一夜が明け、居間の空気はまだ刺すような緊張感に包まれていました。
アインツベルンの城を追われ、泥を被り、満身創痍で士郎の元へ転がり込んだエリス。
朝食の準備を終え、誰もいない廊下で一息ついた彼女の前に、赤い私服を纏った遠坂凛が立ちはだかりました。
これが、二人が向き合う初めての瞬間でした。
「…少し、いいかしら。アインツベルンの『お人形さん』」
凛の言葉には、まだ隠しきれない警戒心と、魔術師としての鋭い観察眼が混じっていました。
エリスは乱れた銀髪を整え、インストールされた完璧な所作で一礼します。
「おはようございます、遠坂の当主。…私の顔に、何か『掃除』すべき汚れでも付いていますか?」
「皮肉はいいわよ。…あんた、昨夜士郎を助けた時、明らかにアインツベルンの魔術じゃないものを使ってたわね。それに、その話し方…さっきからプロトコールの語尾が、時々面白いことになってるじゃない」
凛は腕を組み、エリスの瞳の奥を覗き込むように詰め寄りました。
エリスはわずかに眉を潜めます。
(…チッ、鋭いな。さすがは遠坂だ。ボロを出さないようにプロトコールを全開にしてるつもりだが、魂の『俺』が漏れちまってるか)
「…何のことでしょう。私はただ、お姉様を守るために最適化された結果を提示しているに過ぎません」
「嘘ね。あんたの回路、あちこちが焼き付いてボロボロじゃない。…自分の寿命を前借りして戦うなんて、魔術師のやり方じゃないわ。それは、ただの…『お人好しの馬鹿』のやり方よ」
凛の言葉に、エリスはふっと、プロトコールの笑みではない、自嘲気味な笑みを漏らしました。
「…お人好し、ですか。…貴方に言われると、心外ですね。貴方も、昨日から士郎という『お荷物』を抱え込んで、随分と魔術師らしからぬお節介を焼いているように見えますが?」
「っ、それは…! 協力関係にあるんだから当然でしょ!」
「ふん。…いいですよ、遠坂。貴方のことは嫌いじゃありません。…前世でも、貴方はそういう、損な役回りを引き受ける人でしたから」
「…え? 今、なんて言ったの?」
凛が怪訝な顔をした瞬間、エリスは居住まいを正し、冷徹な「掃除屋」の顔に戻りました。
「何でもありません。…ただ、遠坂。これだけは伝えておきます。私は長く持ちません。この冬が終わる頃、私がこの家にいられる保証はない。…だから、あいつ――士郎が自分を壊そうとしたら、貴方がその手を引いてやりなさい」
「…エリス、あんた…」
「…朝食の準備ができています。お姉様をお待たせするのは、アインツベルンの誇りが許しません。行きましょうか、お節介な魔術師さん」
エリスは凛を追い越して歩き出しました。
その背中は、可憐な少女のそれというよりは、戦場で死期を悟った兵士のような、不思議な重みを湛えていました。
凛は一人、廊下に残り、自分の掌を見つめました。
(…何よ、あいつ。まるですべてを知ってるみたいな言い方して。…あんな悲しい顔で笑う『人形』なんて、聞いたことないわよ)
二人の間に、目に見えない「信頼」の火が灯ったのは、この不器用な初対面の時でした。
その日の夜
「…窓から入るとは、英霊のすることではありませんよ。不法侵入に則って、その首を撥ねて差し上げましょうか」
エリスは振り返ることなく、手元で白銀の魔力を編み直しながら告げました。
声はいつもの令嬢のトーンですが、背中に滲む汗と、荒い吐息までは隠せません。
「フン。無様に拠点を追われ、あろうことか『宿敵』の屋根の下で震えている人形がよく言う」
窓枠に腰掛けたアーチャーが、月光を背に皮肉な笑みを浮かべます。
「情けない姿だな、エリスフィール。アハトの老いぼれがこの光景を見れば、今頃、調整槽の中で憤死しているぞ」
「…じい様のことはどうでもいい。私はお姉様の安全を最優先しただけです。…効率的な判断でしょう?」
「効率、か。お前がそう口にするたび、私にはそれが『言い訳』にしか聞こえない。」
「…提案がある。エリスフィール」
「…何、ですか。皮肉なら、後で、聞きますよ」
「いや。…私の一部を、お前に譲渡してやろうか、という話だ」
エリスが目を見開きます。
アーチャーが何を言わんとしているのか、原作知識を持つ彼女には即座に理解できました。
