「忘れ物」   作:落那ユメ

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少々、忙しくしておりました。再開します


第九話「三年分の嘘」

 その日、大和は定時に会社を出た。

 残業がなかったわけではない。やろうと思えばやれることはあったし、いつもならそうしていた。

 田辺部長に「今日は早く上がれ」と言われ、素直に従った。それだけの話だ。

 

 エレベーターを降りてビルを出ると、十二月の夜風が顔に当たった。まだ七時前だ。この時間に外に出るのは、少し久しぶりな気がした。

 駅に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。

 

「……篠宮? やっぱ篠宮だよな!?」

 

 どこか聞き覚えのある声。振り返ると、どこか見覚えのある面影のある男性が立っていた。

 三秒ほどかかって、記憶の奥底から彼の名前を引っ張り出す。

 

「……久保か」

「やっぱり篠宮だ! いやー、なんか雰囲気変わったから一瞬わからなかったわ。つか老けたな!」

 

 久保誠。高校の同級生だ。同じクラスだった時期もありほどほどの付き合いはあったが、卒業後は別々の大学に進んでそれきりだった。

 

「久保こそ」

「俺は老けてないよ!」

 

 久保は笑いながら言った。

 

「いやでも、篠宮――なんか、苦労したんだなって感じがするよ。あ、勿論いい意味でだぞ?」

 

 大和は曖昧に笑った。

 

「そうかな」

「そうだよ。なんか……顔に厚みが出たというか。俺たちまだ三十一だぞ? もうちょっと若くいようぜ、なぁ?」

 

 三十一。

 そうだ、大和は三十一だ。三十一のはずだ。()()()()()()()()、まだ三十一だ。

 

「……まあ、色々あってな」

「色々、ねぇ」

 

久保はそれ以上追及しなかった。

 

「篠宮はこの後暇? 折角なら近場で飯でも食べね? 俺もちょうど一人だったんだよ」

 

  *

 

 久保がその場でスマホで検索して見つけた、大通りから一本奥まったところに店を構える小さな居酒屋。

 客はあまりいなかった。予約もなしに入店して、座席に通されて。

 久保はよく喋った。大学時代の話、今の仕事の話、結婚の話、子供の話。二年前に結婚して、来年子供が生まれるのだと嬉しそうに話しているのを、大和は相槌を打ちながら聞いていた。

 ビールを飲みながら思いを巡らせる。

 久保は、この国の時間の中できちんと久保の人生を積み重ねていた。一度の途切れもない人生の流れだ。

 けれど大和は違う。三年分のこの世界の誰とも共有できない時間が大和の中にある。異世界で過ごした三年間。魔王を倒した三年間。誰にも話せない三年間。

 

「篠宮はどうなの。結婚は」

「してない」

「彼女は」

「いない」

「仕事は」

「まあ、やれてる」

 

 久保は苦笑いを浮かべている。

 

「それだけかよ、いや、お前らしいと言えばお前らしいけどさ」

「それだけだが」

「かーっ、楽しいとか、充実してるとか、そういう話の一つや二つねえのかよ」

 

 大和はビールを一口飲んだ。

 楽しいか。充実しているか。

 答えが、すぐに出なかった。

 

「うん……まあ、やれてるよ」

「さっきも言ったじゃん、それ」

「そうだっけ」

「高校の頃からそういうとこあったよな、お前。聞いても『別に』か『大丈夫』しか返ってこないっていう」

「そうだった……か?」

「そうだったよ。俺、一回だけ篠宮に本気で悩み相談したことあったの覚えてる?」

「覚えてない」

「だろうな」

 

久保は笑いながら言った。顔が赤い。随分と酒が回っているのだろう。

 

「部活のことでさ。辞めようか迷ってて。そしたら篠宮、『辞めてどうなるの』って聞いてきたんだよ。アドバイスでも慰めでもなく、ただそれだけ」

「……それで?」

「それで俺、なんか考えてたら自分で答え出した。篠宮が聞いてくれたおかげだと思ってたけど、篠宮は何も考えてなかったんだろうなって今はわかるよ」

 

 大和は少し黙った。

 

「……考えてたよ」

「え、マジで?」

「辞めてどうするかを、考えてもらいたかった」

 

 久保は少し驚いた顔をして、それからまた笑った。

 

「なんだ、ちゃんと考えてたじゃないか」

「でも、覚えてなかった」

「思い出せたならそれでいいんじゃね? 今聞いてよかったわ」

 

久保はビールを飲んだ。

 

「けど、話してて思うけど、少し変わったな、篠宮。あーいや、悪い意味じゃなくて……落ち着いた? って言えばいいの? まあ苦労してたんだろうなって感じがするよ。顔だけじゃなくて」

 

 大和は何も言わなかった。

 苦労した。三年間という長い年月。でもそれを久保に話すことはできない。できるわけがなかった。

 

「まあ……色々あって、な」

「それしか言わねえじゃん」

 

久保は笑った。

 

「まあいいや。また飲もう。連絡先、変わってないか?」

「変わってない」

「じゃあまた連絡するよ」

「ん」

 

 大和はもう一杯ビールを頼んだ。

 

  *

 

 久保と別れたのは、九時を過ぎた頃だった。

 

