気が付けば私はそこにいた。
身に着けた服は上から下まで白色だった。
だった。そう、私の脛の辺りまでは白色だった。
そこから下は赤い水に浸かっていて見ることはできない。
赤い水は前後左右、遠く地の先まであり、私と赤い水以外は無かった。
血だな。
何故か、そう判断できた。
一歩足が動く。
私の意思では無い。勝手に足が血海を進む。
百歩歩くと、血の海に浮かぶモノが在った。
人だった。
男の死体だと判断できた。
動かず、半身が血の海に沈んでも動かぬ姿はまさしく、意思無き肉と骨の塊だ。
そして、その死体には数多の傷が在った。
傷を見るに、刃物によるものだ。
何度も何度も何度も、斬って突いて刺して、この男が死んだ後もそうしたのだろう。
裂傷は皮膚を剥ぎ、肉と内臓を露出させている。
不快な気持ちが無かった。私は死体を見た感想は一つだけ。
その裂傷の跡はとても綺麗だった。
私の足は、再び勝手に動き出すと、死体の横を通り過ぎて地平へと進み始めた。
「人生……いや、亡霊生、初の寝起きだ」
ん? 待て待て、既に死んでるのだから生ではないな。亡霊死? それでは亡霊としても死んでるように思えてしまうのではないか? ……亡霊生でよいか。
少しばかりくだらない事を考えつつ寝ている体を起こすと、体に掛かっていた布団が捲れる。
? はて、何か忘れているような? もしや、夢でも見たか?
頭の中で何か引っかかる感じがするが、思い出す事は出来ない。
まあ、いいか。そう思い、私は周囲を見回した。
私が寝ている部屋は畳と白い壁の和室だった。
畳の匂いが鼻孔を擽った。昨日の甘ったるい匂いよりも遥かに心地よい薫りだ。
「あの女性が助けてくれたと言う事ならば、此処はあの女性の家……なのか?」
ならば、無暗に動くことは出来ない。恩人の家をうろつくのは流石に気が引ける。
そこまで考えて、はっ、として私は自分の胸元を開いた。
「痛みは……無いな」
よくわからぬ力を使い、その激痛によって私は気を失ったのだ。その痛みは心臓部から始まり、最終的に全身が激痛に呑まれていた。
それを忘れて、平然と起き上がっていた自分は、鈍感なのかそれとも寝起きでボケていたのか。
「あまり使いたくない力だ」
「起きていますか?」
私の右、障子の先から声がした。
「ああ、起きている」
障子が開き、入って気のは間違いなく私を助けてくれた女性だった。
「起きましたか。体の方は大丈夫でしょうか?」
「ああ、痛みも無い。体が軽くて宙に浮いてしまうそうだ」
「亡霊ですからね、浮くでしょう」
「亡霊だからな。……そうか、浮くのか」
考えてみれば、亡霊が歩いて移動しているのも変な話かもしれないな。
「ですが、昨夜は驚きました。まさか、邪仙と出会う事になるとは」
む、そうだった。この女性は私を助けてくれたのだ。
「昨夜は助けていただき、誠にありがとうございました。貴女がいなければ私が助かることは無かったでしょう」
正座をし、両手を膝の付近で合わせて深く頭を下げる。
頭上から少し慌てた声で女性は返答があった。
「い、いえ。礼には及びません。修行の身とはいえこれでも仙人の端くれ、邪仙を放って置く事が出来なかっただけですから」
「ですが、礼を言わせてください。ありがとうございます……えっと、あの」
そう言えば、この女性の名を聞いていなかった。
待て、こういう場合は私が名乗るべき……名前が無いのだったな。
「茨華仙。仙人修行中の身です」
「茨華仙殿で御座いますか。私は、生憎名乗る名は無く、今は、亡霊とお呼び下さい」
「華仙で良いですよ。では、此方からは亡霊殿と呼ばせて頂きます。亡霊殿、率直に聞きますが貴方とあの霍青娥との間に何が?」
私はその質問に頷き、昨日の青娥との出会いから茨華仙殿が助けに入るまでの事を出来るだけ丁寧に説明した。
何故か説明途中で、華仙殿が顔を真っ赤にして、何処かへ飛び出してしまった。
少ししたら、戻って来たのでまた話を始める。華仙殿の顔はまだ若干赤かったが。
「……と言う経緯です」
「そうですか。納得しましたよ」
華仙殿は既に元に戻っていた。少し、厳しい顔だがどうしたのだろう。
「私の説明が分かりにくかっただろうか? もっと詳しく説明できればいいのだが」
「いえ! しなくていいです。しなくてよろしい!! とても解りやすかったので、二度としないでください」
「分かった」
よかった。初めてだったがしっかり説明できたようだ。
「しかし、あの邪仙が興味を持つのが分かります。こうして見ても、怨霊などのように不快な感覚が無い。なによりも、私ですら、注意深く見ないと人との見分けが付かぬかもしれません」
