風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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9話前編 甘くて、酸っぱくて

《ミアレ視点》

 

 

 朝のギルドは、いつもより少しだけ騒がしかった。

 

 

 重たい木の扉が開くたび、外の冷たい空気が流れ込み、酒と汗と鉄の匂いが混ざった室内を薄くかき回していく。依頼掲示板の前では既に何人かの冒険者が紙を剥がし、受付には短い列ができていた。笑い声と愚痴と金属の触れ合う音が、天井の梁に鈍く反響する。

 

 

 私は、そのどれにも加わらず、入り口に近い長椅子に腰を下ろしていた。

 

 理由は簡単だ。待っているからだ。

 

 一昨日の夕方、魔道具店で見た光景が、どうしても頭から離れなかった。

 

 壁に飾られ、並んでいた一本の杖。リュシアちゃんの視線が固まった先にあった杖。値札を見た瞬間の、リュシアちゃんの表情。硬貨を出したけれど足りず、何かを言おうとして、言葉を飲み込み、視線を逸らし、そして踵を返して走り去った背中。

 

 

 追いかけられなかった。

 

 

 追いかけて、なんて声をかければいいのかわからなかったからだ。

 

 「大丈夫?」なんて言葉はどこか違う気がした。あの顔は、慰めを求めている顔ではなかった。ただ、見られたくないものを見られてしまった――そんな硬さがあった。

 

 だから昨日、私は一日中このギルドにいた。

 

 彼女が来るかもしれないと思って。

 昼を過ぎ、依頼板の紙が何枚も剥がされ、受付の列が何度も入れ替わっても、扉の音に肩が反応するのはやめられなかった。結局、日が落ちても彼女は現れなかった。

 

 落ち込んでいるのだと思った。

 

 顔を出せないほど、きっと。

 

 もしかしたら、無理をしているのではないか。誰かに何か言われて、余計に傷ついているのではないか。想像は勝手に膨らんで、どれも確かめようがなかった。

 

 だから私は、小さな木箱を用意した。

 

 廃材の端を削り、蓋に硬貨の入る細い切れ込みを入れて、角を紙やすりで丸くする。時間だけはあった。

 表面には焼きごてで簡単な風の模様を刻んだ。線は少し歪んでしまったが、それも手作りらしくていいと思うことにした。底の端には、目立たないよう小さく羽根の印も入れる。

 

 貯金箱。

 子供じみているかもしれない。けれど、ただ「頑張れ」と言うより、形があった方がいい気がした。

 

「……来るかな」

 

 独り言は、周囲の喧騒に紛れて消える。

 

 そのときだった。

 

 勢いよく扉が開き、朝の冷たい空気と一緒に、見慣れた薄緑が飛び込んできた。逆光の中で銀がかった髪がふわりと揺れる。扉が背後でギィ、と軋んだ。

 

 

 軽やかな足取り。

 頬はほんのり赤く、目はきらきらと輝いている。

 

 リュシアちゃんだった。

 

 

 一瞬、誰か別人かと思った。昨日一日見なかった人物とは思えないほど、機嫌がいい。いや、良すぎる。

 

「ミアレさん!」

 

 

 真っ直ぐこちらに向かってくる。

 私は慌てて立ち上がった。

 

「お、おはよう……リュシアちゃん」

「はい、おはようございます!」

 

 

 弾む声。曇りのない笑顔。

 

 落ち込んでいたのではないのだろうか。

 それとも――無理をしている?

 

 そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。短い付き合いだけれど、強がりな子であることはわかっている。笑っているけれど、本当は悔しくて、どうしていいかわからないのかもしれない。

 

 

「リュシアちゃん、ちょっといい?」

「はい?」

 

 鞄から木箱を取り出す。両手で持つと、思ったよりも軽い。中身が空だから当然なのに、その軽さが少し心許ない。

 

 

「これ……」

 

 差し出すと、彼女は首をかしげた。

 箱と私の顔を交互に見る。

 

「えっと……開けていいですか?」

「うん」

 

 蓋を開ける。中には何も入っていない空洞があるだけだ。しばらく見つめて、また私を見る。

 

 

「……箱?」

「貯金箱。杖、また買えるようにって」

 

 言った瞬間、彼女の目が見開かれた。

 唇が、ほんのわずかに震える。

 

 

「……私の、杖」

「無理に元気にしてるのかなって思って。昨日、来なかったから……」

 

 

 余計なことだったかもしれない。

 子供扱いだったかもしれない。

 

 そう思って言葉を濁しかけたとき、彼女はぎゅっと箱を抱きしめた。小さくつけた木の鈴が、からりと鳴る。

 

 

「ありがとうございます!」

 

 

