エリスの寿命が削れ、その存在が「聖杯の器」としての輝きを超えて、この世の理を捻じ曲げる「異物」として完成しつつある時。
その不純物を許さない、人類最古の裁定者が現れます。
冬木の公園、静まり返った深夜の広場。
空間が黄金の波紋を放ち、そこから現れたのは、夜の闇を塗り潰すほどに傲岸不遜な黄金の王――ギルガメッシュでした。
エリスは、士郎とイリヤを背後に庇い、激痛の走る回路を強引に励起させます。
インストールされたプロトコールは、この「規格外の英霊」を前にしてエラーを連呼していました。
「…英雄王か。予定より随分と早いお出ましですね。お姉様に手を出すには、まだ時期尚早ではありませんか?」
エリスは肩で息をしながらも、不敵に言い放ちました。
「黙れ。我は器の話をしているのではない。――貴様だ、エリスフィール。アインツベルンの用意した『ただの袋』の癖に、何故、我の庭にない異質の魂を宿している?」
ギルガメッシュの紅蓮の瞳が、エリスの深層を、その前世の記憶ごと貫かんと見据えます。
「その回路に混じる赤黒い泥…そして、英霊(エミヤ)の紛い物の術式。…不愉快だな。純白であるべき人形が、これほどまでに濁り、歪み、そしてあろうことか『意志』を持って生きようとするとは」
「…歪んでいるのは、貴方の趣味でしょう? 私はただ、自分にできる最高の掃除をしているだけです」
「抜かせ。――器を汚す不純物、この場で塵に帰してくれよう」
黄金の波紋から、無数の宝具の原典が姿を現します。
一斉掃射。常人であれば視認することすら叶わない音速の雨。
「エリス!!」
士郎の叫び。
しかし、エリスは微動だにしません。
「――特性発動。【不運】の全受容(ディスアドバンテージ・テイク)」
エリスが右手を掲げた瞬間、降り注ぐ宝具の軌道が、目に見えて捻じ曲がりました。
あるものは空中で衝突し、あるものは地面を穿ち、あるものはエリスの肌を一ミリだけ掠めて背後の大樹を粉砕します。
(…一発でも直撃すれば終わりだ。俺の運命をすべて、この『回避』に注ぎ込む…!)
「ほう? 運命の女神を味方に付けているつもりか。だが、その因果の捻じ曲げ…その都度、貴様の『生』を燃料にしているな?」
ギルガメッシュは冷酷に、その代償を見抜いていました。
エリスの白銀の髪が、一房、また一房と、魔力を失って枯れた灰のような色に変わっていきます。
「…ッ、はぁ、はぁ…! たかが…寿命、じゃないですか。…出し惜しみして、お姉様を、奪われるよりは…マシだ…!」
エリスは、アーチャーから譲渡された「楔」を媒介に、黄金の宝具の一振りを強引に『投影』。
不完全な写し身ながら、それを盾にしてギルガメッシュへと突進します。
「ははは! 面白い、面白いぞ雑種! 泥に塗れ、己を削り、それでも我に牙を剥くか! ――よかろう、ならばその執念ごと、王の財宝で叩き潰してやろう!」
「…やれる、もん…なら…やってみろ…! 俺の五年を、アンタの退屈しのぎに…全部ぶつけてやるよ…!!」
エリスの瞳が、黄金色から、アーチャーと同じ「鋼の意思」の色へと変質します。
プロトコールは完全に砕け散り、そこにあるのは、人類最古の英雄に真っ向から喧嘩を売る、一人の不屈な男の魂でした。
「…っ、は、あ…あ…!」
エリスの膝が、ついに折れました。
支えにしていた投影の短剣が砕け散り、目の前には、依然として不敵な笑みを浮かべる黄金の王が立っています。
「ほう。我の掃射をこれほどまで凌ぐとはな。だが雑種、貴様の命の灯火、もはや一吹きで消えるぞ」
ギルガメッシュが最後の一射を放とうと腕を上げた――その瞬間でした。
「――そこまでだ、英雄王!!」
凛烈な叫びと共に、不可視の風が黄金の波門を弾き飛ばしました。
駆けつけたのは、聖剣を構えたセイバー。
そして、屋根の上には弓を引き絞るアーチャー、傍らには魔力を昂らせた遠坂凛の姿。
「士郎! イリヤ! 無事ね!?」
凛の声に、士郎がエリスの体を支えながら叫び返します。
