風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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10話前編 名前のつかない感触

 

 

 木陰の中を歩くたび、足元で小さく枝が折れる音がした。

 乾いた落ち葉と枯れ葉が重なり、踏みしめるごとに柔らかく沈み、かすかな音を返してくる。

 

 静かな森の中では、それだけでも自分の存在がやけに大きく感じられた。

 

 少し前を歩くミアレの背中を視界に入れ、私はゆっくりと後を追う。

 

 片手には杖。もう片方の手は時折、木の幹に触れて体を支えながら進む。押し出すように一歩を踏み込み、慎重に足を運ぶ。

 

 罠に何かがかかってくれていればいい。

 そんな期待だけが、胸の奥で小さく揺れていた。

 

 

 ミアレは時折振り返り、私の様子を確かめるように目を向けてくれる。急かすでもなく、置いていくでもない。その歩調に合わせていると、森の中でも不思議と心が落ち着いた。

 

 やがて、最初の罠を仕掛けた場所の近くに着く。

 ミアレはすっと身をかがめ、手招きした。

 

「こっち」

 

 囁くような声。

 私も同じように体を低くし、誘われるまま近づく。草をかき分け、視線を落とした先に――それはいた。

 

 白い毛玉のような小さな体。

 長い耳がぴんと立ち、赤い瞳がじっとこちらを見据えている。額には、指の節ほどの小さな角。

 

 ホーンラビット。

 

 ようやく目にすることができた、小さな魔物だった。

 

 周囲には散らばったベリーナッツ。地面は掘り返され、爪で蹴った跡が幾重にも残っている。必死に逃げようとしたのだと一目でわかった。

 

 片足にはツルの輪が絡みつき、引き寄せられたまま前足で踏ん張っている。耳が小刻みに揺れ、動かない。

 

 

 動けないだけだ。

 

「私たちが近づくと暴れて、罠がほどけちゃうかもしれないから……私がやるね」

 

 

「はい」

 

 

 息を潜めるようなやり取り。

 ミアレは弓を取り、矢をつがえ、構える。動作に無駄がない。森の音が一瞬だけ遠のいた気がした。

 

 ――バシュ。

 

 風を裂く音。

 目で追うより早く、射た音と鈍い衝撃音が重なる。

 

 矢はホーンラビットの前肢に突き刺さり、短い断末魔を残して体勢が崩れた。

 小さな体が地面に倒れ、動かなくなる。

 

 

「まずは一匹目」

 

 ミアレは私に目を向け、静かに微笑んだ。

 私は喉の奥で言葉を探し、ようやく口を開く。

 

「あの……さっきの、狙って当てられるんですか?」

 

 

 自分でも、どうしてそんなことを聞いたのかわからなかった。ただ、目の前で起きたことがあまりにも自然で、確かめたくなっただけだ。

 

 ミアレは少し視線を落とし、それからまた私を見る。

 

「外れるときは外れちゃうよ」

 

 そう言って、弓を引く姿勢だけをもう一度とる。弦を引き、先を見据える仕草。

 

「でもね、こうやって引いてるときに……当たってって、お願いするの。そしたら、まっすぐ飛んでくれる気がするの」

 

 ふわりとした答え。

 理屈ではない。

 けれど、その言葉の中には彼女なりの確信があるのだと感じた。

 

「外しているところ、見たことないから……凄いです」

 

「ありがとう、リュシアちゃん」

 

 草陰から離れ、倒れたホーンラビットへ近づく。

 

 小さな獲物。

 

 近づくほどに、その小ささが強調される。ほんの少し前まで動いていた命が、そこに横たわっているだけだった。

 

 まずは一匹。

 残り七。

 

 ミアレは刺さった矢を引き抜き、付いた血を振り払って矢筒へ戻す。

 

 絡まったツルをほどき、ナイフを取り出して首元へ刃を入れた。赤い線が走り、血が滲み出す。

 

 逆さに持ち上げ、軽く揉むようにして血を抜き、大きめの革袋へと収める。

 

「殺さないほうがよかったかな……でも、生け捕りは難しいし……」

 

 小さな独り言。

 

 私はその意味をうまく掴めないまま、ただ見つめていた。

 

 つぶらな瞳。

 

 もう何も映していないのに、見られている気がした。

 

 愛らしい。

 同時に、胸の奥がずきりと痛む。

 

 ――これは魔物。

 そう言い聞かせる。何度も。

 

「リュシアちゃん、罠を一通り回ろう?」

 

 ミアレが一歩踏み出す。

 

 地面には血の跡、暴れた跡、散らばったベリーナッツ。ほんの数分前までの出来事が、そのまま残っている。

 

 これで、ホーンラビットは捕まえられる。

 そう理解する。

 

 

