前世に忘れてきました。何を?人道とやらを   作:しらたまあんみつ

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蠢く宵

 

殴る、蹴る、避ける。

先ほどとは同じようで、攻守が逆転した乱闘が繰り広げられていた。

 

(ああ、体が軽い。呪力の廻りもこれ以上ないってほど良い)

これが「ゾーン」というものなのか、と錦は浮ついた頭でぼんやりと考える。その間にも、体は先ほどとは比べ物にならないレベルの動きを平然と行っていた。

 

(そうだ、悠長に戦ってる場合じゃあない。とっとと祓わなきゃ、奴の術式が回復する)

そう、冷静な部分が言った。

けれども。錦はそれを無視して、本能が赴くままに殴り合っていた。その理由は、錦本人にも分からなかったけれど。錦は確かに、この戦いを心の底から楽しんでいた。

 

 

零落の顎に掌底をかます。呪霊といえど、顎が揺れれば呪力を廻す脳も揺れる。必然、零落は僅かに動きを鈍らせた。

そこに、錦の回し蹴りが飛んでくる。それを何とか腕で防御しつつ、零落は誰の目から見ても焦りを感じていた。

 

(まずい、術式は未だ焼き切れたまま…。それに、何じゃこれは!?この小娘、あの呪力が光った時から、まるで動きが別人だ!)

 

そもそも、何故自分はここまで押されているのだ?あの憎き鹿紫雲に、己の味わった屈辱を味わわせてやろうとしただけだ。それなのに、何故!

名も知らぬような、こんな、どこでのたれ死んでもおかしくないような小娘に!!

雪辱どころか、恥の上塗りを重ねているような事態に、零落は歯を軋ませる。

 

 

グキ!!

「痛っつ、」

その時、錦の片足が悲鳴を上げた。唐突に支えを失い、流石にバランスを崩しそうになったところで、何とか踏みとどまる。

(…折れた、か。まずっと格上相手に蹴り入れてたんだ、よく持った方かな?)

タイミングは最悪だが。

 

体勢が揺らいだところを零落に腕を掴まれる。振り解こうとするも、すでに折れた腕ではびくとも動かない。むしろ、掴まれた箇所で砕かれた骨が肉に食い込み、痛みを増長させている。

 

「くっそ、放せや!!」

力任せに腕を強引に捻り、更に拘束が強まったところで、ガラ空きの胴体に蹴りを入れようとする。

 

「この程度で儂を止められると思うなよ、青二才!!」

が、その前に背負い投げの要領で地面に叩きつけられる。背中を勢いよく打った衝撃で、錦は数秒意識が飛ぶのを感じた。

顔目掛けた打撃を腕で払えば、グシャリと湿った音がする。それを聞かなかったふりをして、体幹を使ってバネのように跳ね起きた。

 

 

「ああそういや、言ってなかったっけ?私の術式は本来、触れたものに作用するんだ」

グシャ!

 

零落の拳が、血肉と共に飛び散った。それに愕然としたように零落が目を見開いた。

(何故、奴の術式が儂に効く!まさか、そこまで出力が落ちているのか!?まずいまずい、これでは本当に…!)

 

 

「終わりだ、クソジジイ!」

零落の思考をぶった切るように、錦の姿が眼前に迫る。そうして、術式が発動されようとした時だった。

 

 

「何とまあ、情けないでありんすね」

不貞腐れたような女の声がしたのは。同時に、零落の姿が掻き消える。

 

「は…?」

唖然としたような声が出たのは、仕方ないことだったろう。錦は、己と零落、そして鹿紫雲以外の気配を一切感知していなかったのだから。零落との戦いに夢中になっていたとしても、流石に部外者が来ればわかる。

…そのはずだった。

 

だが、この女は錦に全く気づかれずにここに現れた。つまり、相当の実力者…!