 大きな声だった。周囲の冒険者が何人か振り向くほどに。

 涙ぐんでいるのに、笑っている。無理に作った笑顔ではない。純粋に、嬉しそうな顔だった。

 

「私、頑張ります!いっぱい依頼受けて、いっぱい稼いで、絶対に取り戻します!」

 

 

 どうやら私は、少し勘違いしていたらしい。

 けれど、その勘違いも、無駄ではなかったのだと思えた。

 

 

「じゃあ、さっそく依頼行きましょう!」

 

 

 くるりと振り返り、掲示板を指差す。

 

「意気込みすごいね……」

「はい! 今日はいっぱいやります!」

 

 

 木箱を抱えたまま、彼女は掲示板の前へ駆けていく。

 

 私はその背中を追う。

 

 

 すれ違いはあった。

 知らない一日もあった。

 それでも、同じ場所に立てるなら、それでいい。

 

 人は、自分の見ていないところで、知らないだけで、前に進んでいるのかもしれない。歩幅の大きさはわからない。転びそうになることも、きっとある。

 

 

 掲示板の前で依頼書を眺める横顔を見ながら、私は静かに思った。

 

 

 小さな木箱は、まだ軽い。

 けれどいつか、彼女の歩いた分だけ重くなるのだろう。

 その重さを、隣で見ていられるなら――それでいい。

 

 

 

 

 ギルドの中は喧騒だった。

 

 木の床を踏む靴音、笑い声、酒の匂い、金属が触れ合う乾いた音。

 

 そのどれもが耳に入っているのに、私は気にすることもなく、視線だけを依頼掲示板へ向けていた。

 

 自然と、Dランクの依頼を流し見る。

 

「リュシアちゃん、それはDランクの依頼だけど気になるの?」

 

 隣から届いたミアレの声に、私は少し肩を揺らした。

 

「あ、うん。ちょっと、どんなものがあるのかと思いまして」

 

 紙に並ぶ文字を追う。

 採集、駆除、素材納品。

 その中に、オークの文字はなかった。

 

 少しだけ、残念に思う。

 あのお肉は美味しかった。もしまた手に入ったら、ミアレにも食べてもらいたい。そんな気持ちがあった。

 

 視線を落として、さらに下の依頼を見る。

 

 薬草類の採集。

 大ネズミの駆除。

 ホーンラビットの素材。

 

 ――素材?

 

 私はその依頼書を手に取った。

 

 ホーンラビットの肉、八匹分。

 報酬、銀貨四枚と銅貨五枚。

 

 薬草の依頼より、遥かにいい。数字だけ見ればそう思えた。

 

 横から「あ……」と、ミアレの小さな声が聞こえた気がした。

 振り向くと、何でもないよ、と微笑まれる。

 

 一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされる。

 何か言いたそうで、言わない顔だった。

 

 

「リュシアちゃんがそれを選ぶなら……」

 

 

 そう言いながら、ミアレは掲示板の依頼を指で一つずつ数えるように見ていく。

 そして、別の紙をそっと手に取った。

 

 木の実(ナッツベリー)の納品依頼。

 赤と紫の実を、籠いっぱい――一キロ。

 報酬、銀貨三枚。

 

 私は覗き込む。

 ミアレは少しだけ顔を離した。

 

 それが多いのか少ないのか、正直よく分からない。

 それよりも、果物や植物の見分けがつかない私にとって、その依頼は意味を成していなかった。

 

 何より――

 

 私は強い。

 オークだって、一撃で倒せた。

 

 あのときの風の衝撃。

 杖を振り下ろした瞬間、空気が弾けた感覚。

 手に残っている、あの確かな手応え。

 

 今の私なら、きっと何でも倒せる。

 

「ミアレさん、その、それってわかるんですか?」

 

 目線が合う。

 ミアレは少し頭を傾け、やわらかく微笑んだ。

 

「分かるよ。もし分からなかったら、リュシアちゃんにも教えてあげるね?」

 

 つまんだ依頼書を揺らすと、紙がかさりと鳴る。

 

「受付のお姉さんのところ、行こ?」

 

 私は頷いて、ミアレと一緒に列へ並んだ。

 

 手続きを終えて、私たちはギルドを出た。

 

 

 

 場所は平原だった。

 バルクとロニオと行った大空洞のダンジョンへ向かう途中、遠くに見えていた草原。そこだ。

 

 

 

 道を挟んだ反対側には森が広がっている。

 どちらにも生息しているらしい。

 

 

 

 風が頬をなでる。

 

 

 

 ギルドの混ざった匂いはもうなく、湿った土と草の匂いだけが残っていた。

 膝ほどの高さの草が、波のように一面に揺れている。

 

