歓声が響く東京競バ場。コースは芝。距離2000メートルのG1レース。
千メートルの標識を57.4秒の高速ラップで先頭を駆けるウマ娘。
「後続のウマ娘達は、果たして捕まえる事が出来るのでしょうか!?」
場内の熱を更に煽る実況。異次元の逃亡者と揶揄されるその走りに誰もが夢中になった。
だが……
ジリリリリリ!
けたたましく鳴り響く目覚まし。ゆっくりと上体を起こしてボタンを押す。
(またか……)
簡素な部屋に目をやりながら、辺りを見渡す。
目はもう覚めきっている。だがその景色には何処か現実感が無い。
(もう六年になるのに……)
あの日からずっとこの調子だった。今まで他のウマ娘を担当して来たが、こんな朝がずっと続いていた。
見た者を夢中に落とし込むあの走りを。そして、その続きを。
人々がその先に夢を抱く中、自分だけはその悪夢の中から抜け出せていないのを感じていた。
――――昼
「私、もうトレーナーさんとは一緒にやって行けません」
昼休憩中、担当する左耳の大きな青いリボンが特徴的な深い鹿毛色の髪のウマ娘にそう告げられる。毅然とした態度の彼女の意思は堅く、説得は無駄だと物語っていた。
「分かった」
短く返したその言葉に、彼女の耳が絞られる。
「どうして……どうしてそうやって何時も物分りが良いのに私の言う事を聞いてくれないんですか!? G1レースに出してくれないし、その為の練習もさせてくれない! 結果だって私は出して来てるのに、いつもいつも無難な選択肢しか取ってくれない! 挑戦すらさせてくれない! どうしてですか!? 私じゃ駄目なんですか!? 私じゃG1を取れないってそう言いたいんですか!?」
捲し立てる彼女に視線を向けられずに落としてしまう。狭くなる視界の中で、激しく揺れる彼女の尻尾だけが目に入る。
「すまない。全部俺のせいだ」
「どうして何も答えてくれないの……。どうしてハッキリ言ってくれないの……。私じゃ勝てないって言ってくれれば、それでも私は頑張れるのに。信じさせてよトレーナー……」
「すまない。今の君なら、きっともっと良いトレーナーだって付くだろう。そこでならG1だって勝てる事は俺が保証する。でもこれが……俺の限界なんだ」
視界の端に雫が落ちるのが見える。最早何も見たくない。そう思って瞼を閉じる。
「……トレーナーの馬鹿」
潤んだ声と共に走り去って行く音が遠く離れて行く。
担当に愛想を尽かされてしまう。これもあの六年からずっと続いていた事だった。
ずっと担当する彼女たちの期待に応える事が出来てない。そしてずっとこんな別れ方をされている。
六年間続いている事で、最早数える事さえ出来ない別れを経験して来ていたが、分かっていたとしてもこの瞬間だけはずっと慣れる事が出来なかった。
――――夜
「はぁ……」
暗がりの夜更けにウッドチップコースの脇で一人溜め息をつく。
こんな日は一人で過ごしていたくなった。この時間、この場所には誰も来ない。
忙殺されそうな仕事の中で、ここでなら邪魔も無く物思いに耽る事が出来た。こんな日にはうって付けである。
【私じゃ駄目なんですか!?】
脳裏に響く昼間の彼女の声。いいや、今まで全員に同じ事を言われて来た。
トレーニングメニューを増やしてくれない。レースのローテーションに空きが有りすぎる。そして大きなレースに挑戦させてくれない……。
どれもこれも全く同じ事をずっと言われ続けて来た。
しかしその理由はハッキリとしていた。
脳裏に焼き付く“彼女”の走り。その呼び名通りの異次元の走りの印象は今もずっと鮮明に思い出せる。
それは決してその走りに魅了されただけでは無い。何よりも鮮明に刻まれているのは、東京の大欅を越えた時に崩れ落ちた彼女の姿だった。
彼女はウマ娘の限界を越えてしまった。そのスピードの向こう側に行ってしまった彼女はもう二度と走る事の出来ない身体になってしまった。
あんなに走るのが好きだった少女から一番大切なものを奪ってしまった罪を今も忘れる事が出来ない。そんな彼女の最後を他のウマ娘達に重ねてしまい、無理をさせる事が出来なくなってしまっていた。
「?」
ふと何かの物音に気が付く。
聞き慣れた音。細かく刻まれた木片を踏みしだく音が子気味良く近付いては去って行くのに気が付いた。
「まさか……」
