「プールで泳ぐ、ですか?」
見回りから翌日、朝食の場で鈴香さんはみんなにそう提案した。
「そう。気分転換にいいんじゃないかしら」
この提案に、みんな賛同せずに不安げな表情を見せる。
それはそうだろう。
人が一人死んだ……そんな状況で呑気に遊ぶ事なんて出来ないと。
「……確かにこんな時にやる事じゃないのかもしれない。
けれどすぐに帰る事も出来ないんだし、この状況でも出来る事をしていかないとね」
だが鈴香さんとしても、それは分かった上での提案らしい。
確かに今日の食事も無機質な静寂に支配されていた。
こんな状況で楽しむのは非常識だと。
死んだ裕明に負い目を感じて、例外を除いて誰もが自分を律している。
そんな状態で少なくともあと数日間、屋敷に閉じ籠ってはいられないと彼女は気を利かせたのか。
「いいんじゃねーか? オレは賛成だぜ」
「泳ぐのは得意じゃありませんけど、たまにはいいかもしれませんね」
英二を筆頭に、みんなも続々と鈴香さんの提案に賛同していく。
みんな、この状況に鬱屈としたものを抱えていた証拠だろう。
不安を抱えたまま助けを待つのは、周りの全てを警戒するようなものだ。
ずっと気を張り巡らせる中で、この提案はみんなにとっても渡りに船だったらしい。
「……あれ? でも、矜児さんは……」
しかしそこでリナが俺を見る。
……そうだったな。彼女達は俺の事情を把握しているんだった。
「矜児さんって……体育は……」
「……ずっと見学だよ。持病の影響であまり激しい運動はしないよう言われてる」
続けてリオも被せてきたので、俺は渋々白状する。
俺は持病のせいでずっと体育は見学にしてもらっていた。
当然プライベートでも激しい運動は禁止。
海やプールで泳ぐなんて、以ての外だと制限されている。
「えっ……ご、ごめんなさい。私、何も知らずに……」
それは知らなかったと、鈴香さんは申し訳なさそうに委縮している。
流石に生徒会長とはいえ、学年の違う一生徒の事情を知っている筈もない。
この事で彼女を責めるつもりは毛頭無かった。
「俺はやってもらって結構ですよ」
……それに持病というのは、真っ赤な嘘なんだから。
だから誰も気に病む必要なんかない。
俺なんて気にせず、好きなように泳いでくれていいんだ。
「いいのか、矜児? 俺達だけ楽しむ事になるんだぞ?」
「見学は慣れてるよ。それに自分のせいでみんなに我慢させる方が嫌だよ、俺は」
精々一時の安らぎにしかならない。
だとしてもこんな悪夢を忘れられる時間を、俺のせいで潰す方が許容できない。
「本人はこう言ってるんだ。ご厚意に甘えて、矜児の分まで楽しもうじゃないか」
「玲矢……そう、だな」
すると意外にも、玲矢は俺の意思を後押しするような発言を口にした。
奴からしてみれば、標的を休める行為なんて良い顔はしないと思っていたが……
いや、敢えてそうしたのかもしれない。
これも本番のスパイスになると、下拵えのつもりで飴を与えるつもりか?
「……」
それに鷹峰先生も無言なのが気に掛かる。
初日の件を思えば、今回も突っかかってきておかしくない筈。
それが一言も無しとは、何を考えているのかさっぱり読めない。
「それじゃあ希望する人は水着を用意させよう」
「あっ、それって初日に言ってた有名デザイナーの水着ですか?」
「ああ。着てみたいかい?」
とはいえ俺が思案している間にも話は進んでいた。
女性陣の何人かは玲矢が用意させたという水着が着れると、既に泳ぐのを心待ちにしている。
「俺を気にせず楽しんでくれ。その方が俺も助かる」
「矜児さん……分かりました」
そんな中で、俺を気にしてかリナとリオは及び腰だった。
……俺は気にしなくていいと言ってるのに、仕方のない娘達だ。
流石の玲矢も、こんな日中から何かを仕掛けはしないだろう。
だからこの一時だけは、彼女達の心が安らぐ事を祈る。
この先に何が待ち受けるとしても、それくらいの望みは許される筈だから。
お昼を少し回った頃、プールでの催しは恙なく開始された。
俺は少し離れた位置にあるパラソルで様子を見ているが、特におかしな事は何もない。
「ご、ごめんなさい。あんまり泳ぐの得意じゃなくて……」
「ここで覚えればいいさ。せっかくだし一緒に練習しよう」
強いて言うなら琴美さんが玲矢と行動を共にしている事だろうか?
