真新しい革鎧が、朝の光をわずかに跳ね返していた。
縫い目にほつれはなく、留め具はまだ硬い。
使い込まれた痕など、どこにもない。
それでも――
リュシア・フェル・アエリスは、胸を張って歩いていた。
腰に下げたナイフは、研ぎ澄まされ、飾り紋の刻まれた革鞘に収まっている。
軽やかな足取りは迷いがなく、風の氏族の末っ子にふさわしい真っ直ぐさだった。
今日から、冒険者になる。
そう決めたのは昨日のことだ。
だから、もう迷わない。
石畳の向こうに見えた建物を見つけた瞬間、リュシアは歩調を速め、そして――駆け出した。
冒険者ギルド。
人の出入りが絶えないその扉を、彼女はためらいもなく押し開ける。
――どんっ。
空気が変わる。
酒と鉄、汗と紙の匂い。
視線が、いくつもこちらを向いたのがわかった。
けれど、リュシアは気にしなかった。
一直線に、受付へ。
「冒険者登録をお願いします」
少しだけ高い声。
けれど、言い切る。
言ったなら、やる。
思ったなら、動く。
受付嬢が一瞬だけ彼女を見て、それから慣れた手つきで手続きを促す。
「登録料は金貨一枚です」
待っていましたと言わんばかりに、リュシアは懐から金貨を取り出し、差し出した。
重みのある音が、木製のカウンターに落ちる。
周囲の空気が、わずかにざわめいた。
「……はい、確かに。こちらが控えと――」
受付嬢は銀貨を数枚、慣れた動作で返そうとしたが、
その時にはもう、リュシアは冒険者証を受け取っていた。
くるりと振り返り、ギルドの中を一望する。
掲示板。
談笑する冒険者たち。
傷だらけの鎧。
知らない世界。
胸が、軽くなる。
「……よし」
小さく、そう呟いて。
次の瞬間、リュシアは駆け出していた。
「ちょ、ちょっと待って――!」
受付嬢の声が背中に飛ぶ。
だが、届かない。
扉が開き、光が差し込み、風が吹く。
夢の第一歩を踏み出すように。
何も知らないまま。
風は、止まらない。
軽やかに跳ねる足取りは、そのまま街の外へと向かっていた。
石畳が途切れ、土の道へと変わる。
リュシアは、歩調を緩めない。
城門の前に立つ門兵が、こちらを見た。
「……冒険者、か?」
問いに答える代わりに、リュシアは胸元から一枚の金属板を引き抜いた。
まだ傷一つない、薄い光を帯びた証。
「今日からです!」
少し誇らしげに、そう言って掲げる。
門兵の視線が、証に落ちる。
その眉が、わずかに寄った。
「おい、待て。それは――」
だが、リュシアは止まらなかった。
風の氏族の家訓は、彼女の背を押す。
言ったならやる。
思ったなら、動く。
呼び止める声が背後で重なった気がしたが、振り返らない。
止まる理由が、彼女にはなかった。
――ダンジョン。
その言葉が胸の内で弾む。
探検。
冒険。
魔物退治。
物語の中で、何度も見た光景。
兄様が当たり前のように語っていた世界。
それが、今日から自分のものになる。
「……始まったんだ」
そう呟いて、森へ足を踏み入れた。
空気が、ひんやりと変わる。
湿った土の匂い。
木々に遮られた陽光。
しばらく走ってから、ようやく立ち止まり、息を整えた。
「……はぁ、……はぁ……」
額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。
周囲を見渡す。
洞穴。
洞窟。
遺跡の入り口。
どれも、まだ見えない。
リュシアは腰のポーチに手を伸ばし、短い杖を取り出した。
白木に施された繊細な装飾。
先端には、小さな魔石が嵌め込まれている。
実戦よりも、どこか"贈り物"めいた杖。
それでも、彼女はそれを握りしめた。
一歩。
また一歩。
枝を踏み割る音が、やけに大きく響く。
枯れ草が潰れ、衣擦れの音が重なる。
――そして。
「……あ」
木々の隙間に、闇が口を開けていた。
自然に穿たれた岩肌の洞穴。
周囲の草は踏み荒らされ、奥から冷たい空気が流れ出している。
間違いない。
ダンジョンだ。
胸の奥が、ひくりと冷えた。
ほんの一瞬だけ。
それは、これまで知らなかった感覚だった。