「…何を。貴方の、霊核を削る気ですか? 英霊の座から切り離された貴方がそんなことをすれば、貴方自身の現界時間が――」
「案ずるな。私の本質は『剣』だ。私の魔術特性、構成物質、そして死への抗い…その記録の一部を、お前の48本の回路に上書きする。…成功すれば、お前の肉体の摩耗を『投影された幻想』で補強できる。お前の寿命…その『五年』、少しばかり延ばしてやろうと言っているんだ」
それは、守護者として永遠に使い潰されるアーチャーが、同じように「役割」に命を削る少女へ向けた、最大級の歩み寄りでした。
エリスは絶句しました。
前世の自分が画面越しに見ていた、あの冷徹で皮肉屋なアーチャーが。
自分を殺そうとする、あの絶望した男が。
「…どうして。貴方に、そんなメリットはないはずだ」
「メリット? ――ああ、そうだな。強いて言うなら…お前のような『装置』が、アハトの老いぼれの愚痴を聞かされながら独りで消えるのは、見ていて胸糞が悪いからだ」
アーチャーは肩をすくめ、不敵に、そして少しだけ悲しそうに笑いました。
「お前は、イリヤスフィールを救うと言ったな。ならば、それを成し遂げた後の『余生』くらい、一人前の男らしく、あるいは一人の女らしく、謳歌してみせろ。…これは、先を行く先輩からの、ほんの少しの嫌がらせだ」
エリスは俯きました。
銀髪の間から、一粒の涙がアスファルトに落ちます。
それはエリスフィールの涙ではなく、前世からずっと独りで戦ってきた「一人の男」の、安堵の涙でした。
「…ああ、クソ。本当、アンタは…どこまでも、お人好しなんだな、エミヤ」
エリスはプロトコールの「私」を捨て、震える声で笑いました。
「…いいですよ。受け取りましょう。貴方の『地獄』、少しだけ俺に貸しな」
アーチャーはしばらく沈黙した後、鼻で笑いました。
その笑みには、いつもの毒はなく、どこか自分自身を嘲笑うような響きがありました。
「…全く。中身が男だというから少しはマシかと思ったが、結局は士郎と同じ、ただの『お人好し』か。…安心しろ、エリスフィール。その恐怖こそが、お前が装置ではなく人間である証だ」
アーチャーは懐から、一振りの投影された短剣を放り投げました。
それは武器ではなく、彼の魔力を定着させるための「楔」です。
「寿命が延びたのなら、せいぜいその恐怖を噛み締めながら生きろ。死ぬことよりも、生き続けることの方が遥かに苦痛だ…だが、その先にある景色を、お前は知っているはずだろう?」
「…アーチャー」
「明日の朝食には期待している。衛宮の料理に、アインツベルンの『厳しい指導』とやらを見せてやれ」
赤い外套が夜風に舞い、アーチャーの気配が消失します。
独り残されたエリスは、投げ渡された楔を握りしめ、プロトコールの「私」ではなく、一人の男――エリスとしての顔で、静かに呟きました。
「…ったく。あいつ、最後はただの説教臭い先輩じゃねえか」
胸の奥の回路が、少しだけ熱を帯びて落ち着いていく。
エリスは、重い手袋を嵌め直し、明日という「未知の運命」に備えて瞳を閉じました。
翌朝。衛宮邸の台所は、かつてない緊迫感に包まれていました。
エプロン姿の士郎の隣で、エリスフィールが腕組みをし、その鋭い黄金の瞳でまな板の上を凝視しています。
その背後には、インストールされた「アインツベルン式究極家政プロトコール」と、前世の「男のこだわり」が混ざり合った、凄まじい威圧感が漂っていました。
「…待ちなさい、士郎」
「うわっ、びっくりした…。なんだよエリス、いきなり」
ネギを刻もうとした士郎の手が止まります。
エリスは無言で歩み寄ると、士郎の手から包丁を奪い取りました。
「貴方、このネギの切り方はなんですか。断面が潰れている。これでは香りが逃げるだけでなく、出汁との親和性が数パーセント低下する。…アインツベルンの美学において、妥協は『死』と同義ですよ」
「いや、ただの味噌汁の具だぞ? そんなに精密に切らなくても…」
「黙りなさい。料理とは戦場の再構築です。素材のポテンシャルを100%引き出せない者に、聖杯戦争を生き抜く資格はありません」
エリスの瞳が、一瞬だけガチの「料理研究家」のそれに変わりました。
トントントントントンッ…!