奴の本音を知っている身としては意外だ。
玲矢はこの旅行で音羽さんをものにする気だった筈だから。
久遠寺音羽という女性は、玲矢からしても魅力的に映っているようだ。
とはいえ恐らくは自分の格に釣り合っている、という意味でしかない。
それでも彼女が自分に振り向かない現状に、不満を抱く程度には意識を割いているようだ。
だからこそ琴美さんが生きている現状、彼女に対して苛立ちをぶつける可能性は危惧していた。
今のところボロは出てないようだが、腹の底では何を考えているか……
不穏なものを感じるも、俺以外はあの様子を微笑ましい光景と捉えていた。
「琴美ちゃん、玲矢さんと……うまく、いってるみたいですね」
「そうみたいだな。何事もないなら何より────と」
その証拠にリオの言葉が横合いから聞こえてくる。
どうやら水着に着替え終わったらしい。
中々に吟味していたと聞いたから、今の今まで時間が掛かっていたか。
二人の動向は気に掛かるが、かといってリオを放っておく訳にもいくまい。
気を取り直して声の方へ向き直り────俺は彼女達の姿に目を奪われた。
「……あ、あんまり……その、見られると……っ」
どうやらリナと一緒に来ていたようだ。
二人は共に水着姿で俺の前に立ち、どこか恥ずかし気に頬を赤く染めていた。
「ああ、すまない。確か玲矢の言っていた、有名デザイナーの水着か」
「そうなんです。どれを着るか迷っちゃうくらいかわいくて!」
改めて会話を続けると、リナがいかに水着を拘ったか語る。
確かに有名デザイナーが作った物だけあり、二人の着るそれはどちらも甲乙つけ難い代物だった。
まずリオの水着はワンピースタイプで、胸や腰回りをフリル状の布であしらったものだ。
布面積は露出を抑えており、人見知りなリオらしいチョイスだと思う。
ただその分愛らしさを追求したのか。
青を基調としたそれは、リオの髪色も相まってよく調和している。
リナの方はホルダーネックの水着。
肩や胸下の紐が胸部を押し上げ、言ってしまえば胸元を強調した形になっていた。
こちらは大胆に肌を見せており、快活なリナらしいチョイスだと感じる。
ただし未だに恥ずかしそうにしてる辺り、本人もこういった水着は慣れてないのかもしれない。
「で、何ですけど……水着、似合ってますか?」
……感想を言わなきゃいけない。
が、どうにも言葉に迷う。
こうして二人の水着姿なんて初めて見るからか、思考が巡って言葉が定まらない。
もっと今の気持ちを表せる言葉があるんじゃないか?
水着の評価も、まるでそちらがメインのようで違う気がする。
「ああ。かわいいよ」
「っ、ホントですか!?」
……だからこんな、月並みな感想しか言う事が出来なかった。
「嘘なんか言わない。リナとリオらしくてかわいい……それが率直な感想だよ」
「え、へへ……」
もっとこの気持ちを表現したいんだが、詩人でもない俺にはこれが限界だ。
ただそんな言葉でも二人は喜んでくれたらしい。
互いに顔を見合わせ、まるでプレゼントを貰えた子供みたいにはしゃいでいる。
「そんなに嬉しいものか?」
「そりゃあ男の子に見せるんですから。喜んで当然です!」
……そういう、ものなのか?
あまり釈然としないが、笑顔が見れたならそれでいいのかもしれない。
「二人も侍らせて水着を堪能とは、いいご身分だな」
だがそうして喜んでいられる時間は呆気なかった。
……空気を読まない嫌味が、俺達の輪に押し入ってきたからだ。
「英二さん……?」
「……なんだ。わざわざ何をしに来た?」
声の主である英二は、下品な笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。
あの顔はいつものアレか……
人前では抑えていた筈だが、何がそこまで気に入らない?
「そりゃあやっかみを言いにだ。
泳ぎに行くより、お前に水着を見せるのにご執心な女が二人もいるんだからな」
立ち止まった英二はリナとリオを見やり、品定めをするように二人の水着姿をジロジロと見下ろす。
これには不快感を覚えたんだろう。
リオはリナの後ろに隠れ、リナは不機嫌そうに眉根を寄せている。
「……ホントに何の用なんですか? 私達が矜児さんといて、何か困る事でもあるんですか?」
俺としても気になるところだった。
今まで放置していた癖に、何だってここに来て文句をつける?
