その日、大和は定時に会社を出た。
残業がなかったわけではない。やろうと思えばやれることはあったし、いつもならそうしていた。
田辺部長に「今日は早く上がれ」と言われ、素直に従った。それだけの話だ。
エレベーターを降りてビルを出ると、十二月の夜風が顔に当たった。まだ七時前だ。この時間に外に出るのは、少し久しぶりな気がした。
駅に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。
「……篠宮? やっぱ篠宮だよな!?」
どこか聞き覚えのある声。振り返ると、どこか見覚えのある面影のある男性が立っていた。
三秒ほどかかって、記憶の奥底から彼の名前を引っ張り出す。
「……久保か」
「やっぱり篠宮だ! いやー、なんか雰囲気変わったから一瞬わからなかったわ。つか老けたな!」
久保誠。高校の同級生だ。同じクラスだった時期もありほどほどの付き合いはあったが、卒業後は別々の大学に進んでそれきりだった。
「久保こそ」
「俺は老けてないよ!」
久保は笑いながら言った。
「いやでも、篠宮――なんか、苦労したんだなって感じがするよ。あ、勿論いい意味でだぞ?」
大和は曖昧に笑った。
「そうかな」
「そうだよ。なんか……顔に厚みが出たというか。俺たちまだ三十一だぞ? もうちょっと若くいようぜ、なぁ?」
三十一。
そうだ、大和は三十一だ。三十一のはずだ。
「……まあ、色々あってな」
「色々、ねぇ」
久保はそれ以上追及しなかった。
「篠宮はこの後暇? 折角なら近場で飯でも食べね? 俺もちょうど一人だったんだよ」
*
久保がその場でスマホで検索して見つけた、大通りから一本奥まったところに店を構える小さな居酒屋。
客はあまりいなかった。予約もなしに入店して、座席に通されて。
久保はよく喋った。大学時代の話、今の仕事の話、結婚の話、子供の話。二年前に結婚して、来年子供が生まれるのだと嬉しそうに話しているのを、大和は相槌を打ちながら聞いていた。
ビールを飲みながら思いを巡らせる。
久保は、この国の時間の中できちんと久保の人生を積み重ねていた。一度の途切れもない人生の流れだ。
けれど大和は違う。三年分のこの世界の誰とも共有できない時間が大和の中にある。異世界で過ごした三年間。魔王を倒した三年間。誰にも話せない三年間。
「篠宮はどうなの。結婚は」
「してない」
「彼女は」
「いない」
「仕事は」
「まあ、やれてる」
久保は苦笑いを浮かべている。
「それだけかよ、いや、お前らしいと言えばお前らしいけどさ」
「それだけだが」
「かーっ、楽しいとか、充実してるとか、そういう話の一つや二つねえのかよ」
大和はビールを一口飲んだ。
楽しいか。充実しているか。
答えが、すぐに出なかった。
「うん……まあ、やれてるよ」
「さっきも言ったじゃん、それ」
「そうだっけ」
「高校の頃からそういうとこあったよな、お前。聞いても『別に』か『大丈夫』しか返ってこないっていう」
「そうだった……か?」
「そうだったよ。俺、一回だけ篠宮に本気で悩み相談したことあったの覚えてる?」
「覚えてない」
「だろうな」
久保は笑いながら言った。顔が赤い。随分と酒が回っているのだろう。
「部活のことでさ。辞めようか迷ってて。そしたら篠宮、『辞めてどうなるの』って聞いてきたんだよ。アドバイスでも慰めでもなく、ただそれだけ」
「……それで?」
「それで俺、なんか考えてたら自分で答え出した。篠宮が聞いてくれたおかげだと思ってたけど、篠宮は何も考えてなかったんだろうなって今はわかるよ」
大和は少し黙った。
「……考えてたよ」
「え、マジで?」
「辞めてどうするかを、考えてもらいたかった」
久保は少し驚いた顔をして、それからまた笑った。
「なんだ、ちゃんと考えてたじゃないか」
「でも、覚えてなかった」
「思い出せたならそれでいいんじゃね? 今聞いてよかったわ」
久保はビールを飲んだ。
「けど、話してて思うけど、少し変わったな、篠宮。あーいや、悪い意味じゃなくて……落ち着いた? って言えばいいの? まあ苦労してたんだろうなって感じがするよ。顔だけじゃなくて」
大和は何も言わなかった。
苦労した。三年間という長い年月。でもそれを久保に話すことはできない。できるわけがなかった。
「まあ……色々あって、な」
「それしか言わねえじゃん」
久保は笑った。
「まあいいや。また飲もう。連絡先、変わってないか?」
「変わってない」
「じゃあまた連絡するよ」
「ん」
大和はもう一杯ビールを頼んだ。
*
久保と別れたのは、九時を過ぎた頃だった。
外に出ると、風が冷たかった。マフラーを巻いていてよかった、グレーのウールのマフラーに若干顔を埋める。
駅に向かって歩きながら、大和は少し頭の中を整理した。
