風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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1話 今日から冒険者

 

 

 

 真新しい革鎧が、朝の光をわずかに跳ね返していた。

 

 

 縫い目にほつれはなく、留め具はまだ硬い。

 使い込まれた痕など、どこにもない。

 

 それでも――

 リュシア・フェル・アエリスは、胸を張って歩いていた。

 

 

 腰に下げたナイフは、研ぎ澄まされ、飾り紋の刻まれた革鞘に収まっている。

 軽やかな足取りは迷いがなく、風の氏族の末っ子にふさわしい真っ直ぐさだった。

 

 

 

 今日から、冒険者になる。

 そう決めたのは昨日のことだ。

 

 

 だから、もう迷わない。

 

 

 石畳の向こうに見えた建物を見つけた瞬間、リュシアは歩調を速め、そして――駆け出した。

 

 

 冒険者ギルド。

 

 

 人の出入りが絶えないその扉を、彼女はためらいもなく押し開ける。

 

 

 ――どんっ。

 

 

 空気が変わる。

 

 

 酒と鉄、汗と紙の匂い。

 視線が、いくつもこちらを向いたのがわかった。

 

 

 けれど、リュシアは気にしなかった。

 

 

 一直線に、受付へ。

 

 

 

「冒険者登録をお願いします」

 

 

 少しだけ高い声。

 けれど、言い切る。

 

 言ったなら、やる。

 思ったなら、動く。

 

 受付嬢が一瞬だけ彼女を見て、それから慣れた手つきで手続きを促す。

 

 

「登録料は金貨一枚です」

 

 

 待っていましたと言わんばかりに、リュシアは懐から金貨を取り出し、差し出した。

 

 

 重みのある音が、木製のカウンターに落ちる。

 

 周囲の空気が、わずかにざわめいた。

 

 

 

「……はい、確かに。こちらが控えと――」

 

 

 受付嬢は銀貨を数枚、慣れた動作で返そうとしたが、

 

 

 その時にはもう、リュシアは冒険者証を受け取っていた。

 

 

 くるりと振り返り、ギルドの中を一望する。

 

 

 掲示板。

 談笑する冒険者たち。

 傷だらけの鎧。

 知らない世界。

 

 

 胸が、軽くなる。

 

 

「……よし」

 

 

 小さく、そう呟いて。

 

 次の瞬間、リュシアは駆け出していた。

 

 

「ちょ、ちょっと待って――!」

 

 

 受付嬢の声が背中に飛ぶ。

 だが、届かない。

 

 

 扉が開き、光が差し込み、風が吹く。

 

 夢の第一歩を踏み出すように。

 何も知らないまま。

 

 

 

 風は、止まらない。

 

 

 軽やかに跳ねる足取りは、そのまま街の外へと向かっていた。

 

 

 

 石畳が途切れ、土の道へと変わる。

 リュシアは、歩調を緩めない。

 

 

 城門の前に立つ門兵が、こちらを見た。

 

 

「……冒険者、か?」

 

 

 問いに答える代わりに、リュシアは胸元から一枚の金属板を引き抜いた。

 まだ傷一つない、薄い光を帯びた証。

 

 

 

「今日からです!」

 

 

 少し誇らしげに、そう言って掲げる。

 

 

 

 門兵の視線が、証に落ちる。

 その眉が、わずかに寄った。

 

 

「おい、待て。それは――」

 

 

 だが、リュシアは止まらなかった。

 

 

 

 風の氏族の家訓は、彼女の背を押す。

 

 

 言ったならやる。

 思ったなら、動く。

 

 

 呼び止める声が背後で重なった気がしたが、振り返らない。

 

 止まる理由が、彼女にはなかった。

 

 

 ――ダンジョン。

 

 

 その言葉が胸の内で弾む。

 

 

 

 探検。

 冒険。

 魔物退治。

 

 

 物語の中で、何度も見た光景。

 兄様が当たり前のように語っていた世界。

 

 

 それが、今日から自分のものになる。

 

 

「……始まったんだ」

 

 

 そう呟いて、森へ足を踏み入れた。

 

 

 

 空気が、ひんやりと変わる。

 湿った土の匂い。

 木々に遮られた陽光。

 

 

 しばらく走ってから、ようやく立ち止まり、息を整えた。

 

 

 

「……はぁ、……はぁ……」

 

 

 額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。

 

 周囲を見渡す。

 

 洞穴。

 洞窟。

 遺跡の入り口。

 

 

 どれも、まだ見えない。

 

 

 リュシアは腰のポーチに手を伸ばし、短い杖を取り出した。

 白木に施された繊細な装飾。

 先端には、小さな魔石が嵌め込まれている。

 