 

「…どこから湧いて出た」

「「湧いて出た」、と来んしたか。嫌なことを言いんすね、あちきは虫ではござんせんよ」

 

そこにいたのは、派手な着物をしゃらりと着流した女。

黒塗りの高下駄に、前で結ばれた豪奢な帯。高く結い上げた髷、ヒラヒラと揺れる三段ビラ。そうして、艶めかしい廓言葉。どの角度から見ても完璧な花魁姿だが、そこにはたった一つ、異常があった。

 

女の額には、ぎょろりとこちらを睨め付ける、第三の目というべき瞳があったのだ。

 

「ソイツの仲間か?」

女の脇に抱えられている零落を指さすと、女は妖しく後れ毛をかき上げた。

「仲間?いつ聞いてもしっくりこねえ言葉でありんすね。まあ、強いて言うなら協力者、でありんしょうか」

「仲間じゃないなら、ソイツ離してよ。私が祓うとこだったんだからさ」

「それは勘弁しておくんなし。この塩次郎にはまだ役目がありんすゆえ」

 

鮮やかに紅をさした目に見つめられ、うっと言葉が出なくなる。それにつけ込むように、女は言葉を続けた。

 

「主さんの気持ちも分かりんすが、ここはあちきの顔を立てておくんなし」

「お前の面子とか知るかよ」

「…では、あちきと戦いんすか?」

 

赤い唇から放たれた牽制。同時に、女の雰囲気がガラリと変わった。目はゆるうりと細められ、色っぽさを保ちつつ、刺すような冷たさが錦を襲った。

それに思わず、一歩下がろうとして。

 

「何言ってんだ、お前は」

ぽすん、と肩を受け止められた。え、とその人物の顔を見上げれば。鹿紫雲が、苛立ったように女を見ていた。

「ソイツはもう死んでるようなもんだ。お前が首突っ込まなきゃ、確実にコイツが祓ってたからな。死体をどうしようが、殺した人間の勝手だろ?」

「それでは、主さんこそ黙ったらどうでありんす?これはあちきとそこのお嬢ちゃんの問題でありんすよ」

 

ハッ、と鹿紫雲は女を一笑に付した。

「知らねえよ。つーか闘りてぇなら俺はどうだ?コイツよりはよっぽど強いと思うが」

 

そう、真意の読めない喧嘩腰に。女は数秒黙りこくった。ふと降りた重苦しい沈黙を、突き破ったのもまた女であった。

 

「…いいえ、やめておきんす。主さんと戦うほど、向こう見ずではありんせん」

苦々しく目を閉じて、女はふわりと浮き上がった。

 

(飛んだ…!そういう術式か。何者か知らないが、基本能力に飛行が入っているのは厄介だな)

観察するように女を見定めた錦に、女は婀娜っぽく微笑んだ。

 

「おさらばえ、お嬢ちゃん。また会えれば、今度こそ相手してあげんすえ。あちきは夕顔(ゆうがお)、覚えておいておくんなまし」

 

そうして、三つ目の遊女は。霧の如く姿を薄め、とうとう錦たちの目の前から消えていった。跡形もなく、姿を消した夕顔。けれども、錦の目にはその笑みが気味悪く張り付いていた。

 

 

 

 

 

パチリと薪が弾ける音に、意識がゆっくりと浮上した。パチリと目を開けば、視界の端に明星が写る。

「朝…?」

「まだ夜だ」

不機嫌そうな低い声にハッとそちらを見やれば、鹿紫雲が焚き火のそばに座っていた。それに釣られるようにもう一度空を見上げる。確かに、空は未だ暗く、星も点々と夜空を彩っている。

 

条件反射のように体を起こした。

「痛っだ、」

けれども、体に走った痛みがそれを阻害した。どさりと地面に体を預けて、体を見渡す。全身に刻まれた傷は確かに記憶の通りだったが、何故かその全てに包帯が巻かれていた。案外丁寧な処置が施されていることに、錦は軽く首を捻る。

 

(一体、誰がこんなこと)

そうして、視界に入ったのは鹿紫雲だった。

(いやいや、まさか。わざわざ手当してくれるわけないだろ)

だが、それ以外に候補などいない。そもそも自分はどうして無防備に寝ていたのかと、そんなところまで思考が飛び出したところで。

 

「動かない方が良い。一応応急処置はしといたが、傷が開くかもしれねえ」

声をかけてきたのは鹿紫雲だった。それだけでも驚きだったが、その内容に錦は目を剥いた。

 

「えっと、その口ぶりだともしかして…鹿紫雲、サンがやってくれたんですか?」

「まあな」

 

