大和が仕事に出た後、セラは三十分ほど家事を済ませてから外に出た。
今日の買い物は少ない。味噌と、豆腐と、葱。スーパーで買えばそれで終わりだ。往復で一時間もかからない。
それでもセラは、少し遠回りをした。
この街をよく知ることは、より良い職務に繋がる。そう判断していた。
*
この遠回りができるようになったのは、この世界にやってきて二週間目に差し掛かる頃だった。
最初の一週間は必要な場所だけを歩いていた。スーパーへの道、コンビニへの道、駅への道。それ以上は余裕がなかった。音が多すぎた、情報が多すぎた。歩くことと周囲の音に慣れることで精一杯だった。
二週間目から、少し余裕が出た。スーパーへの道を一本変えてみた。距離的にはほぼ変わらない、静かな路地を通る道だ。そちらの方が歩きやすかった。それ以来スーパーへの道はこちらを歩いている。
三週間目から、帰り道を変えるようになった。来た道と違う道で帰るようにしてみた。どこに出るかわからなくても、歩けば何かに繋がる。迷子になっても駅に向かえばわかる、大和にそう教わった。
今は、いくつかの道を知っている。
スーパーへの最短経路に花屋への道、古本屋への道、どら焼き屋への道、駅への道。少し遠回りになるが川への道も。それらがセラの中で少しずつ繋がって地図になっていく。
今日は、まだ歩いたことのない路地を確認するつもりだった。
*
スーパーで買い物を済ませて、帰り道に入ったとき、前方で何かが動いた。
どら焼き屋の前だった。
店頭に出ていたお婆さん――以前試食のどら焼きをセラに勧めてきた――が、手に持っていた袋を落としていた。袋の口が開いて、中身が転がり出ていた。
そこに、猫が一匹。
素早く、白と茶色の猫が袋の中身に飛びかかった。何かをくわえた。そのまま路地へ駆けていく。
お婆さんが「あっ」と声を上げて。セラは考える前に走り出していた。
*
猫は路地の奥へと入っていく。その後を追いかける。
路地は細く、曲がりくねっていた。
左に曲がり、右に曲がり、また左に曲がって。猫も追いかけられていることに気付いたのかやみくもに走り回り続けていく。
しかしセラにとって猫を追いかけるのは決して難しいことではなかった。かつては依頼でこれよりも素早く小さい生き物を一日中追いかけていたこともある。
そうして辿り着いたのは薄暗い路地の突き当たりだった。
猫は身軽に塀の上に飛び乗る。セラはその下で立ち止まった。
じっとセラと猫の視線が交差し、互いに互いを見つめ合う。ややあってから猫は、口にくわえたものを、セラが差し出した手のひらの上にぽとりと落とした。
草餅だった。包みが少し破れていたが、中身は無事だった。
猫はそのまま、塀の向こうへ消えた。
セラは立ち上がって、自分が走ってきた方向を見た。
――路地が、どこに繋がっているか、わからなかった。
*
セラはしばらく立っていた。
焦りはなかった。この国の道は歩けば何かに繋がると大和が言っていたから。それはきっと間違いない。
ただ――自分が今、地図のどこにいるかが、わからなかった。
古びたビルとビルの隙間。上を見上げると、空が狭かった。
「……まずは、覚えている範囲で引き返してみましょうか」
セラは歩き始めた。まっすぐ進めば、どこかに出るだろう。
二度曲がったところで、前から人が来た。
若い男性だった。背が高く、黒いコートを着ている。会社帰りというより昼休みに出てきたような雰囲気だ。セラを見た彼が少し驚いた表情を浮かべるのが見える。
無理もない。メイド服を着た人間が細い路地に立っていれば、誰でも驚く。
「あの――あ、日本語伝わるかな、まあいいか……大丈夫ですか? 迷ってます?」
男性が声をかけてきた。
その言葉にセラは少し間を置いてから、答えた。
「……はい。少し」
「あ、日本語通じた。えっと……どこに行きたいんです? 僕が分かるとこなら案内しますよ」
「駅前のどら焼き屋を探しています」
「あー……」
男性は少し考えてから言った。
「なるほど、あの店ですね。よく知ってます。こっちです、ついてきてください」
*
男性は丁寧だった。
