《ミアレ視点》
朝のギルドは、いつもより少しだけ騒がしかった。
重たい木の扉が開くたび、外の冷たい空気が流れ込み、酒と汗と鉄の匂いが混ざった室内を薄くかき回していく。依頼掲示板の前では既に何人かの冒険者が紙を剥がし、受付には短い列ができていた。笑い声と愚痴と金属の触れ合う音が、天井の梁に鈍く反響する。
私は、そのどれにも加わらず、入り口に近い長椅子に腰を下ろしていた。
理由は簡単だ。待っているからだ。
一昨日の夕方、魔道具店で見た光景が、どうしても頭から離れなかった。
壁に飾られ、並んでいた一本の杖。リュシアちゃんの視線が固まった先にあった杖。値札を見た瞬間の、リュシアちゃんの表情。硬貨を出したけれど足りず、何かを言おうとして、言葉を飲み込み、視線を逸らし、そして踵を返して走り去った背中。
追いかけられなかった。
追いかけて、なんて声をかければいいのかわからなかったからだ。
「大丈夫?」なんて言葉はどこか違う気がした。あの顔は、慰めを求めている顔ではなかった。ただ、見られたくないものを見られてしまった――そんな硬さがあった。
だから昨日、私は一日中このギルドにいた。
彼女が来るかもしれないと思って。
昼を過ぎ、依頼板の紙が何枚も剥がされ、受付の列が何度も入れ替わっても、扉の音に肩が反応するのはやめられなかった。結局、日が落ちても彼女は現れなかった。
落ち込んでいるのだと思った。
顔を出せないほど、きっと。
もしかしたら、無理をしているのではないか。誰かに何か言われて、余計に傷ついているのではないか。想像は勝手に膨らんで、どれも確かめようがなかった。
だから私は、小さな木箱を用意した。
廃材の端を削り、蓋に硬貨の入る細い切れ込みを入れて、角を紙やすりで丸くする。時間だけはあった。
表面には焼きごてで簡単な風の模様を刻んだ。線は少し歪んでしまったが、それも手作りらしくていいと思うことにした。底の端には、目立たないよう小さく羽根の印も入れる。
貯金箱。
子供じみているかもしれない。けれど、ただ「頑張れ」と言うより、形があった方がいい気がした。
「……来るかな」
独り言は、周囲の喧騒に紛れて消える。
そのときだった。
勢いよく扉が開き、朝の冷たい空気と一緒に、見慣れた薄緑が飛び込んできた。逆光の中で銀がかった髪がふわりと揺れる。扉が背後でギィ、と軋んだ。
軽やかな足取り。
頬はほんのり赤く、目はきらきらと輝いている。
リュシアちゃんだった。
一瞬、誰か別人かと思った。昨日一日見なかった人物とは思えないほど、機嫌がいい。いや、良すぎる。
「ミアレさん!」
真っ直ぐこちらに向かってくる。
私は慌てて立ち上がった。
「お、おはよう……リュシアちゃん」
「はい、おはようございます!」
弾む声。曇りのない笑顔。
落ち込んでいたのではないのだろうか。
それとも――無理をしている?