嫌な予感を感じてコースに近付く。
すると……
「ハァッ……ハァッ……」
息遣いを聞いて確信する。こんな時間に誰かが走っている。
「何をやっているんだ!」
暗がりを駆ける人影に声を上げる。しかし返事は返って来ない。
居ても立ってもいられず、そのままコースへと入って行き、彼女の進路上に躍り出る。
「何!? 退いてよ!」
「!!」
その姿を見て驚愕した。汚れに塗れた深い鹿毛色の髪を肩まで伸ばした彼女の靴は、ボロボロで穴が空いていた。そしてその穴から覗く彼女の足は爪が割れて出血していたのだ。
「退いて! 走らせて!」
そう無理やり走り出そうとする彼女。だがそんな状態の彼女の言葉を受け入れる事など出来なかった。
「きゃっ!?」
彼女が短い悲鳴を上げる。しかし構わず彼女を横抱きにしてそのまま自室へと駆け込んで行った。
――――
「ッ!」
連れて来た時は暴れていたものの、次第に落ち着きを取り戻した彼女はこうして痛みに顔を歪めながらも足の処置を大人しく受けていた。
この時間に保健室に連れて行けば彼女は何かしらの罰則を受け、学園長やたずなさんに叱られてしまうだろう。そう思って無理やり連れて来たが、案外素直に従ってくれた。
彼女の足は爪が割ているだけでなく、足の裏の皮が所々剥けていた。時々オーバーワークしてしまうウマ娘は居たが、ここまでする子は見た事が無かった。
「何時から走ってたんだ?」
「……朝から」
気まずそうに彼女が応える。
「昼食も夕食も食べたわよ?」
そんな心配はしていないのだが、ふてぶてしく応える彼女に思わず溜め息が漏れてしまう。
「何でこんなになるまで走ってたんだ。そもそも同室は心配しなかったのか?」
「居ないのよ同室。私新入生とは別に最近編入されたから、新しい部屋を通されて同室が居ないの」
(そんな事あるんだな……)
何とも珍しい事例だと思いながらも改めてもう1つの疑問を彼女に問う。
「それで、何でここまでして走ってたんだ?」
「……………………」
沈黙して黙り込む彼女。しかし俯きながらもやがて口を開く。
「私他の子より走って無いから……」
「どうして?」
「昔膝が弱くて走れなくて、だから他の子達より走らなきゃ駄目だと思って……」
「そんな事したって、オーバーワークしたら怪我して余計に走れなくなるとは思わなかったのかい?」
「だって……」
と彼女は口を尖らせる。
先程簡単に抱き抱えて来れたように、彼女の身体は他のウマ娘達より比較的小さい。
しかし対照的に凛とした顔立ちから、彼女が中等部ではなく高等部の生徒であるのはすぐ分かった。
のだが。そんな彼女の表情や行動は子供のように幼い印象を受けてしまう。
時々居るのだ。こういう困ったウマ娘が。
――そう思いかけていた。
「?」
足の処置をしていてふと彼女の体が震えているのに気が付く。
「時々声がするの……」
「声?」
手を止めて彼女の言葉に耳を傾ける。
「どこの誰かも分からない……沢山の人々の声が聞こえて来る。私を押し潰すような沢山の声が言って来るの。お前は偉大なウマだ。勝て、走れって。ずっと、ずっと……」
顔を上げて彼女の顔を見る。
「……!」
思わず声にならない悲鳴を上げてしまう。
まるで彼女の瞳に吸い込まれそうだった。どこまでも澄んだ黒い瞳。だがその美しさにではない。
暗く、深淵のように覗き込むその瞳の闇が、こちらを飲み込もうとしているようで離さない。目が合っただけで、まるで背中から谷底に落とされたような気分になってしまった。
「走っている間なら、その声が聞こえない。だから私はあの声から逃げる為に走っているの。ずっと……ずっと……」
語る毎に彼女の闇が深まる。
闇に呑まれる。そう感じた時だった。
「……?」
ふと、何か光る物が見えた気がした。
光る蝶にも似たそれは、ヒラヒラと力無く何処かに飛んで行くのを視界が掠める。
それは彼女にも見えているようだった。
光を追うように逸らされた彼女の瞳が、部屋の中の何かに止まる。
「あれって?」
ふと彼女が尋ねて来る。
その視線を追ってから、ドクンと心臓が大きく脈打つ。
「ああ……」
答え辛く、思わず言葉を濁そうとしてしまう。
「あれ、宝塚記念の優勝レイよね。あなたの担当が勝ったのかしら?」
「昔の話だよ。もう六年も前だ」