マジか。思わず錦は口元を覆った。

憧れの人が、自分の手当てをした。しかも自分の不注意で出来たような傷の。

錦は全力で土下座したくなった。痛みでできないが。申し訳ないやら恥ずかしいやらでキャパは既に限界に近い。

 

そんな錦を気にも止めず、鹿紫雲は残酷にも事実を並べていった。

「夕顔と零落が消えた後で、お前ぶっ倒れたんだよな。まあまあ傷も酷かったから、とりあえず処置だけしてここまで運んだ。ちなみに二日は寝たままだったな」

「そう、ですか…」

 

要は敵を取り逃した上で倒れたのである。最早情けないの域まで片足を突っ込んでいる所業に錦は生返事を返すしかなかった。

 

会話が途切れ、その場に静寂が満ちた。二人の間をさあっと風が通り抜ける。その涼しさに、もう秋になったのかと思う。そういえば、今年は紅葉を見ていないような。戦続きだったから、そんな暇もなかっただけだが、どうにも秋という感じがしない。

 

 

「お前、秋刀魚好きか」

ふと、鹿紫雲が枝に刺さった焼き魚を差し出してきた。

「別に食べられれば何でも」

「じゃあ食え」

問答無用で押し付けられた秋刀魚を受け取ろうとして、腕が動かないことに気づく。仕方がないので、顔の近くの地面に刺してもらう。秋刀魚の虚な目と目が合い、なるべくそれから顔を背けながら、ずっと気になっていたことを問うた。

 

「あの、何でここまでしてくれるんですか?」

「「何で」、ってどういうことだ?」

「いや、私たちって他人ですよね?ていうか商売敵じゃないですか。何で関わりもない小娘にここまで世話を焼いてくれるんですか?」

 

言葉を慎重に選んだ錦に、鹿紫雲は不可解そうな目を向ける。

「他人?あのなぁ、お前は俺の弟子になったんだから、最低限のことをしてやるのは当然だろ」

「…はい?」

「だから、零落祓ったら弟子にしてやるっつったろ。忘れたのか?」

 

思い返せば、確かにそんなことを言っていたような。だがしかし、それでは前提から間違っているのではないか。

 

「私、零落祓ってませんよ。祓えてません、と言った方が近いですけど」

「…夕顔にも言ったが、余計な口出しさえなきゃお前はアイツを祓ってた。それだけで十分だ」

「それじゃあ、意味ないでしょうが!!」

苛立ちと焦燥が混じったような叫び声を錦は上げた。

 

「「祓えていただろう」じゃ駄目なんだ。そんな希望的観測に何の意味があるんです?大事なのは、誰が何をやったかという事実でしかない。それなのに、起きてもいないことで私の実力を決めつけるな!」

 

そうだ、ありもしない可能性への期待なんて、そんな曖昧なもので私の価値を測るな。

それでは、碌な尺度になりはしない。それでは、何の意味もない!

 

鹿紫雲のような、強者が言うのだから。彼の「かもしれない」は正確なのかもしれない。

ああ、でも、それは!ただの仮定の積み重ねであり、寸分たりとも事実ではないのだ。

駄目だ駄目だ、そんなものでは駄目だ。

 

偽物か本物か、その基準で物事を見るならば。自分に与えられる評価もまた、同じ基準でなければならない。尚更、その基準には絶対的な正しさが必要だ。否、必要などいう言葉では足りない。正しくなければ、それは世界を色眼鏡で見ているのと何も変わりはしないからだ。

 

だからこそ、楽観論の評価など錦にとっては不必要でしかない。

「悪いけど、それじゃ私が納得できない。だから弟子の件は辞退させてもらいます」

 

そう、突き放したように言う。すると、何故か鹿紫雲は笑い出した。それも腹を抱えて。

「ハハハハハ、あー笑った。ほんっと面倒くさえ奴だなお前」

目尻に浮かんだ涙を拭った鹿紫雲はかがみ込み、横になっている錦と目を合わせた。

 

 

「お前の言いたいことは分かる。確かに、自分に与えられた評価が正当じゃねぇものだったら俺でも怒るからな。でも、お前はそうは見えねえ。どちらかと言えば、自分の掲げた理想に、自分から縛られに行ってるようなもんだ。どうしてそこまで、「実力」に固執する?」

 

どこか苦笑交じりのそれに、錦は何も言わなかった。否、言えなかった。

 