そう思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。短い付き合いだけれど、強がりな子であることはわかっている。笑っているけれど、本当は悔しくて、どうしていいかわからないのかもしれない。
「リュシアちゃん、ちょっといい?」
「はい?」
鞄から木箱を取り出す。両手で持つと、思ったよりも軽い。中身が空だから当然なのに、その軽さが少し心許ない。
「これ……」
差し出すと、彼女は首をかしげた。
箱と私の顔を交互に見る。
「えっと……開けていいですか?」
「うん」
蓋を開ける。中には何も入っていない空洞があるだけだ。しばらく見つめて、また私を見る。
「……箱?」
「貯金箱。杖、また買えるようにって」
言った瞬間、彼女の目が見開かれた。
唇が、ほんのわずかに震える。
「……私の、杖」
「無理に元気にしてるのかなって思って。昨日、来なかったから……」
余計なことだったかもしれない。
子供扱いだったかもしれない。
そう思って言葉を濁しかけたとき、彼女はぎゅっと箱を抱きしめた。小さくつけた木の鈴が、からりと鳴る。
「ありがとうございます!」
大きな声だった。周囲の冒険者が何人か振り向くほどに。
涙ぐんでいるのに、笑っている。無理に作った笑顔ではない。純粋に、嬉しそうな顔だった。
「私、頑張ります!いっぱい依頼受けて、いっぱい稼いで、絶対に取り戻します!」
どうやら私は、少し勘違いしていたらしい。
けれど、その勘違いも、無駄ではなかったのだと思えた。
「じゃあ、さっそく依頼行きましょう!」
くるりと振り返り、掲示板を指差す。
「意気込みすごいね……」
「はい! 今日はいっぱいやります!」
木箱を抱えたまま、彼女は掲示板の前へ駆けていく。
私はその背中を追う。
すれ違いはあった。
知らない一日もあった。
それでも、同じ場所に立てるなら、それでいい。
人は、自分の見ていないところで、知らないだけで、前に進んでいるのかもしれない。歩幅の大きさはわからない。転びそうになることも、きっとある。
掲示板の前で依頼書を眺める横顔を見ながら、私は静かに思った。
小さな木箱は、まだ軽い。
けれどいつか、彼女の歩いた分だけ重くなるのだろう。
その重さを、隣で見ていられるなら――それでいい。
─
ギルドの中は喧騒だった。
木の床を踏む靴音、笑い声、酒の匂い、金属が触れ合う乾いた音。
そのどれもが耳に入っているのに、私は気にすることもなく、視線だけを依頼掲示板へ向けていた。
自然と、Dランクの依頼を流し見る。
「リュシアちゃん、それはDランクの依頼だけど気になるの?」
隣から届いたミアレの声に、私は少し肩を揺らした。
「あ、うん。ちょっと、どんなものがあるのかと思いまして」
紙に並ぶ文字を追う。
採集、駆除、素材納品。
その中に、オークの文字はなかった。
少しだけ、残念に思う。
あのお肉は美味しかった。もしまた手に入ったら、ミアレにも食べてもらいたい。そんな気持ちがあった。
視線を落として、さらに下の依頼を見る。
薬草類の採集。
大ネズミの駆除。
ホーンラビットの素材。
――素材?
私はその依頼書を手に取った。
ホーンラビットの肉、八匹分。
報酬、銀貨四枚と銅貨五枚。
薬草の依頼より、遥かにいい。数字だけ見ればそう思えた。
横から「あ……」と、ミアレの小さな声が聞こえた気がした。
振り向くと、何でもないよ、と微笑まれる。
一瞬だけ目が合い、すぐに逸らされる。
何か言いたそうで、言わない顔だった。
「リュシアちゃんがそれを選ぶなら……」
そう言いながら、ミアレは掲示板の依頼を指で一つずつ数えるように見ていく。
そして、別の紙をそっと手に取った。
木の実(ナッツベリー)の納品依頼。
赤と紫の実を、籠いっぱい――一キロ。
報酬、銀貨三枚。
私は覗き込む。
ミアレは少しだけ顔を離した。
それが多いのか少ないのか、正直よく分からない。
それよりも、果物や植物の見分けがつかない私にとって、その依頼は意味を成していなかった。
何より――
私は強い。
オークだって、一撃で倒せた。
あのときの風の衝撃。
杖を振り下ろした瞬間、空気が弾けた感覚。
手に残っている、あの確かな手応え。
今の私なら、きっと何でも倒せる。
「ミアレさん、その、それってわかるんですか?」
目線が合う。
ミアレは少し頭を傾け、やわらかく微笑んだ。
「分かるよ。もし分からなかったら、リュシアちゃんにも教えてあげるね?」
