セラが初めて一人で外に出たのは、こちらに来て三日目のことだった。
その日、大和が出勤していった後、彼女はしばらく部屋の中を見回していた。
することは、ある。掃除、洗濯、買い物。メイドとしての職務は、世界が変わっても変わらない。
ただ……手順が違う。道具が違う。この国のやり方を、一つずつ覚えていく必要があった。
セラはエプロンを畳み、外出の準備を整えた。『カイモノ』のやり方は教わっていた。
近くのスーパーなる大型の市場までの道順も大和と一度歩いて覚えた。買うべきものはすでに頭の中にある。
問題があるとすれば――この国の「外」が、想像より遥かに騒がしかったことだ。
*
アパートを出た瞬間、最初に感じたのは音だった。
遠くから聞こえてくる車の走行音。
頭上を横切る飛行機の低い轟音。
どこかの窓から漏れるテレビの声。
自転車のベルと、子どもの笑い声と、風が電線を鳴らす音。
それらが全部、同時に、重なり合って降ってきて。セラは一瞬、足を止めた。
――何かが起きているのでしょうか。
反射的にそう思った。
これだけの音が重なるとき、セラの住む世界では大抵ろくなことが起きていなかった。
魔物の接近。民衆の逃走。砲撃の前兆。音は常に、危険の予告だった。
しかし周囲の人間は、誰も気にしていなかった。
老人が犬を連れて歩いている。小学生が鞄を揺らしながら走っている。スーツを着た女性が、耳に何かを当てながら早足で通り過ぎていく。
誰もこの音に反応していない。それどころか、自分たちがその音の一部を作り出しながら、平然と動いている。
セラは数秒かけてようやっと状況を整理し、歩き始めた。
――慣れるしかない。そう判断した。
ただ、そう判断することと体が慣れることは別の話だった。
*
スーパーの中は、外よりは静かだった。
しかし今度は温度と匂いと照明が一斉にやってきた。
冷蔵ケースの冷気と、惣菜コーナーの油の匂いと、蛍光灯の白い光。有線放送が天井から流れている。
異世界の市場とは、何もかもが違う。
セラは淡々と棚を確認しながら歩いた。今夜の献立はすでに決めている。こちらに来て、まず最初に覚えたのはこちらの料理のレシピだった。
今日作るのは、豚汁と、玉子焼きと、切り干し大根の煮物。
ここ数日、大和の顔色が今ひとつよくない日が続いている。消化の良いものがいいと判断した。
食材を籠に入れながら、セラはふと立ち止まった。
棚の一角に、見慣れないものが並んでいた。金属の筒。色とりどりの。棚には「お茶」と書かれた札がかかっている。
「茶が……缶の中に……?」
思わず一本手に取った。緑色の缶だ。表面には「緑茶」と書かれており、確かに茶葉の絵が描いてある。冷たい。缶の表面が結露している。
こちらに来てから、セラは文字を覚えることを最優先にしていた。大和の部屋にある本や、外の看板や、食品のパッケージを、毎日少しずつ読んでいる。まだ読めない字もあるが、「緑茶」の二文字はすでに知っていた。
茶を缶に詰めて冷やして売る。元の世界にはまったくなかった考え方だ。
セラはメイドとして、茶の淹れ方には多少の心得があると自負している。茶葉の選び方から、湯の温度、蒸らす時間まで。しかしそれは、淹れるものだという前提があってのことだ。
缶の中に入っている茶、一体何が違うのか。
缶を籠に入れる。
確認が必要だ。
*
スーパーを出ると、駅の方向に少し歩いたところに、和菓子屋があった。
小さな店だった。和風のショーケースに、可愛らしくも素朴な菓子が並んでいる。
店頭に白いエプロン姿の老女が立っていて、小さな皿に切り分けた菓子を並べていた。
「あら、いらっしゃい。外人さんのお口に合うかはちょっと分からないけど……よかったら食べてみて」
老女がセラに声をかけた。
セラは一瞬迷ってから、皿に手を伸ばした。丸く膨らんだ、茶色い菓子だ。一口食べると、甘さが口の中に広がった。重くなく、しつこくなく、しかしはっきりと甘い。中に豆を潰した何かが入っている。
「美味しいでしょう。『どら焼き』っていうのよ。餡が自家製でね」
セラの表情が少し崩れたのを見て、老女は嬉しそうに言った。
しばらく考えてから、切り出す。
「一つ、いただけますか」
「もちろん。包みますね」
甘すぎると思った。自分には少し、甘すぎる。
