「忘れ物」   作:落那ユメ

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第二話「この国は、音がうるさい」

 セラが初めて一人で外に出たのは、こちらに来て三日目のことだった。

 その日、大和が出勤していった後、彼女はしばらく部屋の中を見回していた。

 

 することは、ある。掃除、洗濯、買い物。メイドとしての職務は、世界が変わっても変わらない。

 ただ……手順が違う。道具が違う。この国のやり方を、一つずつ覚えていく必要があった。

 

 セラはエプロンを畳み、外出の準備を整えた。『カイモノ』のやり方は教わっていた。

 近くのスーパーなる大型の市場までの道順も大和と一度歩いて覚えた。買うべきものはすでに頭の中にある。

 

 問題があるとすれば――この国の「外」が、想像より遥かに騒がしかったことだ。

 

  *

 

 アパートを出た瞬間、最初に感じたのは音だった。

 遠くから聞こえてくる車の走行音。

 頭上を横切る飛行機の低い轟音。

 どこかの窓から漏れるテレビの声。

 自転車のベルと、子どもの笑い声と、風が電線を鳴らす音。

 それらが全部、同時に、重なり合って降ってきて。セラは一瞬、足を止めた。

 

――何かが起きているのでしょうか。

 

 反射的にそう思った。

 これだけの音が重なるとき、セラの住む世界では大抵ろくなことが起きていなかった。

 魔物の接近。民衆の逃走。砲撃の前兆。音は常に、危険の予告だった。

 

 しかし周囲の人間は、誰も気にしていなかった。

 老人が犬を連れて歩いている。小学生が鞄を揺らしながら走っている。スーツを着た女性が、耳に何かを当てながら早足で通り過ぎていく。

 誰もこの音に反応していない。それどころか、自分たちがその音の一部を作り出しながら、平然と動いている。

 セラは数秒かけてようやっと状況を整理し、歩き始めた。

 

 ――慣れるしかない。そう判断した。

 ただ、そう判断することと体が慣れることは別の話だった。

 

  *

 

 スーパーの中は、外よりは静かだった。

 しかし今度は温度と匂いと照明が一斉にやってきた。

 冷蔵ケースの冷気と、惣菜コーナーの油の匂いと、蛍光灯の白い光。有線放送が天井から流れている。

 異世界の市場とは、何もかもが違う。

 

 セラは淡々と棚を確認しながら歩いた。今夜の献立はすでに決めている。こちらに来て、まず最初に覚えたのはこちらの料理のレシピだった。

 今日作るのは、豚汁と、玉子焼きと、切り干し大根の煮物。

 ここ数日、大和の顔色が今ひとつよくない日が続いている。消化の良いものがいいと判断した。

 

 食材を籠に入れながら、セラはふと立ち止まった。

 棚の一角に、見慣れないものが並んでいた。金属の筒。色とりどりの。棚には「お茶」と書かれた札がかかっている。

 

「茶が……缶の中に……?」

 

 思わず一本手に取った。緑色の缶だ。表面には「緑茶」と書かれており、確かに茶葉の絵が描いてある。冷たい。缶の表面が結露している。

 こちらに来てから、セラは文字を覚えることを最優先にしていた。大和の部屋にある本や、外の看板や、食品のパッケージを、毎日少しずつ読んでいる。まだ読めない字もあるが、「緑茶」の二文字はすでに知っていた。

 茶を缶に詰めて冷やして売る。元の世界にはまったくなかった考え方だ。

 セラはメイドとして、茶の淹れ方には多少の心得があると自負している。茶葉の選び方から、湯の温度、蒸らす時間まで。しかしそれは、淹れるものだという前提があってのことだ。

 缶の中に入っている茶、一体何が違うのか。

 缶を籠に入れる。

 確認が必要だ。

 

  *

 

 スーパーを出ると、駅の方向に少し歩いたところに、和菓子屋があった。

 小さな店だった。和風のショーケースに、可愛らしくも素朴な菓子が並んでいる。

 店頭に白いエプロン姿の老女が立っていて、小さな皿に切り分けた菓子を並べていた。

 

「あら、いらっしゃい。外人さんのお口に合うかはちょっと分からないけど……よかったら食べてみて」

 

 老女がセラに声をかけた。

 セラは一瞬迷ってから、皿に手を伸ばした。丸く膨らんだ、茶色い菓子だ。一口食べると、甘さが口の中に広がった。重くなく、しつこくなく、しかしはっきりと甘い。中に豆を潰した何かが入っている。

 

「美味しいでしょう。『どら焼き』っていうのよ。餡が自家製でね」

 

 セラの表情が少し崩れたのを見て、老女は嬉しそうに言った。

 しばらく考えてから、切り出す。

 

「一つ、いただけますか」

「もちろん。包みますね」

 