「凄いじゃない! 聞かせて欲しいわ!」
先程と打って変わり、キラキラと輝く瞳を向けてくる彼女。
「ごめん、あまり話したくないんだ」
「あっ……」
と、彼女の表情が曇る。
「ごめんなさい……」
「良いんだ。君が謝るような事じゃない。それよりこれから寮に帰れるのか?」
「私の寮は特殊だから管理人は居ないけど……もう鍵は掛けられてるでしょうね」
「なら、君が良かったら今晩だけ泊まって行くといい。勿論、この事は口外しないという約束付きだけれど」
「なら、あなたの言葉に甘えようかしらね。今日泊めてもらっても良い?」
「ああ」
短い返事だけを返し、彼女は一晩泊まっていく事になった。
――――そして数ヶ月
それから何事も無く日が過ぎて行った。もしかしたら彼女を泊めた事が何処かに漏れて処罰されるかもしれない。そんな事に若干の不安を抱いていた。
だが一方で、それでも良いとも思っていた。最早自分にトレーナーを名乗る資格など遥か前から無かったのだから。いっそ、教え子を自室に招いたとして資格を剥奪されたいとすら思っていた。
それでも結局事は起きて居ない。ならばせめてトレーナーという職の責務くらいは果たさなければならない、と今日は模擬レースに顔を出していた。
「?」
それは偶然だった。
たまたま見知った顔が、ゲートの中へと納まって行く。
(彼女はあの時の……)
そして……
ガシャン!
ゲートが開く。
彼女のスタートは若干もたついたものになってしまった。しかしダッシュでどうにか先行勢に並走して行く。
だが初手で好位を取れなかった彼女はそのままバ群へと飲まれて行ってしまう。
(小さいな)
バ群に飲まれた彼女はその姿が殆ど見えなくなってしまう程に体が小さかった。
向こう正面。彼女は囲まれたまま第三コーナーを迎える。彼女は他のウマ娘達に囲まれて終わってしまうかに思えた。
「たあぁぁぁ!!」
気迫の声を上げたのは二番手を走るウマ娘。それに釣られるように先行勢が皆早めに仕掛ける。
後続は離されて先団と中団に差が生じた。彼女の姿はスパートをかける先団グループの最後方にある。
「な!?」
その瞬間その場に居たトレーナー全員が声を上げた。
ペースが上がって行く中、先団後方に居た彼女が外に持ち出し、楽な手応えで先行勢を撫で斬りにして行く。
そのまま四コーナーを抜け、直線入る頃には彼女は先頭に立っていた。
他のウマ娘達は最終直線に最後の力を振り絞ってスパートをかける。だが彼女はそんなものは全く気に止める事もなく、コーナーを抜けた時のスピードを維持したままトップでゴールを切った。
「むりー!」
コーナーでごぼう抜きにされたウマ娘達がそう声を上げてゴールして行く。
皆息も絶え絶えで、肩で息をする者やその場に倒れ込む者まで居た。
そんな中、彼女は涼しい顔のまま後方を一瞥するとコースを去って行く。
「何者なんだあの子……」
「レース後なのに息すらついてなかったぞ!?」
「それよりあのトップスピードだ。あの爆発力……上がり3ハロンを33秒くらいで駆けて行って無かったか?」
衝撃的なレースにトレーナー達のどよめきが収まらない。
そんな中自分だけが全く違う感想を抱いている事に気が付いた。
(怖い……)
彼女のあの走りは、どこか過去に重なるものがあった。
鮮烈なレース運びに、常識では考えられないスピード。まさに異次元のそれだ。
だが、それは本来ウマ娘が入ってはいけない領域なのだ。デビュー前にして、既に彼女はその手前に踏み込むレベルに到達してしまっている。
「ねえあなた!」
と、女性トレーナーが彼女に声をかけているのが耳に入って来た。
「是非あなたを担当させて頂けないかしら!?」
輝く瞳で告げる女性。
「是非僕も君を担当したいんだ、どうかな!」
「うちにも是非どうかな!? うちは他の子も担当してるから並走なんかも出来るし!」
「俺なんて、君を担当出来たら他の子の担当を降りるくらいの覚悟で挑むよ!」
と、先程のレースが与えたインパクトに数々のトレーナー達が彼女へと集まって行く。
そんな中、彼女が声を発した。
「この中で、担当がグランプリレースを勝った人は居ますか?」
彼女のその一言に皆黙り込んでしまう。
しかしそんな沈黙を果敢にも破るトレーナーが一人。