路地を抜けるまで先に歩いて、時々振り返って確認した。セラが追いついているか確かめながら。押しつけがましくなく、かといって素っ気なくもなく。ちょうどいい距離感だった。
「この辺、わかりにくいですよね。僕も最初よく迷いました」
「そうですか」
「この国に来て間もないですか?」
「……三ヶ月ほどです」
「それで一人で歩いてるのはすごいですね」
セラは何と答えればいいかわからなかった。
「職務ですので」
男性は少し笑った。それ以上は聞いてこなかった。
路地を抜けると、見覚えのある通りに出た。どら焼き屋が見えた。
「ここからわかりますか」
「はい。ありがとうございます」
「いえいえ、気にしないでいいですよ。じゃ、お気をつけて」
それだけだった。男性は来た方向に戻っていった。
セラはその背中を少し見てから、どら焼き屋へ向かった。
*
「あら、戻ってきてくれたの」
お婆さんはセラを見て、少し驚いた顔をした。それからすぐに、顔をほころばせた。
「草餅、取り返してくれたの?」
「はい」
セラは草餅を差し出した。お婆さんは両手で受け取って、包みを確認した。
「ありがとう、助かったわ。……怪我はない?」
「ありません」
「ならよかった。あの猫ちゃん、時々やるのよ。困った子でねぇ」
お婆さんは草餅を丁寧にしまいながら、セラをじっと見た。
「あなた、前にも来てくれたわね。どら焼き買ってった子でしょう」
セラは少し止まった。
「……はい」
「覚えてるわよ。珍しい格好してたから。あの後また来てくれるかなって思ってたのよ」
覚えている。
セラは、その言葉をしばらく飲み込んだ。この国に来て三ヶ月、セラが顔を覚えられたのは初めてだった。
「また来ます」
口から出た言葉に、セラ自身が少し驚いた。職務として必要だから来る、ではなく。自然とその言葉が出てきた。
「待ってるわよ」
お婆さんは笑った。
「今日は試食ないけど、一つ持っていく?」
「……いただきます」
お婆さんは小さな袋にどら焼きを一つ入れて、セラに渡した。
「気をつけて帰ってね」
*
アパートへの帰り道、セラは袋の中のどら焼きを確かめながら歩いた。
甘すぎる。自分には甘すぎる。それはわかっている。
でも――大和はこれを美味いと言った。普通に、美味かった、と。
そのことを思い出しながら、セラは歩いた。
今日、新しい路地を一本知った。猫に追いかけられて入った、あの細い路地。地図に追加しておかねば。
それと――道案内をしてくれた若い男性。
この街には、そういう人間がいる。
セラは歩きながら、そう思った。
みしりと鳴く外階段を上がって、二〇三号室のドアを開けた。
部屋の中は静かだった。大和はまだ帰っていない。灯りはついていない。
セラはどら焼きの袋をテーブルに置いた。
*
その日の夜、大和が帰宅すると、テーブルの上に小さな袋が置いてあった。
見覚えのある紙袋。先日にも見覚えがあった。
「おかえりなさいませ、シノミヤ様」
「ただいま。どら焼き買ってきたんだ?」
「はい。今日、偶然通りかかりまして」
大和はコートを脱ぎながら、袋を開けた。どら焼きが一つ。
「……セラさんの分は?」
「シノミヤ様が美味いとおっしゃっていましたので」
「……そっか。ありがとね」
「いえ」
セラは台所へ向かった。
*
夕食を終えて、大和が茶を淹れながら聞いた。
「今日、どこか行ったの」
「買い物に。少し遠回りをしました」
「……ああ、なるほど。古本屋とかもそうだけど、少し最短路からははずれてたか。今日は何か見つけた?」
「……少し、迷いました」
「迷った?」
少し驚く。異世界にいた頃から、彼女が道に迷ったなどという話はとんと聞いたことがなかったから。
「え、どのあたりで?」
「駅の近くの路地です。猫を追いかけていたら、出口がわからなくなりました」
「猫を」
「どら焼き屋のお婆様が落とした草餅を、猫が盗んでいきましたので」
大和はしばらく黙った。
「取り返せたの?」
「はい。ただ、戻る道がわからなくなりました。通りかかった方に教えていただきました」
「…………その人、どんな人だった?」
セラは少し間を置いた。