 甘すぎると思った。自分には少し、甘すぎる。

 しかし大和が食べたらどうだろうか、と思った。今日も遅くまで仕事をして、疲れて帰ってくる。甘いものが、役に立つかもしれない。

 それだけのことだった。

 

  *

 

 帰り道、駅の近くで花屋の前を通った。

 店頭に花が並んでいた。色とりどりの、名前のわからない花が。

 セラは少し足を止めた。メイドの習いとして、室内に花を飾ることは基本的な職務のひとつだ。あの狭いアパートに、花が置けるかどうかはわからない。しかし飾れる場所を探すのも、職務のうちだ。

 ただ今日は、立ち止まれなかった。

 頭上から工事の音が降ってきた。自転車が一台、すれすれを通り過ぎた。遠くで車のクラクションが鳴った。

 

 ――音が、多すぎた。

 

 セラは花屋の前を通り過ぎた。明日にしよう、と思った。今日はもう、十分だった。

 

  *

 

 大和が帰宅したのは、いつも通り夜の八時を過ぎた頃だった。

 外階段を上がると、今日も二〇三号室の窓に灯りがある。みしりと鳴く階段を踏みながら、大和は鍵を取り出した。

 ドアを開ける。出汁の匂いは、今日はない。代わりに、何か別の匂いがした。甘い、というか――。

 

「おかえりなさいませ、シノミヤ様」

 

 セラはいつも通り玄関に立っていた。表情も、姿勢も、いつも通りだ。ただ、テーブルの上に見慣れない紙袋がいくつか置かれていた。

 

「……買い物、行ってたんだ。けど珍しいね、紙袋とかも普段なら片付けてなかった?」

「はい。食材の他に、いくつか確認したいものがありまして」

「確認?」

「後ほど」

 

 それだけ言って、セラは台所へ向かった。大和はバッグを下ろしながら、紙袋をちらりと見た。スーパーの袋と、コンビニの袋と、どこかの和菓子屋らしい小さな紙袋。

 何を確認したいのか、見当もつかなかった。

 

  *

 

 夕食は豚汁と、玉子焼きと、切り干し大根の煮物だった。

 

「美味いね、これ」

 

 大和が豚汁を一口すすって言うと、セラは特に表情を変えずに答えた。

 

「シノミヤ様の顔色が優れない日が続いていましたので、消化の良いものにしました」

「……気づいてたんだ」

「職務ですので」

 

 大和は少し黙ってから、また汁を飲んだ。体に染み入るような、落ち着く味だった。

 食事を終えて、大和が茶を淹れると、セラはおもむろに紙袋を手元に引き寄せた。

 

「では、確認させてください」

「何を」

「本日、外出中にいくつか疑問が生じました。シノミヤ様に教えていただきたいことがあります」

 

 大和は湯飲みを持ったまま、少し身構える。最低限必要なことは教えたはずだが。

 何か教え忘れたことがあっただろうか。

 

「……どうぞ」

 

 セラはまず、コンビニの袋から小さな缶を取り出した。

 緑茶の缶。なんとなく、今回のセラが聞きたいことの方向性が見えて、肩の力が抜けた。

 

「この国では、茶を缶に詰めて売っているのですね」

「そうだね。スーパーでも売ってるし……あとは自動販売機……えっと、無人の小売商みたいなのでも買えるよ」

「……あちらでは考えられないことです。茶とは、淹れるものだと認識していました」

「昔はこっちもそうだったらしいよ。けど保存の技術があがって、毎度入れる手間はなくなって。まあ、手軽になったから、こうして売られてる」

「飲みました」

「…………えっ」

「店の前で。缶の開け方を誤って、少し零しましたが」

 

 大和は何も言えなかった。セラが缶のプルタブに手こずっている姿を想像して、何かが胸の辺りにつかえた。笑いたいような、そうでもないような。

 

「……どうだった、味」

「悪くありませんでした。ただ。温度が低すぎると思いました」

「冷たい緑茶は夏の定番なんだよ」

「今は冬です」

 

 至極真面目な返答に苦笑する。それはそうだ。

 セラは缶を丁寧に袋に戻してから、次に和菓子屋の紙袋を開けた。中から出てきたのは、どら焼きが一つ。

 

「これは」

「どら焼きだね。どうしたのこれ?」

「スーパーの近くの商店で。店頭で試食を勧められたので、食べました。これも購入しました」

「試食」

「小さな皿に乗っていました。老いた女性が差し出してくれたので、受け取りました」

 

 大和は少し笑った。見知った顔が脳裏によぎる。なるほど、あの人か。

 

「どら焼き屋の婆ちゃんに会ったのか。うん、愛想がいいし、美味しいし。大体勧められた人はみんな買って帰ってるよ」

「なるほど。戦略的です」

「戦略って言わないで? 婆ちゃんの好意。オッケー?」

 