「う、うちはグランプリは勝ったこと無いけど重賞レースは何回も勝ってるよ? G1だって1度だけなら獲ってるし」
「でもグランプリレース……有マや宝塚は勝ってないんですよね」
「そ、それは……」
「あのね、あまり強く言いたくないけどG1なんて本当に限られた子しか穫れないのよ? そんな中、グランプリレースなんて出走する事すら難しいのに、そんなトレーナー殆ど居ないわよ? だからね、まずは私と始めましょう? 私ならあなたにG1だってグランプリだって獲らせてあげられるわ」
「駄目よ」
と、場の空気が変わる。
「!?」
胸を鷲掴みにされるような空気。それは以前にも味わった気分だった。
「それじゃ駄目なの。私はみんなの期待に応えなくちゃいけないの。みんなが……そんなんじゃみんなが納得しない。私は、私は絶対に勝たなくちゃいけないの。じゃないと……じゃないと私」
深淵のような深い闇がトレーナー達を一瞥する。
するとトレーナー達は皆たじろいでしまう。中には腰を抜かして尻餅をつく者まで居た。
「い、言い過ぎたわね。ごめんなさいしつこく迫り過ぎたわ。スカウトは日を改めてするわ」
「ぼ、僕も他の子の面倒見ないと。ごめんね、気が変わったらまた声をかけてね」
皆口々にそう告げて彼女のもとを去って行く。
恐らくは彼女も気が付いているだろう。もう誰も彼女にスカウトの声を掛ける事は無いと。
「?」
と、一瞬だけ彼女と目が合う。
しかし何も告げる事は無く、彼女はその場を後にした。
――――夕刻
「ハッ……ハッ……」
短く呼吸をしながら彼女は今日もウッドチップコースを走っていた。
「また走り続けてるのか?」
コース脇から彼女に声を掛ける。すると今日の彼女は素直に足を止めてコチラを見た。
「なに、あなたに関係ないでしょ?」
「関係あるさ。この学園の職員として、ここの生徒には無茶をさせられない」
「私の担当を名乗り出なかったのに、良く言うわ」
(やっぱり気のせいじゃなかったのか……)
グランプリレースの名まで出したのに、何故名乗り出て来ないんだ。あの一瞬の目はそう語っていた。
だがそれには理由があった。
「君は歴史に名を刻む様な、偉大なウマ娘の必要な条件は何だか分かるか?」
「何よ急に」
「いいから。君が望む最高のウマ娘の理想像を聞かせてくれ」
「…………」
彼女はしばらく押し黙る。そして目を瞑り、顎に手を添えてじっくりと考えた末に答えた。
「皆に認められる事よ。その為には絶対に負けない強さを持ち、誰にも追い付けないスピードで走り、見た者の心を離さない完璧なライブをする。それが私の望む理想像であり、偉大なウマ娘に必要不可欠なものだと思っているわ」
「そうか……それが君の理想か」
「それが何よ。普通の事でしょう?」
「それなら君は俺の担当するウマ娘として不適切だ」
「な!? ハッキリ言うわね。どうしてよ、そこまで言うなら理由を聞かせなさい!?」
耳を逆立て尻尾を振り回して憤る彼女に告げる。
「偉大なウマ娘に不可欠な事。それは“絶対に怪我をしない事だ”」
「!」
それを告げた瞬間彼女は目を見開き、激しく揺れていた尻尾が垂れる。
「君の走りは素晴らしいよ。過去に見た事が無いくらいい強烈な印象を受けた。恐らくは今のまま戦っても君はG1を勝ててしまうくらい強いだろう。けどそれじゃ駄目なんだ」
「何が駄目なの?」
「このまま行けば君は自分が壊れるまで追い込んでしまう。今も、いや今までずっとこんな無茶なトレーニングを続けて来たんだろう? そうじゃなきゃ君のその異常な心肺機能の説明がつかない。皆君の末脚にばかり注目していたが、君の強さの秘密はその爆発的な瞬発力を維持したまま走れるスタミナにある」
「…………」
彼女は何も答えない。それは肯定を意味していた。
「けどそれは危険なんだ。そのスピードはやがてウマ娘の限界を越えてしまう。そしたら君は……」
その先を口にする勇気は持てなかった。
「言ってよ」
しかし彼女は沈黙を許さない。続きを促す瞳は強い意志を帯びていた。
「昔担当していたウマ娘が居た。彼女は宝塚記念を影すら踏ませぬ圧倒的な強さで勝った。そして同年の天皇賞・秋で彼女は1000メートルを57秒台で走る高速ラップを刻んだ。けれど、彼女がその先の大欅を越えた瞬間だった。彼女は突然の勢いを落とした」
