セラがその古本屋の前を通ったのは、三日前のことだった。
買い物の帰り道、駅に向かう途中の路地に、小さな店があった。間口が狭く、看板が古い。店頭に木製のワゴンが出ていて、本が並んでいた。
立ち止まるつもりはなかった。しかし足が、少し遅くなった。
ワゴンの中の本は、背表紙だけでは何が書いてあるかわからないものが多かった。しかし一冊だけ、表紙が外側を向いて立てかけてあった。淡い水彩画調の絵が描かれていた。青と白が混ざった空の下に、小さな人影が一つ。
何故か、その本から目が離せなかった。立ち止まって、そっとその本を手に取る。
じっと表紙の絵を見て。少し中身を確認してみる。この国の言葉の羅列。
閉じて裏返す。貼られていた小さい値札に書かれていた価格は百円。
少し逡巡し、財布を取り出す。
なぜ買うのかと自分に問うても、明確な答えは出なかった。職務に必要なわけではない。大和に頼まれたわけでもない。ただ手が伸びた。
それだけだった。
店主の老人が何か言った。セラには意味がよくわからなかったが、会釈をして店を出た。
*
アパートに戻って、夕食の準備を終えた後、セラは本を開いた。
一ページ目。
ひらがなは読める。カタカナも読める。この国に来てから最初の一週間でどちらも習得した。
加えて、日常生活で繰り返し目にしてきた漢字もある。食品の名前、数字、方角、値段に関わる字、駅や道路でよく見かける字。それらは記憶の中にある。
しかし、このページに並ぶ字の大半は知らないものだった。
ひらがなの部分だけを拾いながら読んだ。意味の断片が飛び石のように並ぶだけだった。
話の筋が掴めなかった。
万年筆をエプロンのポケットから取り出し、ノートを開く。
読めない字に自分の世界の文字で印をつけていく。異世界の文字、セラにとっての考えるための言語。数えてみると、一ページで読めない漢字が百を優に超えていた。
――何か規則があるはずです。
言葉には文法がある、規則がある。それはどこだろうと変わらない。
だからその規則を探した。音読みと訓読みがある、ということは知っていた。どちらで読むかを判断するための規則があるはずだ。
調べる。
ある程度の傾向はあるらしかった。しかし例外が多かった。さらに、熟語になると読み方が変わるものがあるということも分かった。
それから一時間、なんとか規則を見つけようとしてみた。
見つからなかった。
*
大和が会社から帰宅したとき、セラが玄関に出てこなかった。
「……珍しい、というか初めてじゃないか、これ?」
普段なら大和がドアを開けると、台所か居間から彼女の「おかえりなさいませ」の声がするのがいつの間にか普通になっていて。
けれど今日はそれがなかった。居間のテーブルに向かって座っているセラの背中が見えて、少し安堵する。
「ただいま」
「――あ」
セラが振り返った。表情はいつも通り平坦だ。けれど、わずかに間があった。
「おかえりなさいませ、シノミヤ様。失礼しました」
「いや、別に気にしないでいいよ」
大和はコートを脱ぎながら、テーブルの上を見た。セラの前に薄い本が一冊、開いたまま置いてあった。その隣には小さなノートと万年筆。
「何読んでたの?」
「この国の物語を読もうとしていました」
「物語」
「はい。三日前、古本屋の前を通りました。店頭に並んでいた本の中に表紙の絵が気になるものがありましたので」
大和は本の表紙を見た。淡い水彩画調の絵。青と白の空の下に、小さな人影。
「読め……てたら苦労しないか。まだ漢字は覚えきれてなかったよね。ひらがなとカタカナはいけたよね」
小さくうなずき、セラは本へと目線を落とした。
「はい。漢字は――まだほとんど読めません」
「どれくらい読めなかった?」
「一ページで、読める字の方が少なかったです」
本を手に取って開かれていたページを見る。確かに漢字が多い。
普通の文庫本。大人向けの普通の小説。けれど言われてみて初めて漢字の多さに気付かされて。
そのままノートに目をやった。びっしりと字が書き込まれている。セラの故郷の文字で整然と記録されているそれを見て、彼女の苦戦を読み取った。
「……セラさん、これはちょっと難しいかもしれない」
「そうですか」
「あーいや、難しいというか……えっと、日本語の漢字はまず音読みと訓読みっていうのがあって、同じ字でも読み方が複数あるんだよ」
「存じております。ただ、どちらで読むかの判断ができません。傾向があることはわかりましたが、例外が多すぎて。加えて――」
セラはノートの一箇所を指した。異世界の文字で何かが書いてある。
「『熟語になると単体での読み方と変わることがある』というのも正しいですか」
「正しい」
「やはり」
セラは短く言って、ノートに何か書き足した。
「慣れるしかない部分が大きいんだよ、結局」
「……慣れる」
「ああ。俺たちも、子供の頃から何年もかけて覚えるから」
「何年も」
「小学校六年間で千六字。中学でさらに増えて、大人が読む本に出てくるものは二千字以上」
万年筆でノートに書き留めるセラの姿を横目で見て、少し笑いそうになった。笑わなかった。
「二千字を、子供の頃から」
「そう。毎日使いながら、じわじわと」
「……この国の子供は、大変ですね」
「言われてみるとそうかもしれないな。……横、座るね」
大和はバッグを下ろして、セラの隣に座った。
*
「一つ聞いてもいいですか」
