木陰にしゃがみ込みながら、私は平原を横目で見ていた。
草の波が風に揺れ、陽の光を細かく砕いている。
隣ではミアレが手を動かしていた。
休んでいるわけじゃない。
彼女は真剣な顔で、細いツルを指先で操っている。
少し多めに集めたベリーナッツのかごを脇に置き、近くの低木から切り取ったツルを枝に結びつける。
二度、きゅっと締め、形を整える。
指先が触れるたび、繊維が擦れる小さな音がした。
まるで編み物のようだった。
風に鳴る葉よりも静かで、草の擦れる音よりも控えめな動き。
「ホーンラビットは怖がりだから、私たちが会いに行くと逃げちゃうみたい」
そう言いながら、彼女の手元に輪ができる。
ツルで作られた、小さな円。
「だから、来てもらう必要があるの」
ミアレは輪の中心を指差し、私に指を入れるよう促した。
言われるまま、人差し指を差し込む。
「引いてみて」
軽く引く。
するり、とツルが締まった。
ああ、これは。
間違いない。罠だ。
「ミアレさん、すごいです」
思わず声が出る。
彼女は小さく笑ってから、輪へ視線を落とした。
「もがけば、もがくほど締まるけど……ツルがどこまで持ち堪えてくれるか、だね」
私の指にそっと触れ、食い込んだ跡を確かめるようにしてから、輪を解いて結び直す。
地面すれすれに置かれた輪は、草に紛れて見えなくなった。
指に残る細い跡を見つめる。
力の弱い生き物なら、きっと抜け出せない。
「ただ、これだけじゃ来てくれないから……」
ミアレの視線が、かごへ向く。
ベリーナッツを一つかみし、罠の周りにぱらぱらと撒く。
草の匂いに、ほんのり甘い香りが混じった。
「こうします」
「これで、来てくれるんですか?」
「来てくれると嬉しいなって」
確信ではなく、願いの声だった。
それでも、不思議と頼もしく聞こえる。
それから私たちは場所を変えながら罠を仕掛けていった。
教えてもらい、私も同じようにツルを編む。
上手くいかずにほどき、もう一度結ぶ。
ようやくできた輪を地面に置くたび、ベリーナッツを散らす。
全部で十三箇所。
そして私は、半ば意地のように道沿いの木陰にも罠を作った。
十四箇所目。
「ここにも……?」
ミアレが少し笑う。
けれど何も言わず、同じように実を散らしてくれた。
これで終わり。
そう思ったときだった。
「よぉ、何やってんだ」
低い声。
振り返ると、おじさんが立っていた。
ギルドの隅によくいる、冴えないDランクの人。
「ガルドさん」
ミアレが名前を口にする。
私は小さく息を飲んだ。
この人に、私は一度助けられている。
けれど、それをミアレに言うつもりはなかった。
胸の奥に、そっとしまっておきたい。
鼓動が速くなるのを、手のひらで感じる。
視線を動かす。
おじさんが引く紐の先、簡素な木の皮のソリ。
その上に二人の冒険者が横たわっている。
顔は苦しそうに歪み、血で汚れた布が胸に巻かれていた。
ソリが石に当たるたび、ゴリ、と鈍い音が響く。
仲間には見えなかった。
ガルドは、私とは目を合わせない。
罠を一瞥し、短く言う。
「罠か。ホーンラビットの狩猟か。考えたな」
それだけ言って、また歩き出す。
草を踏み分ける音と、ソリが地面を擦る音が遠ざかっていく。
私は、ほんの一瞬だけ目を逸らした。
見ない方が、楽だった。
あの二人は、何と戦ったのだろう。
どんな相手に、ああなったのだろう。
それでも――
私は杖を強く握る。
手の中の硬い感触が、現実よりも確かに思えた。
今の私なら、もう、ああならない。
強張った肩から、息がこぼれる。
風が草を揺らし、罠の輪が小さく震えた。
《別視点》
木の皮を剥いで作った簡素なソリは、地面を擦るたびに乾いた音を立てる。紐を肩にかけ、重さを引き受ける。
二人分の体重は軽くはないが、背負うよりはましだ。
ついでだ。
薬草の採取の帰り道、転がっているのを見つけただけ。わざわざ助けに行ったわけじゃない。そういうことにしておくのが、いちばん楽だ。
街門をくぐり、石畳に入ると音が変わる。
ざり、がら、ガハッ、ゲヘッ。
後ろでうめき声が漏れた。生きている証拠だ。十分だろう。
冒険者ギルドの扉を足で押し開ける。
昼時のざわめきが一瞬だけ止まり、すぐに元へ戻る。誰も大袈裟に騒がない。見慣れている光景だからだ。
「また拾ってきたんですか、ガルドさん」
受付の女が顔を上げて言う。咎めるでもなく、呆れるでもない。親しげな、だが一線を越えない声色。
俺は肩をすくめる。
「道に落ちてた。邪魔だったからな」
「はいはい。医務室、空いてますよ。今日は運がいいですね」
運がいいのは、あんたらの方だろう。
口には出さない。
奥へ運び、医務係に引き渡す。
名前も聞かない。
聞いたところで、どうせ覚えない。
戻ると、いつもの連中がテーブルを囲んでいた。Cランクの顔馴染み。昼間から酒をあおる連中だ。俺を見ると、にやつく。
「お、帰ってきたな。今日は二人か」