「ああ、だけどエリスが…エリスがもう…!」
エリスは薄れゆく意識の中、自分を抱きかかえる士郎の腕の震えを感じていました。
そして、その視界に飛び込んできた「彼ら」の姿に、心底から安堵したような、場違いな笑みを浮かべます。
「…遅い、ですよ…。主役は、遅れて、来るもの…なんて…誰の、受け売りだ…」
エリスは震える手で、凛の服の裾を掴みました。
プロトコールの「私」は、もう維持できていません。
そこにいるのは、ただ一人の、死を覚悟した「戦友」としての魂でした。
「…遠坂。…アンタに、お姉様を、頼む。…あいつは、強いけど…寂しがり屋、だから…」
「エリスフィール!? ちょっと、何言ってるのよ、あんた!」
凛が驚愕に目を見開く中、エリスの視線は次に、屋根の上で見守るアーチャーへと向けられました。
二人の視線が交差します。
同じ「偽物」として、同じ「守護」の泥を啜ってきた男同士の、言葉を超えた了解。
「…アーチャー。…アンタの、貸し(寿命)…少し、使いすぎた、かな。…あとは、任せたぜ、先輩…」
アーチャーは無言で、ただ一度だけ、深く頷きました。
その瞳には、かつての自分と同じように「誰かのために自分を擦り切らした者」への、最大限の敬意が宿っていました。
「…セイバー。…士郎を、あの、馬鹿を…頼みます。…あいつ、放っておくと…すぐに、自分を、殺そうと、するから…」
「…承知しました、エリスフィール。貴方の献身、決して無駄にはしません!」
セイバーの黄金の闘気が膨れ上がり、ギルガメッシュを圧します。
その背中を見届けた瞬間、エリスの指先から力が抜けました。
(…ああ。これで、いい。…俺の役目は、ここまでだ…)
「エリス! エリス!!」
士郎の叫び声が、遠く、遠くなっていく。
エリスは最後に、自分を守るように囲む「家族」たちの温もりを感じながら、深い、深い闇の中へと落ちていきました。
灰白色の髪が、夜の風に静かに靡いていました。
衛宮邸の朝、台所には出汁の香りが立ち込めています。
エリスはいつも通り、プロトコールに従った完璧な所作で朝食の準備を整えていました。
しかし、その指先は時折、熱を失ったように白く震えています。
廊下から聞こえてくる、士郎と凛の騒がしいやり取り。
ふと、凛が一人で台所に入ってきました。
「おはよう、エリスフィール。…って、あんたまたそんなに気合入れて作ってるの? 昨日の今日なんだから、少しは休めばいいのに」
凛は呆れたように言いながらも、手際よく皿を並べるエリスの手元を、心配そうに覗き込みました。
エリスはふっと、人形めいた微笑を浮かべます。
「…おはようございます、遠坂。アインツベルンの『掃除屋』にとって、日常の管理は戦闘よりも重要な任務ですから。それに、いつまで私がこの台所に立てるかも分かりませんしね」
「…っ。あんたね、そういう不吉なこと、さらっと言わないでよ」
凛は顔をしかめました。
彼女は、エリスがギルガメッシュ戦でどれだけの代償を払ったか、その魔術師としての鋭い感性で悟っています。
エリスは手を止め、湯気の向こう側で、誰よりもお人よしな「赤い魔術師」の瞳を真っ向から見据えました。
そこにあるのは、プロトコールの仮面ではない、一人の男としての、静かな遺言(・・)でした。
「遠坂。貴方は、自分を冷徹な魔術師だと思い込もうとしていますが…結局のところ、士郎と同じ、救いようのないお人よしだ」
「なっ、何よ急に…!」
「…だから、頼みます。私が居なくなった後…あのお姉様と、あの馬鹿(士郎)の手を、離さないでやってほしい」
エリスの声は、いつになく低く、落ち着いていました。
「お姉様は、自分を『装置』として扱う世界しか知らない。士郎は、自分を『部品』としてしか愛せない。…あいつらには、隣で『人間として間違っている』と怒鳴りつけてくれる、貴方のようなお節介(・・・・・)が必要なんです」
「エリスフィール…あんた、まるで――」
