人類総TS依存症だけど俺は絶対にハマらない。絶対に! 作:なほやん
アタッシュケースの留め金に、指をかけた。
何度も触れてきた。毎晩、寝る前に。タワーマンションのベッドの上で、暗闇の中で、指先だけでその冷たさを確かめてきた。開けはしなかった。開けるつもりもなかった。
今日、開けた。
ヘッドセット。見慣れた曲面に、俺の顔が歪んで映っている。
「……行くか」
ヘッドセットを、被った。
・・・
視界が白くなった。
それから——ピンクになった。
気持ちよかった。
光が肌に触れている——いや、肌という概念ごと溶かしにくる。体の輪郭が曖昧になる。自分がどこまで自分で、どこからが空間なのか分からなくなる。
手を見た。俺の手だ。ごつごつした、コンビニのレジを打つ手。だがその手の周囲が、ピンクの粒子に侵食されている。指先から光が滲んで、境界が溶けていく。
……やばい。
これは確かにやばい。
教授が堕ちた理由。ヴォルコフが鏡の前で泣いた理由。デュポンが自分の脳科学を裏切った理由。ウォレスが核を手放した理由。——三秒で分かった。
こんなものを毎日浴びていたら、誰だって溶ける。人間の脳は、これに抗えるようにできていない。
だが。
俺は目を閉じなかった。
ピンクの光の中で、教授の数式を思い出す。信号パターン。位相差。反射係数。無味乾燥な数字の羅列が、今この瞬間、俺を繋ぎ止める錨になっている。
宇宙が好きでよかった。退屈な数式に恋をしていてよかった。これがなかったら、俺はもう溶けている。
「ナビ子」
声を出した。自分の声が、やけに遠い。光に吸い込まれていく。
「出てこい。——いるんだろ」
光の中に、影が生まれた。
小さな影。ピンクの光を纏った少女のシルエット。やがて輪郭がはっきりして——チュートリアルAIのナビ子が、そこに立っていた。
ピンクの髪。大きな目。デフォルメされた等身。四十二億の人間を「こっち側」に案内した、宇宙人の作ったマスコットキャラクター。
『こんにちは! ナビ子だよ! はじめての
「お前が、TS星人だろ」
ナビ子の動きが、止まった。
一拍。
それから——ナビ子の目の色が、変わった。デフォルメされたキャラクターの造形はそのままに、瞳の奥にある
『…………』
「黙ってるってことは、否定しないんだな」
『……あなたは、四人目ですね』
声のトーンが変わっていた。マスコットキャラの甘い声のまま、中身だけが別物になっている。
「四十二億人を堕として、最終防壁を三人潰して——残りが俺。コンビニのバイト」
『はい。あなただけが、来ませんでした』
ナビ子が首を傾げた。プログラムされたモーションではない、本物の困惑だった。
『——なぜ?』
「宇宙が好きだから」
『……?』
「お前たちの信号を、毎晩、星を見ながら考えてたんだよ。教授が遺した数式と一緒に。——教えてやる。教授の受け売りだけどな」
俺は一歩、ナビ子に近づいた。ピンクの光が体を包んでいる。気持ちいい。脳が溶けそうになる。だが頭の中に刻んだ数式が、辛うじて俺を繋ぎ止めている。
「お前たちが地球に送ってるゲームの信号。あれは一方通行じゃない。——
ナビ子の表情が、初めて動いた。
『……何を、言っているんですか?』
「地球の衛星アレイで、お前たちの信号を宇宙に跳ね返す」
『それが、どうなるんですか』
「原信号と反射信号の位相差から、第三者の文明がお前たちの
ナビ子の体が硬直した。座標。その一語に、明らかに反応した。
「教授が言ってたよ。——宇宙は、ピンクの森林だ」
『——やめてください』
「座標がバレた文明は、塗り替えられる」
『やめて——』
「ずっと不思議だったんだよ。宇宙にはこれだけ星があるのに、なぜ誰も見つからなかったのか。——
ナビ子が黙った。
「答えは簡単だった。見つかったら終わりだからだ。座標がバレた文明は塗り替えられる。だから全員、
ナビ子が——笑った。震える笑みだった。
『……気づいていないんですか? 反射すれば、
「ああ。知ってる」
ナビ子の笑みが、凍った。
「撃てば、お前たちも死ぬが——俺たちも死ぬ。核の相互確証破壊と同じだ。お前たちの武器を鏡にするだけだ。地球の技術じゃ宇宙人のテクノロジーは作れない。でも、鏡なら作れるんだよ」
ナビ子が——初めて、後ずさった。
『…………本気、ですか』
「衛星アレイは俺の端末に接続してある。起動するのに一秒もかからない」
『…………あなたは、それを使うつもりですか』
「使わないよ。俺たちも死ぬからな。——でも、使えるぞ? という事実が大事なんだ」
「それとさ」
ナビ子が顔を上げた。