「俺の勝ちだな。三枚」
「いや、まだだろ。片方は死にそうだぞ」
賭けだ。
俺が外に出た日、俺が誰かを連れて戻るか、それとも初心者が何事もなく帰ってくるか。くだらない遊びだが、やめる気もないらしい。
俺はカウンターに銅貨を一枚置く。
「今日も無事に帰る方だ」
「お前、それで当たったことあったか?」
「ないな」
笑いが起きる。
命を何だと思ってやがる、と口では言う。だが銅貨は置く。やめない。やめる理由もない。
水のジョッキを受け取り、喉へ流し込む。昼間から酒を飲むほど、暇でも偉くもない。
冷たい水が腹に落ちる感覚だけが、はっきりしている。
死なせない余地。
ふと、あの女の声が頭に浮かぶ。リュシアの姉か、セレナだったか。
半分は確認で、半分は脅しだ。――このギルドにいる限り、死なせるな。もし何かあれば、どうなるか分かっているな。
言外に含んだものは重い。だが間違ってはいない。
あの妹の方は、危なっかしい。真っ直ぐで、無知で、折れるまで止まらない類だ。
だが、隣にいた小娘は違った。おそらくは罠の結び、餌の撒き方、位置取り。慎重だった。死にに行く奴の手つきじゃない。
あれが知恵か、経験か、ただの性分か。断定はできない。
結局は勘だ。
勘で動いて、勘で生き延びてきた。二十年もやっていれば、理屈より先に足が止まる場所が分かる。
それでも外れる。だから銅貨はいつも負ける。
医務室の方で足音が慌ただしくなる。生きるか死ぬかの境目は、だいたいあの扉の向こうにある。
俺は二杯目の水を頼む。
まだ、駆け出すバカがいる限りは。
昼間の酒は、飲まないでおく。
その頃、平原では。
道から少し外れた木陰に、私は腰を下ろしていた。
視界の半分には緩やかな草原が広がり、もう半分には細い街道が伸びている。
空は高く、雲はゆっくりと流れている――そう見えるのに、じっと見つめていると、ほとんど動いていないようにも見えた。
ミアレは私の脇に座り、肩が触れそうな距離で並んでいる。
今は何もしていない。罠を仕掛け終えて、ただ待っているだけだ。
待つ。
それが、こんなにも手持ち無沙汰で、何も起きない時間だとは思っていなかった。
草は風に揺れ、さざ波のように何度も同じ動きを繰り返す。木の葉が擦れ合う音も、一定の間隔で耳に届く。
変わらない景色。変わらない音。
私はそのたびに視線を動かし、退屈をごまかそうとした。
――拍子抜け、という言葉が頭に浮かぶ。
魔物は人に害をなす存在で、見つければ襲いかかってくるものだと思っていた。オークのように、目に入ればすぐ戦いになり、倒せば終わるものだと。
けれどホーンラビットは違った。
姿を見せない。
一度も見ていない。
罠は十三、いや十四か。あれだけ仕掛けたのに、何も起きない。
なんだか納得がいかなかった。魔物という言葉から想像していたものと、あまりにも違う。
膝を抱えるように体を丸め、隣のミアレを見る。
彼女は穏やかな表情で、草原の先を眺めていた。焦りも苛立ちもなく、ただそこにいる。
ふと視線が合う。
「お腹すいた?」
自然な声だった。
私は一瞬、何を言われたのかわからず、少し遅れて頷く。
ミアレはポーチを探り、布に丁寧に包まれたものを取り出した。結び目をほどき、開く。中から出てきたのは、薄く乾いた肉だった。
「燻製肉だよ。この間、森オオカミを倒したでしょ。そのお肉」
あの時、彼女が慣れた手つきで解体していた光景がよみがえる。
差し出されたそれを両手で受け取る。硬く、薄い。指で押すと、わずかな弾力が返ってきた。
「ありがとう……ミアレさんって、何でもできるんですね」
「そんなことないよ。お父さんが教えてくれただけ。冒険者になるなら必要だからって。捌くのも、火の起こし方も、罠も。教わったことをやってるだけ」
冒険者に必要なこと。
その言葉が胸に小さく刺さる。
私は無意識に胸元へ手を伸ばし、首から下げた冒険者証を指先で掴んだ。金属の冷たさが伝わってくる。
これは、冒険者に必要なもの。
では、必要なことは?
杖がある。魔法がある。魔物を倒す術がある。
それで足りていると思っていた。
――本当に?
燻製肉を口に入れる。硬い。
歯を強く当て、ようやく繊維が裂ける。ゴムのような食感。
何度も噛み、唾液と混ざるうちに、じわりと旨味が滲み出してくる。木の煙の香りと、獣特有の匂い。
それでも、宿で食べた塩辛いだけの肉より、ずっと美味しかった。
自分の咀嚼音がやけに大きく感じた。
噛み続けるうちに、少しずつ頭の中が静かになる。
さっきまでの違和感も、焦りも、腹の底へ沈んでいく。
余計なことを考えるのは、きっとお腹が空いていたからだ。
そう思うことにした。
風が吹き、草原が揺れる。
罠の方からは何の音も届かない。
それでも、ただ待つ。
戦うことだけが冒険じゃない。
そんな当たり前のことを、私は今、初めて体で覚えているのかもしれなかった。
空を見上げる。
雲は、さっきより少しだけ形を変えていた。