「忘れ物」   作:落那ユメ

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第一話「ただいまと、言えなかった男」

 帰り道はいつも、少し長く感じる。

 篠宮(しのみや)大和(やまと)は満員電車の吊り革に掴まりながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 夜の車窓に映るのはコンビニの看板と信号の赤、それから自分の疲れた顔。

 

 三十一歳。独身。ソフトウェア会社の平社員。残業代はほぼ出ない。上司の機嫌には波がある。

 ありふれた社畜の横顔が、ガラスの向こうで揺れている。

 

  *

 

 今日は定例の進捗会議がある日だった。

 午後二時から始まって、四十分で終わるはずだった。

 実際には一時間二十分かかった。

 原因は大和の所属する部署の部長であり、直属の上司でもある田辺。

 大和の担当しているシステム改修の件で、「スケジュール感が甘い」と言い出したのが事の発端だった。

 甘くはない。

 大和には根拠があった。現状のリソース配分と、過去の類似案件の工数実績と、テスト工程に必要な最低限のバッファを積み上げれば、このスケジュールが適切であることは数字で示せる。

 しかし――大和が出した答えは沈黙だった。

 

「改めて精査します」

 

 それだけ言葉にして。田辺は「そうしてくれ」と言って、次の議題に移った。

 会議室を出た後、同じチームの後輩、入社二年目の橘が小声で言った。

 

「篠宮さん、あれ絶対おかしいですよね。スケジュール、全然甘くないじゃないですか」

「そうだな」

「言い返さなくていいんですか」

「言い返しても消耗するだけだ」

 

 橘は納得のいかない顔をしていた。

 二十四歳の顔だ、と大和は思った。まだ「正しいことを言えば通る」と信じている顔。

 悪いことではない。ただ大和には、もうその顔ができなかった。

 会議が終わってから三時間、誰にも頼まれていない資料を一人で作り直した。数字で反論できる形に整えた。残業代は出ない。それでも、やらないと気持ちが悪かった。

 そういう性分なのだ、と大和は思う。誰かに頼まれなくても、求められなくても、やれることはやってしまう。

 異世界(むこう)にいたときも、そうだった。

 

 ——あの頃も、こんな顔をしていたんだろうか。

 

 そんなことを考えかけて、大和は意識して思考を切った。

 異世界のことは、あまり考えないようにしている。

 考えると、眠れなくなる夜があるから。

 

  *

 

 電車を降りて、改札を抜けると、夜風が顔に当たった。十二月の風は冷たく、首元から入り込んでくる。

 マフラーを巻いてくればよかった、と毎年この時期に思うことを。そして次の年には忘れて後悔していたこととふと思い出す。

 駅前の商店街は、もうクリスマスの装飾が出ていた。街路樹に巻きつけられたイルミネーションが、青白く点滅している。通り過ぎるカップルが、当たり前のように笑っている。

 大和はそれを横目に、いつもの道を歩いた。

 コンビニの前を通ると、自動ドアが開いて暖かい空気と有線放送が流れ出てきた。思わず足が止まりかける。寒い。中に入れば温かい。しかし大和は立ち止まらなかった。

 

――帰らないと。

 

 帰る場所がある。それが今の自分には、まだ少し――慣れない感覚だった。

 異世界にいた三年間、「帰る」という言葉は常に「元の世界へ帰る」という意味だった。

 拠点はあった。野営地も、宿も、王城に用意された部屋も。でもそこはどれも「帰る場所」ではなく「次の出発点」だったから。

 ここに戻ってきてからも、しばらくはそうだった。

 

  *

 

 築二十三年のアパート「ソレイユ荘」の外階段は、踏むたびにみしりと鳴く。

 管理会社に言っても直してもらえないが、大和はもう気にしていない。むしろ、この音が「帰ってきた」という実感を与えてくれるような気がして、嫌いではなかった。

 二〇三号室の前に立ち、鍵を取り出す。

 ふと、ドアの向こうから、微かに光が漏れているのが視界に入る。

 小さく息をつく。帰らないとと、そう思ったのは帰る場所があるからで、そして()()()()()()()()()()()だ。

 けれど。この部屋に誰かがいる、という事実を、どう処理すればいいのかまだわからないでいる。

 三ヶ月経っても、まだわからない。

 鍵を差し込んで、回す。

 ドアを開けると、暖かい空気と、出汁の香りが流れ出てきた。

 

