東京都立呪術高等専門学校へと続く長い石段。
初夏の陽光が、歴史ある石畳に濃い影を落としている。
その階段を、一人の少年が静かに登っていた。
どこか遠くを見つめるような、無機質な歩み。その風貌は、行き交う補助監督たちが思わず足を止めるほどに異様だった。逆立ったオレンジ色の髪。そして何より、その『眼』だ。紫色の虹彩に、同心円状の紋様が幾重にも重なる『輪廻眼』。顔の各所には、呪力を受信するための黒い受容体が、まるで不吉な装飾のように埋め込まれている。
彼が校門を潜った瞬間、校庭で談笑していた1年生の空気が一変した。
「なに、あいつ」
釘崎野薔薇がその不気味さに眉をひそめ、お茶を飲む手を止める。
伏黒恵は、本能的な悪寒に襲われていた。影の中に潜む十種影法術の式神たちが、主の命令を待たずして怯え、縮こまっているのを感じたからだ。
「伏黒、どうした? 顔色が悪いぞ」
虎杖悠仁が心配そうに覗き込むが、伏黒は答えられない。彼の視線の先にいる少年から漏れ出す気配は、これまで対峙してきたどの呪霊と違っていた。それは悪意ではない。
ただ、そこに存在するだけで周囲の重力を増幅させるような、圧倒的な個の質量だった。
「はーい、みんな集まって! 今から新しい仲間を紹介するよ」
緊張の糸を断ち切るように、五条悟が軽快な足取りで現れた。目隠しの奥にある六眼は、長門という存在を分子レベルで、そしてその魂の深淵まで見透かそうとしている。
「新たな仲間の長門くんだ。かなり『ワケあり』でね、僕の養子ってことにしてるんだ。みんな、仲良くしてあげて」
長門は、虎杖たちの前で立ち止まった。その瞳には、彼ら三人の姿が映っているはずだが、まるで数百キロ先にある風景を眺めているかのような空虚さがあった。
「五条 長門だ。俺に仲間意識を期待しないでくれ。俺の目的は、この世界の呪いの連鎖を断ち切り、真の平和を築くことにある」
「平和、ねぇ。あんた、中二病にしては随分と遅咲きね」と釘崎が毒突くが、長門は表情一つ変えない。
「痛みを知らぬ者に、真の平和は理解できない。お前たちは、まだ何も知らないだけだ」
その冷徹な声は、梅雨の湿気を一瞬で凍りつかせるほどの響きを持っていた。
自己紹介もそこそこに、一行は五条に連れられ実戦用の演習場へと向かった。五条は、長門が操る『六道』の特性を説明し始める。
「長門の術式はね、普通の呪術とは根本的に理屈が違うんだ。『六道輪廻』。自分一人の魂を複数に分け、それを専用の肉体である『傀儡』に同期させて操作する。今ここにいるのは、その一つである『天道』だ」
「一人で複数人……? それって、分身みたいなもんか?」
虎杖が尋ねると、五条は人差し指を立て横に振りながら笑った。
「違うよ。分身は一つの意識を分けるけど、それに対応するには相当な技術と経験が必要だ。でも、彼は複数の異なる視界、複数の異なる感覚を同時に、そして完璧に処理する。死角がないんだ。そして、傀儡それぞれが下手すると特級相当になる能力を持っている」
五条が合図を送ると、演習場にもう一人の男が入ってきた。
「畜生道」
長門が呼ぶと、長門と同じ髪色を後ろで髪をまとめ、全身に黒棒を刺した奇妙な術師が印を結ぶ。
地面に手を当てた瞬間、そこには巨大な多頭の犬が喚起された。
五条は、長門に能力を使うよう指示すると、畜生道が印を結ぶ。
地面に手を当てた瞬間、そこには巨大な多頭の犬が現れた。
「なっ……十種影法術か? いや、呪力の構成が違いすぎる!」
伏黒が驚愕の声を上げる。五条がそれを否定した。
「いいや、恵の術式とは別物だ。この犬は死んでいる。……いや、厳密には死ねない、かな?」
「まぁ、いいや。長門の紹介はこんな感じ。さて、早速だけど皆にはこれから『実戦』をして貰うよ」
