朝、目が覚めた瞬間にいつもと違う、違和感のようなものに包まれていた。
ぼんやりと天井を暫く見上げる。いつもより遠くに感じた。普段ならあまり起こらない頭が回っていない感覚。それに目の奥の鈍い痛みと、かすかに痛むのど。
(ああ……風邪、ひいたのか)
そう判断するのに、たいして時間はかからなかった。
納得する、昨日は随分と冷え込んでいたから。首元に冷たい風が吹き込んでいて、通り雨に打たれて、傘を持っていなかった。マフラーは結局まだ買っていない。自業自得だった。
時計を見る。六時四十分。いつも起きる時間より二十分ほど早い、眠りが浅かったのかもしれない。
起き上がる。軽い眩暈。
(……大したことじゃないな、うん。あっちにいた頃はこの程度で『立ち止まる』わけにはいかなかったんだし)
着替えを取り出した。
*
台所に出ると、セラがすでに朝食の準備をしていた。
トーストが二枚、焼けている。目玉焼きが鍋の上で仕上がりを待っている。湯気の立つマグカップが二つ、カウンターに並んでいる。
いつもの朝食だった。
「おはようございます、シノミヤ様」
「……おはよう」
その声を聴いてセラが振り返った。じっと、けれど一瞬、大和の顔を見て。
「お顔の色が」
「大丈夫」
大和は先に答えた。セラは何も言わなかった。代わりに目玉焼きを皿に移して、テーブルに置いた。
大和は椅子に座って、トーストを手に取った。一口食べる。美味い。いつも通りだ。ただ、のどを通るときに少し痛かった。
「シノミヤ様」
「大丈夫だって」
「まだ何も言っていません」
大和は手を止めた。
セラはマグカップを大和の前に置いた。コーヒーではなく、白湯だった。
「……未来予知でもしてた?」
「昨夜から咳をされておりましたので」
苦笑しながら大和は白湯を一口飲んだ。のどに、じんわりと染みた。
「会社は?」
「行く」
「そうですか」
その答えに、セラはそれ以上何も言わずに自分のトーストを食べ始めた。
大和も食べ続けた。窓の外は、今日も曇っている。十二月の空は低く、灰色だ。
*
電車の中で、大和は吊り革に掴まりながら目を閉じていた。
頭が揺れるたびに重さが増す気がした。隣の乗客の体温が普段より近く感じる。満員電車は、いつも通り騒がしい。いつも通りで……だからこそ、息が詰まる。今日は、それがいつもより少しだけ堪えた。
(大したことじゃない。そうだっただろ)
異世界で三年間、もっとひどい状態で動き続けていたことなどざらにある。魔物との戦闘の翌朝、傷が塞がりきっていないまま出発したことも。高熱が出ても誰にも言わずに行軍したことも。あの頃に比べれば、頭が少し重い程度のことだ。そのはずだ。
*
オフィスに着くと、橘が心配そうに駆け寄ってきた。
「篠宮さん、顔色やばくないですか」
「大丈夫」
「いや、でも」
「大丈夫だって。な?」
橘は納得していない顔をしたが、引き下がった。大和は自分の席に座って、パソコンを開いた。今日の分の仕事を確認し、毎日のルーチンワークに従って順番に片付けていく。
メールを確認して。返信が必要なものに返信を送り。田辺部長に提出する予定の資料の最終確認。画面の文字が、いつもより少しだけにじんで見えた。
十時を過ぎた頃、橘が再び話しかけてきた。
「篠宮さん、本当に大丈夫ですか。さっきより顔色悪くなってませんか」
「なってない」
「……嘘ですよね」
大和は返事をしなかった。
十一時になった頃、田辺部長が通りかかって足を止めた。
「篠宮、早退していい」
「いえ、大丈夫です」
「見た目が大丈夫じゃない。今日は帰れ」
大和は少し間を置いてから、立ち上がった。言われたのが田辺でなければ、もう少し粘ったかもしれない。
*
アパートの外階段を上がるとき、みしりという音がいつもより響いた気がした。一段一段が、少し遠い。手すりを掴むと、冷たかった。
鍵を取り出して、ドアを開ける。
「――シノミヤ様?」
セラが、台所の方から顔を出した。昼間だ。大和がいるはずのない時間だ。
「早退になった」
「そうですか」
セラはいつも通りだった。それだけ言って台所に戻っていく。
コートを脱いで、ソファに座った。コートをまだかけていないのに、座ったら立つのが億劫になった。
「熱を測ってください」
しばらくして、セラが体温計を持ってきた。
「どこにあったの、それ」
「三週間前に購入しました」
「……なんで?」
「念のためにです。主人の体調管理も職務に含まれておりますので」
大和は体温計を受け取った。腋に挟む。セラは特に何もせず、台所へ戻っていった。台所のほうから、何かを鍋にかける音がした。
体温計が鳴った。三十八度二分。
大和はその数字をしばらく見ていた。
(……そこそこある、な)
必死に大丈夫だと言い聞かせていた「建前」が崩れていく感覚。同時にソファから動く気力が、急速に失われていく。そのままおもむろに瞼を閉じた。
*
「着替えてください」
目を開けると、セラが戻ってきていた。手には綺麗に畳まれた大和のスウェットを持っている。
「……着替えは手伝わなくていいからね」
「3年前から存じております」
それだけ言うと、セラはスウェットをソファの隣に置いて立ち上がる。そのまま押し入れ……改め彼女の部屋へと入っていく。ほどなくして中から何かを引っ張り出してきた。