「おかえりなさいませ、シノミヤ様」

 

 玄関の向こうに、少女が立っていた。

 いや……少女と呼ぶには、少し失礼かもしれない。年の頃は二十歳前後。亜麻色の長い髪を一つに束ね、黒と白のメイド服を着こなしている。丈は膝下まであり、エプロンには今しがた何かを拭いたらしい、微かな水の跡があった。

 彼女の名前はセラ。

 かつて大和が異世界で世話になった――正しくは世話をしてもらっていた『メイド』である。

 

  *

 

 大和が日本に戻ってきたのは、三ヶ月前のことだった。

 魔王を討伐し、王国への報告を終えた夜、大和は一人で帰還の準備をした。

 誰にも告げなかった。持ち帰るものは何もなかった。準備のほとんどは、部屋を「自分が使い始める前の状態に戻すこと」だった。

 帰還の魔法は、討伐の旅の途中で偶然見つけていた。魔王がいる限り使えなかった、といった方が正しいかもしれない。これを使うことは――逃げることと同じだったから。

 部屋を元に戻し、懐から巻物を取り出した、その時だった。

 扉が開いた。扉を開けた主と、視線が交差する。

 そこに立っていたのはセラだった。

 忘れ物を取りに戻ってきたのだという彼女は机の引き出しから何かを取り出すと、エプロンのポケットにしまってから改めて大和の方へと向き直った。

 

「帰られるのですか」

 

 問いではなく、確認だった。

 

「ああ」

「そうですか」

 

 窓の外で、何かの鳥が鳴いた。遠くで、夜警の鐘が鳴った。

 

「ご同行してもよろしいですか」

「……なんで」

「職務ですので」

 

 その言葉に思わず口が開き……けれど、何も言葉を紡げなかった。

 何を言っても押し切られるのを半ば察していたからか、それとももうそれ以上会話をすることすら億劫なほどに疲れていたのか。今となってはもはや確認する術はない。

 ただ結果として――。

 

  *

 

 ――結果として、ボロアパートの一室に、異世界のメイドが住むことになった。

 なぜついてきたのか、大和は今もよくわかっていない。忘れ物が何だったのか、まだ聞けていない。

 

「……ただい、ま」

 

 言いながら、大和は自分でも気づいた。この言葉を声に出すのが、どこか気恥ずかしく、くすぐったかった。一人暮らしが長すぎて、帰宅の挨拶というものをしばらく忘れていたからだろうか。それとも異世界にいた三年間、誰かに「ただいま」と言った記憶がなかったからだろうか。勇者は帰還するものではなく、前進するものだったから。

 その言葉に対してセラは何も答えなかった。ただ一言、

 

「お顔の色がよくありませんね」

 

 そう言いながら、流れるように大和のビジネスバッグを受け取る。押しつけがましいわけではなく、ごく自然に、空気が流れるように。

 異世界でも、彼女はいつもそうだった。

 大和が部屋に戻れば、まず装備を預かった。傷があれば手当てを申し出た。食事を用意して、黙って置いた。疲れた様子を見ても労わりの言葉をかけるわけではなく、ただ必要なものを必要なだけ、過不足なく用意した。

 それが職務だからだ、その意図を聞けば彼女はそう答えることを大和は知っていた。彼女の行動理念は『職務』かそうでないか、常にその1点でのみ決められていた。

 あまりにも割り切った態度だがしかり、――否、()()()()()あの三年間、セラが側にいなかったらどうなっていたか、と考えることがある。

 

「今日の残業は何時間でしたか」

「……三時間くらい」

「そうですか」

 