「なに?」
「たとえば――」
セラはノートを開いて、一箇所を指した。異世界の文字で印がついている隣に、日本語で「日」と書いてある。
「この字です。単体では『ひ』と読むと思っておりました。しかし先ほど調べたところ、別の読み方もあるようで」
「『日』はね――」
大和はノートの余白を指した。
「書いていい?」
「どうぞ」
大和はセラの万年筆を受け取った。手の中でその重みを感じながら、「日」という字を書いた。
「『にち』とも読むし、『じつ』とも読むし、『ひ』とも読む。『今日』って書いて『きょう』と読んだりもする」
「今日は『こんにち』ではないのですか」
「『こんにち』とも読む。『こんにちは』って挨拶があるから」
「同じ字で、四通りの読み方が」
「もっとある場合もある」
セラはしばらく黙っていた。
「……根拠は」
「ない」
「根拠がない」
「ない。慣用的にそう読む、としか言えないものが多い」
セラは万年筆を受け取って、読み方を四つ書き並べた。その下に、異世界の文字で何かを書き添えた。
「シノミヤ様は、どうやって覚えたのですか」
「毎日使ってたら、自然に覚えた」
「意識して覚えたわけではない、ということですか」
「そうだね。気づいたら読めるようになってた、に近い」
「……それが、慣れ、ですか」
「そう」
セラはしばらく、自分のノートを見ていた。異世界の文字と、日本語の字が混在している。
「……この本を」
「うん」
「私が読めるようになる日は、来るでしょうか」
「なるよ。時間はかかるけど」
「どのくらいですか」
「……真面目にやれば、半年か一年くらいじゃないかな。断言はできないけど」
「そうですか」
落胆した様子はない。かといって意気込んだ様子もない。ただ、静かにその答えを受け取った。
「今日はどこまで読めた?」
「三行です。一ページ二十行ほどありますので、残り十七行です」
「今日中に一ページ終わらせる?」
セラは少し間を置いた。
「……お時間を取らせてしまいます」
「気にしないで良いよ。俺が手伝いたいんだ」
また少し、間があった。
「では、お願いします」
*
一ページを読み終えるまで、四十分かかった。
大和が読み方を教え、セラがノートに書き留める。なぜその読み方になるのかを聞く。大和が答える。答えられないものは「慣用的にそう読む」と正直に言う。セラは異世界の文字でそれを書き留める。「慣用的」に相当する印が、ページを重ねるごとに増えていった。
途中、大和が答えに詰まる場面もあった。
「これはなんと読みますか」
セラが指したのは「明日」という字だった。
「……『あした』か『あす』。場合によっては『みょうにち』」
「三通りですか」
「そうだね」
「先ほどの『日』と組み合わさって、また別の読み方に」
「そう。ごめん、これは説明が難しい」
「慣用的ですか」
「うん。慣用的だ」
セラは万年筆で書き留めた。
大和は少し黙った。
「……日本語って、改めて難しいな」
「そうですね……ただ」
セラは書きながら言った。
「ただ?」
「例外が多いということは、それだけ長い時間をかけて積み重なってきた言語だということだと思います。規則だけで動く言語は、歴史が浅い」
大和は少し考えた。
「それはどこかで読んだのか」
「いいえ。そう思いました」
大和はセラの方を向いた。セラは相変わらず、ノートに向かっている。
「……それ、合ってるかもしれないね」
「そうですか」
セラは特に反応しなかった。しかし、ほんの少しだけ、万年筆の動きが軽くなった気がした。
*
一ページが終わった頃、セラはノートを閉じた。一ページ分の記録が、異世界の文字と日本語の字が混在したまま、びっしりと書き込まれている。
「ありがとうございます」
「別にいいよ」
「いいえ」
セラは言った。
「シノミヤ様のお時間を使わせました。別に、ではありません」
大和は返す言葉を探した。
「……また詰まったら、聞いて」
セラは少し間を置いた。
「はい。……では、夕飯の支度をしてまいります」
それだけだった。「職務ですので」とも「ご迷惑をおかけします」とも言わなかった。ただ、はい、と言った。
それに気づいて。台所に向かっていく背中に、何も言わなかった。言わなくていい気がした。
*
夕食は、焼き魚と味噌汁と、ほうれん草のおひたしだった。
食卓に着いてから、大和はふと気づいた。セラが物語を読もうとしていたこと――職務に関係のない、ただの本を――について、何も聞かなかった。なぜ読もうと思ったのか。どんな物語なのか。
聞こうとして、やめた。
聞かなくていい気がした。理由は、うまく言えなかった。ただ、今は聞かなくていいと思った。
「美味いね」
「それはようございました」
いつも通りの返答だった。
食事を終えた後、セラはまた本を開いていた。
大和はソファから、その背中をぼんやりと見ていた。ノートも隣に置いてある。万年筆が、その上に置かれている。
異世界にいた頃のセラには、そういうことをする余裕があったかどうか。大和にはわからなかった。少なくとも大和は見たことがなかった。旅の途中、宿に泊まる夜も、王城の自室に戻る夜も、セラはいつも職務の何かをしていた。
そんな彼女が今は物語を読んでいる。
――何かが、変わっている。
ビールを一口飲んだ。
セラがページをめくった。
今日は一ページと少し、読み進めたようだった。