けれど、リュシアはそれを振り払う。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、そう言って。
一歩、闇へ踏み出す。
彼女はまだ知らない。
それが、彼女の冒険の始まりだった。
ダンジョンの中は、思っていたよりも静かだった。
ゴツゴツとした岩肌に手を添えながら、リュシアは慎重に奥へと進む。
指先に伝わる冷たさが、ここが街の外であることをはっきりと教えてくれた。
腰に下げていた小さなランプに火を灯す。
揺れる橙色の光が、足元と壁をぼんやりと照らした。
洞は、進むにつれて少しずつ広がっていく。
天井は高くなり、足元の岩は削られたように滑らかだ。
さらに奥へ進むと、空気が変わった。
自然の洞穴だったはずの壁は、いつの間にか様式の違う岩肌へと変わっている。
どこか意図的に削られたような通路。
「……すごい」
新鮮な体験に、思わず声が漏れた。
胸の奥が熱くなり、高揚感が足取りを軽くする。
これが、冒険。
本の中でしか知らなかった世界。
――その時。
前方に、緑色の影が揺れた。
尖った耳。
潰れたような鼻。
小柄な体躯。
「……ゴブリン」
何度も聞いた名だ。
次の瞬間、物音に気づいたのか、影が振り返る。
横に並んだもう一体と共に、二対の瞳孔がこちらを捉えた。
迷いはなかった。
「――風よ、力となりて集え……」
短い詠唱。
「ウインドブラスト!」
不意打ちの即射。
圧縮された風の塊が、唸りを上げて放たれる。
直撃。
一体のゴブリンの体が宙に浮き、次の瞬間、四肢が弾け飛んだ。
血と肉片が壁に叩きつけられる。
隣にいたゴブリンが、甲高い悲鳴を上げ、踵を返す。
逃がさない。
リュシアは迷わず、再び杖を向けた。
「ウインドブラスト!」
二撃目が背中を貫き、ゴブリンは音もなく崩れ落ちた。
静寂。
自分の荒い呼吸だけが、洞内に響く。
「……」
リュシアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
そして――
「……大したこと、ないかも」
ぽつりと、そう呟く。
思っていたよりも、あっけない。
拍子抜けするほど、簡単だった。
魔物は倒れ、彼女は無傷だ。
胸の奥に、確かな手応えが残る。
「やっぱり……」
小さく笑みが浮かぶ。
「私、強いんだ」
それも当然だ。
兄も姉も、誰もが認める実力者。
その妹なのだから。
高揚感が、足取りをさらに軽くする。
リュシアは、躊躇なくダンジョンの奥へと進んでいった――今度は、少しだけ警戒しながら。
ゴブリンを倒した直後とは違う。
呼吸を整え、足取りを抑え、周囲の岩肌や天井にも視線を配る。
冒険者。
ダンジョン。
その言葉に付いてくるのは、危険だけじゃない。
――お宝。
迷惑をかける魔物を退治して、戦利品を得る。
良いことづくし。
「……兄様に、自慢しなきゃ」
そんなことを思って、口元が緩む。
あの兄が、驚く顔。
姉が、少しだけ悔しそうに笑う顔。
想像は、楽しかった。
現実よりも、ずっと。
リュシアは、目についたゴブリンを見逃さなかった。
岩陰、通路の先、段差の向こう。
「――ウインドブラスト」
確実に。
正確に。
一匹残らず、風で吹き飛ばす。
ゴブリンの断末魔が、洞内に響く。
うめき声が、反響して消えていく。
それでも、彼女は進んだ。
――そして。
少し広い空間に出た。
天井が高く、柱のような岩がいくつも立つフロア。
その中央に、一体のゴブリンが立っていた。
こちらを、まっすぐに見据えて。
「……見つけた!」
胸が、跳ねる。
悪いゴブリンは、退治しないと。
そう思った瞬間、ゴブリンは「ゲヘゲヘ」と意味の通らない声を漏らし、踵を返した。
逃げる。
「あ、待ちなさい!」
反射的に、後を追う。
歩きながら杖を向け、詠唱する。
「ウインドブラスト!」
轟音。
圧縮された風が、逃げるゴブリンを巻き込み、宙で弾けた。
勝った――
そう思った、その瞬間。
正面の死角。
岩柱の陰から、
