「忘れ物」   作:落那ユメ

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第四話「熱があっても、黙っている男」

 朝、目が覚めた瞬間にいつもと違う、違和感のようなものに包まれていた。

 ぼんやりと天井を暫く見上げる。いつもより遠くに感じた。普段ならあまり起こらない頭が回っていない感覚。それに目の奥の鈍い痛みと、かすかに痛むのど。

 

(ああ……風邪、ひいたのか)

 

 そう判断するのに、たいして時間はかからなかった。

 納得する、昨日は随分と冷え込んでいたから。首元に冷たい風が吹き込んでいて、通り雨に打たれて、傘を持っていなかった。マフラーは結局まだ買っていない。自業自得だった。

 時計を見る。六時四十分。いつも起きる時間より二十分ほど早い、眠りが浅かったのかもしれない。

 起き上がる。軽い眩暈。

 

(……大したことじゃないな、うん。あっちにいた頃はこの程度で『立ち止まる』わけにはいかなかったんだし)

 

 着替えを取り出した。

 

  *

 

 台所に出ると、セラがすでに朝食の準備をしていた。

 トーストが二枚、焼けている。目玉焼きが鍋の上で仕上がりを待っている。湯気の立つマグカップが二つ、カウンターに並んでいる。

 いつもの朝食だった。

 

「おはようございます、シノミヤ様」

「……おはよう」

 

 その声を聴いてセラが振り返った。じっと、けれど一瞬、大和の顔を見て。

 

「お顔の色が」

「大丈夫」

 

 大和は先に答えた。セラは何も言わなかった。代わりに目玉焼きを皿に移して、テーブルに置いた。

 大和は椅子に座って、トーストを手に取った。一口食べる。美味い。いつも通りだ。ただ、のどを通るときに少し痛かった。

 

「シノミヤ様」

「大丈夫だって」

「まだ何も言っていません」

 

 大和は手を止めた。

 セラはマグカップを大和の前に置いた。コーヒーではなく、白湯だった。

 

「……未来予知でもしてた?」

「昨夜から咳をされておりましたので」

 

 苦笑しながら大和は白湯を一口飲んだ。のどに、じんわりと染みた。

 

「会社は?」

「行く」

「そうですか」

 

 その答えに、セラはそれ以上何も言わずに自分のトーストを食べ始めた。

 大和も食べ続けた。窓の外は、今日も曇っている。十二月の空は低く、灰色だ。

 

  *

 

 電車の中で、大和は吊り革に掴まりながら目を閉じていた。

 頭が揺れるたびに重さが増す気がした。隣の乗客の体温が普段より近く感じる。満員電車は、いつも通り騒がしい。いつも通りで……だからこそ、息が詰まる。今日は、それがいつもより少しだけ堪えた。

 

(大したことじゃない。そうだっただろ)

 

 異世界で三年間、もっとひどい状態で動き続けていたことなどざらにある。魔物との戦闘の翌朝、傷が塞がりきっていないまま出発したことも。高熱が出ても誰にも言わずに行軍したことも。あの頃に比べれば、頭が少し重い程度のことだ。そのはずだ。

 

  *

 

 オフィスに着くと、橘が心配そうに駆け寄ってきた。

 

「篠宮さん、顔色やばくないですか」

「大丈夫」

「いや、でも」

「大丈夫だって。な?」

 

 橘は納得していない顔をしたが、引き下がった。大和は自分の席に座って、パソコンを開いた。今日の分の仕事を確認し、毎日のルーチンワークに従って順番に片付けていく。

 メールを確認して。返信が必要なものに返信を送り。田辺部長に提出する予定の資料の最終確認。画面の文字が、いつもより少しだけにじんで見えた。

 十時を過ぎた頃、橘が再び話しかけてきた。

 

「篠宮さん、本当に大丈夫ですか。さっきより顔色悪くなってませんか」

「なってない」

「……嘘ですよね」

 