【故障です! どうやら故障発生!】
どよめきの中で響き渡る実況が脳裏を過ぎる。過去に自分が目にした目の前の光景が、今も瞼の裏に焼き付いていた。
「誰の目にも明らかな異常だった。そのまま彼女はレースを中断してすぐさま病院に搬送された。彼女は……左足を粉砕骨折していた」
「!!」
その言葉に彼女は目を見開いて息を飲む。
だがそんなのは関係無かった。記憶と共に、抑えていた感情が溢れ出す。
「あの子は走るのが大好きだった。もっと速く走りたい、ターフを自由に駆けたいと常に願っていた。けれど俺が……それを奪ったんだ」
涙が溢れて止まらない。情けない大人の姿を、幼い少女の前で晒してしまっている自覚はある。それでも、彼女と過ごした日々が瞼の裏に浮かんで仕方なかった。
「あなたはその子とちゃんと向き合ったの?」
「え?」
顔を上げると、力強い瞳がコチラを見つめていた。
「最後のレースが終わった後にちょっとは話せたんじゃないの?」
「いいや……」
あの後彼女はしばらく意識を失ってしまっていた。それから目を覚まさないんじゃないかと、怖くて彼女の元に訪れる事が出来なかった。それから彼女が目覚めたと聞いた後も、ずっと怖くて会うことは叶わなかった。いいや、そもそも顔を合わせる資格なんて無いとすら思っていた。
「あなたのせいかどうかなんて、本人に聞かないのにどうして分かるのよ」
「それは……」
「その子はあなたのお陰で走れたんじゃないの?」
ハッとさせられる。そうだ、今まで彼女の本当の気持ちを直接確かめた事など無かった。
「ははは……」
思わず乾いた笑いが漏れてしまう。
「そんな単純な事に今まで気が付かなったなんて……俺はやっぱりトレーナー失格だな」
吹っ切れた気分だった。もう何もかもを投げ出したい。そんな気分にさせられる。
しかし
「私なら超えられるわ」
力強く、真っ直ぐと彼女は言い放つ。
「その子が超えられなかった向こう側に、私ならあなたを連れて行ける」
そう言って彼女は手を差し出して来る。
「だから私のトレーナーになって」
遠回しな表現を捨て、彼女は直接的な言葉を投げ掛けて来る。だが
「ごめん……」
その手を取る事は出来なかった。
「怖いんだ。あれ以降、G1に挑む勇気が無い。だから俺は君の希望に添えるトレーナーにはなれない」
そう告げると、彼女は手を引く。するとその手を腰に置き「ハァ」と溜め息を一つつく。
「仕方ないわね。この手は使いたく無かったけれど……」
「だから俺は君のトレーナーには――」
「言うわよ」
「何を?」
「夜中に部屋に連れ込まれて、押し倒されたって言うわよ?」
「!!!?」
その発言に思わず動揺してしまう。夜中に部屋に通した事を譴責される覚悟はあったが、押し倒されたなんて話をされたからにはその限りではない。トレセン学園どころか社会から追い出されてしまう。
「反則だろそんなの!?」
「聞き分けが無いあなたが悪いのよ。この私がお願いしてるんだから二つ返事で了承しなさいよ」
「はぁ……」
彼女の強引さには敵いそうにない。そもそも衝動的であったにしてもそんな行動を取ってしまった自分の責任なのだから彼女を咎めきれない。もう諦めるしか無かった。
そんなやり取りをしているうちに夕日は沈んでいた。赤みを帯びた空に点々と星が浮び始める。
「君名前を聞かせてくれないか」
「今更ね」
「担当するんだから、名前を聞かせてくれ」
その言葉に彼女が驚いて見せるも、決意を決めた表情でその名を告げた。
「ディープインパクト」
「なるほど……」
と、思わず笑ってしまう。
名は体を表すと言う。どうりでこうも衝撃的な印象ばかり与えて来る訳だ。
「失礼ね、人の名前を笑うなんて」
「いや悪かったよ。笑うつもりは無かった。けど君を著すにはこの上無く似合った良い名前だ」
そう告げると、彼女は耳を垂らして若干照れた表情を浮かべる。
「けど、君に似て横柄な名前だ。何より呼び辛い。だから君の事は“プイ”と呼ぶ事にする。それに納得できるなら、君の担当を引き受けても良い」
「仕方ないわね。同意するわ。これからよろしくね、トレーナー」
「ああ、よろしくプイ」
茜空の明星が二人を照した。
悪夢を抜け、夢が走り出す。
今日から、ここから。