 

 実戦よりも、どこか"贈り物"めいた杖。

 

 

 それでも、彼女はそれを握りしめた。

 

 

 

 一歩。

 また一歩。

 

 

 枝を踏み割る音が、やけに大きく響く。

 枯れ草が潰れ、衣擦れの音が重なる。

 

 

 

 

 ――そして。

 

 

 

「……あ」

 

 

 

 木々の隙間に、闇が口を開けていた。

 

 自然に穿たれた岩肌の洞穴。

 周囲の草は踏み荒らされ、奥から冷たい空気が流れ出している。

 

 

 間違いない。

 

 

 

 ダンジョンだ。

 

 

 胸の奥が、ひくりと冷えた。

 

 

 ほんの一瞬だけ。

 それは、これまで知らなかった感覚だった。

 

 

 けれど、リュシアはそれを振り払う。

 

 

 

「……大丈夫」

 

 

 誰に言うでもなく、そう言って。

 

 一歩、闇へ踏み出す。

 

 彼女はまだ知らない。

 

 

 それが、彼女の冒険の始まりだった。

 

 

 

 

 ダンジョンの中は、思っていたよりも静かだった。

 

 

 

 ゴツゴツとした岩肌に手を添えながら、リュシアは慎重に奥へと進む。

 指先に伝わる冷たさが、ここが街の外であることをはっきりと教えてくれた。

 

 

 

 腰に下げていた小さなランプに火を灯す。

 揺れる橙色の光が、足元と壁をぼんやりと照らした。

 

 

 洞は、進むにつれて少しずつ広がっていく。

 天井は高くなり、足元の岩は削られたように滑らかだ。

 

 さらに奥へ進むと、空気が変わった。

 

 自然の洞穴だったはずの壁は、いつの間にか様式の違う岩肌へと変わっている。

 どこか意図的に削られたような通路。

 

「……すごい」

 

 新鮮な体験に、思わず声が漏れた。

 胸の奥が熱くなり、高揚感が足取りを軽くする。

 

 

 これが、冒険。

 本の中でしか知らなかった世界。

 

 

 ――その時。

 

 前方に、緑色の影が揺れた。

 

 

 尖った耳。

 潰れたような鼻。

 小柄な体躯。

 

「……ゴブリン」

 

 何度も聞いた名だ。

 

 次の瞬間、物音に気づいたのか、影が振り返る。

 横に並んだもう一体と共に、二対の瞳孔がこちらを捉えた。

 

 迷いはなかった。

 

「――風よ、力となりて集え……」

 

 短い詠唱。

 

「ウインドブラスト!」

 

 不意打ちの即射。

 

 圧縮された風の塊が、唸りを上げて放たれる。

 

 

 

 直撃。

 

 一体のゴブリンの体が宙に浮き、次の瞬間、四肢が弾け飛んだ。

 血と肉片が壁に叩きつけられる。

 

 隣にいたゴブリンが、甲高い悲鳴を上げ、踵を返す。

 

 逃がさない。

 

 リュシアは迷わず、再び杖を向けた。

 

 

「ウインドブラスト!」

 

 二撃目が背中を貫き、ゴブリンは音もなく崩れ落ちた。

 

 静寂。

 

 自分の荒い呼吸だけが、洞内に響く。

 

「……」

 

 リュシアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 そして――

 

「……大したこと、ないかも」

 

 ぽつりと、そう呟く。

 

 思っていたよりも、あっけない。

 拍子抜けするほど、簡単だった。

 

 魔物は倒れ、彼女は無傷だ。

 

 胸の奥に、確かな手応えが残る。

 

「やっぱり……」

 

 小さく笑みが浮かぶ。

 

「私、強いんだ」

 

 それも当然だ。

 兄も姉も、誰もが認める実力者。

 

 その妹なのだから。

 

 高揚感が、足取りをさらに軽くする。

 

 リュシアは、躊躇なくダンジョンの奥へと進んでいった――今度は、少しだけ警戒しながら。

 

 

 

 ゴブリンを倒した直後とは違う。

 呼吸を整え、足取りを抑え、周囲の岩肌や天井にも視線を配る。

 

 

 冒険者。

 ダンジョン。

 

 その言葉に付いてくるのは、危険だけじゃない。

 

 ――お宝。

 

 迷惑をかける魔物を退治して、戦利品を得る。

 良いことづくし。

 

「……兄様に、自慢しなきゃ」

 

 そんなことを思って、口元が緩む。

 

 あの兄が、驚く顔。

 姉が、少しだけ悔しそうに笑う顔。

 