 セラはどら焼きを二つに割り、片方を大和の前に置いた。職務として当然、という顔をしていた。

 

「試食で食べたんだっけ。こっちはどうだった?」

「甘すぎると思いました」

「甘すぎ……え、じゃあなんで買ったの」

「シノミヤ様に食べていただきたかったので」

 

 大和は一瞬、返す言葉を失った。

 セラは特に何かを期待している様子もなく、自分の前のどら焼きを淡々と口にした。それが美味いのか不味いのか、表情からは読み取れない。

 大和も、自分の分を食べた。

 甘かった。懐かしい味が口に広がる。

 普通に、美味かった。

 

  *

 

「もう一つ、聞いてもいいですか」

 

 どら焼きを食べ終えた頃、セラが言った。

 

「なに?」

「この国は、音がうるさいと思います」

 

 唐突な言葉だったが、大和には意味がわかった。

 

「……慣れない?」

「慣れる慣れないの話ではなく……」

 

セラは少し間を置いた。

 

「異世界では、あれほど多くの音が同時に鳴ることはありませんでした。街でも、城でも。でもこの国の道は、常に何かが鳴っている」

「車とか、スマホとか、店の音楽とかね」

「はい。最初は、何かが起きているのかと思いました」

「何かって」

「警戒すべき事態が。戦闘とか、あるいは——」

 

 セラはそこで止まった。

 大和は黙っていた。

 異世界での騒音は危険の予兆。そういう世界の中でずっと生きてきた人に、どうすれば伝わるだろうか。

 

「……そのうち、ただの雑音だってわかると思うよ」

 

 大和はそう言ってから、少し言い方を変えた。

 

「この国の音は、ほとんど誰も気にしてない。みんな、聞こえてないみたいに歩いてる」

「それは、慣れたからですか」

「慣れたか、諦めたか。どっちかだね」

 

 セラはその答えをしばらく咀嚼するように、黙っていた。

 

「…………そうですか」

「怖かった? 外」

 

 再び間があった。正確な言葉を選ぶように、ゆっくりとセラが言葉を紡ぐ。

 

「怖い、というより。準備のできていない感覚が、ありました」

「……それが怖いってことじゃない?」

「……そうかもしれません」

 

 珍しく、セラが曖昧な答えを返した。

 大和はそれを指摘しなかった。代わりに立ち上がって、棚からもう一つ湯飲みを出し、急須に残っていた茶を注いで、セラの前に置いた。

 

「温かい方が美味いよ、茶は」

 

 セラは湯飲みを両手で持った。少しだけ、指先に力が入っているように見えた。

 

「……はい」

 

 ありがとう、とも、美味しい、とも言わなかった。ただ、その湯飲みをしばらく手の中に持ったまま、外の音が遠く聞こえる部屋の中で、静かにしていた。

 大和は、隣で自分の湯飲みを持って、同じように黙っていた。

 テレビは消えている。風の音がする。遠くで救急車のサイレンが鳴って、通り過ぎていった。

 セラの指が、湯飲みの上でわずかに動いた。それだけだった。

 

  *

 

 翌朝、大和が仕事に出る前に、セラはいつも通り朝食を用意していた。

 トーストと目玉焼き。異世界(むこう)でも材料は異なれど共通で存在していたメニュー。

 よく向こうで大和が好んで食べていたのを覚えているのだろう、週に1回は朝食がこれになる。

 

「今日も外に出る?」

 

 大和が聞くと、セラは少し考えてから答えた。

 

「はい。昨日、行けなかった場所があります」

「どこ?」

「駅の近くに、花を売っている店がありました。メイドの習いとして、室内に花を飾ることは基本的な職務のひとつです。しかし昨日は――」

 

 逡巡。

 

「……音に、気を取られてしまったので」

 

 大和は、何も言わなかった。言う必要がなかった。

 

「気をつけて行ってきてね」

「職務ですので」

「それでもだよ」

 

 セラはわずかに目を動かした。それだけだった。

 大和は鞄を持って玄関へ向かいながら、ふと思った。

 異世界で、誰かに「気をつけて」と言われたことが、どれほどあったか。

 行ってこい、ではなく。戻ってこい、でもなく。ただ、気をつけて、と。

 そんな言葉を、あの頃の自分にかけてくれた人間が何人いただろうか。

 

 みしりと鳴く階段を降りていく。

 背後のドアの向こうで、セラがまた一人、この国の音の中に立つのだろう。

 慣れるだろうか、それとも諦めるだろうか。どちらにしても、彼女はきっと、黙ってこなしていくのだろう。

 彼女はそういう人間だ。

 

 それでも――今夜はどら焼きより甘くないものを土産に買って帰ろう。

 

 理由は、特にない。ただそうしたかった。

 十二月の朝の風が、首元に冷たかった。

 今日こそ、マフラーを買おうと思った。

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