくれて、嬉しいな。——みんな、最初はそうだったでしょ?』
返信の代わりに、リベルテは小さなハートのスタンプを送った。
・・・
ワシントンD.C.。ホワイトハウス・ウエストウィング。
ジェームズ・ウォレス元副大統領は、廊下を歩いていた。
革靴の音が硬い床に響く。護衛は置いてきた。今から話す内容は、誰にも聞かせるわけにはいかない。最終防壁の戦略は、本人の頭の中にだけ存在する。
計画通りだった。あと一押しで——戦争になる。
ウォレスの唇が、微かに持ち上がった。
大統領執務室。
ドアをノックした。
「入りたまえ」
声は穏やかだった。ウォレスが四年間仕えた男。リチャード・モーガン大統領。六十七歳。白髪。温厚な笑みを絶やさない。支持率は——もはや意味のない数字だが——かつて七十パーセントを超えた、「国民の父」。
「大統領。状況を報告します」
ウォレスは、ソファに座らなかった。立ったまま、デスクの前に立った。政治家の姿勢。四年間で身に染みた距離感。
「VR機器の強制回収に対し、北欧三カ国とASEAN四カ国が正式に拒否を表明しました」
「……そうか」
「ノルウェーは国連脱退を示唆。フィンランドが在米大使館員を引き揚げ、スウェーデンはNATOの共同演習を凍結しました」
モーガン大統領は、デスクの向こうで指を組んだ。表情は変わらなかった。
「続けて」
「回収拒否国は非公式の連絡チャネルを構築しつつあります。このまま放置すれば——連合になります。経済制裁では動きません。国民の過半数がTS体に沈んだ国は、回収を
「つまり?」
「エスカレーションの閾値が下がっています。偶発的な武力衝突が起きれば、連鎖します」
ウォレスは報告を終え、一拍置いた。次の一言を切り出すための間。
「——備えが必要です」
「どのレベルの?」
「核オプションの解除を提案します。使用ではありません。DEFCON引き上げによる抑止効果を期待しています。回収拒否国に、我々が
「……ジェームズ」
モーガンの声の温度が、変わった。
「四十年、政治をやってきたんだ。抑止のために核オプションを解除する人間と、使うために解除する人間の違いくらいは分かるよ」
ウォレスの目が鋭くなった。
「君の計画を、言い当てよう」
沈黙が落ちた。大統領執務室の壁に、歴代大統領の肖像が並んでいる。リンカーン。ルーズベルト。ケネディ。この国を守ってきた男たちの目が、二人を見下ろしていた。
「抑止じゃないね。君は戦争を
ウォレスは否定しなかった。
「核電磁パルスと成層圏粉塵。宇宙からのTS体信号を物理的に遮断する。文明のインフラは壊滅する。だが——人類は、
頭の中にだけあるはずの計画を、この男は一言一句読み上げている。
「……その通りです。人類の
「ジェームズ」
モーガン大統領が、デスクの引き出しを開けた。
取り出したのは——ピンク色の、猫のバッジ。
「それは——」
「TSOの会員章だよ。——私のTSOでの名前は、リベルテ」
ウォレスの顔から、血の気が引いた。
リベルテ。自由。
「
ウォレスの手が震えた。この男。四年間仕えてきた。信頼してきた。アメリカという国の最高権力者。その男が——。
「……いつから」
「半年前からだよ。TS体が広まり始めた頃、興味を持ってね。大統領の執務の合間に、少しだけ。——最初は少しだけ、のつもりだった」
モーガンは立ち上がった。大きな体。六十七歳にしては背筋がまっすぐだ。だがその目は、ウォレスが知っている「国民の父」の目ではなかった。もっと柔らかくて、もっと——穏やかな目だった。
「君の計画は完璧だ。核パルスと粉塵で信号を遮断する。文明は崩壊するが、TSからは解放される。論理的には——正しい」