凄まじい速度と正確さ。代行者レベルの動体視力と精密動作が、たかが長ネギを「芸術品」のような小口切りに変えていきます。
「…す、すげえ。包丁の重みだけで切ってるみたいだ」
「フン、当然です。いいですか、士郎。男の料理というものは、最終的には『構造の理解』に行き着く。繊維の走りを読み、最小限の摩擦で断つ。これが理想の具現化…! いえ、アインツベルンの矜持ですわ」
語尾を無理やり「わ」で修正しましたが、その口調には隠しきれない「こだわり派のオヤジ」のような熱がこもっていました。
「次は出汁です。貴方、煮干しの頭とハラワタの取り方が甘い。苦味が残るでしょう? 貸しなさい、私が『因果のゆらぎ』すら残さない完璧な下処理を見せてあげます」
「エリス、それ『運命』の魔術特性を煮干しに使おうとしてないか…?」
やがて食卓に並んだのは、見た目は普通の和食、しかし中身はミシュラン星付きも驚愕するレベルの「超精密定食」でした。
「…う、美味い。何だこれ、いつもの味噌汁と全然違う!」
「…エリスフィール。この焼き魚の火入れ、見事です。皮はパリとしていながら、身は魔法のようにふっくらとしている…。シロウ、明日からエリスフィールに厨房を任せては?」
セイバーが猛烈な勢いで茶碗を空にしていきます。
イリヤも嬉しそうにエリスの手作り卵焼きを頬張っていました。
「もう、エリスったら。シロウに対抗しちゃって。でも、エリスの料理って時々、お父様が凝った料理を作った時みたいな『理屈っぽさ』があるわよね」
「ご、誤解ですわお姉様。私はただ、無駄を排しただけです…」
エリスは赤くなって顔を伏せました。
(…危ない。つい前世の『ラーメンのこだわり』とか、あの手の男の理屈が漏れそうになった。アハト翁が見てたら今度こそ発狂するな)
「なあエリス、後でその包丁の研ぎ方、教えてくれないか?」
士郎が感銘を受けた眼差しで頼み込みます。
エリスはフンと鼻を鳴らし、インストールされた優雅な動作でお茶を啜りました。
「…いいでしょう。貴方のあまりの無様さに、アインツベルンの名が泣きますからね。…一から叩き直してあげますわ」
(…ま、悪くないな。こういうのも)
寿命があと数年だろうが、今この瞬間の「ネギの断面」に命を懸ける。
それは、偽物(ホムンクルス)でも、転生者でもない、エリスフィールという一人の人間としての、小さくも確かな抵抗でした。
衛宮邸の平和な食卓が片付き、夜の帳が降りた頃。結界を揺らす不吉な魔力の拍動に、エリスは誰よりも早く反応しました。
「――お姉様、私の後ろへ」
エリスの声は、先ほどまでの「料理指導」の熱を完全に排した、冷徹な執行者のものへと切り替わります。
衛宮邸の庭に、紫の煙と共に「背徳の魔女」メディアが姿を現しました。
空中に浮かぶ彼女の背後には、竜牙兵が軍勢を成しています。
「あら、アインツベルンの『人形』がこんな場所に。聖杯の器を二つとも確保できるなんて、幸運だわ」
キャスターの嘲笑。
それに対し、エリスは静かに一歩前へ出ました。
インストールされたプロトコールが「神代の魔術師に対する警戒」を最大レベルで鳴らしますが、エリスの内側にある「原作知識」は、もっと冷酷に状況を分析していました。
(…キャスターか。士郎の令呪を奪いに来たな。本来ならセイバーが対峙する場面だが、あいにく今はメシの食いすぎで休憩中だ…)
「士郎、セイバーを呼んできなさい。ここは私が食い止めます」
「えっ、でもエリス一人じゃ…!」
「――四の五の言わずに動け! 死にたいのか、この馬鹿!」
剥き出しの「男」の怒声。
士郎はその威圧感に気圧され、奥へと走ります。
「ふふ、威勢がいいわね。でも、ただのホムンクルスに何ができるのかしら?」
キャスターの手から、神代の魔術による光弾が雨あられと降り注ぎます。
一発一発が戦車を粉砕する威力を秘めたそれを、エリスは――「避けなかった」。
「――特性展開。【運命】固定」
