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冬の夜の静寂を切り裂くように、その少女は現れた。
新都、冬木大橋へと続く交差点。
街灯の光が届かない闇の向こうから、鈴を転がすような、幼くも残酷な声が響く。
「――こんばんは、お兄ちゃん」
衛宮士郎の隣で、セイバーが即座に不可視の剣を構えた。
現れたのは、雪のように白い髪を持つ幼い少女。
アインツベルンの名を冠する「小聖杯」、イリヤスフィール。
だが、セイバーの「直感」が警告を発したのは、その少女に対してだけではなかった。
イリヤの背後、一歩引いた影の中に、もう一人の人影が立っていた。
「…あら。お姉様の挨拶を無視するなんて、感心しませんね」
影が、ゆっくりと光の下へ歩み出る。
士郎は息を呑んだ。
現れたのは、イリヤと同じ銀髪を持ちながらも、代行者を思わせる機能美に満ちた白銀の戦装束を纏った少女。
年の頃は士郎と同じか、あるいは少し上。端正な顔立ちは、かつて第四次聖杯戦争を戦った「アイリスフィール」の面影を強く残していた。
「サーヴァント…じゃない? 人間か、それとも――」
士郎の問いに、その少女――エリスフィールは、完璧な角度のカーテシーで応えた。
指先一つ、スカートの揺れ一つに至るまで、アインツベルンの千年の執念が結晶化したような、病的なまでに優雅な所作。
「私はエリスフィール。お姉様の護衛(スペア)にして、アインツベルンの汚れ仕事を一手に引き受ける『掃除屋』です。以後、お見知りおきを、お兄様」
(…ったく、吐き気がする。この言い回し、このドレスの感触。じい様の洗脳プロトコールってのは、本当に趣味が悪い)
その内側で、前世――「男」であった魂が毒づく。
だが、その毒とは裏腹に、彼女の48本の魔術回路は、戦闘開始の合図を冷徹に告げていた。
「エリス、やっておしまい。バーサーカーが手を出すまでもないわ」
「御意のままに、マ・スール(お姉様)」
刹那、空気が爆ぜた。
「速い…ッ!」
セイバーの叫びと同時に、エリスの姿が消える。
魔力による強化ではない。
ホムンクルスとしての純粋な筋力と、一切の予備動作を排除した「殺しの歩法」。
それは、数多の修羅場を潜り抜けた代行者ですら到達し得ない、純粋な暴力の極致。
ガギィィィィン!!
火花が散る。
エリスが振るったのは、実体のない白銀の魔力の弦。それがセイバーの不可視の剣と正面から衝突し、周囲のアスファルトを木っ端微塵に砕き散らした。
「…信じられぬ! 身体能力だけで、サーヴァントと打ち合うというのか…!?」
驚愕に目を見開くセイバーを、エリスは冷めた黄金の瞳で射抜く。
特性【運命】の自動発動。
エリスの視界には、セイバーが次に繰り出す斬撃の軌跡が、金色の残光としてあらかじめ焼き付いている。
(悪いな、セイバー。アンタがこの後、どれだけ苦悩して、どれだけ尊い選択をするか、俺は全部知ってる。…だからこそ、ここで死なせるわけにはいかないんだ)
「無駄ですよ。貴方の剣が私を捉える『運命』は、この戦場には一分(いちぶ)も存在しない」
エリスは流れるような動作で剣筋を回避し、がら空きになったセイバーの胴へ、掌打を叩き込む。
それは魔術師の戦いではない。
一人の戦士としての、泥臭く、それでいて神速の「詰め」だった。
吹き飛ぶセイバーを横目に、エリスは士郎へと視線を移した。
その瞳の奥には、アハト翁の洗脳でも、ホムンクルスの使命でもない、前世の男としての「諦念」と、わずかばかりの「期待」が同居していた。
「さて…衛宮士郎。貴方の『正義』がどれほどのものか、まずはその身を削って、私に証明してみせなさい」