 立っているのは、私とミアレだけ。

 

 ホーンラビット。

 平原に入ってから、まだ一匹も見つかっていない。

 

 私は杖を両手で抱え、堂々と歩いているつもりだった。

 けれど、何かがおかしい。

 何か、思っていたのと違う。

 静かすぎる。

 

「ねぇ、ミアレさん。ホーンラビットってここで合ってるの?」

 

 確認のために問う。

 ミアレは周囲を見回して、小さく頷いた。

 

「うん。ここにいるよ」

 

 少し間を置いて、続ける。

 

「でも……臆病だから。気配を感じると、すぐ逃げちゃうの」

 

 そのとき、草が一斉に揺れた。

 風ではない何かが、低く走った気がした。

 

 姿を掴めないまま、足音だけが草の中に消えていく。

 

 ……逃げた。

 

 私は杖を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。

 

 ミアレがそっと隣に並ぶ。

 

「ナッツベリー、先に採りに行こっか」

 

 その声は、責めていなかった。

 ただ、穏やかに次を示していた。

 

 木の葉が擦れ合う音が、頭の上でやわらかく鳴っていた。

 

 風が通るたびに枝が揺れ、光がまだらに地面へ落ちる。

 私はミアレに誘われるまま、森の中を歩いていた。

 

 目的地は、きのみのなる場所。

 少し開けたところに出ると、そこだけぽつぽつと背の低い木が立っていて、枝先に小さな果実をつけていた。

 

「ベリーナッツ」

 

 ミアレがそう言った。

 

 赤と紫の実が、斑模様のように枝を彩っている。

 宝石みたいに綺麗にも見えるし、どこか毒々しくも見えた。

 

 森は静かだった。

 けれどその静けさは、ふいに破られる。

 

 ばさばさ、と忙しなく風を叩く音。

 小鳥たちが一斉に枝から飛び立ち、羽根を一枚、二枚と残していく。

 

 足元に視線を落とすと、こぼれた果実が転がっていた。

 啄まれたのか、熟して落ちたのか分からない。

 その中に、黒い粒のようなものが混じっている。

 

 きのみにはない色。

 丸くて、小さくて、硬そうなそれ。

 

 けれど私は、特に気にしなかった。

 

「ねぇ、ミアレさん。この実って食べられるの?」

 

「うん、食べられるよ」

 

 ミアレは慣れた手つきで実を摘み、かごへと放り込んでいく。

 迷いがない。選び方も早い。

 私はその様子を少し観察してから、真似をするように紫の実を指で摘んだ。

 

 もぎ取った拍子に、枝がかすかに揺れる。

 

 表面はつるりとしていて、指に吸い付くような弾力がある。

 匂いはほとんどない。

 でも、よく嗅げばほんのり甘い気がした。

 

 私はそれを口に運ぶ。

 

 歯で潰すと、果肉が弾けた。

 果汁が舌の上に広がる。

 

 強い主張はない。

 少し酸っぱくて、ほんのり甘い。

 素朴な味だった。

 

 種のプチプチとした食感が、妙に心地いい。

 悪くない。

 

 今度は赤い実を口にする。

 見た目ほどの違いはない。

 ただ、少しだけ酸味が強い気がした。

 

「リュシアちゃんも手伝ってー」

 

「はーい」

 

 木から木へと移動しながら、未熟な実は残して、熟れたものだけを選ぶ。

 両腕いっぱいに抱えて、ミアレのかごへ落とす。

 

 ころころと音を立てて、実が溜まっていく。

 かごは思ったよりも早くいっぱいになった。

 

 ミアレはそれを片手で抱え直し、中から一粒つまむ。

 目を閉じて咀嚼する。

 

「ん〜……おいしい」

 

 ほっと息をつくように笑って、私を見る。

 

 視線が合った。

 ミアレは少し首を傾げ、いたずらっぽく目を見開く。

 

「はい、あーん」

 

 びっくりする間もなかった。

 口を開けた瞬間、実が放り込まれる。

 唇に、指先がかすかに触れた。

 

「おいしい?」

 

 私は頷く。

 

 かごの中の実を見る。

 成果。

 報酬。

 その一部を、今こうして口にしている。

 

 オークの肉を食べたときと、少し似ている。

 

 達成したあとに口に入るものは、味以上の何かを持っている。

 

「ご褒美」

 

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 

 ミアレは聞き返さなかった。

 ただ、私の様子をうかがうように、やわらかく微笑んでくれた。

 

 森はまた静かになる。

 風が葉を揺らす。

 どこかで、草が小さく鳴った気がした。

 

 けれど私は、かごの中の赤と紫だけを見ていた。

 甘くて、酸っぱくて、素朴な味。

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