鹿紫雲の言っていることに、腑に落ちてしまっている自分が居たから。確かに、自分は「本物」になりたいと、そう思っている。それが行動理念であり、錦の揺るぎない指針であるはずだ。

だが、どうして憧れていたはずの、錦が「本物」だと認めているはずの鹿紫雲の言葉にまで牙を剥く?彼の言葉が、真贋を求める錦の価値観に背いたからだろうか。

…いや、そんなことではない。

 

わかっている、本当は錦にも。ただ、意固地になっているだけなのだ。

「本物」への熱望が、憧憬が。いつしか、目を曇らせる原因になっていやしないか。そんなことを確認することさえも忘れて。

そうして、ただ空っぽな目標だけを掲げて、無意味に目指し続けている。そこへ辿り着く道など、とうに踏み外したかもしれないのに。

 

 

ぽん、と。

「…何するんですか」

ふと、頭に乗せられた温かい感覚に、錦はつい半目になった。だが、手の持ち主はそれでは飽き足らず、わしゃわしゃと乱雑に撫でてくる。

 

「いや、ちょ、辞めてくださいよ髪乱れるんで。というか解釈違いなんで」

錦が睨むのを見て、鹿紫雲はふはっと笑った。

「お前、やっぱガキだな」

「はあ。五つ程度しか変わらないと思いますが」

「気持ちの問題だよ。何つーか、迷子のガキみたいなんだよな。自分の欲しいものを買いに行ってるんだが、店への道が分からなくなる。んで、段々と手に持ってる金もこれで足りるのか不安になってきてんだ。家に帰ろうと思っても、帰り道すら分からない。途方に暮れても、誰かに聞くこともできずに立ち止まってるガキ」

 

「それは、悪口ですか」

「さーな。どちらにしろ、迷子に道を示してやんのが、大人の役目なんだ」

 

そう言って、鹿紫雲は撫でるーというか髪を掻き乱していた手を止め、錦の鶯色の目をじっと見つめた。

「俺なら、最短とは言えずとも、正しい道を教えてやれるが。それでも手を振り払うってのなら、お前の勝手にしろ」

 

その目も、言葉も。やっぱり、どこまでも真摯で、真剣であった。こくっと息を呑んで、それに根負けしたように錦は告げた。

「…あなたの弟子になりたい、です。私に強さってもんを教えてくださいよ」

「ああ、分かったよ」

 

鹿紫雲はその表情を緩め、激励でも送るように錦の肩を叩く。それに釣られるように、錦もまた、ほんの少しだけ微笑んだ。

 

 

 

「お前の怪我が治り次第、西に行く」

「西?」

ああ、と鹿紫雲は頷いた。

「堺って分かるか?そこに、術師に仕事を斡旋する仲介屋がいる。ソイツにお前を紹介しなくちゃならねえ」

「なるほど。んじゃ、鹿紫雲サンの拠点も堺の近くにあるんですか?」

「まあな。陸奥に来たのは、伊達の戦いが見たかったからだ。どうせ一生に二度も来ねえ場所だしな」

 

結局期待外れだったが、とぼやく鹿紫雲に親近感を覚える。

「つーか敬語外せよ。何なら呼び捨てで構わねえよ。どうも堅苦しいな、お前は」

「いやいやいや、これから教えを乞う相手にタメ口は無理でしょうよ!!」

(元社会人としてもそれだけは許せないっ)

 

錦の猛反対に、「タメ口?」と首を傾げながらも、鹿紫雲は渋々了承した。

 

「で、仲介屋に会う前に苗字決めとけ」

「何故?」

「そりゃ、箔付けみたいなもんだ。別に要らねえっちゃ要らねえが、苗字の有無で信用度は段違いだからな。勝手に名乗ったもんでも、とりあえず苗字があるに越したことはない」

「そういうもんですかね?」

「そういうもんだ」

 

 

苗字か。錦は鹿紫雲の言葉を反芻した。それは、かつて前世で当たり前に名乗っていたものだったが。この時代、苗字なんて持ってるものは少ない。けれども、案外簡単に持てるらしい。

 

が、いざ考えろと言われても。そう簡単には出てこないのが人情ではないだろうか。

前世のものは名乗りづらいし、そもそも覚えていないし。身近なものをつけようと思っても、100%の確率で物騒なものが出来上がる。

 