銀髪を夜風に靡かせ、エリスは再び地を蹴った。
それが、冬木の運命を、そして彼女自身の五年を賭けた、地獄のような聖杯戦争の幕開けだった。
「…何をしているんです、士郎。その程度ですか?」
エリスの冷徹な声が、夜の住宅街に響く。
彼女が振るう白銀の弦は、士郎の肩を、脚を、まるで外科手術のような正確さで浅く刻んでいた。
致命傷は避けている。だが、その一撃一撃には「戦う意志のない者は死ね」という冷酷なまでの選別が込められていた。
「が…っ、あ…!」
士郎は震える手で強化された木刀を構え直すが、膝が笑っている。
セイバーはバーサーカーに釘付けにされ、救援は絶望的だ。
「無意味な抵抗はやめなさい。貴方の積み上げた付け焼き刃の魔術など、私という『完成品』の前では塵に等しい。…貴方はここで、お姉様に跪き、その命を供じる。それが、この場に編まれた唯一の正解です」
エリスは流麗な動作で間合いを詰め、士郎の胸元を狙って掌を繰り出した。
アインツベルンの流儀に従うなら、ここで彼の肋骨を一本残らず砕き、戦意を完全に喪失させるのが「正解」だった。
だが。
「…る…せ…」
「何です?」
「…守るって…決めたんだ…! イリヤを…アイツを、一人にするもんか…!」
士郎が、血反吐を吐きながらも、エリスの瞳を真っ向から見据えた。
その、あまりにも馬鹿正直で、後先を考えない「正義の味方」の眼。
その瞬間、エリスの脳内に、アハト翁の不快な愚痴がフラッシュバックした。
『――衛宮の男はいつもそうだ。理屈に合わぬ夢を追い、我らの理を乱す…』
(…ああ、そうだよ。じい様の言う通りだ。こいつは救いようのない馬鹿だ)
エリスの動きが、一瞬だけ止まる。
(だが…俺が前世で、この『Fate』って物語を好きになったのは…この、救いようのない馬鹿を見たからじゃなかったか…?)
回路が加熱する。
洗脳が命じる「冷徹な処刑」と、前世から魂が叫ぶ「共感」が衝突し、彼女の制御を内側から食い破った。
「――ッ! あ、あああああああ!!」
エリスは叫び、掌打の軌道を強引に逸らした。
空を切った衝撃波が、士郎の真後ろにある石壁を粉々に粉砕する。
「エ、エリス…?」
呆然とする士郎の前で、エリスは荒い呼吸を繰り返した。
その顔からは、あの完璧な「人形の微笑」が剥がれ落ち、代わりに剥き出しの、酷く苦々しい男の表情が浮かび上がっていた。
「…チッ、やってらんねぇよ…!」
「えっ…?」
士郎が耳を疑う。
今、彼女の口から出たのは、淑やかな令嬢の言葉ではなく、どこかぶっきらぼうな青年の吐き捨てだった。
エリスは乱暴に自分の前髪を掻き上げ、士郎に背を向ける。
「…おい、衛宮士郎。二度と言わねえからよく聞け。お前が死ねば、イリヤ姉様がどれだけ悲しむか、少しはその足りない頭で考えやがれ…です!」
語尾だけを無理やり敬語に押し戻すが、もはや手遅れだった。
エリスは拳を握りしめ、天を仰ぐ。
(…やらかした。完璧に地が出た。じい様が見てたら卒倒して死ぬだろうな。…まあ、死ねばいいんだけどさ)
「エリス? どうしたの、急に手を止めて…」
不審そうに歩み寄るイリヤに対し、エリスは即座に仮面を再構築しようと試みる。
「…申し訳ありません、お姉様。…少し、この男のあまりの無様さに、当家の回路が拒絶反応を起こしたようです。仕留める価値もありません」
そう言って深々と頭を下げるエリスの耳元は、屈辱か、それとも照れ隠しか、わずかに赤く染まっていた。
士郎だけは、その瞬間の彼女の瞳に――自分と同じ、どうしようもないほどの「人間臭さ」を見ていた。
冬木の森、アインツベルンの城は、正体不明の「黒い影」に呑み込まれようとしていた。