 想像は、楽しかった。

 

 現実よりも、ずっと。

 

 リュシアは、目についたゴブリンを見逃さなかった。

 岩陰、通路の先、段差の向こう。

 

「――ウインドブラスト」

 

 確実に。

 正確に。

 

 一匹残らず、風で吹き飛ばす。

 

 ゴブリンの断末魔が、洞内に響く。

 うめき声が、反響して消えていく。

 

 それでも、彼女は進んだ。

 

 

 

 ――そして。

 

 

 少し広い空間に出た。

 

 天井が高く、柱のような岩がいくつも立つフロア。

 その中央に、一体のゴブリンが立っていた。

 

 こちらを、まっすぐに見据えて。

 

 

「……見つけた!」

 

 胸が、跳ねる。

 

 

 悪いゴブリンは、退治しないと。

 

 

 

 そう思った瞬間、ゴブリンは「ゲヘゲヘ」と意味の通らない声を漏らし、踵を返した。

 

 逃げる。

 

「あ、待ちなさい!」

 

 反射的に、後を追う。

 

 歩きながら杖を向け、詠唱する。

 

 

「ウインドブラスト!」

 

 轟音。

 

 圧縮された風が、逃げるゴブリンを巻き込み、宙で弾けた。

 

 

 勝った――

 

 そう思った、その瞬間。

 

 

 

 正面の死角。

 

 

 

 岩柱の陰から、

 通路の割れ目から、

 天井近くの段差から。

 

 

 

 ――ゴブリンが、現れた。

 

 

 

 一匹ではない。

 

 二匹。

 三匹。

 四匹。

 いや、もっと……。

 

 

 

 徒党を組み、甲高い叫び声を上げながら、一斉に襲いかかってくる。

 

 

 

「……っ!」

 

 リュシアの足が、止まる。

 

 

 

 今までとは違う。

 

 数。

 距離。

 角度。

 

 初めて、風が――遅く感じられた。

 

 

 

 

 

 ───《別視点》

 

 歳を重ねた皺が、目立つ。

 革鎧は使い込まれ、継ぎ当ての跡が多い。剣も盾も、派手さとは無縁だ。

 

 ただ――足取りだけは無駄がなかった。

 

 同じダンジョンに、先行者がいる。

 しかも、これは……。

 

「こりゃ、ひでぇな……」

 

 足元に転がるのは、もはや死体と呼ぶには惨すぎるゴブリンの残骸だった。

 肉片は壁や床に貼りつき、血の匂いが濃く残っている。

 一撃、いや、過剰だ。明らかに。

 

 魔法。

 それも、制御はできているが、加減を知らない類の。

 

 しゃがみ込み、床に落ちていた小さな欠片を指先で摘む。

 淡く光る、宝石のような石――魔石だ。

 

「……勿体ねぇ」

 

 小さく呟き、小袋へ落とす。

 この程度の魔石でも、積もれば酒代になる。

 拾わない理由はない。

 

 探索、というよりも。

 これは、現場検証に近い。

 

 次。

 また次。

 ゴブリンは、例外なく正確に倒されている。

 急所を外さず、範囲も狙っている。だが……。

 

「音がでかすぎる」

 

 これだけ派手にやれば、周囲の魔物が気づかないはずがない。

 それでも、本人は気にしていないのだろう。

 ――いや、気づいていない。

 

 足跡は軽い。

 躊躇がなく、迷いがない。

 まるで、危険という概念が、頭の中に存在しないかのようだ。

 

 嫌な予感が、腹の底で重くなる。

 

 少し進んだ先。

 広めのフロアの手前で、立ち止まる。

 

 壁の擦れ。

 血の飛び散り方。

 魔力の残滓。

 

 囮だな。

 

「……若ぇ」

 

 逃げるゴブリンを追った。

 正面だけを見て、脇を見なかった。

 典型的な、初心者の判断ミス。

 

 

 それでも――。

 

 

 地面に伏す複数のゴブリンの亡骸を見て、男は目を細めた。

 

「……生きてるか」

 

 

 

 安堵とも、呆れともつかない息が漏れる。

 火力はある。判断は甘い。

 そして何より、運がいい。

 

 今のところは。

 

 男は、音を立てずに歩き出す。

 距離を保ち、気配を殺し、影のように。

 

 

 

 

 ――同刻。

 

 

 

 ゴブリンの逃げる背中を見た瞬間、足が勝手に前へ出ていた。

 考えるより先に、体が反応していた。

 

 慎重になる理由はもう持っていなかった。

 

 物陰から飛び出してきたゴブリンも、反射的に倒した。

 

 

 風を集め、放つ。

 短い詠唱、即射。

 骨の砕ける音と、湿った悲鳴。

 

 

 

 四体……五体……?