「俺は親切心で言ってるんだぜ? 命が惜しけりゃそいつに入れ込むなってよ」
それに答えた英二が語ったのは、俺達の家に関わる話だった。
「極道の人間と関われば、いつ命の取り合いに巻き込まれてもおかしくねぇ。
なのにテメェら、ろくに喧嘩も出来ねぇような奴に命を預けられんのか?」
極道というのは血に濡れた世界だ。
喧嘩で済めばいい方で、最悪は命の取り合いに発展する事がままある。
組員の親類縁者が狙われた、という話も後を絶たない。
特に俺や英二のようなトップの息子と関われば、巻き込まれる確率はグンと上がる。
そんな話をされて、一般人である二人が怯えない筈もない。
リナとリオは唾を呑み込み、何と言うべきか言葉に迷っているようだった。
「それ見た事か。前々から目について仕方なかったんだよ。
裏稼業に関わる気もねぇ癖に、犬みてぇにこいつへ纏わりついてよ」
……ようやく英二の意図が見えた。
要は俺から彼女達を引き剥がすつもりなんだろう。
俺との関係に答えを出せないなら、さっさと目の前から消えろと。
「言葉に説得力がないな。まずお前にとって、彼女達はどうでもいい相手だろう」
……確かに英二の言う事も一理ある。
リナとリオに、裏社会でやっていける度量は無いだろう。
だが、それを英二が言うのは説得力に欠ける。
何しろ英二もまた、表社会の人間に近付こうとしているのだから。
「俺に意見する気か?」
「ただの嫌がらせを素直に聞いてやる気はない。
そもそも俺に文句をつけるなら、自分の本命を射止めてからにしろ」
「っ、テメェ……!」
その時点でこいつの魂胆は、浅い思考からきた嫌がらせだと断言できる。
故にお前が言うなと切って捨てれば、英二は怒りの形相で俺の胸倉を掴んできた。
「止めてください、英二さん!」
「うるせぇ! 前から気に入らなかったんだ……頭も、力も、人望も、俺の方が上だろうに……」
リナの制止も聞く耳を持たず、俺への不満を感情のままに吐き捨てる。
「なのに何だってお前ばかり親父の覚えがいい? 天辺を獲るべき男は、俺の筈だろうが……!」
……俺は親父の覚えがいい? 天辺を獲るのは俺だ?
それは聞くに堪えず、全てが的外れな内容だった。
この男はまるで現実が見えていない。
本当に目を掛けられていたなら。
本当に愛されていたのなら、俺は玲矢に手を貸したりしなかった……ッ
「何をしてるんですか、英二さん」
場の空気が熱を帯びる。
粗ぶった心のまま、俺と英二は互いを睨み続ける。
そうして今にも決壊しそうな沈黙を、新たな乱入者の一言が打ち破った。
「お、音羽……」
「何があったのか分かりませんが、ここで喧嘩は止めてください。
まさか鈴香さんの提案に賛成したのは、こんな事をする為ではないでしょう?」
声の主は音羽さんだ。
傍らにはアニスさんもいて、恐らく騒ぎを聞きつけてやって来たんだろう。
音羽さんの追及に英二は言葉を無くしている。
まるで叱られた子供のように、正面から彼女を見れないでいた。
……惚れた弱み、というものなのか。
少なくともこのままだと心象を悪くする。
そう理解させるだけの効力はあるようだった。
「そうじゃないならその手を離してください。それでも続けるなら、玲矢さん達を呼びます」
「……クソッ!!」
だからこそこれ以上、俺に怒りをぶつけられない。
渋々俺の服から手を離した英二は、悪態を吐いてその場から立ち去っていった。
後に残ったのは重苦しい空気だ。
完全に遊びの気分が抜け去り、再び沈黙が場を支配してしまう。
「矜児さん、大丈夫……ですか?」
「問題ない。特に怪我もないよ」
「無理は良くない。身体に障るかもしれないぞ」
ようやく口を開けば、リオやアニスさんは俺の安否を気に掛けてくれる。
無理はするなと言うが、本当に奴の暴力なんて気にも留めていない。
「本当に平気だよ。心配するなら、リナとリオにしてやってくれ」
「えっ? あたし達は、何とも……」
それよりも気に掛けるべきはリナとリオだった。
二人は平気だと言うものの、俺からすればそうは見えない。
「うちの問題に巻き込んでしまったからな。気分転換に二人も輪に入れてやってほしい」
「いいんですか? 三人で話してたのでは……」
「そ、そうですよ! 英二さんの言った事だって、気にしてなんかないです!!」
吉良の因縁に彼女達を巻き込むつもりはなかった。
だからほんの僅かでも連中の狂気に触れさせてしまった事実は、俺の心に重く圧し掛かっている。
「……俺が一人になりたいんだ。頼む」
たとえ彼女達がどう言おうとも、今はまともに対応出来そうになかった。
一人にしてくれと、頭を下げて頼み込む。
そうすれば流石に折れざるを得なかったのか。
二人は音羽さん達に付いていくと決めてくれた。
「……あとでちゃんと話しましょうね!」
「また、戻ってきますから……」
投げ掛けられた言葉にも応えず、俺はビーチチェアに背を預ける。
……英二の事は兎も角、中々に堪えたな。
二人に、あんな顔をされるのは…………
「やっぱり、吉良の息子のままじゃ……」
あの時、リナとリオは怯えた表情を見せていた。
それは彼女達の本心を示す何よりの証明だ。
あの二人もヤクザに関わりたくない。近寄りたくないと思っている証拠。
────だったら尚の事、玲矢に言われた事が現実味を帯びてくる。
また独りになってしまう。
俺に深く関わって、それでも傍にいてくれた人なんて誰もいなかったんだから。
……本当に、自分の出自が恨めしい。
プールで泳ぐ彼女達を、俺は遠い世界のように眺めるしかなかった。