「…ええ。私は、この冬を越せれば御の字だ。…あいつらに、私のことでいつまでも湿っぽくなられるのは、俺の性分に合わない。だから貴方が、その派手な魔術で、あいつらの未来を明るく照らしてやってください」
エリスは最後の一言を、かつて前世で「遠坂凛」というキャラクターに憧れた一人のファンのような、そして今の戦友としての、清々しい笑顔で締めくくりました。
「…ふん。言われなくても、あんな危なっかしい連中、放っておけないわよ」
凛は照れ隠しに顔を背けましたが、その拳は強く握りしめられていました。
「あんたの頼み、確かに預かったわ。…でもね、エリス。あんた自身の『未来』も、私が少しは計算に入れてあげるから。…勝手に一人で完結させないでよね」
「…はは。それは、期待せずに待っていますよ」
エリスは再び包丁を握りました。
寿命を削り、泥を啜り、それでも守りたいと願った日常。
自分の席がいつか空くことを知りながら、それでも今、この瞬間の朝食を完璧に仕上げる。
それが、エリスフィールという一人の「男」が、この世界に残せる最高の誠実さでした。
柳洞寺、地下大空洞。
黄金の杯から溢れ出した黒い泥が、世界の端を蝕むように広がっています。
エリスの体は、もはやボロボロでした。
ギルガメッシュ戦で削り取られた寿命、そして「影」を浄化し続けた代償。
彼女の美しい銀髪は、今やそのほとんどが命の火を失った灰白色へと変わり、視界も霞んでいます。
「…エリス、もういい! あとは俺たちが…!」
背後で叫ぶ士郎の声。しかし、エリスは振り返りません。
彼女の48本の魔術回路は、今やアーチャーから譲渡された「剣」の投影と、アンリマユの泥を中和するための「浄化」の熱で、臨界点を超えて発光していました。
(…うるせえよ、士郎。ここから先は、俺にしかできない『掃除』なんだ)
エリスは一歩、泥の海へと踏み出します。
触れるだけで魂を腐らせる呪いが、彼女の脚を焼き、精神を侵食する。しかし、彼女の心は不思議と静かでした。
脳裏に響く、アハト翁の最期の愚痴。
『――エリスフィール、お前は失敗作だ。何故死なぬ。何故、ただの器として消えぬ…』
「…じい様。アンタの言う通り、俺は最悪の欠陥品だよ。――消えるはずの命で、未来を掴もうとしてるんだからな!」
エリスの両手に、白銀の光が集束します。
それはアインツベルンの魔術を超えた、彼女自身の「執念」が形作った、運命を切り拓くための大剣。
「――限定解除。全回路、並列接続! 第五次聖杯戦争、全汚染物質の…『一括洗浄(オール・クリーン)』!!」
エリスが剣を泥の深淵へと突き立てました。
純白の光が、ドス黒いアンリマユの奔流と真っ向から衝突します。
「が、あ、ぁああああああ!!」
絶叫。
泥を通じて、数億の呪いがエリスの内に流れ込みます。
普通なら一秒と持たずに精神が崩壊するはずの負荷。
しかし、彼女の魂を繋ぎ止めていたのは、アーチャーが残した「死への抗い」と、前世から抱き続けてきた「この光景を変えたい」という、あまりにも青臭い、男の願いでした。
「…終わらせる…! 千年の、冬も…俺たちの、この絶望も…全部ここで、呑み干してやる…!!」
エリスの体から、黄金の粒子が舞い上がります。
寿命を一年、一ヶ月、一日と切り刻み、それを燃料に変えて、彼女は泥を「浄化」し続けました。
やがて。
地獄のような闇が、一転して無垢な白へと塗り替えられていきます。
アンリマユの核が砕け、聖杯というシステムそのものが、エリスという「異物」の熱によって解体されていく。
「…できた、ぞ…」
膝をつくエリス。
泥は消え、大空洞には静寂だけが残されました。
彼女の体からは、かつてのような魔力は感じられません。
魔術回路は完全に焼き付き、その髪は真っ白な灰のよう。
「エリス!!」
駆け寄る士郎の腕の中に、エリスは力なく倒れ込みました。
その瞳は、もうほとんど何も見えていないはずなのに、士郎を、そして泣きながら走ってくるイリヤを、確かに捉えていました。