「そのせいであれに目を付けられた訳か……」
もっと普通でありたい。ん? いやいや、この場合の普通ではこういう風に動ける保証は無いな。
「亡霊殿は、何故現世に留まっていのですか? あまり褒められる行為ではありませんよ?」
その目には警戒の色が薄らと見える。
確かに、死者が世に居る事は理が合わぬこと。
死者はあの世、生者はこの世、そうあるべきだ。
だが、
「華仙殿。私には未練があるのだ。それが何処にあるのかさっぱりわからぬが、確かにこの私を此処に存在させているのは、その未練なのだ。『護りたい』。生前の私が何を護りたかったのは解らぬ。しかし、その護りたかったのが誰だったのか、もしくは私は何故死んだのか。それを知るまでは成仏は出来ない。例え、迎えが来ようとも。済まぬ、華仙殿。未練が消えればすぐにでも消えることを約束する」
頭を下げる。先程とは違い、畳に頭を擦り付け私は必死に願った。
「亡霊殿……私は仙人であって死神ではありません。私が深く言う事はありません。しかし……」
「しかし……」
「人に害すれば、私が問答無用であの世へ送ります。そうでないなら私は何も言いません」
気を付けて下さいね。
華仙殿の言葉は何よりも私にとって有難いものであった。
「済みませぬ」
私は下げた頭を上げた。
目の前で私を見ている華仙殿。
そして、その後ろに鎌を構えた赤い髪の女性が居た。
反射的に華仙殿の頭を右手で掴み下へ。
だが、鎌は華仙殿では無く、真っ直ぐに私へ向かってくる。
私が華仙殿を置いて背後へ飛べば避けれただろう。
つまり、この赤髪の女性は私が華仙殿を庇う事を前提で鎌を振ったのだ。
鎌の切っ先は首筋へと一直線だが、此処で取られる毛頭は無い。
刈られるより先に頭を沈めることで鎌は間一髪頭上を通り過ぎた。
私が狙いならば、華仙殿を危険な目に合わせる訳にはいかない。
体を後方へ回し、華仙殿から離れる。
しかし、部屋は狭く壁にぶつかり動きが止まってしまった。
「ほら、行くよ」
声と同時に私は衝撃を受けて壁にぶつかり、一瞬の後壁が破砕。壁の破片ごと外へと投げ出された。
部屋が一階であったのが、幸いだった。地面を転がることで体への負担を軽減する。
「……参った。華仙殿へ弁償しなくては」
「おや、余裕だね」
破壊された壁から赤い髪の女性が出て来た。
鎌の柄を肩に乗せている姿は様になっていた。
「主は……」
「小野塚小町。死神さ」
簡素な説明だったが、分かりやすい。
「死神か」
「そうさ、魂を地獄へご案内ってね」
私は腰を落とし、構えた。
「生憎、まだそちらへ逝くわけにはいかぬ」
「お前さんの気持ちはどうでもいいさ」
鎌をこちらに向けた。話し合いは無理か。
隙を見せる訳にはいかない。
だが、
「いきなり何をしているんですか!!
怒気を含んだ声で、華仙殿が外へ出てきた。む、額が赤くなっている。私が畳へぶつけてしまっのかもしれぬ。後で謝罪しなければ。
「何って、死神らしく働いてんのよ。あー、あたいって真面目だねぇ」
「ふざけないで!! あなたはそもそも――――」
「なあ、亡霊さん。お前さんは何がしたいんだい?」
激昂状態の華仙殿を無視して私へ問いかけて来た。
「何、とは?」
「未練が本当に見つかると思ってんのかい? ってことさー。お前さんが死んだのが何時かは知らないよ。でもさ、五年? 十年? そんな短い日数じゃないだろう?」
「確かに」
「それでいて、護りたかった人を探す? とっくに死んでるだろうさ。つまり、やるだけ無駄ってことさ」
「……」
「それに、だ。万が一見つかったとしよう。お前さんの護りたかった奴は、自分を護れなかった奴が現れてなんてて思うかねぇ? お前さん、そいつと会って何をするんだい? 護れなくてごめんなさいって言って頭下げて、許しでも請いて、それで自分は満足成仏大団円? あっはっはっ!! ……くっっっだらねぇ、そんなくだらない事するならさっさと逝けってんだ」
その鋭い視線は、小野塚殿が持つ鎌以上に鋭く、言葉は私の心に衝撃を与えた。
「あなた!!」
華仙殿の諌める声が聞こえるが、私は既に小野塚殿の言葉に、気圧されていた。
小野塚殿が、流し目で華仙殿を見て、すぐに視線を私へ戻す。
「黙りな、悪いが仙人じゃなくてこの亡霊に聞いてんだから。自分の自己満足の為にお前さんは未練を探すのか? それでも結構、相手の事を一切考えない自己中心的な考え方はまさしく人間だ。でもね、こんなのが私でも稀に見る綺麗な魂だと思うと、泣けてくるよ。情けなくてね」
綺麗な魂。霍青娥も華仙殿も自分をそう例えた。だが、私はそんなに上等な者なのだろうか?