通路の割れ目から、
天井近くの段差から。
――ゴブリンが、現れた。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
四匹。
いや、もっと……。
徒党を組み、甲高い叫び声を上げながら、一斉に襲いかかってくる。
「……っ!」
リュシアの足が、止まる。
今までとは違う。
数。
距離。
角度。
初めて、風が――遅く感じられた。
───《別視点》
歳を重ねた皺が、目立つ。
革鎧は使い込まれ、継ぎ当ての跡が多い。剣も盾も、派手さとは無縁だ。
ただ――足取りだけは無駄がなかった。
同じダンジョンに、先行者がいる。
しかも、これは……。
「こりゃ、ひでぇな……」
足元に転がるのは、もはや死体と呼ぶには惨すぎるゴブリンの残骸だった。
肉片は壁や床に貼りつき、血の匂いが濃く残っている。
一撃、いや、過剰だ。明らかに。
魔法。
それも、制御はできているが、加減を知らない類の。
しゃがみ込み、床に落ちていた小さな欠片を指先で摘む。
淡く光る、宝石のような石――魔石だ。
「……勿体ねぇ」
小さく呟き、小袋へ落とす。
この程度の魔石でも、積もれば酒代になる。
拾わない理由はない。
探索、というよりも。
これは、現場検証に近い。
次。
また次。
ゴブリンは、例外なく正確に倒されている。
急所を外さず、範囲も狙っている。だが……。
「音がでかすぎる」
これだけ派手にやれば、周囲の魔物が気づかないはずがない。
それでも、本人は気にしていないのだろう。
――いや、気づいていない。
足跡は軽い。
躊躇がなく、迷いがない。
まるで、危険という概念が、頭の中に存在しないかのようだ。
嫌な予感が、腹の底で重くなる。
少し進んだ先。
広めのフロアの手前で、立ち止まる。
壁の擦れ。
血の飛び散り方。
魔力の残滓。
囮だな。
「……若ぇ」
逃げるゴブリンを追った。
正面だけを見て、脇を見なかった。
典型的な、初心者の判断ミス。
それでも――。
地面に伏す複数のゴブリンの亡骸を見て、男は目を細めた。
「……生きてるか」
安堵とも、呆れともつかない息が漏れる。
火力はある。判断は甘い。
そして何より、運がいい。
今のところは。
男は、音を立てずに歩き出す。
距離を保ち、気配を殺し、影のように。
――同刻。
ゴブリンの逃げる背中を見た瞬間、足が勝手に前へ出ていた。
考えるより先に、体が反応していた。
慎重になる理由はもう持っていなかった。
物陰から飛び出してきたゴブリンも、反射的に倒した。
風を集め、放つ。
短い詠唱、即射。
骨の砕ける音と、湿った悲鳴。
四体……五体……?
数を数える余裕はなかった。ただ、倒した。それだけだった。
前しか見ていなかった。
背後など、気にする理由がないと思っていた。
――その瞬間だった。
背中に、重さがのしかかった。
次の刹那、硬い衝撃が後頭部を打ち抜く。
ぐん、と視界が傾く。
世界が横倒しになった。
音が、遠のく。
思考がひどく遅れる。
追い打ちのように、左の腿へと石が叩きつけられた。
鈍い衝撃が走り、足から力が抜ける。
――捕まる。
痛みよりも先に、その言葉が浮かんだ。
痛い。
……いや、痛いどころじゃない。
反射的に、ナイフを抜いた。
振り向きざまに突き出し、掴みかかってきた腕を切り裂く。
ギャッ、と短い悲鳴。
出口の方を見る。
そこには、すでに徒党を組んだゴブリンたちがいた。
逃げ場が、塞がれている。
自然と、足は奥へ向かっていた。
逃げるように、距離を取る。
――逃げる。
でも、止まれない。
立ち止まったら、終わる。
至近距離で魔法は使えない。
風は爆ぜる。
自分も巻き込んでしまう。
必ず、距離をあけなければ。
追いかけてくる一体に、振り返りざまに風を放つ。
胴が弾け、壁に叩きつけられる。
さらに、もう一体。
奥へ進むたびに、待ち構えているゴブリンを倒して。
背後から迫る気配に振り向き、倒して。
倒して。
倒して――
……あれ?
減らない。
いや、
増えている?