「…士郎。…掃除、終わったぞ…。あとは、お前が…お姉様を…」
「死ぬな! 死ぬなんて許さないぞ、エリス!」
士郎の涙が、エリスの頬に落ちます。
エリスは、かつてのプロトコールを完全に捨て、一人の「男」としての…いいえ、一人の「人間」としての、不敵で優しい笑みを浮かべました。
「…馬鹿、言うな。…俺の寿命を…アーチャーが延ばしてくれたのを…忘れたか…?」
エリスは震える手で、士郎の涙を拭いました。
「…五年…いや、一年か。…まだ、少しだけ…春を待つくらいの、時間は…残って、るさ…」
そのままエリスは、安らかな眠りに落ちるように目を閉じました。
呪いは消え、聖杯は解体された。
アインツベルンの人形としてではなく、自分の意志で運命を戦い抜いた「掃除屋」の、これが精一杯の、そして最高の勝利でした。
冬の厳しさが、昨日の出来事であったかのように街は春の気配に満ちていました。
衛宮邸の庭には、約束通り、淡い紅色の桜が満開の花を咲かせています。
「――エリス、早く! シロウの作ったお弁当、なくなっちゃうわよ!」
イリヤの弾むような声が、柔らかな陽光の中に響きます。
アインツベルンの宿命、聖杯の器としての呪縛。
そのすべてから解き放たれた彼女は、今やどこにでもいる、少しばかりお転婆な少女の顔をしていました。
「…慌てなくても、お姉様の分は私が確保してあります。士郎、貴方もですよ。セイバーに全部食べられないよう、少しは自分の皿を死守しなさい」
縁側に座り、重箱を広げるエリスフィール。
その立ち居振る舞いは、かつてインストールされた「完璧なホムンクルス」のそれでしたが、士郎に向ける視線には、隠しきれない「兄貴分」のような厳しさと、温かさが混じっていました。
エリスの左手は、今も黒い手袋で覆われています。
アンリマユを浄化した代償として、その腕には消えない呪いの痕跡と、それを封じ込めるアーチャーの補強魔術が脈打っていました。
(…結局、生き残っちまったな)
エリスは、舞い落ちる桜の花びらを右手で受け止めました。
かつて調整槽の中で、アハト翁の愚痴を聴きながら思い描いていた「死による完成」。
それよりもずっと不格好で、ずっと騒がしい「生」がここにはあります。
「ねえ、エリス。さっきから何をニヤニヤしてるの? 気持ち悪いわよ」
「…失礼ですね。私はただ、この桜が来年も、その次も見られることに感謝していただけです」
嘘ではありません。
アーチャーから譲渡された「剣」の記録は、今も彼女の回路を内側から支え続けています。
五年と宣告された寿命は、あの大決戦で一度は潰えかけましたが、魔力を失い「ただの人間」に近くなったことで、皮肉にも摩耗の速度が緩やかになっていました。
あと一年か、あるいはもう少し先か。
それは誰にも分かりませんが、少なくとも今の彼女には、今日という日を楽しむ権利がありました。
(…アンタの意地、確かに受け取ったよ。エミヤ。俺…私は、この足で歩けるところまで行ってみる)
「エリスフィール、どうかしましたか? このおにぎり、なかなかの誉れですよ」
口の端に米粒をつけたセイバーが、不思議そうに覗き込んできます。
「いえ…。セイバー、貴方も食い意地が張りすぎです。騎士王の名が泣きますよ」
エリスはふっと笑い、前世の「彼」がかつて画面越しに愛した、そして今世の「彼女」が自ら守り抜いた、かけがえのない光景を瞳に焼き付けました。
じい様の愚痴は、もう聞こえません。
代わりに聞こえるのは、風に揺れる桜の音と、愛すべき家族たちの笑い声。
「――さあ、お茶を淹れ直しましょう。お姉様、次は『私の』とっておきの茶葉を使いますからね」
完璧なカーテシー。
しかしその内側にあるのは、誰よりも不敵で、誰よりも優しい「一人の男」の魂。
銀髪の少女は、柔らかな春の光を浴びながら、自らの手で書き換えた「運命」の日常を、一歩ずつ踏みしめていくのでした。
お付き合いいただきありがとうございました。