「エリス、どうしましょう…! 城が、じい様の作ったお城が…っ!」
怯えるイリヤを、エリスは片腕で抱き寄せ、もう一方の手で白銀の弦を振るい、迫りくる影の末端を浄化し続けていた。
(…クソ、計算が早すぎる。間桐の爺か、それとも言峰か。どっちにしろ、このままじゃイリヤ姉様が汚染される。拠点を捨てるしかない)
回路が焼き切れるような高熱を発する中、エリスの脳内にアハト翁の通信が響く。
『エリスフィール! 何をしている、聖杯を、器を守れ! 逃げるなどアインツベルンの恥辱…!』
「――うるさいんだよ、クソじじい!!」
エリスは通信を物理的に遮断した。
プロトコールが「不敬である」と警告を発するが、知ったことではない。
今の彼女を突き動かしているのは、洗脳された使命感ではなく、前世から持ち越した「一人の男」としての決断だった。
「お姉様、失礼します…っ!」
エリスはイリヤを横抱きにすると、代行者顔負けの身体能力で城の窓を突き破り、冬の森へと跳んだ。
目指す先は、たった一つ。
(…不本意だが、あそこしかない。この状況で、イリヤを『人間』として匿える場所なんて――!)
衛宮邸・深夜
「――頼む、入れてくれ(・・・)!!」
深夜の静寂を切り裂いたのは、衛宮邸の門を叩く、悲痛な、そして酷く「男らしい」叫び声だった。
寝巻き姿で飛び出してきた士郎とセイバーの前に、ボロボロになったエリスと、その腕の中で眠りこけるイリヤがいた。
「エリスフィール!? それにイリヤ…どうしたんだ、その怪我!」
「…説明は後です、士郎。一晩…いや、事態が収束するまで、私たちをここに置け。…です!!」
プロトコールの修正に語尾修復が追いつかない。
エリスは肩で息をしながら、士郎の胸倉を掴むような勢いで詰め寄った。
「断るなら力ずくでも…と言いたいところですが。…頼みます。お姉様を、安全な場所に」
その瞳は、冷徹なホムンクルスのそれではなかった。
大切な家族を守るために、プライドも使命もかなぐり捨てた、一人の「男」の眼だった。
「…分かった。上がれよ、二人とも」
士郎のその言葉を聞いた瞬間、エリスの緊張の糸が切れた。
同時に、一時的に停止していた「アインツベルンの礼儀作法」が再起動する。
「…痛み入ります、衛宮士郎。貴方の寛大な処置に、アインツベルンを代表して…感謝を…」
優雅に頭を下げようとして、そのままエリスの膝が崩れた。
士郎が慌ててその肩を支える。
「おい、エリス!」
「…触るな、軟弱者が。…いえ、失礼。少し、回路がオーバーヒートしただけです。…それより、お姉様を、暖かい布団に…」
真っ赤な顔で士郎を突き放しつつも、彼女の意識は深い闇へと落ちていった。
目が覚めると、エリスは衛宮邸の居間にいた。
隣には、すっかりこの家に馴染んで士郎に我儘を言うイリヤ。
目の前には、不審そうな顔でこちらを見つめるセイバーと、おたまを持った士郎。
「…おはよう、エリス。気分はどうだ?」
「…最悪です。まさか、宿敵の家に身を寄せる羽目になるとは」
エリスは頭を押さえ、深いため息をついた。
(やってしまった。逃げ場所なんていくらでもあったはずなのに、無意識にここを選んじまった。…いや、違うな。俺が、ここなら『イリヤを救える』と知っていたからだ)
「エリス、顔が赤いわよ? まだ熱があるのかしら」
イリヤが心配そうに顔を覗き込んでくる。
エリスは反射的に、インストールされた完璧なメイドの顔を作った。
「いいえ、お姉様。…ただ、これからの『同居生活』を想像して、少し眩暈がしただけですわ」
こうして、銀髪の掃除屋と、正義の味方の、奇妙で「男臭い」共同生活が幕を開けた。