 大和は返事をしなかった。

 十一時になった頃、田辺部長が通りかかって足を止めた。

 

「篠宮、早退していい」

「いえ、大丈夫です」

「見た目が大丈夫じゃない。今日は帰れ」

 

 大和は少し間を置いてから、立ち上がった。言われたのが田辺でなければ、もう少し粘ったかもしれない。

 

  *

 

 アパートの外階段を上がるとき、みしりという音がいつもより響いた気がした。一段一段が、少し遠い。手すりを掴むと、冷たかった。

 鍵を取り出して、ドアを開ける。

 

「――シノミヤ様?」

 

 セラが、台所の方から顔を出した。昼間だ。大和がいるはずのない時間だ。

 

「早退になった」

「そうですか」

 

 セラはいつも通りだった。それだけ言って台所に戻っていく。

 コートを脱いで、ソファに座った。コートをまだかけていないのに、座ったら立つのが億劫になった。

 

「熱を測ってください」

 

 しばらくして、セラが体温計を持ってきた。

 

「どこにあったの、それ」

「三週間前に購入しました」

「……なんで?」

「念のためにです。主人の体調管理も職務に含まれておりますので」

 

 大和は体温計を受け取った。腋に挟む。セラは特に何もせず、台所へ戻っていった。台所のほうから、何かを鍋にかける音がした。

 体温計が鳴った。三十八度二分。

 大和はその数字をしばらく見ていた。

 

(……そこそこある、な)

 

 必死に大丈夫だと言い聞かせていた「建前」が崩れていく感覚。同時にソファから動く気力が、急速に失われていく。そのままおもむろに瞼を閉じた。

 

  *

 

「着替えてください」

 

 目を開けると、セラが戻ってきていた。手には綺麗に畳まれた大和のスウェットを持っている。

 

「……着替えは手伝わなくていいからね」

「3年前から存じております」

 

 それだけ言うと、セラはスウェットをソファの隣に置いて立ち上がる。そのまま押し入れ……改め彼女の部屋へと入っていく。ほどなくして中から何かを引っ張り出してきた。

折り畳み式の簡易ベッドだった。

 

「……いつの間に買ったのそれ」

「先月、フリマアプリで購入しました」

「……理由は? いや、いい。言わなくて。知ってる。職務内だから、でしょ?」

「ご理解いただけて光栄でございます」

 

 セラは淡々とベッドを広げ、シーツをかけた。枕を置いて、毛布を重ねて。

 

「横になってください」

「……もう少ししたら」

「今です」

 

 有無を言わせない声だった。大和は観念して着替え、簡易ベッドに横になった。

 思ったより、楽になった。

 

  *

 

 セラが粥を持ってきたのは、一時間後だった。白くて、シンプルな粥だ。梅干しが一つ、添えてある。

 

「食べられますか」

「食べる」

 

 大和は上体を起こして、受け取った。一口食べると、やわらかい味が口の中に広がった。出汁の風味が、かすかにある。のどが痛くても、するりと入る。

 

「美味いね」

「それはようございました」

 

 いつも通りの返答だった。セラは部屋の隅に椅子を持ってきて、そこに座った。本を開いた。日本語の(この国の言葉で書かれた)、薄い文庫本だ。

 

「……何してるの」

「読書です」

「なんでここで?」

「職務ですので」

「……そっか」

 

 大和はそれ以上聞かなかった。

 外では風が鳴っている。室内は暖かい。粥の湯気が立ち上がっている。ページをめくる、かすかな音がする。

 

 異世界で、こういう時間があっただろうか。

 誰かが傍にいて、何もしない時間。戦略を練るでも、次の行動を確認するでもなく、ただ同じ部屋にいる時間。

 なかった、とは言えない。仲間と同じ宿に泊まった夜、焚き火を囲んだ夜。でもそれは常に「次」があった。翌朝には出発があった。ただそこにいるだけの時間ではなかった。

 セラがページをめくった。大和は粥を一口食べた。

 それだけだった。それだけで、十分だった。

 