 

 

 

 数を数える余裕はなかった。ただ、倒した。それだけだった。

 

 

 前しか見ていなかった。

 背後など、気にする理由がないと思っていた。

 

 

 ――その瞬間だった。

 

 背中に、重さがのしかかった。

 次の刹那、硬い衝撃が後頭部を打ち抜く。

 

 ぐん、と視界が傾く。

 世界が横倒しになった。

 

 

 

 音が、遠のく。

 思考がひどく遅れる。

 

 

 追い打ちのように、左の腿へと石が叩きつけられた。

 鈍い衝撃が走り、足から力が抜ける。

 

 ――捕まる。

 

 痛みよりも先に、その言葉が浮かんだ。

 

 痛い。

 ……いや、痛いどころじゃない。

 

 反射的に、ナイフを抜いた。

 振り向きざまに突き出し、掴みかかってきた腕を切り裂く。

 

 ギャッ、と短い悲鳴。

 

 

 

 出口の方を見る。

 そこには、すでに徒党を組んだゴブリンたちがいた。

 

 逃げ場が、塞がれている。

 

 

 自然と、足は奥へ向かっていた。

 逃げるように、距離を取る。

 

 

 ――逃げる。

 でも、止まれない。

 立ち止まったら、終わる。

 

 

 至近距離で魔法は使えない。

 風は爆ぜる。

 自分も巻き込んでしまう。

 

 

 必ず、距離をあけなければ。

 

 追いかけてくる一体に、振り返りざまに風を放つ。

 胴が弾け、壁に叩きつけられる。

 

 さらに、もう一体。

 

 奥へ進むたびに、待ち構えているゴブリンを倒して。

 背後から迫る気配に振り向き、倒して。

 

 

 

 倒して。

 倒して――

 

 

 ……あれ?

 

 

 減らない。

 

 

 いや、

 増えている?

 

 

 

 胸の奥に、重たいものが沈み込む。

 息が、荒い。

 

 

 疲労が、どっと押し寄せてくるのを感じた。

 

 

 ――大したことない。

 こんな、雑魚なんかに。

 

 そう思おうとした。

 

 

 けれど、殴られた後頭部が、どくどくと脈打っている。

 視界の端が、僅かに揺れる。

 

 

 引きずるようになった左の腿が、痛くて、邪魔だった。

 

 それでも足は、止まらない。

 止められない。

 

 

 

 

 

───《別視点》

 

 

 

 

 後を追うのは、簡単だった。

 

 ゴブリンの血肉が弾け飛び、壁や床に貼りついた痕跡を辿るだけでいい。

 

 過剰火力。雑な殲滅。

 ――派手で、長くはもたないやり方だ。

 

 ザシュ、と。

 

 物音を立てず、はぐれた一体を始末する。

 喉、心臓、肺。順に、無駄なく突き刺す。

 倒れる音すら拾わせず、死体を壁際に転がした。

 

 ……動きが騒がしい。

 

 奥から、興奮した唸り声が重なって聞こえる。

 鼓舞だ。獲物を追う前の、あの厄介な高まり。

 

 初心者は近い。

 だが――静かすぎる。

 

 さっきまで鳴っていたはずの魔法音も、

 肉が弾ける音も、今はしない。

 

 嫌な沈黙だ。

 

 生きるか死ぬか、その境目はいつも、こういう時に来る。

 

 たかがゴブリン。

 されどゴブリン。

 

 

 

 三、四体に張り付かれれば、どんな冒険者でも転ぶ。

 

 

 床は血と肉でぬかるみ、足場も最悪だ。

 

 一呼吸おいて、物陰から道具袋を探る。

 

 ――爆竹。

 

 畑で使う、魔物避け。

 確実な効果はないが、耳のいい連中には効くことがある。

 

 

 無謀だと分かっている。

 だが、前にもこれで切り抜けた。

 

 

 静かに火をつけ、ゴブリンの集まりへ投げ入れる。

 

 

 次の瞬間、駆けた。

 

 

 

 背中を向けた二体の首を一閃。

 勢いのまま踏み潰し、通路を押し切る。

 

 

 

 武器はこん棒、石、拾い物の木切れ。

 投擲される可能性はあるが、今は気にしない。

 

 

 

 バチバチバチ――。

 

 

 

 炸裂音に、ゴブリンが一斉に騒ぎ立てる。

 統率が、崩れる。

 

 

 

 その先に――いた。

 