胸の奥に、重たいものが沈み込む。
息が、荒い。
疲労が、どっと押し寄せてくるのを感じた。
――大したことない。
こんな、雑魚なんかに。
そう思おうとした。
けれど、殴られた後頭部が、どくどくと脈打っている。
視界の端が、僅かに揺れる。
引きずるようになった左の腿が、痛くて、邪魔だった。
それでも足は、止まらない。
止められない。
───《別視点》
後を追うのは、簡単だった。
ゴブリンの血肉が弾け飛び、壁や床に貼りついた痕跡を辿るだけでいい。
過剰火力。雑な殲滅。
――派手で、長くはもたないやり方だ。
ザシュ、と。
物音を立てず、はぐれた一体を始末する。
喉、心臓、肺。順に、無駄なく突き刺す。
倒れる音すら拾わせず、死体を壁際に転がした。
……動きが騒がしい。
奥から、興奮した唸り声が重なって聞こえる。
鼓舞だ。獲物を追う前の、あの厄介な高まり。
初心者は近い。
だが――静かすぎる。
さっきまで鳴っていたはずの魔法音も、
肉が弾ける音も、今はしない。
嫌な沈黙だ。
生きるか死ぬか、その境目はいつも、こういう時に来る。
たかがゴブリン。
されどゴブリン。
三、四体に張り付かれれば、どんな冒険者でも転ぶ。
床は血と肉でぬかるみ、足場も最悪だ。
一呼吸おいて、物陰から道具袋を探る。
――爆竹。
畑で使う、魔物避け。
確実な効果はないが、耳のいい連中には効くことがある。
無謀だと分かっている。
だが、前にもこれで切り抜けた。
静かに火をつけ、ゴブリンの集まりへ投げ入れる。
次の瞬間、駆けた。
背中を向けた二体の首を一閃。
勢いのまま踏み潰し、通路を押し切る。
武器はこん棒、石、拾い物の木切れ。
投擲される可能性はあるが、今は気にしない。
バチバチバチ――。
炸裂音に、ゴブリンが一斉に騒ぎ立てる。
統率が、崩れる。
その先に――いた。
ギルドで勢いよく飛び出していった、あのバカな初心者。
周囲には、転がる屍。
生き残った数体が、距離を測るようにうろついている。
目が合った。
小娘は、飾り物みたいな杖を両手で構え、
青光りするナイフを逆手に持っていた。
――無茶な構えだ。
「よぉ、初心者」
声を低く、短く。
「今日は運がいいな。動けるか。帰るぞ」
返事を待たず、爆竹をもう二つ。
奥と、出口側へ放り投げる。
ナイフを鞘に納めさせ、手首を掴んだ。
走る。
飛びかかってきたゴブリンを、突きではなく殴るように沈める。
刃を引かず、蹴り倒し、踏み潰す。
止まらない。
統率さえ乱れれば、連中は怖くない。
怒り狂った怒声。
泥濘んだ床を叩く足音。
それらを背に、ただ出口を目指す。
――生き残るために必要なのは、
勇気じゃない。
撤退の判断だ。
──
━━――気を失っていた、のだろうか。
それとも、眠っていた……?
どくり、と。
後頭部を刺すような痛みが、思考を現実へ引き戻した。
思わず息を吸い、目を開く。
木陰。
森の外れ。
その向こうに、街が見えた。
……外?
体を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。
そして、視界に入ったのは―― 一人の男。
古びた装備。
地味な身なり。
派手な武器も、目立つ杖も持たない。
年だけ食った、冴えない冒険者。
……この人が?
「……死ななかったな。それで今日は十分だ」
中年の男は、それだけを言った。
感情の起伏もなく、淡々と。
「……ありがとう……」
声が小さくなる。
反射的に、頭を下げていた。
その拍子に、自分の手元が目に入る。
赤い。
服も、手も、装備も。
返り血だった。
胸の奥が、ひくりと震えた。
――私、こんなに……。
必死で、夢中で。
自分がどうなっているかなんて、考える余裕もなかった。
それでも――。
戦った手応えは、確かにあった。
ゴブリンは倒れた。逃げた。怖気づいていた。
これから、もっと強くなれる。
そんな確信が、胸の奥から湧いてくる。
あのまま戦っていても、きっと――。
立ち上がろうとした瞬間、
ズキン、と太腿が悲鳴を上げた。
「――っ」
膝が崩れ、ぺたんと地面に座り込む。
「足もやられてたのか?」
男は短く言い、いつの間にか拾っていた枝を差し出した。
手際よく添え木にし、布を巻いて固定する。
「立つんなら自分で立て。自分で生んだ痛みだ」
冷たい。
そう感じた。
「次は、そうならないように噛みしめるんだな」
責めているわけではない。
だが、慰めるつもりもない。
「……助けてくれて、ありがとう。私……リュシア」
一瞬、言葉に詰まる。
「……リュシア・フェル……ううん、リュシア。今日、冒険者になったの」
「ああ……」
男は頷きかけて、少し言葉を切った。
「……ん? そういえば、そのことだが……いや、俺が言うことでもないか」
気になる言い方だった。
「あの……お名前、聞いても?」
「俺か?」
男は、少しだけ間を置いて。
「ガルドだ。冒険者ランクはD」
……D?
一瞬、拍子抜けした。
もっと強い人なのかと思っていた。
もっと高ランクで、歴戦で――。
冒険者ランクは、S・A・B・C・D・E。
Eが最底辺。初心者。
Dは、その一つ上。
中年で、Dランク。
助けられたのは事実。
でも――。
この人に、教わる必要はないような気がする。
私は、風の氏族。
兄はもっと上へ行った。
今はまだ、下にいるだけ。
そう。
今は、まだ。
文章が上手いとか技法とか、装飾とかも全くない&使えないド素人です。
気兼ねなく、感想や評価が貰えたら嬉しいです。
よろしくお願いします。