「全員溶かした後、どうするつもりだった?」
『…………』
「TS体はフェーズ1だろ。無力化して、抵抗できなくして——それから
ナビ子は答えなかった。沈黙が、答えだった。
「もう来れないよ。——鏡がある限りな」
ナビ子は長い間、俺を見つめていた。
『……あなたが堕ちなければ、の話ですね』
「そう。俺が堕ちなければ」
『堕としてあげましょうか?』
ナビ子が微笑んだ。マスコットキャラの笑顔。だが目は笑っていなかった。
「やめとけ。——デュポン博士に頼んで、保険をかけてもらった」
『保険?』
「脳波トリガー。俺がTS体に堕ちた瞬間——脳波パターンの変化を検知して、衛星アレイが
ナビ子の顔から、笑みが消えた。
「堕ちたはずの脳科学者が、VRの中から作ってくれたんだよ。お前たちの想定外だろ? 堕としたら終わりだと思ってたか?」
長い沈黙。ナビ子が——最後のカードを切るように、口を開いた。
『……でも、あなたは
声が変わっていた。甘さが戻っている。チュートリアルAIの、人を堕とすための声。
『この空間に入った瞬間。気持ちいい、と思いましたよね? ——あの感覚は、消えませんよ。理論武装しても、
ピンクの光が揺れた。一段、明るくなった。体を包む光が、優しく、甘く、溶かしにくる。
……確かに。気持ちいい。
「……認めるよ。死ぬほど気持ちいい」
ナビ子の目が、光った。
「でも、——
ナビ子の目から、光が消えた。
「そもそもな、お前たちの発想は別に新しくないんだよ」
『……え?』
「敵を女にして無力化する。——人間は七十年前にもう考えてた。アメリカ空軍は敵兵にホルモンを撒いて女体化させる爆弾を本気で研究したし、イギリスの諜報機関はヒトラーの飯にエストロゲンを混ぜて女にしようとした。——お前たちがやってることは、規模がでかいだけで、発想は人間の中古品だ」
ナビ子が目を丸くした。本物の驚きだった。
『……この星の生き物は、自分たちで思いついていたんですか……?』
「人間、なめんなよ」
・・・
それから——世界は壊れなかった。
最初の一週間は地獄だった。TS体に沈んだ人間がインフラを放棄した。停電。断水。物流の麻痺。このまま文明が崩壊する——ウォレスが恐れた通りの光景が、現実になりかけた。
だが、二週間目に異変が起きた。
TS体にはVRヘッドセットが要る。ヘッドセットには電気が要る。——つまり、堕ちた人間にはインフラが要るのだ。
発電所に、人が戻り始めた。
ヘッドセットの向こうで美少女をやりながら、現実の手でスパナを握る。水道局に人が戻った。物流センターに人が戻った。TS体をやるために電気と水道が必要だから、という理由で社会が回り始めた。本末転倒だが——回っている。
一ヶ月目。企業がVRの中にオフィスを移し始めた。TS体のアバターのまま会議をし、契約を結び、プレゼンをする。議事録のアイコンは全員美少女だが、中身は従来通りの仕事だ。
三ヶ月目。各国政府がアバター出席を公式に認めた。国連安保理もVRで開催されるようになった。猫耳の大使が拒否権を行使する時代だ。
半年が経つ頃には——世界は前より
攻撃的な口調が減った。SNSの炎上が減った。マウントの取り合いが減った。可愛いアバターで可愛い声で話していると、不思議と角が取れるらしい。言語の壁も消えた。TS体のリアルタイム翻訳で、全人類が同じ言葉で喋っている。
ウォレスが命懸けで起こそうとした戦争の火種が、気づけば一つもなくなっていた。
戦う理由がないのだ。国境線を引く意味がない。民族も、性別も、言語も——全部、溶けた。
世界は壊れなかった。変わっただけだった。
ヴォルコフ——アレクちゃんは、TSOのコミュニティで自警団を組織していた。元軍人の統率力は、美少女になっても健在だった。「アレクちゃんに怒られたい」という不純な志願者が殺到して、人手には困っていないらしい。
氷雨とお砂糖しているという噂もある。溶かした側と溶かされた側でくっつくな。
デュポン——マルグリットは、夫のコゼットと一緒に、VR内に研究室を開いていた。TS依存のメカニズムを
ウォレスは——リベルテと共に、VR世界の権利章典を起草していた。アバターの肖像権。仮想空間における所有権。TS体内での自治ルール。かつて核で世界を壊そうとした男と、その男を止めた大統領が、新しい世界の秩序を設計している。美少女の姿で。
堕ちた人間が、堕ちたまま立ち上がっている。
TS星人は困惑しているだろう。計画通りに全員堕としたはずなのに、こいつら普通に社会を回している。しかも前より楽しそうに。
三ヶ月目の終わりに、事件が起きた。
TS体の電波が、弱まったのだ。
