木陰の中を歩くたび、足元で小さく枝が折れる音がした。
乾いた落ち葉と枯れ葉が重なり、踏みしめるごとに柔らかく沈み、かすかな音を返してくる。
静かな森の中では、それだけでも自分の存在がやけに大きく感じられた。
少し前を歩くミアレの背中を視界に入れ、私はゆっくりと後を追う。
片手には杖。もう片方の手は時折、木の幹に触れて体を支えながら進む。押し出すように一歩を踏み込み、慎重に足を運ぶ。
罠に何かがかかってくれていればいい。
そんな期待だけが、胸の奥で小さく揺れていた。
ミアレは時折振り返り、私の様子を確かめるように目を向けてくれる。急かすでもなく、置いていくでもない。その歩調に合わせていると、森の中でも不思議と心が落ち着いた。
やがて、最初の罠を仕掛けた場所の近くに着く。
ミアレはすっと身をかがめ、手招きした。
「こっち」
囁くような声。
私も同じように体を低くし、誘われるまま近づく。草をかき分け、視線を落とした先に――それはいた。
白い毛玉のような小さな体。
長い耳がぴんと立ち、赤い瞳がじっとこちらを見据えている。額には、指の節ほどの小さな角。
ホーンラビット。
ようやく目にすることができた、小さな魔物だった。
周囲には散らばったベリーナッツ。地面は掘り返され、爪で蹴った跡が幾重にも残っている。必死に逃げようとしたのだと一目でわかった。
片足にはツルの輪が絡みつき、引き寄せられたまま前足で踏ん張っている。耳が小刻みに揺れ、動かない。
動けないだけだ。
「私たちが近づくと暴れて、罠がほどけちゃうかもしれないから……私がやるね」
「はい」
息を潜めるようなやり取り。
ミアレは弓を取り、矢をつがえ、構える。動作に無駄がない。森の音が一瞬だけ遠のいた気がした。
――バシュ。
風を裂く音。
目で追うより早く、射た音と鈍い衝撃音が重なる。
矢はホーンラビットの前肢に突き刺さり、短い断末魔を残して体勢が崩れた。
小さな体が地面に倒れ、動かなくなる。
「まずは一匹目」
ミアレは私に目を向け、静かに微笑んだ。
私は喉の奥で言葉を探し、ようやく口を開く。
「あの……さっきの、狙って当てられるんですか?」
自分でも、どうしてそんなことを聞いたのかわからなかった。ただ、目の前で起きたことがあまりにも自然で、確かめたくなっただけだ。
ミアレは少し視線を落とし、それからまた私を見る。
「外れるときは外れちゃうよ」
そう言って、弓を引く姿勢だけをもう一度とる。弦を引き、先を見据える仕草。
「でもね、こうやって引いてるときに……当たってって、お願いするの。そしたら、まっすぐ飛んでくれる気がするの」
ふわりとした答え。
理屈ではない。
けれど、その言葉の中には彼女なりの確信があるのだと感じた。
「外しているところ、見たことないから……凄いです」
「ありがとう、リュシアちゃん」
草陰から離れ、倒れたホーンラビットへ近づく。
小さな獲物。
近づくほどに、その小ささが強調される。ほんの少し前まで動いていた命が、そこに横たわっているだけだった。
まずは一匹。
残り七。
ミアレは刺さった矢を引き抜き、付いた血を振り払って矢筒へ戻す。
絡まったツルをほどき、ナイフを取り出して首元へ刃を入れた。赤い線が走り、血が滲み出す。
逆さに持ち上げ、軽く揉むようにして血を抜き、大きめの革袋へと収める。
「殺さないほうがよかったかな……でも、生け捕りは難しいし……」
小さな独り言。
私はその意味をうまく掴めないまま、ただ見つめていた。
つぶらな瞳。
もう何も映していないのに、見られている気がした。
愛らしい。
同時に、胸の奥がずきりと痛む。
――これは魔物。
そう言い聞かせる。何度も。
「リュシアちゃん、罠を一通り回ろう?」
ミアレが一歩踏み出す。
地面には血の跡、暴れた跡、散らばったベリーナッツ。ほんの数分前までの出来事が、そのまま残っている。