つまんだ依頼書を揺らすと、紙がかさりと鳴る。
「受付のお姉さんのところ、行こ?」
私は頷いて、ミアレと一緒に列へ並んだ。
手続きを終えて、私たちはギルドを出た。
場所は平原だった。
バルクとロニオと行った大空洞のダンジョンへ向かう途中、遠くに見えていた草原。そこだ。
道を挟んだ反対側には森が広がっている。
どちらにも生息しているらしい。
風が頬をなでる。
ギルドの混ざった匂いはもうなく、湿った土と草の匂いだけが残っていた。
膝ほどの高さの草が、波のように一面に揺れている。
立っているのは、私とミアレだけ。
ホーンラビット。
平原に入ってから、まだ一匹も見つかっていない。
私は杖を両手で抱え、堂々と歩いているつもりだった。
けれど、何かがおかしい。
何か、思っていたのと違う。
静かすぎる。
「ねぇ、ミアレさん。ホーンラビットってここで合ってるの?」
確認のために問う。
ミアレは周囲を見回して、小さく頷いた。
「うん。ここにいるよ」
少し間を置いて、続ける。
「でも……臆病だから。気配を感じると、すぐ逃げちゃうの」
そのとき、草が一斉に揺れた。
風ではない何かが、低く走った気がした。
姿を掴めないまま、足音だけが草の中に消えていく。
……逃げた。
私は杖を握りしめたまま、その場に立ち尽くした。
ミアレがそっと隣に並ぶ。
「ナッツベリー、先に採りに行こっか」
その声は、責めていなかった。
ただ、穏やかに次を示していた。
木の葉が擦れ合う音が、頭の上でやわらかく鳴っていた。
風が通るたびに枝が揺れ、光がまだらに地面へ落ちる。
私はミアレに誘われるまま、森の中を歩いていた。
目的地は、きのみのなる場所。
少し開けたところに出ると、そこだけぽつぽつと背の低い木が立っていて、枝先に小さな果実をつけていた。
「ベリーナッツ」
ミアレがそう言った。
赤と紫の実が、斑模様のように枝を彩っている。
宝石みたいに綺麗にも見えるし、どこか毒々しくも見えた。
森は静かだった。
けれどその静けさは、ふいに破られる。
ばさばさ、と忙しなく風を叩く音。
小鳥たちが一斉に枝から飛び立ち、羽根を一枚、二枚と残していく。
足元に視線を落とすと、こぼれた果実が転がっていた。
啄まれたのか、熟して落ちたのか分からない。
その中に、黒い粒のようなものが混じっている。
きのみにはない色。
丸くて、小さくて、硬そうなそれ。
けれど私は、特に気にしなかった。
「ねぇ、ミアレさん。この実って食べられるの?」
「うん、食べられるよ」
ミアレは慣れた手つきで実を摘み、かごへと放り込んでいく。
迷いがない。選び方も早い。
私はその様子を少し観察してから、真似をするように紫の実を指で摘んだ。
もぎ取った拍子に、枝がかすかに揺れる。
表面はつるりとしていて、指に吸い付くような弾力がある。
匂いはほとんどない。
でも、よく嗅げばほんのり甘い気がした。
私はそれを口に運ぶ。
歯で潰すと、果肉が弾けた。
果汁が舌の上に広がる。
強い主張はない。
少し酸っぱくて、ほんのり甘い。
素朴な味だった。
種のプチプチとした食感が、妙に心地いい。
悪くない。
今度は赤い実を口にする。
見た目ほどの違いはない。
ただ、少しだけ酸味が強い気がした。
「リュシアちゃんも手伝ってー」
「はーい」
木から木へと移動しながら、未熟な実は残して、熟れたものだけを選ぶ。
両腕いっぱいに抱えて、ミアレのかごへ落とす。
ころころと音を立てて、実が溜まっていく。
かごは思ったよりも早くいっぱいになった。
ミアレはそれを片手で抱え直し、中から一粒つまむ。
目を閉じて咀嚼する。
「ん〜……おいしい」
ほっと息をつくように笑って、私を見る。
視線が合った。
ミアレは少し首を傾げ、いたずらっぽく目を見開く。
「はい、あーん」
びっくりする間もなかった。
口を開けた瞬間、実が放り込まれる。
唇に、指先がかすかに触れた。
「おいしい?」
私は頷く。
かごの中の実を見る。
成果。
報酬。
その一部を、今こうして口にしている。
オークの肉を食べたときと、少し似ている。
達成したあとに口に入るものは、味以上の何かを持っている。
「ご褒美」
ぽつりと、言葉がこぼれた。
ミアレは聞き返さなかった。
ただ、私の様子をうかがうように、やわらかく微笑んでくれた。
森はまた静かになる。
風が葉を揺らす。
どこかで、草が小さく鳴った気がした。
けれど私は、かごの中の赤と紫だけを見ていた。
甘くて、酸っぱくて、素朴な味。