 

うーん、と錦は腕を組む。結局動かせないから心の中だけだけれども。

「何でもいいんだよ。好きなもんとか、まあ信条とか。形になってりゃそれで良い」

「それが一番困るんですよねぇ」

 

 

好きなもの、好きなもの。錦はヒントを求めて周りを見回し、ハッとなった。目に入ったのは、串刺しにされた秋刀魚。いや秋刀魚は重要では無い。重要なのは、秋刀魚が取れる季節。

 

「…秋。秋が好きです」

ポツリと呟くと、鹿紫雲は顎に手を当てた。

「じゃ、秋の季語みたいなのにするか?苗字に使えそうなもんだと…十六夜(いざよい)不知火(しらぬい)佳宵(かしょう)夕霧(ゆうぎり)とか、そのあたりになるが」

「鹿紫雲サンって案外教養高いんですね」

「絶妙に失礼なこと言うなお前」

 

ツッコミをさらりと受け流し、錦は鹿紫雲が上げた候補を口の中で転がした。

(別に、苗字とかどうでも良いし)

ただ、強いて言うならば。

 

佳宵(かしょう)で」

理由はない。響きが気に入った、それだけである。

「分かった。そういや、お前名前はなんて言うんだ?肝心のそっちを聞いてなかった」

「ああ、そういえば。錦です、佳宵錦」

 

告げられた名に、鹿紫雲は軽く会釈した。

「よろしくな、錦。これから扱いてやっからそのつもりで」

「はい、よろしくお願いします。お手柔らかにしなくていいですからね」

「言われなくても当然だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅かったじゃ無いか、夕顔」

そう言って、遊女を迎えた()()()()()()()()()()()()は薄っぺらい笑みを浮かべた。それに唾を吐きかけたくなるのを堪えつつ、夕顔も色気をもって微笑んだ。

「少々手間取ったゆえ。申し訳ございんせんね、どのくらい待ちんした?」

「いや、今来たところだよ。それにしても、彼は先走りすぎたんじゃないかい?」

 

夕顔の脇に抱えられている零落を見て、縫い目の男はわざとらしくため息を吐く。夕顔の整った眉が不快そうに歪められた。

「この塩次郎が早まったことは確かでありんすが、主さんには言われとう無うござりんすね。主さんが例の計画を一向に決めねえからこうなったのでありんしょう?」

 

不機嫌だと、そうあからさまに伝えるような声音に、縫い目の男は肩をすくめた。

「仕方ないじゃ無いか、失敗したら元も子もないんだからね。でも安心しなよ、日取りは決まったからさ」

「遅い!!どれだけ待ったと思うておるのだ!」

 

今まで力なく抱えられていた零落が腹ただしそうに一喝した。

「まあまあ、そう怒らないでよ」

「零落。ここは抑えんしょう、段取りが決定しただけでも喜ばしいことでありんす。そもそも羂索と手を組んだ時から、一筋縄で行かねえことはわかっていたでありんしょう」

「むう…」

「それ、本人の前で言うこと?」

 

傷ついたなあ、なんて白々しく言う縫い目の男ー羂索を急かすように、夕顔はコツコツと地面を高下駄でつついた。

 

「はいはい、分かってるよ。二年後だ。詳しいことは全部私がやるから、君らは待ってるだけで良い」

「…二年後か」

「早いかな?」

「いや、やはり遅いくらいだのう。だがこれで、儂らの悲願が達成するのか…!」

「まだそうとは決まってやせんよ」

 

釘を刺した夕顔を、零落は口角を上げて見上げた。

「分かっとるわ、夕顔。ただ、ようやっと狼煙を上げる時が来たのだ。儂等の望む世の、な」

 

 

 

 

秋の夜明けは、まだ来ない。

 

 




ずっと言うタイミングを失っていた裏設定があるのですが、今話で立志編が終わるのでもう言ってしまおうと思います。(かなり要らない情報なので一ミリも覚えなくて大丈夫です)
錦の術式の技名ですが、「銀鼠」を除いて全て染め技法からとっています。前話で錦が「竜巻」と叫んでいましたが、竜巻絞りという染め方があるそうですね。
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