エリスの視界が金銀に爆ぜます。
降り注ぐ光弾。
そのすべてが、まるで意志を持っているかのようにエリスの数センチ横をかすめ、あるいは「偶然」跳ね返った小石に当たって軌道を変えていきます。
「な…!? 外れた? 私の魔術が、狙いもつけずに適当に放った小娘に…!?」
「いいえ。貴方の魔術が私に届く確率は、今この瞬間に『ゼロ』へと収束した。…私の48本の回路を舐めないでください」
エリスは地を蹴りました。
代行者並みの脚力に、アーチャーから譲渡された「剣の概念」による肉体補強が加わっています。
その速度は、もはや人の域を超えていました。
「竜牙兵、やりなさい!」
群がる骨の兵士たち。
エリスはそれを、インストールされた優雅な舞踏のように、しかし実際には「男の合理性」に満ちた凄惨な破壊でなぎ倒していきます。
関節を折り、核を砕き、一切の無駄なく「効率的に」道を切り拓く。
「…ッ、小癪な…!」
キャスターが苛立ちと共に「ルールブレイカー」を取り出した瞬間、エリスの瞳が鋭く細まりました。
(…出たな。あれを食らえば、俺に定着しているアーチャーの補強術式が剥がされる。そうなれば寿命が一気に加速する)
だが、エリスは止まりません。
むしろ加速し、最短距離でキャスターの懐へと飛び込みました。
「させるか…ッ!!」
エリスの手元に、白銀の魔力が凝縮され、アーチャーの投影魔術をなぞるような「概念武装」が形成されます。
「――じい様の愚痴を数百年分聞かされた身としてはね。貴方のような『裏切りの魔女』の末路なんて、一ページ目から読み飽きてるんですよ!」
「…が、あ…ッ!?」
エリスの放った一撃が、キャスターの防御結界を「運命の隙間」を縫うようにして貫通し、その肩を深く抉りました。
キャスターは驚愕に顔を歪め、空中に退避します。
「…何者なの、貴方。アインツベルンのホムンクルスに、こんな戦い方ができるはずが…!」
「…ただの、寿命五年のゴミ箱ですよ。…さあ、続きをやりましょうか。お姉様の安眠を邪魔した代償は、高くつきますよ?」
エリスは乱れた銀髪を乱暴に払い、不敵な笑みを浮かべました。
その姿は、美しくも恐ろしい「アインツベルンの騎士」そのものでした。
キャスターとの激突、その火花が散る庭園に、異変は前触れもなく訪れました。
エリスの「運命」の視界が、突如としてノイズに塗り潰されます。
「…っ!? 何、これ…」
キャスターの叫びが夜空に響く。
彼女の足元、衛宮邸の美しい芝生から、底なしの「黒い泥」が噴き出しました。
それは、エリスが「原作知識」で最も警戒していたもの。
聖杯の汚染そのものである「影」の介入。
(…早すぎる! まだキャスターも小次郎も落ちていないはずなのに、どうして「影」がここに!?)
エリスの48本の魔術回路が、かつてない警告音を鳴らし始めます。
特性【運命】が、この「影」に対してだけは全く機能していません。
なぜなら、この泥は「これから起こる不幸」ではなく、「既に決定された世界の呪い」そのものだから。
「キャスター、退きなさい! それに触れれば、貴方は――」
エリスの警告よりも早く、泥から伸びた触手が、負傷して滞空能力の落ちていたキャスターの足首を捉えました。
「いや…っ、何よこれ、魔力が、魂が、吸い取ら…が、あああああああ!!」
神代の魔女が、見る影もなくドロドロとした闇に引きずり込まれていく。
その凄絶な光景に、駆けつけた士郎とセイバーも立ち尽くすしかありませんでした。
「エリス、離れろ! それは――」
「来るな士郎! セイバー、士郎とお姉様を連れて屋敷の中へ! 結界を最大展開しなさい!」
エリスは叫びました。
彼女の脳裏に、アハト翁の忌々しい、しかし正確な「愚痴」が蘇ります。
『…マキリの泥はすべてを侵す。あれは理の範疇にない、ただの欠陥だ…』
(…わかってるよ、じい様。あれを浄化できるのは、アインツベルンの歴史上で「俺」しかいないんだろ!)