 特に労わりの言葉はなかった。感情の起伏を感じさせない、平坦な声。セラはそのまま奥へ歩いていき、手を洗うよう目線で促した。

 大和は言われるまま洗面台へ向かう。

 冷たい水で顔を洗うと、少しだけ頭が醒めた。鏡を見る。やはり疲れた顔をしている。目の下に薄く隈がある。

 ……でも。

 鏡の中の背後に、灯りのついた部屋がある。それだけで、なぜか少し違って見えた。

 

  *

 

 夕食は味噌汁と、鮭の塩焼きと、ほうれん草のおひたしだった。

 異世界で生まれ、育ってきた身で、まだ日本に来て3か月。セラの家事スキルは既に完全に日本に迎合するに至っていた。

 こちらに戻ってきて早々「買い物の仕方を教えてください」と言われ一緒にスーパーへ行ったのだが、その翌週にはもう一人で買い物に行くようになっていた。適応能力が、高い。

 異世界でも、セラは何でもそうだった。初めてのことでも、一度見れば黙ってやってのける。

 感情を表に出さず、できないとも言わない。ただこなす。それがメイドとしての誇りなのか、それとも彼女自身の性質なのか、大和にはまだわからなかった。

 

「美味いね」

 

 大和がぽつりと言うと、セラは向かいの席で箸を持ったまま、少し間を置いてから答えた。

 

「それはようございました」

 

 褒めても喜びを表に出さない。だからといって冷たいわけでもなく、ただ淡々としている。

 大和はこの温度感が、意外と好きだった。

 異世界にいたとき、まわりはいつも熱かった。王族も、騎士も、仲間たちも。皆が大和に何かを期待していた。

 もっと強く。

 もっと賢く。

 もっと早く。

 もっと勇敢に。

 ――ただの会社員にとって、勇者という肩書きはあまりにも重かった。

 最初のうちは、それに応えようとした。弱音を吐かず、立ち止まらず、求められる姿であろうとした。そのうち、「応えようとしている」という意識すら消えて、ただ前に進むことだけが残った。疲れたと思う暇もなかった。疲れたと言える相手もいなかった。

 いや——正確には、言えなかっただけだ。

 仲間の中にも、話を聞いてくれる人間はいた。でも彼らは大和を「勇者」として見ていた。だから大和が弱音を吐けば、彼らが不安になる。大和が立ち止まれば、彼らも立ち止まる。それがわかっていたから、言えなかった。

 言えた相手は——。

 

 大和は箸を止めた。

 

 向かいで、セラが切り干し大根を食べている。黙々と。

 異世界にいたとき、セラは……セラだけは大和を「勇者」として扱わなかった。

 彼女が関心があったのは、大和が今日何時間眠れたか、食事をとったか、傷の手当てはしたか、そういうことだけだった。

 だから、セラの前では少しだけ、楽だった。

 

「……セラさん」

「はい」

「こっちの生活、慣れた?」

 

 しばし沈黙。箸が止まる。

 

「慣れた、というのとは少し異なりますが」

 

 セラはおひたしを一口食べてから続けた。

 

「不便を感じることは、少なくなりました」

「……そっか」

「はい。こちらの生活に、戻れていますか」

 

 大和は鮭の身をほぐしながら、少し考えた。

 戻れているか。三ヶ月が経って、仕事にも慣れた。電車にも慣れた。日常の動作は何も問題なくこなせる。でも、それが「戻れている」と言えるのかどうか。

 

「……わからないかな」

「そうですか」

 

 セラはそれ以上は聞かなかった。詮索しない。追い打ちをかけない。ただ、静かに食事を続ける。

 その無言が、妙に心地よかった。

 

  *

 

 食後、大和がソファで缶ビールを開けると、セラは台所で洗い物を始めた。水の音が、小さく規則正しく聞こえてくる。

 大和はぼんやりとテレビをつけた。バラエティ番組が賑やかに騒いでいるが、頭には入ってこない。芸人が何かをやらかして、スタジオが爆笑している。

 異世界にいたとき、笑ったことがあったか、と思う。

 なかったわけではない。仲間と焚き火を囲んだ夜、誰かが間抜けな失敗をして、みんなで笑ったこともあった。でもそれは、翌日また戦いが続くとわかった上での笑いだった。息継ぎみたいなものだった。