折り畳み式の簡易ベッドだった。
「……いつの間に買ったのそれ」
「先月、フリマアプリで購入しました」
「……理由は? いや、いい。言わなくて。知ってる。職務内だから、でしょ?」
「ご理解いただけて光栄でございます」
セラは淡々とベッドを広げ、シーツをかけた。枕を置いて、毛布を重ねて。
「横になってください」
「……もう少ししたら」
「今です」
有無を言わせない声だった。大和は観念して着替え、簡易ベッドに横になった。
思ったより、楽になった。
*
セラが粥を持ってきたのは、一時間後だった。白くて、シンプルな粥だ。梅干しが一つ、添えてある。
「食べられますか」
「食べる」
大和は上体を起こして、受け取った。一口食べると、やわらかい味が口の中に広がった。出汁の風味が、かすかにある。のどが痛くても、するりと入る。
「美味いね」
「それはようございました」
いつも通りの返答だった。セラは部屋の隅に椅子を持ってきて、そこに座った。本を開いた。
「……何してるの」
「読書です」
「なんでここで?」
「職務ですので」
「……そっか」
大和はそれ以上聞かなかった。
外では風が鳴っている。室内は暖かい。粥の湯気が立ち上がっている。ページをめくる、かすかな音がする。
異世界で、こういう時間があっただろうか。
誰かが傍にいて、何もしない時間。戦略を練るでも、次の行動を確認するでもなく、ただ同じ部屋にいる時間。
なかった、とは言えない。仲間と同じ宿に泊まった夜、焚き火を囲んだ夜。でもそれは常に「次」があった。翌朝には出発があった。ただそこにいるだけの時間ではなかった。
セラがページをめくった。大和は粥を一口食べた。
それだけだった。それだけで、十分だった。
*
粥を食べ終えて、大和がまた横になると、セラは本を閉じた。
「シノミヤ様は寝ていてください」
「……セラさんは」
「シノミヤ様がお休みになられたら職務に戻ります」
「……そっか。なら休まないと、だな。……おやすみ」
大和は目を閉じた。頭の重さが、まだじんわりとある。でも、先ほどよりは楽だった。
しばらくして、セラが立ち上がる気配がした。静かに台所へ歩いていく。
「解熱剤があります。必要であれば起こします」
大和は目を閉じたまま答えた。
「……ありがとね」
セラは何も言わなかった。でも、部屋に残っていた。気配で、わかった。
大和はそのまま、眠った。
*
目が覚めると部屋が仄かに暗くなっていた。カーテンの隙間から橙色の光が少し入っている。
どれくらい眠ったのかはわからないが、少なくとも頭の重さは少し軽くなっていた。
大和はゆっくりと上体を起こした。テーブルの上に、湯飲みと薬が置いてあった。付箋が貼ってある。
『起きたら飲んでください』
異世界の文字で書かれていたのはそれだけだった。
大和は薬を飲んで、白湯を一口飲んだ。温かかった。
台所の方から包丁の音が聞こえた。セラが夕食の準備をしているのだなと、ぼんやり思った。
大和はしばらく、その音を聞いていた。
思えば長い間、具合が悪くなることを自分に許していなかった気がした。倒れる前に動いた。動けなくなる前に飲んだ。隙を見せることが仲間への迷惑だと、そう思っていたから。
そもそも、誰かに「横になれ」と言われたことが、三年間で何度あったか。
「睡眠時間は四時間と十七分ほどです。少しは体調は回復されましたか?」
セラが包丁を持ったまま振り返らずに言った。
「……いつから気付いてたの、俺が起きてるのに」
「五分ほど前から」
「なんで声かけなかったの」
「起きたばかりの方に話しかけるのは、職務として適切ではありませんので」
大和は少し笑った。笑ったら、のどが少し痛かった。
「お休みの間も、定期的に体温を測らせていただいておりました」
「最後に測ったのは?」
「二十三分前です。その時点での体温は三十七度七分」
「だいぶ下がったね。楽になったのも納得だ」
「もう少し、横になっていてください」
「もう大丈夫だよ?」
「シノミヤ様」
「……はい」
大和は素直に横になった。天井を見ながら、さっきより遠くない、と思った。
*
夕食も粥だった。ただ今度は具が少し増えていた。卵が入っていて、生姜の香りがした。
「美味いね、これも」
「お昼よりも食は回復されているかと思いまして」
「気が利くね、助かる」
「職務ですので」
大和は粥を食べながら、向かいのセラを見た。いつも通り、淡々と食べている。表情は読めない。感情は見えない。ただ――今日一日、ずっとここにいてくれた。
「セラさん」
「はい」
「……今日は色々とありがとね」
「職務です」
「わかってる。それでも、だよ」
セラは箸を止めた。少しだけ、間があった。
「……お大事に」
それだけだった。
大和は粥を一口食べた。生姜の仄かな味のおかげだろうか、体の芯が温まる感覚がした。
窓の外で、風が鳴っている。部屋の中は暖かい。花瓶のスターチスが、灯りの下で静かに立っている。
『弱音を吐けばいいところで、ひたすら飲み込む』
先日セラに言われた言葉を思い出した。
確かにそうだ。自分でもそう思う。
でも今日は――言われる前に、横にされた。
それが、妙におかしかった。笑いたいような、そうでもないような。
整理のつかない感情に背中を押されるように。
大和は粥を食べ続けた。