 

 

 ギルドで勢いよく飛び出していった、あのバカな初心者。

 

 

 

 周囲には、転がる屍。

 生き残った数体が、距離を測るようにうろついている。

 

 

 目が合った。

 

 小娘は、飾り物みたいな杖を両手で構え、

 青光りするナイフを逆手に持っていた。

 

 ――無茶な構えだ。

 

 

 

「よぉ、初心者」

 

 声を低く、短く。

 

 

 

「今日は運がいいな。動けるか。帰るぞ」

 

 

 

 返事を待たず、爆竹をもう二つ。

 奥と、出口側へ放り投げる。

 

 

 

 ナイフを鞘に納めさせ、手首を掴んだ。

 

 走る。

 

 飛びかかってきたゴブリンを、突きではなく殴るように沈める。

 

 刃を引かず、蹴り倒し、踏み潰す。

 

 

 止まらない。

 

 統率さえ乱れれば、連中は怖くない。

 

 怒り狂った怒声。

 泥濘んだ床を叩く足音。

 

 それらを背に、ただ出口を目指す。

 

 ――生き残るために必要なのは、

 勇気じゃない。

 

 撤退の判断だ。

 

 

 

 ──

 

 

 

 

 ━━――気を失っていた、のだろうか。

 それとも、眠っていた……?

 

 どくり、と。

 

 後頭部を刺すような痛みが、思考を現実へ引き戻した。

 思わず息を吸い、目を開く。

 

 木陰。

 森の外れ。

 その向こうに、街が見えた。

 

 ……外?

 

 体を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。

 そして、視界に入ったのは―― 一人の男。

 

 古びた装備。

 地味な身なり。

 派手な武器も、目立つ杖も持たない。

 

 年だけ食った、冴えない冒険者。

 

 ……この人が?

 

「……死ななかったな。それで今日は十分だ」

 

 中年の男は、それだけを言った。

 感情の起伏もなく、淡々と。

 

「……ありがとう……」

 

 声が小さくなる。

 反射的に、頭を下げていた。

 

 その拍子に、自分の手元が目に入る。

 赤い。

 

 服も、手も、装備も。

 返り血だった。

 

 胸の奥が、ひくりと震えた。

 

 ――私、こんなに……。

 

 必死で、夢中で。

 自分がどうなっているかなんて、考える余裕もなかった。

 

 それでも――。

 

 

 

 戦った手応えは、確かにあった。

 ゴブリンは倒れた。逃げた。怖気づいていた。

 

 

 これから、もっと強くなれる。

 そんな確信が、胸の奥から湧いてくる。

 

 

 

 あのまま戦っていても、きっと――。

 

 

 

 立ち上がろうとした瞬間、

 ズキン、と太腿が悲鳴を上げた。

 

 

「――っ」

 

 

 膝が崩れ、ぺたんと地面に座り込む。

 

 

「足もやられてたのか?」

 

 男は短く言い、いつの間にか拾っていた枝を差し出した。

 手際よく添え木にし、布を巻いて固定する。

 

 

「立つんなら自分で立て。自分で生んだ痛みだ」

 

 

 冷たい。

 そう感じた。

 

 

「次は、そうならないように噛みしめるんだな」

 

 

 責めているわけではない。

 だが、慰めるつもりもない。

 

「……助けてくれて、ありがとう。私……リュシア」

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 

「……リュシア・フェル……ううん、リュシア。今日、冒険者になったの」

 

 

「ああ……」

 

 男は頷きかけて、少し言葉を切った。

 

「……ん? そういえば、そのことだが……いや、俺が言うことでもないか」

 

 

 気になる言い方だった。

 

 

「あの……お名前、聞いても?」

 

「俺か?」

 

 

 男は、少しだけ間を置いて。

 

 

「ガルドだ。冒険者ランクはD」

 

 

 

 ……D?

 

 一瞬、拍子抜けした。

 

 

 もっと強い人なのかと思っていた。

 もっと高ランクで、歴戦で――。

 

 

 冒険者ランクは、S・A・B・C・D・E。

 Eが最底辺。初心者。

 Dは、その一つ上。

 

 

 中年で、Dランク。

 

 助けられたのは事実。

 でも――。

 

 

 この人に、教わる必要はないような気がする。

 

 

 私は、風の氏族。

 兄はもっと上へ行った。

 

 今はまだ、下にいるだけ。

 

 

 そう。

 今は、まだ。




文章が上手いとか技法とか、装飾とかも全くない&使えないド素人です。

気兼ねなく、感想や評価が貰えたら嬉しいです。


よろしくお願いします。
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