  *

 

 粥を食べ終えて、大和がまた横になると、セラは本を閉じた。

 

「シノミヤ様は寝ていてください」

「……セラさんは」

「シノミヤ様がお休みになられたら職務に戻ります」

「……そっか。なら休まないと、だな。……おやすみ」

 

 大和は目を閉じた。頭の重さが、まだじんわりとある。でも、先ほどよりは楽だった。

 しばらくして、セラが立ち上がる気配がした。静かに台所へ歩いていく。

 

「解熱剤があります。必要であれば起こします」

 

 大和は目を閉じたまま答えた。

 

「……ありがとね」

 

 セラは何も言わなかった。でも、部屋に残っていた。気配で、わかった。

 大和はそのまま、眠った。

 

  *

 

 目が覚めると部屋が仄かに暗くなっていた。カーテンの隙間から橙色の光が少し入っている。

 どれくらい眠ったのかはわからないが、少なくとも頭の重さは少し軽くなっていた。

 大和はゆっくりと上体を起こした。テーブルの上に、湯飲みと薬が置いてあった。付箋が貼ってある。

 

『起きたら飲んでください』

 

 異世界の文字で書かれていたのはそれだけだった。

 大和は薬を飲んで、白湯を一口飲んだ。温かかった。

 台所の方から包丁の音が聞こえた。セラが夕食の準備をしているのだなと、ぼんやり思った。

 大和はしばらく、その音を聞いていた。

 思えば長い間、具合が悪くなることを自分に許していなかった気がした。倒れる前に動いた。動けなくなる前に飲んだ。隙を見せることが仲間への迷惑だと、そう思っていたから。

 そもそも、誰かに「横になれ」と言われたことが、三年間で何度あったか。

 

「睡眠時間は四時間と十七分ほどです。少しは体調は回復されましたか?」

 

 セラが包丁を持ったまま振り返らずに言った。

 

「……いつから気付いてたの、俺が起きてるのに」

「五分ほど前から」

「なんで声かけなかったの」

「起きたばかりの方に話しかけるのは、職務として適切ではありませんので」

 

 大和は少し笑った。笑ったら、のどが少し痛かった。

 

「お休みの間も、定期的に体温を測らせていただいておりました」

「最後に測ったのは?」

「二十三分前です。その時点での体温は三十七度七分」

「だいぶ下がったね。楽になったのも納得だ」

「もう少し、横になっていてください」

「もう大丈夫だよ?」

「シノミヤ様」

「……はい」

 

 大和は素直に横になった。天井を見ながら、さっきより遠くない、と思った。

 

  *

 

 夕食も粥だった。ただ今度は具が少し増えていた。卵が入っていて、生姜の香りがした。

 

「美味いね、これも」

「お昼よりも食は回復されているかと思いまして」

「気が利くね、助かる」

「職務ですので」

 

 大和は粥を食べながら、向かいのセラを見た。いつも通り、淡々と食べている。表情は読めない。感情は見えない。ただ――今日一日、ずっとここにいてくれた。

 

「セラさん」

「はい」

「……今日は色々とありがとね」

「職務です」

「わかってる。それでも、だよ」

 

 セラは箸を止めた。少しだけ、間があった。

 

「……お大事に」

 

 それだけだった。

 大和は粥を一口食べた。生姜の仄かな味のおかげだろうか、体の芯が温まる感覚がした。

 窓の外で、風が鳴っている。部屋の中は暖かい。花瓶のスターチスが、灯りの下で静かに立っている。

 

『弱音を吐けばいいところで、ひたすら飲み込む』

 

 先日セラに言われた言葉を思い出した。

 確かにそうだ。自分でもそう思う。

 でも今日は――言われる前に、横にされた。

 それが、妙におかしかった。笑いたいような、そうでもないような。

 整理のつかない感情に背中を押されるように。

 大和は粥を食べ続けた。

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