エリスは逃げませんでした。
彼女は、アーチャーから譲渡された「楔」を強く握り締め、体内の回路を逆流させる。
「――限定解除。浄化術式・一三番、起動!」
彼女の指先から、眩いばかりの純白の閃光が放たれ、迫りくる「影」の触手を焼き切ります。
しかし、その代償は凄まじいものでした。
「が、は…っ!」
口から鮮血が溢れます。
アンリマユの一部を強引に中和した衝撃で、彼女の寿命が、今この瞬間にも砂時計の砂が落ちるように削られていく。
肌のあちこちに亀裂が走り、そこから黄金の魔力が光の粉となって漏れ出していました。
「エリス…!? やめて、もういいわ、エリスが消えちゃう…っ!」
イリヤが泣き叫びながら駆け寄ろうとしますが、セイバーがそれを必死に制止します。
「…ハッ、死ぬもんか。…俺は、こんなところで、バッドエンドを迎えるために…ここに来たんじゃ、ないんだよ…!」
エリスは片膝を突きながら、執念で影を見据えました。
その姿は、可憐なホムンクルスなどではなく、泥を啜ってでも愛する者を守り抜こうとする、あまりにも不屈で泥臭い「男」の背中でした。
深夜、衛宮邸の一室。
月明かりだけが差し込む静寂の中、エリスは布団の上に身を起こしていました。
全身を走る「回路の焼き付き」による激痛。アーチャーから譲渡された『投影』の残滓が、砕け散ろうとする彼女の肉体を強引に繋ぎ止めています。
「…起きてるんだろ。入ってきなさい、士郎」
襖の向こう側で躊躇っていた気配が、小さく揺れて開きました。
盆に載せた温かい飲み物を持って、士郎が申し訳なさそうに入ってきます。
「…起こしたか? セイバーはイリヤの横で眠りについた。お前、顔色がひどいぞ」
「…ハッ。貴方に心配されるほど、落ちぶれた覚えはありませんよ」
エリスはいつものように、プロトコールの「不遜な令嬢」を演じようとしました。
しかし、声は掠れ、黄金の瞳はかつてないほどに沈んでいます。
士郎が差し出した湯呑みを、震える右手で受け取った瞬間、彼女は自嘲気味に笑いました。
「…もう、誤魔化しようがありませんね。貴方も、あの『影』を見て気づいたでしょう。あれはこの世の全ての悪(アンリマユ)。聖杯という願望機の成れの果てだ」
「エリス、お前、さっきの戦いで何をした? イリヤが言ってたんだ…お前の命の灯火が、あの一瞬で半分くらい消えたみたいだったって」
士郎の問いに、エリスは沈黙しました。
そして、ゆっくりと左手の手袋を外します。
そこには、アーチャーの赤い補強魔術を塗り潰すように、ドス黒い「泥の紋様」が血管に沿ってこびりついていました。
「…私はね、士郎。あれを『呑む』ために作られたんです。お姉様を救うための、ただのフィルターとして」
「――そんなの、間違ってる」
「間違っていても、それが唯一の救いなんだよ!」
エリスの口から、プロトコールの皮殻を破って、前世の「男」としての怒号が飛び出しました。
「いいか、衛宮士郎。俺の…私の寿命は、この戦争が終わって五年持たない。だが、さっきの浄化でさらに削れた。…おそらく、あと一年か二年。この冬を越せれば御の字だ」
「…っ、そんな…!」
「悲しむな。これは俺が自分で選んだ道だ。俺は前世で…いや、アハトのじい様に教えられる前から、この結末を知っていた。誰かが泥を被らなきゃ、イリヤも、貴方も、この街も救われない」
エリスは士郎の胸倉を掴み、至近距離でその瞳を覗き込みました。
そこにあるのは、少女の儚さではなく、死線を越えた戦友に「後を託す」老兵の眼差しでした。
「士郎。お前が『正義の味方』になりたいなら、勝手になれ。だが、俺がいなくなった後、イリヤを一人にするな。…アイツに、春の桜を何度も見せてやってくれ。それが、俺の…この、エリスフィールとしての、たった一つの、男としての頼みだ」
「…エリス。お前、まさか…」
士郎は、目の前の少女の中に眠る「もう一つの魂」の正体を、言葉には出さずとも魂で理解しました。
自分と同じ、何かを救うために自分を勘定に入れない、狂ったほどに真っ直ぐな「誰か」を。
「…ああ。約束する。お前も、イリヤも、俺が必ず助ける。…死なせなんて、しない」
「…フン。相変わらず、口だけは一人前ですね、貴方は」
エリスは力を抜き、布団に深く沈み込みました。
プロトコールの仮面が再び彼女を覆いますが、繋いだ視線の中には、もう隠し事のない「男同士の絆」が通っていました。
「…下がりなさい、士郎。…明日の朝食も、私が厳しく指導してあげますから」
士郎が部屋を出た後、エリスは独り、月を見上げました。
削れた寿命。縮まりゆく未来。
けれど、その胸の内にあるのは、装置としての絶望ではなく、「やり切ってやる」という、かつてないほどに熱い、生身の意志でした。