「若い男性でした。背が高く、黒いコートを着ていました。丁寧な方でした。『職務ですので』と言ったとき、少し笑いました」
大和は湯飲みを持ったまま、少し止まった。今日の昼休憩後に交わした会話が、脳裏に蘇った。
*
「篠宮さん、今日の昼、変わった人に会いましたよ」
「変わった人」
その時はちょうど早急に仕上げなければならない書類があった。昼休憩から戻ってきた橘の言葉に、確認しながら相槌だけ打つ。
「メイド服着た女性。路地で迷ってて、どら焼き屋を探してました。この国に来て三ヶ月って言ってたんですけど、なんか、喋り方が独特で」
「独特」
「丁寧なんですけど、感情が読みにくいというか。でも変な感じじゃなくて。『職務ですので』って言うんですよ、一人で歩いてることについて」
書類を確認する手が一瞬止まる。同居人のことを思い出したが、きっと気のせいだろう。そう言い聞かせる。
「……そうか」
「篠宮さん、知ってます? そういう人」
「知らない」
橘は少し首を傾けたが、それ以上は聞かなかった。
「なんか、篠宮さんに少し似てるなって思いました」
「俺に?」
「感情が読みにくいのに、嫌な感じがしないところが」
篠宮は少し黙ってから、書類に目を落とした。
「そうか」
「そうかって……それだけです?」
「それだけだが?」
「ほら、やっぱり似てます」
書類に向けていた目線を上げる。橘は笑っていた。
*
「……そうか」
「何かご存知ですか」
「いや、別に」
セラは少し大和を見たが、それ以上は聞かなかった
大和はどら焼きを一口食べながら、少し考えた。
――言うべきか、言わないべきか。
橘がセラに道を教えた。セラが橘に道を聞いた。互いに、それが誰なのか知らないまま。
言うのは、伝えるのは簡単だ。「それ、俺の会社の後輩だよ」と言えばいい。でも――言いたくなかった。
セラが自分の知らない場所で、自分の知らない人と関わっている。セラがこの街の中で、自分とは別の文脈を持ち始めている。
異世界にいた頃、セラは常に大和の傍にいた。けれど今、セラはこの国で自分の足で立っている。大和のためではなく、セラ自身のために動いている瞬間がある。それを見ていると――。
安心する、という言葉が一番近い気がした。
それが正しい言葉かどうか、まだわからなかった。ただ、何かそれに近いものを感じていた。
「美味いよ、やっぱり」
「そうですか」
「セラさんも食べればいいのに」
「……甘すぎます」
「そっか」
大和はもう一口食べた。
橘が「篠宮さんに似てる」と言った。感情が読みにくいのに、嫌な感じがしない、と。
言い得て妙だ、と大和は思った。
橘のやつ、意外と見ている。
窓の外で風が鳴っている。花瓶のスターチスが、灯りの下で静かに立っている。
今夜も、眠れる気がした。
*
その頃、セラは自室で万年筆を手に取っていた。
ノートを開いた。今日覚えた道を、異世界の文字で書き記す。猫が入っていった路地の形。左に曲がり、右に曲がり、また左。塀の高さ。出口の方角。
それから少し考えて、別のページを開いた。
今日起きたことを、順番に書いた。
――どら焼き屋のお婆様が草餅を落とした。猫が盗んだ。追いかけた。取り返した。迷った。若い男性に道を教えてもらった。
――どら焼き屋のお婆様が、覚えていてくれた。
「…………」
セラはそこで、万年筆を止めた。
また来ます、と言った。口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。職務として必要だから行く、ではなく、ただそう言った。
それは――どういうことだろう。
セラはしばらく考えた。
かつて仕えていた館の主には顔を覚えられていた。当然だ。毎日顔を合わせる人間たちだったから。
しかしここでは違う。セラは誰も知らないし、誰にも知られていない。
それが今日、一人増えた。
お婆さんが、セラの顔を覚えていた。どら焼きを買った子、と言った。また来てくれるかなと思っていた、と言った。
大和以外にセラのことを待っていてくれた人がいた。その事実を、ゆっくりと飲み込んだ。
窓の外で、風が鳴っている。
セラは万年筆を置いて、ノートを閉じた。
明日も、外に出ようと思った。