しかし大和が食べたらどうだろうか、と思った。今日も遅くまで仕事をして、疲れて帰ってくる。甘いものが、役に立つかもしれない。
それだけのことだった。
*
帰り道、駅の近くで花屋の前を通った。
店頭に花が並んでいた。色とりどりの、名前のわからない花が。
セラは少し足を止めた。メイドの習いとして、室内に花を飾ることは基本的な職務のひとつだ。あの狭いアパートに、花が置けるかどうかはわからない。しかし飾れる場所を探すのも、職務のうちだ。
ただ今日は、立ち止まれなかった。
頭上から工事の音が降ってきた。自転車が一台、すれすれを通り過ぎた。遠くで車のクラクションが鳴った。
――音が、多すぎた。
セラは花屋の前を通り過ぎた。明日にしよう、と思った。今日はもう、十分だった。
*
大和が帰宅したのは、いつも通り夜の八時を過ぎた頃だった。
外階段を上がると、今日も二〇三号室の窓に灯りがある。みしりと鳴く階段を踏みながら、大和は鍵を取り出した。
ドアを開ける。出汁の匂いは、今日はない。代わりに、何か別の匂いがした。甘い、というか――。
「おかえりなさいませ、シノミヤ様」
セラはいつも通り玄関に立っていた。表情も、姿勢も、いつも通りだ。ただ、テーブルの上に見慣れない紙袋がいくつか置かれていた。
「……買い物、行ってたんだ。けど珍しいね、紙袋とかも普段なら片付けてなかった?」
「はい。食材の他に、いくつか確認したいものがありまして」
「確認?」
「後ほど」
それだけ言って、セラは台所へ向かった。大和はバッグを下ろしながら、紙袋をちらりと見た。スーパーの袋と、コンビニの袋と、どこかの和菓子屋らしい小さな紙袋。
何を確認したいのか、見当もつかなかった。
*
夕食は豚汁と、玉子焼きと、切り干し大根の煮物だった。
「美味いね、これ」
大和が豚汁を一口すすって言うと、セラは特に表情を変えずに答えた。
「シノミヤ様の顔色が優れない日が続いていましたので、消化の良いものにしました」
「……気づいてたんだ」
「職務ですので」
大和は少し黙ってから、また汁を飲んだ。体に染み入るような、落ち着く味だった。
食事を終えて、大和が茶を淹れると、セラはおもむろに紙袋を手元に引き寄せた。
「では、確認させてください」
「何を」
「本日、外出中にいくつか疑問が生じました。シノミヤ様に教えていただきたいことがあります」
大和は湯飲みを持ったまま、少し身構える。最低限必要なことは教えたはずだが。
何か教え忘れたことがあっただろうか。
「……どうぞ」
セラはまず、コンビニの袋から小さな缶を取り出した。
緑茶の缶。なんとなく、今回のセラが聞きたいことの方向性が見えて、肩の力が抜けた。
「この国では、茶を缶に詰めて売っているのですね」
「そうだね。スーパーでも売ってるし……あとは自動販売機……えっと、無人の小売商みたいなのでも買えるよ」
「……あちらでは考えられないことです。茶とは、淹れるものだと認識していました」
「昔はこっちもそうだったらしいよ。けど保存の技術があがって、毎度入れる手間はなくなって。まあ、手軽になったから、こうして売られてる」
「飲みました」
「…………えっ」
「店の前で。缶の開け方を誤って、少し零しましたが」
大和は何も言えなかった。セラが缶のプルタブに手こずっている姿を想像して、何かが胸の辺りにつかえた。笑いたいような、そうでもないような。
「……どうだった、味」
「悪くありませんでした。ただ。温度が低すぎると思いました」
「冷たい緑茶は夏の定番なんだよ」
「今は冬です」
至極真面目な返答に苦笑する。それはそうだ。
セラは缶を丁寧に袋に戻してから、次に和菓子屋の紙袋を開けた。中から出てきたのは、どら焼きが一つ。
「これは」
「どら焼きだね。どうしたのこれ?」
「スーパーの近くの商店で。店頭で試食を勧められたので、食べました。これも購入しました」
「試食」
「小さな皿に乗っていました。老いた女性が差し出してくれたので、受け取りました」
大和は少し笑った。見知った顔が脳裏によぎる。なるほど、あの人か。
「どら焼き屋の婆ちゃんに会ったのか。うん、愛想がいいし、美味しいし。大体勧められた人はみんな買って帰ってるよ」
「なるほど。戦略的です」
「戦略って言わないで? 婆ちゃんの好意。オッケー?」