 少し先で待ってくれている背中に追いつき、私は並んで歩き出した。

 森の中には、また同じように葉の擦れる音が戻ってくる。

 

 

 小さな命を一つ、越えた。

 それでも足取りは重くない。

 ただ、心のどこかに、名前のつかない感触だけが残っていた。

 

 

 

 二つ目、三つ目の罠を順番に回った。

 

 同じ道を辿っているはずなのに、最初よりも森の空気が濃く感じられる。

 

 

 枝葉の匂い、湿った土の感触、足元で小さく折れる枯れ枝の音。

 

 何も変わっていないはずなのに、胸の内側だけが少しずつ重くなっていくのがわかった。

 

 

 二匹目。

 三匹目。

 それから五匹目。

 

 

 

 罠にかかったホーンラビットはどれも同じように暴れた跡を残していた。掘り返された土、散らばったベリーナッツ、擦り切れた草の根。

 

 

 必死だったのだろうと嫌でも伝わってくる。

 

 けれど、仕留めるのはいつもミアレだった。

 

 弓を構え、短く息を整え、迷いなく放つ。

 矢は外れない。

 倒れた体へ近づき、ナイフを入れ、血を抜き、革袋へ収める。

 手順に無駄はなく、動きは滑らかで、森の一部のように自然だった。

 

 

 私はその隣で、ただ見ているだけだった。

 

 出る幕がない――そう言ってしまえば簡単だった。

 けれど本当は違う。

 

 

 私の魔法では、ホーンラビットは原形を留めない。

 森オオカミも、ゴブリンも、風を叩きつけた瞬間に砕け散った。

 

 それをミアレも見ている。だから何も言わない。私も言わない。言う必要がないと思っていた。

 

 

 思っていたのに、どうしてか、胸の奥が落ち着かなかった。

 

 

 罠を仕掛けたのはミアレ。

 捕まえたのもミアレ。

 倒したのも、処理したのも、革袋に入れたのもミアレ。

 

 私は横に立っているだけ。

 

 

 手に持つ杖を、無意識に強く握っていた。

 革の感触が指に食い込み、掌にじんとした痛みが残る。

 

 それでも足は止まらない。

 ミアレは次の罠へと進み、私は半歩後ろをついていく。

 

 

 ご飯もくれる。

 罠の作り方も教えてくれる。

 森の歩き方も、獲物の扱いも、何もかも。

 

 

 私よりずっと先を見ている気がした。

 私より、ずっと――。

 

 

 ミアレ一人で、全部片付いてしまう。

 

 

 じゃあ、私は。

 

 

 

 ――私、必要?

 

 

 

 呼吸が浅くなる。

 胸の中で浮かんだ言葉に、自分で驚いた。

 違う。違う。そうじゃない。

 

 頭の中で何度も否定するのに、心の奥に小さな棘のように残る。

 

 

 

 半歩前を歩くミアレの横顔が視界に入る。

 髪が揺れ、耳元で光を弾く。

 その穏やかな表情が、余計に胸をざわつかせた。

 

 

 気づかないわけがない。

 視線を向ければ、すぐに振り返る。

 

 

「リュシアちゃん?」

 

 

 首をわずかに傾ける。

 心配しているわけでも、急かすわけでもない、ただ様子を伺う声。

 

 

 言葉が喉につかえた。

 それでも、飲み込まずに押し出す。

 

「あの……私も、ホーンラビットを倒したいです」

 

 歩みは止まらない。

 草を踏む音だけが、一瞬、やけに大きく響いた。

 

 

 沈黙は長くなかった。

 

 ミアレはほんの少しだけ視線を落とし、それから前を向いたまま答える。

 

 

「いいよ。それじゃあ、リュシアちゃんにお願いしようかな」

 

 軽い声だった。

 当然のことのように、何の躊躇もなく。

 

 

「あ、弓は……使わないよね?」

 

「魔法を使います。私の、風魔法で」

 

 

 言葉にすると、胸の奥で何かが少しだけ整う。

 

 怖さも、不安も、残っている。けれど、それ以上に、自分の手でやりたいという気持ちが勝っていた。

 

 

 ミアレはちらりとこちらを見て、目を細める。

 

「冗談。うん。リュシアちゃんのやりたいようにやって。私、見てるから」

 

 

 その一言が、肩に乗っていた重さを少しだけ軽くした。

 

 森は相変わらず静かだった。

 葉が擦れ、風が通り抜け、遠くで小鳥が鳴く。

 何も変わっていないはずなのに、足取りだけがわずかに変わる。

 

 次の罠へ向かう道。

 杖を握る手に力がこもっていた。

 

 そして、八つ目の罠へたどり着いた。

 