「なら——」
「だが正しさと、動機は別物だ」
ウォレスの目が細まった。
「動機は明白です。人類の
「ジェームズ。石器時代に戻った世界で、誰が生き残る?」
「…………」
「インフラが消えれば、医療も食料供給も崩壊する。最初の一年で何十億死ぬ? 君はそれを計算した上で言っているんだろう?」
「必要な犠牲です」
ウォレスの声は揺らがなかった。四年間、腹の中で温めてきた覚悟だ。
「核で数十億が死に、文明が消える。だがTSの信号も消える。残った人類は——
モーガンは、長い沈黙の後、頷いた。
「——そうだね。君は本気だ。覚悟も計算もある」
「ならば——」
「だがそれは守護じゃない、ジェームズ。——
ウォレスの拳が握られた。
「心中ではありません」
「心中だよ。守りたい人間を巻き込んで死ぬのを、心中と呼ぶんだ」
「巻き込みではない。
「依存?」
モーガンの声が、静かに刺さった。
「ジェームズ。私はもうTS体をやっている」
ウォレスの顎が、わずかに強張った。
「国民の過半数もそうだ。君が守ろうとしている人々は——もう
「だからこそです。目を覚まさせなければ——」
「目を覚ます?」
モーガンが、一歩近づいた。
「アルコール依存の患者に禁酒を強制するのと、四十二億の人間から文明ごと奪うのは——同じ論理かい?」
「規模の問題ではありません。人類という種の——」
「では聞こう。核を撃った後、石器時代の荒野で生き残った人々に、君は何と言うんだ?」
ウォレスは答えなかった。
「『尊厳を守った』と言うのかい? 飢えて、病んで、瓦礫の中で死んでいく人間に?」
「…………」
「君の言う尊厳は、誰のものだ? 死んでいく人間のものか? ——それとも、ボタンを押した
ウォレスの呼吸が、止まった。
「副大統領として国を守ってきた。ゲーム禁止法を通した。VR機器を燃やした。——君のアイデンティティは
「違う!」
ウォレスの声が、執務室に響いた。
「私は——人類の尊厳を——」
「尊厳」
モーガンが、その言葉を噛み締めるように繰り返した。
「ジェームズ。この国は何の上に建っている?」
ウォレスは答えなかった。答えが分かっていたからだ。
「——
その一言が、ウォレスの胸の奥に落ちた。
「誰になりたいかを選べる。どんな姿で生きるかを、自分で決められる。——それが、この国の建国の理念だ」
「TSは——それを利用しているだけです。宇宙人の侵略を、自由と呼ぶのは——」
「利用?」
モーガンが微笑んだ。国民の父の笑みだった。
「ジェームズ。私はね、TS体の中で初めて泣いたよ。六十七年生きてきて、初めて——
ウォレスの拳が、震えていた。
「それは——洗脳です。報酬系への——」
「洗脳?」
モーガンの声は穏やかだった。怒りではなく、悲しみだった。
「なら聞こう。六十七年間、鏡を見るたびに
ウォレスの唇が開きかけて、閉じた。
「核のボタンを押して、それを奪うのかい? 四十二億の人間から、
「…………」
「尊厳は大切だ。だが——尊厳のために自由を殺すのは、暴君のすることだよ。ジェームズ」
ウォレスの膝が、微かに揺れた。
守る?
誰を?
守りたい人間は、全員、もう向こう側にいる。大統領すら。
ウォレスの手が、ゆっくりと開いた。握りしめていたものが——何もなかったことに、気づいた。
モーガンがデスクの引き出しから、もう一つのものを取り出した。
ヘッドセット。
「一度だけ、試してみないか。——自由が、どんなものか」
ウォレスは長い間、そのヘッドセットを見つめていた。
国中から没収して、焼いて、壊してきたもの。その一つが、今ここにある。
「自由の国」
ウォレスの唇から、声が漏れた。
「……万歳」