その日の午後、長門の実力テストを兼ねた初任務が下された。
場所は、杉並区の山中に打ち捨てられた巨大な廃病院。近年、行方不明者が続出し、準1級相当の呪霊の巣窟となっている。
「よし、皆で協力して、中の呪霊を全滅させてきて。特に長門くんの実力、しっかり見ておくように」
五条の軽いノリとは裏腹に、現場の空気は重い。
「俺は一人で行く。お前たちは外に逃げ出す雑魚でも狩っていればいい」
長門はそう言い残し、一人で病院の正面玄関へと足を踏み入れた。
「何よあいつ! 協調性ゼロじゃない!」
「待てよ釘崎、放っておけない。俺たちも行こう」
虎杖たちが後を追うと、病院の内部はすでに異様な光景に塗り替えられていた。
廊下には、無数の黒いの蝶が舞い、壁からは巨大なムカデのような式神が這い出している。長門は歩みを止めることなく、襲いかかる呪霊たちを蹂躙していく。
突如、天井が崩落し、この病院の主である巨大な呪霊が現れた。数多の患者の怨念が凝縮された、醜悪な肉の塊。
「イタイ……苦シイ……助ケテ……」
呪霊が放つ負の感情の奔流。しかし、長門はその声を最も深い悲しみで見つめ返した。
「お前の痛みは、大海の一滴に過ぎない。俺がその苦しみを終わらせてやる」
長門が両手を広げる。
「『神羅天征』」
その瞬間、物理法則を無視した絶対的な斥力が放たれた。
衝撃波ではない。空間そのものが外側へと押し広げられるような、不可視の神の御手。
呪霊は、叫び声を上げる暇もなく、細胞一つ一つに至るまで粉砕され、病院の南半分もろとも虚空へと消し飛ばされた。
駆けつけた虎杖たちは、屋根も壁も消失し、月明かりが剥き出しになった廊下でただ呆然と立ち尽くした。
「これが………こいつの言う『救済』なのか?」
長門は振り返り、虎杖たちを見つめた。何かを言いかけたその時、五条がひょっこりと姿を現す。
「あちゃー……。これは始末書、一枚じゃ済まないレベルだねぇ」
五条は消滅した病院の残骸を眺め、肩をすくめて長門たちに早く帰ろうと促した。
任務を終え、高専へ戻る車中。
長門は一言も発さず、窓の外を流れる夜景を見つめていた。
その瞳の奥には、かつて彼が守れなかったもの、彼に痛みを与えた世界の理不尽さが、消えない残り火のように燻っている。
「……長門」
虎杖が静かに声をかけた。
「さっきの……お前、最後になんて言おうとしたんだ?」
長門は、ゆっくりと虎杖に視線を移した。その瞳の中に、虎杖は自分の中に眠る「宿儺」が、微かに、だが確実に反応しているのを感じた。
「……痛みは、分かち合うことでしか理解されない。お前の中にいる『それ』も、いずれ俺の痛みの前で跪くことになるだろう」
「は?」
虎杖の戸惑いを無視し、長門は自らの右手のひらを見つめた。そこには何もない。だが、彼には消えない血の跡が刻まれている気がした。
「俺は神ではない。ただ、神の如き絶望を背負わされた、一人の人間に過ぎない」
その告白は、あまりにも重く、孤独だった。
呪術高専という「居場所」。しかし長門にとって、そこは救いの場ではなく、自らの哲学を世界に知らしめるための、単なる通過点に過ぎなかった。
その夜、五条は校舎の屋上で、夜風に吹かれながら独り言を漏らした。
「さて。あの『眼』が、この腐りきった呪術界に何をもたらすかだね。特効薬になるか、それともすべてを滅ぼす猛毒になるか……。最強の僕が拾ってきたんだ、面白い方になってくれないと困るよ」
夜空には、不気味なほどに白い月が浮かんでいる。
長門という、神を模倣し痛みに嘆く青年の物語は、この呪いの泥濘の中から静かに動き始めた。
お試しで書きました。
時期的には釘崎の入学~少年院までの間です。
もしかしたら続き書くかもしれません。