これで、ホーンラビットは捕まえられる。
そう理解する。
少し先で待ってくれている背中に追いつき、私は並んで歩き出した。
森の中には、また同じように葉の擦れる音が戻ってくる。
小さな命を一つ、越えた。
それでも足取りは重くない。
ただ、心のどこかに、名前のつかない感触だけが残っていた。
二つ目、三つ目の罠を順番に回った。
同じ道を辿っているはずなのに、最初よりも森の空気が濃く感じられる。
枝葉の匂い、湿った土の感触、足元で小さく折れる枯れ枝の音。
何も変わっていないはずなのに、胸の内側だけが少しずつ重くなっていくのがわかった。
二匹目。
三匹目。
それから五匹目。
罠にかかったホーンラビットはどれも同じように暴れた跡を残していた。掘り返された土、散らばったベリーナッツ、擦り切れた草の根。
必死だったのだろうと嫌でも伝わってくる。
けれど、仕留めるのはいつもミアレだった。
弓を構え、短く息を整え、迷いなく放つ。
矢は外れない。
倒れた体へ近づき、ナイフを入れ、血を抜き、革袋へ収める。
手順に無駄はなく、動きは滑らかで、森の一部のように自然だった。
私はその隣で、ただ見ているだけだった。
出る幕がない――そう言ってしまえば簡単だった。
けれど本当は違う。
私の魔法では、ホーンラビットは原形を留めない。
森オオカミも、ゴブリンも、風を叩きつけた瞬間に砕け散った。
それをミアレも見ている。だから何も言わない。私も言わない。言う必要がないと思っていた。
思っていたのに、どうしてか、胸の奥が落ち着かなかった。
罠を仕掛けたのはミアレ。
捕まえたのもミアレ。
倒したのも、処理したのも、革袋に入れたのもミアレ。
私は横に立っているだけ。
手に持つ杖を、無意識に強く握っていた。
革の感触が指に食い込み、掌にじんとした痛みが残る。
それでも足は止まらない。
ミアレは次の罠へと進み、私は半歩後ろをついていく。
ご飯もくれる。
罠の作り方も教えてくれる。
森の歩き方も、獲物の扱いも、何もかも。
私よりずっと先を見ている気がした。
私より、ずっと――。
ミアレ一人で、全部片付いてしまう。
じゃあ、私は。
――私、必要?
呼吸が浅くなる。
胸の中で浮かんだ言葉に、自分で驚いた。
違う。違う。そうじゃない。
頭の中で何度も否定するのに、心の奥に小さな棘のように残る。
半歩前を歩くミアレの横顔が視界に入る。
髪が揺れ、耳元で光を弾く。
その穏やかな表情が、余計に胸をざわつかせた。
気づかないわけがない。
視線を向ければ、すぐに振り返る。
「リュシアちゃん?」
首をわずかに傾ける。
心配しているわけでも、急かすわけでもない、ただ様子を伺う声。
言葉が喉につかえた。
それでも、飲み込まずに押し出す。
「あの……私も、ホーンラビットを倒したいです」
歩みは止まらない。
草を踏む音だけが、一瞬、やけに大きく響いた。
沈黙は長くなかった。
ミアレはほんの少しだけ視線を落とし、それから前を向いたまま答える。
「いいよ。それじゃあ、リュシアちゃんにお願いしようかな」
軽い声だった。
当然のことのように、何の躊躇もなく。
「あ、弓は……使わないよね?」
「魔法を使います。私の、風魔法で」
言葉にすると、胸の奥で何かが少しだけ整う。
怖さも、不安も、残っている。けれど、それ以上に、自分の手でやりたいという気持ちが勝っていた。
ミアレはちらりとこちらを見て、目を細める。
「冗談。うん。リュシアちゃんのやりたいようにやって。私、見てるから」
その一言が、肩に乗っていた重さを少しだけ軽くした。
森は相変わらず静かだった。
葉が擦れ、風が通り抜け、遠くで小鳥が鳴く。
何も変わっていないはずなのに、足取りだけがわずかに変わる。
次の罠へ向かう道。
杖を握る手に力がこもっていた。
そして、八つ目の罠へたどり着いた。
草陰に身を潜め、覗き込む。