セラはどら焼きを二つに割り、片方を大和の前に置いた。職務として当然、という顔をしていた。
「試食で食べたんだっけ。こっちはどうだった?」
「甘すぎると思いました」
「甘すぎ……え、じゃあなんで買ったの」
「シノミヤ様に食べていただきたかったので」
大和は一瞬、返す言葉を失った。
セラは特に何かを期待している様子もなく、自分の前のどら焼きを淡々と口にした。それが美味いのか不味いのか、表情からは読み取れない。
大和も、自分の分を食べた。
甘かった。懐かしい味が口に広がる。
普通に、美味かった。
*
「もう一つ、聞いてもいいですか」
どら焼きを食べ終えた頃、セラが言った。
「なに?」
「この国は、音がうるさいと思います」
唐突な言葉だったが、大和には意味がわかった。
「……慣れない?」
「慣れる慣れないの話ではなく……」
セラは少し間を置いた。
「異世界では、あれほど多くの音が同時に鳴ることはありませんでした。街でも、城でも。でもこの国の道は、常に何かが鳴っている」
「車とか、スマホとか、店の音楽とかね」
「はい。最初は、何かが起きているのかと思いました」
「何かって」
「警戒すべき事態が。戦闘とか、あるいは——」
セラはそこで止まった。
大和は黙っていた。
異世界での騒音は危険の予兆。そういう世界の中でずっと生きてきた人に、どうすれば伝わるだろうか。
「……そのうち、ただの雑音だってわかると思うよ」
大和はそう言ってから、少し言い方を変えた。
「この国の音は、ほとんど誰も気にしてない。みんな、聞こえてないみたいに歩いてる」
「それは、慣れたからですか」
「慣れたか、諦めたか。どっちかだね」
セラはその答えをしばらく咀嚼するように、黙っていた。
「…………そうですか」
「怖かった? 外」
再び間があった。正確な言葉を選ぶように、ゆっくりとセラが言葉を紡ぐ。
「怖い、というより。準備のできていない感覚が、ありました」
「……それが怖いってことじゃない?」
「……そうかもしれません」
珍しく、セラが曖昧な答えを返した。
大和はそれを指摘しなかった。代わりに立ち上がって、棚からもう一つ湯飲みを出し、急須に残っていた茶を注いで、セラの前に置いた。
「温かい方が美味いよ、茶は」
セラは湯飲みを両手で持った。少しだけ、指先に力が入っているように見えた。
「……はい」
ありがとう、とも、美味しい、とも言わなかった。ただ、その湯飲みをしばらく手の中に持ったまま、外の音が遠く聞こえる部屋の中で、静かにしていた。
大和は、隣で自分の湯飲みを持って、同じように黙っていた。
テレビは消えている。風の音がする。遠くで救急車のサイレンが鳴って、通り過ぎていった。
セラの指が、湯飲みの上でわずかに動いた。それだけだった。
*
翌朝、大和が仕事に出る前に、セラはいつも通り朝食を用意していた。
トーストと目玉焼き。
よく向こうで大和が好んで食べていたのを覚えているのだろう、週に1回は朝食がこれになる。
「今日も外に出る?」
大和が聞くと、セラは少し考えてから答えた。
「はい。昨日、行けなかった場所があります」
「どこ?」
「駅の近くに、花を売っている店がありました。メイドの習いとして、室内に花を飾ることは基本的な職務のひとつです。しかし昨日は――」
逡巡。
「……音に、気を取られてしまったので」
大和は、何も言わなかった。言う必要がなかった。
「気をつけて行ってきてね」
「職務ですので」
「それでもだよ」
セラはわずかに目を動かした。それだけだった。
大和は鞄を持って玄関へ向かいながら、ふと思った。
異世界で、誰かに「気をつけて」と言われたことが、どれほどあったか。
行ってこい、ではなく。戻ってこい、でもなく。ただ、気をつけて、と。
そんな言葉を、あの頃の自分にかけてくれた人間が何人いただろうか。
みしりと鳴く階段を降りていく。
背後のドアの向こうで、セラがまた一人、この国の音の中に立つのだろう。
慣れるだろうか、それとも諦めるだろうか。どちらにしても、彼女はきっと、黙ってこなしていくのだろう。
彼女はそういう人間だ。
それでも――今夜はどら焼きより甘くないものを土産に買って帰ろう。
理由は、特にない。ただそうしたかった。
十二月の朝の風が、首元に冷たかった。
今日こそ、マフラーを買おうと思った。