「忘れ物」   作:落那ユメ

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第六話「マナのない世界で」

 大和が仕事に出た後の部屋は静かだ。

 みしりと鳴く階段の音が遠ざかり、アパートの外扉が閉まる音がして、それから本当に静かになる。

 セラはしばらくその静けさの中に立っていた。

 することはある。洗い物、洗濯、掃除、買い物。とはいえ決して多くはない。午前中だけで済む程度の量だ。

 でも今朝は、職務は後回しにして少し違うことを試みようと考えていた。

 

  *

 

 セラが魔法を使えるようになったのは六歳のときだった。

 セラの生まれ育った世界……大和曰く『異世界』では、人の体内には『オド』と呼ばれる魔力が流れているのが普通だった。『オド』とはすべての生き物が生まれつき体内に保有する魔力であり、訓練によって練り上げることができる。加えて空気の中には『マナ』と呼ばれる魔力が満ちていた。術者は基本的にこの二つの魔力を組み合わせることで魔法を行使するのが通説だった。

 生まれて初めてオドの量の測定した際、それほど多くはないと診断されたのをセラはよく覚えている。父のような騎士や、母のような魔術師への道が閉ざされた瞬間だった。

 だが、戦闘向きの量ではなかった魔力量も、日常の補助魔法を使う分には十分だった。火を起こす。水を浄化する。物の汚れを落とす。傷口の痛みを和らげる。どれも地味で、派手さのない魔法だ。しかし母と父が自分でも使える魔法をと教えてくれたそれらはメイドの職務において間違いなく役に立ってきた。

 大和に仕えていた三年間もそうだった。旅の途中で薪が濡れていれば火を起こし、水場のない野営地では水を浄化した。大和が傷を負ったときには痛みを和らげる魔法を使った。言葉にはしなかったが、それがセラにとってできる限りのことだった。

 しかしこの国に来て、それが変わり始めた。

 

  *

 

 この世界に来た当初は、まだ魔法を使うことはできていた。

 だが出力は大きく落ちていた。この世界に来て最初に感じたことでもあるが、この世界の大気にはマナがほぼ含まれていない。魔法の行使にマナを用いることなどできるはずもなく、ゆえにオドだけが使える魔力だった。消費は大きく、出力は小さい。それでも、使えてはいたのだ。

 

 最初の一週間、セラは職務に魔法を織り交ぜていた。

 台所の汚れを魔法で落とした。窓を拭くときに布巾の届かない隅を魔法で補った。夜、大和が眠った後に疲労を和らげる補助魔法をかけようとした――まあこれは届いたのかどうかはわからなかったが。

 

 二週間が過ぎた頃、火が小さくなった。

 コンロを使う前に、いつもの習慣で指先に火を灯そうとした。

 炎は出た。しかし親指の爪ほどの大きさしかなく、すぐに消えた。

 セラはそのままコンロのスイッチを押した。火がついた。それで十分だった。

 

 一ヶ月が過ぎた頃、水の浄化が不安定になった。

 浄化を試みても、水の色が変わるだけで臭いが取れなかった。

 

――魔法の出力だけでなく精度も落ちている。

 

 そう判断して浄水器を使うことにした。この国の浄水器は優秀で、セラが魔法で浄化するより清潔な水が出る。代わりになるものがある。そう思うことにした。

 

 二ヶ月が過ぎた頃、疲労を和らげる魔法が届かなくなった。

 大和に使おうとした。眠っている大和の傍に立って、いつものように魔法をかけようとした。指先が温かくなった。それだけだった。

 届いた感覚が、なかった。

 セラはそのまま自室に戻った。

 翌朝、大和は「昨日は珍しくよく眠れた」と言った。

 それが魔法のせいなのか、ただ疲れていただけなのか、セラにはわからなかった。

 

  *

 

 そして今日、三ヶ月が経った。

 セラはダイニングテーブルの前に立った。テーブルの上に、コップが一つある。水が入っている。

 セラは目を閉じた。体の奥に意識を向ける。オドを感じる。細く、静かに流れている。これは変わらない。この国に来ても、自分の中のオドは消えていない。

 次に、外に向けて意識を広げる。空気の中のマナを探る。

 

――ない。

 

 やはり、ない。わかっていた。

 マナなしで、体内の魔力だけで水を浄化する基礎魔法を試みる。

 静かに、オドを練る。集める。指先に向けて流す。コップの水に、触れる。

 水面が、ほんの少し揺れた。それだけだった。

 

 次に火を試みた。小皿の上で、小さな炎を生み出す、最も基礎的な魔法だ。

 オドを練る。集める。

 指先が、かすかに温かくなった。

 炎は、出なかった。

 

  *

 

 セラはしばらく自分の指先を見つめていた。

 そういうものだ。マナがない。だから使えない。道理だ、世界の真理だ。向こうにいた頃でもマナの薄い場所では同じことが起きた。今の状況はその極端な例に過ぎない。感情的になるようなことではない。

 セラは指先から目を逸らした。

 魔法はセラにとって「あって当たり前」のものだった。六歳から二十余年、空気を吸うように使い続けてきたものだ。それがじわじわと、気づいたら使えなくなっていた。

 

――失われていく速度が、思っていたより早かった。

 

 このまま時間が経てば、オドそのものが細くなっていくかもしれない。魔法を行使しなければ術者のオドはやがて錆びる。そんな話を聞いたことがあった。

 使わない包丁が錆びるのと同じだ。

 使わない能力は。使えなくなる。

 

 セラはエプロンを直した。

 この国でできることをする。代わりになるものがある。

 火はコンロで起こせる。水は浄水器で清潔にできる。大和の疲れには薬がある。

 職務は、続けられる。

 

  *

 

 午後、買い物を終えて帰り道を歩きながら、セラは首元に手をやった。

 クリーム色のマフラーが、そこにある。

 大和が買ってきてくれた。頼んでいないのに。職務の範囲でもないのに。ただ寒そうだと思って、と。

 セラはその感触を確かめるように、少し指先に力を入れた。

 

「…………悪くない、ですね」

 

 柔らかかった。温かかった。

 魔法で生み出した温かさとは、違う種類の温かさだ。

 この国には魔法はないが別のものがある。あちらにはなかったものがここにはある。缶の中に入った茶。どら焼きを売る老女の笑顔。みしりと鳴く階段。花瓶の中のスターチス。そして、首元のマフラーの温かさ。

 マフラーに手を添えたまま歩みを進める。

 この世界の音が、いつもより少しだけ遠かった。

 

  *

 

 大和が帰宅したとき、夕食の準備はすでに整っていた。

 

「おかえりなさいませ、シノミヤ様」

「ただいま。今日は早かった」

 

 大和はコートを脱ぎながら、セラのマフラーを見た。

 

「つけてたのか」

「買い物に出ましたので」

「そっか。良かった?」

 

 セラは少し間を置いた。

 

「わかりません。確認する手段がありませんでした」

「いや見た目じゃなくて……まあいいや。それなら鏡でも持っていけばよかったのに」

「次からそうします」

 

 大和は少し笑った。声には出さない小さな笑い。セラはそれを横目で確認してから台所に向かった。

 今夜の夕食は、豚の生姜焼きだ。

 火は、コンロで起こす。

 それで十分だ。

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