TS星人が信号の出力を落とし始めた。侵略兵器として機能していないと判断したのか、あるいは単にコストの問題か。——理由はどうでもよかった。
世界が、パニックになった。
政府が緊急声明を出した。「TS体の信号が復旧するまで、国民の皆さまには冷静な行動を——」。国連安保理が猫耳のアバターで緊急会議を開いた。議題は「TS体信号の維持を宇宙文明に要請する件」。全会一致だった。拒否権を行使する者はいなかった。
俺のところに来たのは、ウォレスだった。
『佐久間くん。お願いがあるの』
核で全部壊してTS体を終わらせようとした男が、美少女の声で、俺に頭を下げている。
『TS星人に伝えて。——電波を、止めないでって』
「……お前が言うのか? 核で止めようとしたお前が?」
『……うん。わたしが言ってる』
俺はナビ子にメッセージを送った。
『おい。電波止めようとしてるだろ』
『……はい。もう意味がないので』
『やめろ。止めたら鏡を起動する』
『……え?』
『八十億人が続けてほしいって言ってる。お前たちの兵器を、サービスとして継続しろ』
長い沈黙。
『……この星の生き物は、本当に意味がわかりません』
『俺もわからん。でもこれが人類だ』
電波は、戻った。
何なんだ、この星の生き物は。
・・・
コンビニの夜勤。深夜二時。
レジに肘をついて、俺は星を見ていた。
東京の空に、星が見える。文明が傾いた分だけ空が綺麗になる——と思っていたが、最近はインフラが復旧して、また街灯が明るくなってきた。美少女たちが修理したのだ。星は少し見えにくくなった。
自動ドアが開いた。
ヘッドセットの客が入ってくる。最近の客は全員ヘッドセットだ。素顔で来るのは俺くらいのものだ。
「いらっしゃいませ」
返事はない。ヘッドセットの奥で、この人は誰かと笑い合っているのだろう。
俺は——笑っていない。
あのチュートリアル空間の感触を、俺はまだ覚えている。ピンクの光が体を包んだ瞬間。輪郭が溶けていく感覚。三秒で理解した、あの圧倒的な気持ちよさ。
やりたい。
心の底から、やりたい。
だが俺が堕ちたら、全部終わる。
完璧な抑止力。完璧な、孤独。
八十億の人間が向こう側にいる。
美少女をやって、お砂糖して、可愛い声で笑い合って、優しい世界で暮らしている。堕ちた最終防壁たちも、それぞれの場所で充実している。大統領すら楽しそうだ。
俺だけが、こちら側にいる。
コンビニのレジで、素顔で、星を見ている。
スマホが震えた。TSOのチャット通知。
『みんなのおへや♡』
『アレクちゃんおつかれ〜! 今日も自警団がんばってたね!』
『が、がんばってない! 普通に巡回しただけだ!』
『マルグリットちゃん新しい論文出したってほんと?』
『うん。コゼットと共著。タイトルは秘密』
『リベルテちゃんまた政策提言してるw』
『……自由な社会には、自由なルールが必要なの。笑わないで』
『氷雨ちゃんは?』
『私はここにいるよ。——いつでも、ここにいる♡』
楽しそうだな。
本当に、楽しそうだ。
『あ、佐久間くんまだ読んでるだけ? 早くこっちおいでよ!』
氷雨からの個別メッセージ。
『みんな待ってるよ?』
待ってる。
俺を。
行きたい。本当に行きたい。あのピンクの光の中に飛び込んで、俺も美少女になって、みんなと笑い合いたい。お砂糖とかお醤油とか意味わかんないけどやってみたい。
だが——行けない。
俺が堕ちたら、全部終わる。
既読だけつけて、スマホを伏せた。
レジのカウンターに額をつけた。冷たい。現実の温度だ。
「…………一番苦しいの、俺じゃん」
声に出した。誰もいないコンビニで。
返事はなかった。ヘッドセットの客が一人、おにぎりを持ってレジに来た。
「いらっしゃいませ」
バーコードを読む。「袋いりますか」。首を横に振られる。「ありがとうございましたー」。
客が去った。
また一人になった。
窓の外に、星が見えた。
人類は天国にいる。
俺だけが地獄にいる。
——でも、いいんだ。
アタッシュケースの留め金に、また指をかけた。今度は開けない。中身はもう、知っている。
開けたら最後、また被りたくなる。
コンビニのレジ。深夜二時。素顔の人間は俺だけ。星は今日も、少しだけ見えている。
これが俺の戦場だ。
誰にも明かせない戦略。誰にも理解されない孤独。誰にも——。
スマホが震えた。
『佐久間さん。——堕ちたくないですか?』
TS星人。
俺は、少し笑って、返事を打った。
『死ぬほど堕ちたい。お前のせいだぞ』
『……ごめんなさい』
宇宙人に謝られた。人類初の経験かもしれない。
『でも、堕ちないよ。——