十二月も半ばを過ぎた頃、大和はようやくマフラーを買った。
買った、というより――買わされた、に近い。
*
その日の朝、玄関で靴を履いていると、セラが一枚の紙を差し出してきた。
紙には、この国の文字でいくつかのことが書かれていた。セラの字だ。几帳面で、少し角張っている。読むと、近くのショッピングモールの場所と、防寒具売り場のフロア案内と、「予算は三千円から五千円が適切と思われます」という一文があった。
「……これ」
「昨日、ネットで確認しました。先日風邪をおひきになられていますし……首元が寒そうでしたので」
「あの、俺仕事……」
「問題ありません。シノミヤ様の退勤時間でも間に合います」
「……セラさんが買ってくるのは?」
「シノミヤ様の首回りのサイズがわかりません。それに、ご自身で選ぶ方が長く使われると思いまして」
否定できなかった。仲間に勧められた剣より、結局自分で選んだ剣のほうが愛着がわいていたから。
「わかった。買ってくる」
「よろしくお願いします」
セラはそれだけ言って、台所に戻った。
大和は紙をコートのポケットに入れながら、ふと思った。
三ヶ月前、異世界から戻ってきたばかりの頃、セラはスマートフォンの使い方を一週間で習得した。電車の乗り方を三日で覚えた。スーパーでの買い物を、二回目からは一人でこなすようになった。
今では、ネットで防寒具売り場を調べて、予算まで計算して、一枚の紙にまとめて渡してくる。
適応能力が、高い。
改めてそう思いながら、大和はドアを開けた。
*
会社では、今日も進捗会議があった。 田辺部長の指摘はいつも通りだったが、大和は先日作り直した資料を静かに提示した。数字で示せる形に整えてあった。田辺は少し黙ってから「わかった」と言って次の議題に移った。 それだけだった。
会議が終わった後、橘が小声で言った。
「篠宮さん、今日かっこよかったですよ」
「別に」
「いや、でも。ああいう言い方ができるんですね」
「言い返しても消耗するだけだって言っただろ」
「今日は言い返してましたよね」
大和は少し考えてから答えた。
「数字で示すのは、言い返すのとは違う」
橘は「なるほど」という顔をしていた。理解したのかどうかは、わからなかった。
定時を少し過ぎた頃、大和はコートを着てオフィスを出た。今日は残業がなかった。定時で帰ることに、まだ慣れていない。でも――帰れる。それだけで、足が動いた。
*
ショッピングモールは、駅から少し歩いたところにあった。
入口を抜けると、クリスマスの装飾が至るところに下がっているのが視界に飛び込んできた。
有線放送が陽気な曲を流している。平日の夜にもかかわらず、そこそこ人がいた。
防寒具売り場は四階だった。エスカレーターを上がると、コートやマフラーや手袋が色とりどりに並んでいた。
売り場を少し歩き、セラが印をつけてくれた目的の販売エリアへとたどり着く。
思っていたより種類が多かった。ウールのもの、フリースのもの、細いもの、太いもの、無地のもの、柄のもの。値段もまちまちだ。
大和は特にこだわりがなかった。暖かければ何でもよかった。
適当に一本手に取った。グレーの、無地のウールマフラーだ。
値札を見る。四千二百円。セラの指定した予算の範囲内だ。
手に取ってから、少し考えた。
もう一本、手を伸ばした。こちらは白に近いクリーム色で、柔らかそうな素材だった。
大和はしばらく、二本を見比べた。
(セラさんに……似合うか?)
そう考えていることに気づいて、少し止まった。
頼まれたわけではない。必要とも言われていない。
ただ――セラはずっとメイド服を着ている。外出のときもあのメイド服だ。日本では少し目立つし……何より十二月の寒さには薄すぎる。
先月、花屋に一人で出かけたとき、セラは音に圧倒されながらもこなしてきた。次の日も出かけた。その次の日も。黙って、淡々とこの国に慣れようとしている。
それなのに、首元だけが寒いままだ。
大和はクリーム色のマフラーを籠に入れた。グレーも入れた。
余計なことをしたかもしれない。でも、籠の中に入れたそれを戻す気にはなれなかった。
*
帰宅すると、セラがいつも通り出迎えた。
「おかえりなさいませ、シノミヤ様」
「ただいま」
大和は鞄を下ろしながら、紙袋をセラに差し出した。
「二本入ってる」
「……二本、ですか?」
セラは紙袋を受け取って、中を確認した。クリーム色のマフラーを取り出して、少し見た。
「これは」
「一本は俺の。もう一本はセラさんに。外出るとき、メイド服だけじゃ寒いだろうと思って」
セラはしばらく、マフラーを見ていた。表情は、いつも通り読めない。
「……頼んでいませんでした」
「わかってる」
「職務の範囲でもありません」
「わかってる」
セラはもう一度マフラーを見た。それから大和を見て、頭を下げた。
「ありがとうございます」
大和はコートを脱ぎながら、視線を逸らした。
「似合うかどうかはわからないけど」
「そうですね」
「そうですねって……いや、まあ……。とりあえず試してみたら?」
セラは少し間を置いてから、マフラーを首に巻いた。鏡もなく、ただ玄関に立ったまま。
悪くなかった。メイド服の黒と白に、クリーム色がよく馴染んでいた。
「どうですか」
「悪くない……と、思う」
「そうですか」
セラはマフラーを外して、丁寧に畳んだ。
「大切にします」
「別にいいよ。職務じゃないだろ」
「それとこれとは別の話です」
大和は何も言えなかった。セラは台所へ向かった。
*
夕食を終えて、大和がソファで缶ビールを開けると、窓の外で風が強くなっていた。
テーブルの上に、クリーム色のマフラーが畳まれて置いてある。
大和はそれをぼんやりと見ながら、ビールを一口飲んだ。
頼んだわけでもない。求めたわけでもない。ただ、首元が寒そうだと思って買ってきた。それだけのことだ。
でも――それだけのことを、今まで誰かにしたことがあっただろうか。
異世界でも仲間のために動くことは何度もあった。戦略を考え、盾になり、先頭を歩いた。でもそれは役割だった。勇者としてするべき行動だった。
誰かの首元が寒そうだから、という理由で何かを買ったことは……なかった気がする。
(そういうことか)
この国に帰ってきてから三ヶ月。少しずつ、何かが変わっている。
セラが「大切にします」と言った。職務に関係のないところで。
大和はビールを一口飲んだ。
窓の外で、風がまた鳴った。花瓶のスターチスは灯りの下でいつも通りだ。
今夜も、眠れる気がした。