膝を折り、呼吸を浅くして、周囲の音に耳を澄ませた。
葉が擦れる、かすかな音。
枝が揺れる、風の気配。
視線を先へ送る。
――白い影は、ない。
ホーンラビットの姿は見当たらなかった。
「ミアレさん、ホーンラビット……捕まってないみたい」
思わず肩の力が抜ける。
張り詰めていたものが、すっとほどけた感覚。
ミアレの方を見ると、彼女は私を見ず、罠の方に視線を固定したまま、ゆっくりと身を乗り出した。慎重に、音を立てないように。
「これは……」
ミアレは口元を手で覆い、しばらく地面を見つめてから、私の方を振り返った。
「リュシアちゃん、ここ……これを見て」
指差された先には、はっきりと残る痕跡があった。
散らばったベリーナッツ。
地面を蹴りえぐった跡。
そして――輪っかが、ない。
ツルは途中から千切れ、複数の獣の足跡が重なっている。土に滲んだ、わずかな血の跡。
「たぶん、人の仕業じゃないね。森オオカミに横取りされちゃったみたい」
ミアレはしゃがんだまま周囲を一通り見渡し、それから顔を上げて私を見る。
少しだけ、困ったような表情だった。
「じゃあ、ほかの場所も早く見に行かないと!」
思わず声が弾む。
一匹分が減ったのは確かだけれど、落ち込むより先に、次を確かめたい気持ちが勝っていた。
「ね」
ミアレは短く返事をして、立ち上がる。
その足取りは軽く、迷いがなかった。
罠は互いに近い距離に仕掛けてある。
場所はミアレの頭の中に正確に入っているらしく、私はその背中を追いながら、朧げな記憶を辿るだけだった。
九つ目の罠。
そこに――いた。
白くて、ふわふわした小さな体。
つぶらな赤い瞳。
額に小さな角。
ホーンラビット。
「リュシアちゃん、お願い」
ミアレの声は低く、けれど迷いがなかった。
「……はい」
返事をして、草陰に身を沈める。
革越しに、杖を握る手に汗が滲む。
緊張しているわけじゃない。
怖くもない。
むしろ――いつもより、頭が冴えていた。
派手にやる必要はない。
必要なのは、最小限。
流量。
精度。
調整。
魔力を抑え、圧縮し、範囲を絞る。
弾けさせない。ただ、押すだけ。
――原型を残す。
そう強く意識して、杖を構えた。
「……エアーブロー」
声は、驚くほど静かだった。
放たれた風の塊は、矢ほど速くはない。
けれど、迷いなく、まっすぐに流れていく。
そして――命中した。
風に押し出されるように、ホーンラビットの体が跳ねる。
同時に、足に絡んでいたツルがぷつりと千切れ、その小さな体は地面を転がった。
――動かない。
一瞬、息を忘れた。
……できた。
原型を留めている。
血も出ていない。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
安堵と一緒に、ほんの少し――誇らしさ。
「ミアレさん、見て! 私、やったよ!」
振り向いた先で、ミアレと目が合う。
「うん。ちゃんと見てたよ」
彼女は弓を腰に戻し、穏やかに微笑んだ。
「リュシアちゃんなら、できるって思ってた」
「……!」
「でもね、半分くらいは、ウサギちゃん爆発しちゃうかな、って、ちょっとハラハラしてたけど」
「しませんっ!」
思わず声を張ると、ミアレがくすくすと笑う。
つられて、私の口元も緩んだ。
私が倒した。
自分の手で。
その事実が、胸の中で静かに形を持つ。
私はナイフを取り出し、ホーンラビットのそばに膝をついた。
小さな体。軽い命。
瞳が合うと、指が止まった。
これは魔物だ。
一度、深く息を吸ってから、首元に刃を当てる。
指に力を込め、ためらいなく引いた。
赤い線が走る。
胸が少しだけ、きゅっと縮む。
それでも、目は逸らさなかった。
これは、私が選んだ依頼。
私が踏み込んだ、一歩。
森の中で、葉の擦れる音がまた戻ってくる。
小さな命をひとつ越えた。
その感触を、私は確かに、胸の奥に刻んでいた。