――老けたな、と久保は言っていた。苦労したんだなって感じがする、とも。
三年分余分に歳を取っている。異世界で過ごした三年間という、この世界の誰とも共有できない時間。その積み重ねが顔に出ているなら、きっと同じことは言われ続けるのだろう、気にしても仕方がない話だ。
――楽しいか、充実しているか。
答えが出なかった久保からの問いを思い返す。
やれてるとしか言えなかった。高校の頃から変わっていないという久保の言葉はきっと正しい。大丈夫、別に、やれてる――それしか返せない人間だ。高校でも、異世界でもそうだった。
異世界から戻ってきて三ヶ月、毎日仕事に行って、帰ってきて、飯を食って、寝て。そんな生活が果たして充実しているかどうか、考えたことがなかった。
……それでも。帰る場所がある。出汁の匂いがする。灯りがついている。楽しいとか充実しているとかとは違う何かは確かにある。それを何と呼べばいいのか、まだわからなかった。
ただ――足が、少し速くなった。
*
アパートの路地に入ったとき、大和は足を止めた。
外階段の下に、人影があった。
セラだった。
メイド服の上に、クリーム色のマフラーを巻いている。両手を前で重ねて、背筋を伸ばして。ただそこに立っていた。アパートに近づいてくる足音に気付いて顔を上げた彼女と目線が合う。
「シノミヤ様」
「……何してるの、外で」
「お帰りをお待ちしておりました」
「なんで外で待ってるの」
「いつもより帰りが遅かったですので」
一瞬、呼吸が止まるような感覚に陥った。
セラはスマホを持っていない。大和が連絡する手段がなかった。遅くなると伝える方法がなかった。
どのくらい待っていたのだろう。風が冷たい真冬の夜に外で。
「……ごめん、連絡できなかった」
「お気になさらないでください、職務ですので」
セラはそう言って、大和のビジネスバッグを受け取って歩き出す。その背を追いかけ、横に並ぶ。
「……どのくらい待ってた?」
「一時間ほどかと」
ほろ酔い程度だった酔いが急速に冷めていく。
「……セラさん、次からは中で待ってて」
「しかし、いつ戻られるかわかりませんでしたので」
「中で待ってて」
「……わかりました」
少し強めに言った言葉にセラは少し間を置いてから答えて。
みしりと鳴く階段を、二人で上がった。
*
部屋に入ると、夕食が用意されていた。
すでに冷めていた。大和が帰ってくる時間を見越して作ったのだろう。一時間前に。
「温め直します」
「いい、このままで」
「でも」
「このままでいい」
セラは少し大和を見てから、食器を並べ始めた。
大和はソファに座った。マフラーを外した。コートを脱いだ。
セラが向かいに座った。
「お仕事が長引かれましたか」
「いや……会社の帰りに、高校の同級生に会った」
「そうですか」
「……少し飲んだ」
「そうですか」
それ以上は聞かれなかった。
大和は冷えた味噌汁を一口飲んだ。
「……久しぶりに会ったよ。老けたって言われた」
セラは箸を止めた。
「三十一だぞって言ったら、もうちょっと若くいろよって言われた」
「……そうですか」
「……まあ、三十四だもんな。俺」
セラはしばらく黙って。
「……シノミヤ様は」
静かに言葉にした。
「三十一です」
「
大和は少し止まった。
セラはそれ以上言わなかった。大和も何も言わなかった。
ただ、その言葉が、静かに胸の中に落ちた。
大和は冷えた煮物を口に運んだ。
――悪くなかった。
*
食事を終えて、大和がソファに座ると、セラは洗い物を始めた。
水の音が、規則正しく聞こえてくる。
大和はマフラーを手に取った。グレーのウールのマフラー。
外で待っていた。一時間、外で。職務だから、と言った。
職務だとしても、一時間も真冬の夜に外で待つのは寒かったのは想像に難くない。けれどそういうことをセラは言わない。言わないだけだ。
彼女は「この国では、三十一です」と言ってくれた。
大和が何を抱えているか、セラはある程度知っている。三年間、傍にいたのだから。この国の時間と、大和の体が抱える時間が違うことも、わかっているだろう。
それを「この国では」という三文字で包んだ。
「セラさん」
「はい」
「今日、外で待たせてごめん」
水の音が、少し止まった。
「職務ですので」
「それでも」
セラはしばらく黙っていた。
「……次からは、中で待ちます」
大和は少し笑った。
「うん」
水の音が、また始まった。
窓の外で、風が鳴っている。花瓶のスターチスが、灯りの下で静かに立っている。
久保に「老けたな」と言われたことはしばらく覚えているだろうと思った。
でもそれより――外階段の下に立っていたセラの姿の方が、たぶんもっと長く記憶に残るのは間違いない。
マフラーをソファに置いた。
今夜も、眠れる気がした。