 草陰に身を潜め、覗き込む。

 膝を折り、呼吸を浅くして、周囲の音に耳を澄ませた。

 

 葉が擦れる、かすかな音。

 枝が揺れる、風の気配。

 

 

 視線を先へ送る。

 

 ――白い影は、ない。

 

 

 ホーンラビットの姿は見当たらなかった。

 

 

「ミアレさん、ホーンラビット……捕まってないみたい」

 

 思わず肩の力が抜ける。

 張り詰めていたものが、すっとほどけた感覚。

 

 ミアレの方を見ると、彼女は私を見ず、罠の方に視線を固定したまま、ゆっくりと身を乗り出した。慎重に、音を立てないように。

 

 

「これは……」

 

 ミアレは口元を手で覆い、しばらく地面を見つめてから、私の方を振り返った。

 

 

「リュシアちゃん、ここ……これを見て」

 

 

 指差された先には、はっきりと残る痕跡があった。

 散らばったベリーナッツ。

 地面を蹴りえぐった跡。

 そして――輪っかが、ない。

 

 

 ツルは途中から千切れ、複数の獣の足跡が重なっている。土に滲んだ、わずかな血の跡。

 

 

「たぶん、人の仕業じゃないね。森オオカミに横取りされちゃったみたい」

 

 ミアレはしゃがんだまま周囲を一通り見渡し、それから顔を上げて私を見る。

 少しだけ、困ったような表情だった。

 

「じゃあ、ほかの場所も早く見に行かないと!」

 

 思わず声が弾む。

 一匹分が減ったのは確かだけれど、落ち込むより先に、次を確かめたい気持ちが勝っていた。

 

「ね」

 

 ミアレは短く返事をして、立ち上がる。

 その足取りは軽く、迷いがなかった。

 

 

 罠は互いに近い距離に仕掛けてある。

 場所はミアレの頭の中に正確に入っているらしく、私はその背中を追いながら、朧げな記憶を辿るだけだった。

 

 九つ目の罠。

 

 そこに――いた。

 

 白くて、ふわふわした小さな体。

 つぶらな赤い瞳。

 額に小さな角。

 

 ホーンラビット。

 

「リュシアちゃん、お願い」

 

 ミアレの声は低く、けれど迷いがなかった。

 

「……はい」

 

 返事をして、草陰に身を沈める。

 革越しに、杖を握る手に汗が滲む。

 

 緊張しているわけじゃない。

 怖くもない。

 

 むしろ――いつもより、頭が冴えていた。

 

 派手にやる必要はない。

 必要なのは、最小限。

 

 流量。

 精度。

 調整。

 

 魔力を抑え、圧縮し、範囲を絞る。

 弾けさせない。ただ、押すだけ。

 

 ――原型を残す。

 

 そう強く意識して、杖を構えた。

 

「……エアーブロー」

 

 声は、驚くほど静かだった。

 

 放たれた風の塊は、矢ほど速くはない。

 けれど、迷いなく、まっすぐに流れていく。

 

 そして――命中した。

 

 風に押し出されるように、ホーンラビットの体が跳ねる。

 同時に、足に絡んでいたツルがぷつりと千切れ、その小さな体は地面を転がった。

 

 

 ――動かない。

 

 一瞬、息を忘れた。

 

 ……できた。

 

 

 原型を留めている。

 血も出ていない。

 

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。

 安堵と一緒に、ほんの少し――誇らしさ。

 

「ミアレさん、見て! 私、やったよ!」

 

 振り向いた先で、ミアレと目が合う。

 

「うん。ちゃんと見てたよ」

 

 彼女は弓を腰に戻し、穏やかに微笑んだ。

 

「リュシアちゃんなら、できるって思ってた」

 

「……!」

 

「でもね、半分くらいは、ウサギちゃん爆発しちゃうかな、って、ちょっとハラハラしてたけど」

 

「しませんっ!」

 

 思わず声を張ると、ミアレがくすくすと笑う。

 つられて、私の口元も緩んだ。

 

 私が倒した。

 自分の手で。

 

 その事実が、胸の中で静かに形を持つ。

 

 私はナイフを取り出し、ホーンラビットのそばに膝をついた。

 小さな体。軽い命。

 

 瞳が合うと、指が止まった。

 これは魔物だ。

 

 一度、深く息を吸ってから、首元に刃を当てる。

 指に力を込め、ためらいなく引いた。

 

 赤い線が走る。

 

 胸が少しだけ、きゅっと縮む。

 それでも、目は逸らさなかった。

 

 これは、私が選んだ依頼。

 私が踏み込んだ、一歩。

 

 森の中で、葉の擦れる音がまた戻ってくる。

 小さな命をひとつ越えた。

 

 その感触を、私は確かに、胸の奥に刻んでいた。

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