 今のこの何でもない番組を見て、何でもなく過ごすこの時間。終わりを意識しないで、ただそこにいられる時間に、安らぎを覚えて。

 

「セラさん」

「なんでしょう」

 

 台所から、振り返らずに答える声。

 

「異世界にいたとき——俺のこと、どう思ってた?」

 

 少し間があった。

 

「どう、とは」

「勇者として、ってことじゃなくて。篠宮大和って人間として、だ」

 

 水の音が止まった。

 セラがゆっくりと振り返る。手にはまだ濡れたグラスを持ったまま。台所の灯りが、彼女の横顔を照らしている。表情は、いつも通り読めない。

 

「……面倒な方だと思っていました」

「面倒」

「はい。ご自分が疲れているのに疲れていないふりをする。辛いのに辛くないふりをする。弱音を吐けばいいところで、ひたすら飲み込む。そういう面倒さが、ありました」

 

 大和は苦笑した。

 

「手厳しいな」

「事実を申し上げています」

「……そうだね」

「ただ」

 

 セラはグラスを布巾で拭きながら、少しだけ間を置いた。

 

「それは『シノミヤ様が勇者だったから』ではなく……『シノミヤヤマトという方がそういう気質なのだろう』とは思っていました」

 

 大和は、その言葉の意味をゆっくりと飲み込んだ。

 勇者だから、ではなく。篠宮大和だから。

 異世界にいたあいだ、自分を「勇者」ではなく「篠宮大和」として見てくれた人間が、どれだけいただろうか。

 仲間たちは大和を頼りにした。王族は大和に期待した。民は大和を崇めた。誰もが「勇者」を見ていた。大和という個人を通り越して、その肩書きを。

 篠宮大和という人間が、勇者という器の中に溶けていくような感覚。

 そうならないように踏ん張っていたのか、気づかないうちに溶けていたのか、今でもわからない。

 

「……ありがとね」

「お礼を言われるようなことは言っていません」

「俺が言いたいんだよ」

 

 セラは少し眉を動かしたが、何も言わなかった。代わりに再び台所へ向き直り、残りの洗い物を続ける。

 その背中を見ながら、大和はビールを一口飲んだ。ぬるくなっていた。

 テレビがまた騒いでいる。外では風が吹いているのか、窓が微かに揺れている。

 大和は、自分の両手を見た。

 異世界で魔物を数知れず倒し、そして魔王を倒した手。今日も会社でキーボードを叩いた手。どちらも、同じ手だ。

 なんだか妙な話だ、と思う。でも――悪くない。

 ただいま、と言えなかった男が……今夜初めて、「帰ってきた」という気がした。

 

  *

 

 夜も更けて、セラが自室――大和が物置として使っていた押し入れ改め小部屋だ――に引き取ったあと、大和は一人でソファに座っていた。

 テレビはもう消えている。外の風の音だけが、薄い壁を通して聞こえてくる。

 明日も仕事だ。田辺部長はまた何か言うかもしれない。橘はまた「言い返さなくていいんですか」と言うかもしれない。何も変わらない日常が、明日もやってくる。

 

 でも。

 

 帰ってきたら、出汁の匂いがする。そしてドアの向こうに、灯りがある。

 セラはあくまで職務としてここにいる。大和がどう感じようと、それはセラの職務に関係ない。

 それでも。それだけで今夜は十分な気がした。

 空になった缶を静かにテーブルに置いた。

 

 ――明日も、ただいまと言おう。うまく言えるかどうかは、わからないけれど。

 

 押し入れ改め小部屋の方向を、大和はちらりと見た。薄い引き戸の向こうは、もう静かだった。

 

『……面倒な方だと思っていました』

 

 先ほどのセラの言葉がリフレインする。

 否定はできない。自分でもそう思う。

 でも、面倒だと思いながら側にいてくれた人間が――あの世界に一人いた。それで十分だった。

 

 あの夜、セラが何を取りに戻ってきたのか、大和はまだ聞いていない。

 聞いても、いいのかもしれない。でもまだ――聞けていない。

 

 外の風が、また窓を揺らした。大和は目を閉じた。

 今夜は、眠れる気がした。

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