自分はそんな良い者では無い。本当に綺麗な魂ならば、そもそも未練など残しはしないと思うからだ。
「……正しい」
「ん?」
「小野塚殿の言葉は正しい。相手がどう思うかなど考えていなかった。私は自分の都合だけで行動していた。生前の未練がこうして強く残っているのなら、私は護れなかったのだろう。人か、妖怪か、災害か、それ以外の何かから……護れることなく死んだのだろう」
体が知る火への恐怖もまたそれが原因なのかもしれない。
「だったら――――」
「だが」
言葉を遮り、此方を見つめる小野塚殿を見返す。
「それでも、私は知りたい。そして、私が護れなかった人がいるのなら会いたい」
そうだ。そうでなくてはいけない。
「どんなことを言われるかは解らない。怒っているかもしれない。泣いているかもしれない。恨まれているかもしれない」
何故、私は覚えていないのだろうか。何処かの誰かに例え会えたとしても自分は覚えていないのだ。覚えていない、私がその人を見て何を想う? 何も想わないのではないか。
「それでも、会って頭を下げなければいけない。護ることが出来ず申し訳ありませんでしたと、謝らなければいけぬっ!! 例え、許されなくても、何を今さらと蔑まれても、殴られ蹴られようとも、私に何も言わずに消える選択肢は何処にも無いッ!! 自分自身が納得できぬから……それ以上にそんな不誠実なことはしたくないから」
何よりも会いたい。私は―――生達に会いたい。――――に会いたい。
何を言われようとも、もう一度会いたい!!
脳裏に一瞬だけ浮かぶ人影と、胸の奥から突如として泉の如く湧き出る感情を抑えて宣言した。
「死神殿、お引き取り願う。まだ私に其方へのお迎えは不要だ」
「……ほんと、自分勝手だねぇ。納得と不誠実かい」
小野塚殿は、思案顔をしながら鎌を手足の様に自由に振り回している。それが、不意に止まり、鎌の先端をこちらに向けた。
「ま、それはそれで人間らしい、か……。よし、合格!」
「は?」
突然、緊張の空気が作り出した本人より破壊された。
流石に私も意味が解らなかった。
「どういう事だ?」
「言葉通りさ。おーい、仙人。そろそろネタばらししようじゃないか。亡霊も困ってるよ」
華仙殿に親しそうに声を掛ける小野塚殿だが、そんな事態に私の思考は付いて行けない。
先程のまで華仙殿を襲っていた小野塚殿が軽く笑いながら、華仙殿に近づていく。
華仙殿は表情を顰めているが、ため息を一度すると顔から険しさが消えた。
「申し訳ありません。亡霊殿、実は少しばかり貴方を試していました」
此方へ歩み寄り、華仙殿は頭を下げた。
「試していた、とは?」
「亡霊って奴は厄介なものでね。人と見分けが殆どつかないんだ。特にお前さんはその中でも飛びっきりね。亡霊本人には解らないかもしれないけど、亡霊に触れているうちに死んでしまう事も珍しくない」
人差し指を立てた小野塚殿が説明してくれたが、私にとっては驚くべき事実だ。
死者が居る事は不味いと解っていたが、そこまでとは。今後一層自身の行動に注意するしなければならないな。
「特に恨み辛み持っている奴は厄介でね。死んだ後にその恨みが凄まじくて、祟りで雷落としたり、呪いの力で病気がグワーっと広がったりする」
「ですので、貴方がどういう者なのかを知りたかったのです」
「で、私が来た時に良い笑顔で迫られたのさ。手伝えって、こっちはただの船頭だっつーのに」
疲れたーと、ため息を吐いて小野塚殿は座り込む。
「では、あの奇襲も芝居?」
「貴方を試したことを深くお詫びします。しかし、ああでもしないと貴方の本質を見抜くことが出来なかった。危機に置いて、亡霊殿がどういう行動をするのか」
「そんな無茶な……。もし、私が華仙殿よりも逃げることを優先したならば」
「ああ、気にしなさんな。修行中でも仙人。あれくらいじゃ死なないよ」
それはそれでどうなのだろう。華仙殿が得意げな顔をしているが反応に困る。
「だが、お前さんはこの仙人を助けた。そして、己の未練を否定されても、開き直って言い返して来やがった。悪霊なら逆上して襲い掛かってくる所を、己の意思で答えた。まともな部類の亡霊ってことさ」
そう言って小野塚殿は立ち上がると、背を向けて歩き出した。
「ああ、そうだ。さっきのお前さんへの問いだが、口調は芝居でも質問自体は言葉通りだよ。このまま現世に留まってもお前さんへの願いが叶う保証は無い。それでも、お前さんは探すのかい?」
先程と違い、小野塚殿の口調は此方を気遣うような優しい声色での問いかけだった。
「ああ、私は探す。その道中でもしかしたら記憶が戻るかもしれない。もしかしたら会えるかもしれない。可能性が完全に無くなるまでは私は逝く気は無い。それまでは、閻魔殿への済まぬと、謝罪しておいて欲しい」
言うと、小野塚殿が吹き出して愛嬌良く笑った。
「ははは!! いい根性だねぇ、成仏した時は覚悟しときなよ? うちの閻魔様は……怖いぞぉ」
「あーあ、死神が亡霊見逃しちまったよ」