 外に出ると、風が冷たかった。マフラーを巻いていてよかった、グレーのウールのマフラーに若干顔を埋める。

 駅に向かって歩きながら、大和は少し頭の中を整理した。

 

――老けたな、と久保は言っていた。苦労したんだなって感じがする、とも。

 

 三年分余分に歳を取っている。異世界で過ごした三年間という、この世界の誰とも共有できない時間。その積み重ねが顔に出ているなら、きっと同じことは言われ続けるのだろう、気にしても仕方がない話だ。

 

――楽しいか、充実しているか。

 

 答えが出なかった久保からの問いを思い返す。

 やれてるとしか言えなかった。高校の頃から変わっていないという久保の言葉はきっと正しい。大丈夫、別に、やれてる――それしか返せない人間だ。高校でも、異世界でもそうだった。

 異世界から戻ってきて三ヶ月、毎日仕事に行って、帰ってきて、飯を食って、寝て。そんな生活が果たして充実しているかどうか、考えたことがなかった。

 ……それでも。帰る場所がある。出汁の匂いがする。灯りがついている。楽しいとか充実しているとかとは違う何かは確かにある。それを何と呼べばいいのか、まだわからなかった。

 ただ――足が、少し速くなった。

 

  *

 

 アパートの路地に入ったとき、大和は足を止めた。

 外階段の下に、人影があった。

 セラだった。

 メイド服の上に、クリーム色のマフラーを巻いている。両手を前で重ねて、背筋を伸ばして。ただそこに立っていた。アパートに近づいてくる足音に気付いて顔を上げた彼女と目線が合う。

 

「シノミヤ様」

「……何してるの、外で」

「お帰りをお待ちしておりました」

「なんで外で待ってるの」

「いつもより帰りが遅かったですので」

 

 一瞬、呼吸が止まるような感覚に陥った。

 セラはスマホを持っていない。大和が連絡する手段がなかった。遅くなると伝える方法がなかった。

 どのくらい待っていたのだろう。風が冷たい真冬の夜に外で。

 

「……ごめん、連絡できなかった」

「お気になさらないでください、職務ですので」

 

 セラはそう言って、大和のビジネスバッグを受け取って歩き出す。その背を追いかけ、横に並ぶ。

 

「……どのくらい待ってた?」

「一時間ほどかと」

 

 ほろ酔い程度だった酔いが急速に冷めていく。

 

「……セラさん、次からは中で待ってて」

「しかし、いつ戻られるかわかりませんでしたので」

「中で待ってて」

「……わかりました」

 

 少し強めに言った言葉にセラは少し間を置いてから答えて。

 みしりと鳴く階段を、二人で上がった。

 

  *

 

 部屋に入ると、夕食が用意されていた。

 すでに冷めていた。大和が帰ってくる時間を見越して作ったのだろう。一時間前に。

 

「温め直します」

「いい、このままで」

「でも」

「このままでいい」

 

 セラは少し大和を見てから、食器を並べ始めた。

 大和はソファに座った。マフラーを外した。コートを脱いだ。

 セラが向かいに座った。

 

「お仕事が長引かれましたか」

「いや……会社の帰りに、高校の同級生に会った」

「そうですか」

「……少し飲んだ」

「そうですか」

 

 それ以上は聞かれなかった。

 大和は冷えた味噌汁を一口飲んだ。

 

「……久しぶりに会ったよ。老けたって言われた」

 

 セラは箸を止めた。

 

「三十一だぞって言ったら、もうちょっと若くいろよって言われた」

「……そうですか」

「……まあ、三十四だもんな。俺」

 

 セラはしばらく黙って。

 

「……シノミヤ様は」

 

 静かに言葉にした。

 

「三十一です」

()()()()()三十一です」

 

 大和は少し止まった。

 セラはそれ以上言わなかった。大和も何も言わなかった。

 ただ、その言葉が、静かに胸の中に落ちた。

 大和は冷えた煮物を口に運んだ。

 

――悪くなかった。

 

  *

 

 食事を終えて、大和がソファに座ると、セラは洗い物を始めた。

 水の音が、規則正しく聞こえてくる。

 大和はマフラーを手に取った。グレーのウールのマフラー。

 外で待っていた。一時間、外で。職務だから、と言った。

 職務だとしても、一時間も真冬の夜に外で待つのは寒かったのは想像に難くない。けれどそういうことをセラは言わない。言わないだけだ。

 彼女は「この国では、三十一です」と言ってくれた。

 大和が何を抱えているか、セラはある程度知っている。三年間、傍にいたのだから。この国の時間と、大和の体が抱える時間が違うことも、わかっているだろう。

 それを「この国では」という三文字で包んだ。

 

「セラさん」

「はい」

「今日、外で待たせてごめん」

 

 水の音が、少し止まった。

 

「職務ですので」

「それでも」

 

 セラはしばらく黙っていた。

 

「……次からは、中で待ちます」

 

 大和は少し笑った。

 

「うん」

 

 水の音が、また始まった。

 窓の外で、風が鳴っている。花瓶のスターチスが、灯りの下で静かに立っている。

 久保に「老けたな」と言われたことはしばらく覚えているだろうと思った。

 でもそれより――外階段の下に立っていたセラの姿の方が、たぶんもっと長く記憶に残るのは間違いない。

 マフラーをソファに置いた。

 今夜も、眠れる気がした。

 

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