残りの二体も、罠にはきちんとかかっていた。
私とミアレは交互に手を出し、順番に仕留め、処理して、革袋へ収める。
気づけば袋はずっしりと膨らみ、肩に掛けると重みが食い込んだ。
「ねぇ、ミアレさん、重たくない? 私も持つよ」
そう言うと、ミアレは少しだけ振り返り、困ったように微笑む。
「平気だよ。道沿いに抜けたら、少し休もっか」
軽い口調だったけれど、彼女の腕はほんのわずかに震えていた。
それでも、私に渡そうとはしない。
帰り道、引っかかっていない罠の場所にも寄る。
ミアレは屈み、手早くツルをほどき、仕掛けを片付けていく。散らばったベリーナッツはそのままだ。
私は一度だけ振り返った。
そこは、ただの餌場になる。
ホーンラビットにとって、危険のない場所。
――ごめんね。
いっぱい、食べてね。
そんな気持ちを、胸の奥からそっと置いて、私はミアレの背中を追った。
道沿いへ抜ける手前、ふと視界に入る。
最後に、私が仕掛けた罠。
近づいて覗くと、何も変わっていなかった。
ツルは綺麗な輪のまま、地面も荒れていない。
安心したような、少しだけ残念なような。
それでも、ほっと息が漏れる。
膝をついてツルをほどき、ベリーナッツを一か所に集める。
食べやすいように手の届くところへ。
これで、よし。
「リュシアちゃん、少し休んでてね。私、近くの小川でウサギさん綺麗にしてくるから」
そう言って、ミアレは革袋を担いだまま小川の方へ向かっていった。
気づけば、日は傾いている。
空は赤く、雲の端が燃えているように染まっていた。
吹き抜ける風が頬を撫で、鼻の奥に残っていた鉄の匂いをさらっていく。
草の青さ、湿った土の匂い、そして微かに残る血の気配。
そこでようやく、深く息ができた。
幹に背を預け、ため息をひとつ。
どうしても、思っていたのと違う。
オークを倒して、その肉を食べた。
だから、今回も同じようにできると思っていた。
でも違う。
こういうの――向いてないかもしれない。
純粋に倒す。
魔法をぶつけて、終わる。
すぐに成果が見える依頼のほうがいい。
弱い魔物じゃなくて、強い魔物。
オークみたいに、木っ端微塵にならないくらいの相手。
今のランクが、私に合ってない。
きっと、それだけだ。
杖を両手で持ち、意味もなく弧を描くように揺らす。
「……風よ」
少しだけ魔力を通す。
集まる気配。
エアーブロー。
地面に向けて放つ。
――ボンッ。
小さく土が抉れ、乾いた音とともに土塊が跳ねる。
その跡を、しばらくじっと見つめた。
立ち上がる。
ミアレの様子を、見に行こう。
道沿いを下り、小川へ近づく。
その先に広がる平原は、夕日に染まり、赤い波のように揺れていた。
小川も、赤く反射している。
……赤い?
違う。
近づくにつれ、色は濃くなる。
水の音だけが妙に近い。
他の音が遠のく。
水面に、赤い線。
そこへ、柔らかく形を失った何かが流れていく。
喉が鳴る。
川上を見ると、ミアレがいた。
思い出す。
オークの時、バルクとロニオがしていたこと。
森オオカミの時、ミアレがしていたこと。
――解体。
五つの生首が、草の上に転がっている。
開かれた腹。
流される内臓。
ミアレは慣れた手つきで、ホーンラビットの首にナイフを食い込ませる。頭を掴み、折るように外すと、また一つ生首が増えた。
胴体を開き、腸を掻き出し、小川の水で中を撫でるように洗う。
パチャ、パチャ、と水の跳ねる音。
後ろ姿のまま、額を拭う仕草。
そのあと、こちらに気づく。
「リュシアちゃん、もう終わるから待ってて」
声に覇気はない。
疲れと、気の滅入りと、その両方が混ざっている。
息を吸って、吐く。
冒険者なら、みんなやること。
これも、必要なこと。
できて当たり前のこと。
なら――必要なこと。
「私も、やりたいです」
気づけば口にしていた。
草を踏み、駆け下りる。
ミアレは近づく私を、黙って見つめる。
それから静かに口を開いた。
「私が見本に、この子を捌くから見ててね。次が最後の一匹だから、それをリュシアちゃんにお願いするね」
「はい」
つぶらな瞳に、目がいく。
そのたび、指が止まる。胸が、ずきりと痛む。
「……目は合わせちゃ駄目」
ミアレはそう言って、首に刃を当てる。
ダンッ。
ブチッ。
鈍く、生々しい音が、小川のせせらぎに重なった。
全てが終わった頃には、空はすっかり暮れていた。
夜のギルドは、何度来ても慣れない。
日が沈んだはずなのに、ここだけは昼より明るく、騒がしく、そして妙に熱い。
酒と汗と焼いた肉の匂いが混ざり合い、扉をくぐった瞬間に鼻の奥へと入り込んでくる。
机を叩く音。
ジョッキのぶつかる音。
誰かの大きな笑い声。
それらを横目に、ミアレの後ろについてカウンターへ向かった。
受付のお姉さんは、顔を上げると小さく微笑んだ。
見覚えのある表情。ここに何度か来ているからこその、ほんのわずかな親しみ。
依頼書と納品物を差し出す。
革袋の重みが手から離れると、肩が少しだけ軽くなる。
「確認しますね」
そう言って、彼女は奥へと消えた。
待ち時間はほんの少し。
それでも、カウンターの木目を眺めたり、背後の喧騒に耳を傾けたりしていると、妙に長く感じる。
やがて戻ってきた受付嬢が、硬貨を差し出した。
銀貨が七枚。
銅貨が五枚。
灯りに照らされ、縁のすり減った銀貨が鈍く光る。
刻印の溝に黒ずみが残っているのが見えた。
きっと何人もの手を渡ってきたのだろう。
「依頼主が納品物を確認してから、追加の報酬金があります。後日お受け取りくださいね。受け取り手は――」
「リュシアちゃんでいいよ」
ミアレの声が、横から自然に入った。
「はい。リュシアさんですね」
受付嬢は小さな紙を千切り、私の前に滑らせる。
「手形です。これがないと追加分はお渡しできませんので、無くさないようにしてくださいね」
両手でその紙を持ち上げる。
薄くて軽い。ただの紙切れなのに、妙に重く感じた。
名前が書いてある。
私の名前。
これがお金になる。
そう言われても、まだどこか現実味がない。
ポーチへそっとしまい込む。
失くしたら終わりだと、直感的にわかった。
「リュシアちゃんは銀貨四枚でいい? 私は残りもらうね?」
「ありがとう」
反射のように言葉が出た。
でも、手を伸ばしかけて、ほんの一瞬だけ止まる。
銀貨四枚。
私がもらっていい額なのか。
ミアレは三枚と銅貨五枚。
頭の中で計算が合わないわけじゃない。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
「どうしたの? 難しい顔して」
覗き込まれて、私は一歩だけ後ろに退いた。
「あ、ううん。違う、なんでもないよ。なんでも……」
言葉が曖昧に消える。
ミアレは何も言わず、銀貨を掴んで私の手に押し込んだ。
冷たい金属の感触。
指の間で、硬貨同士が小さく触れ合う。
その手を、今度はミアレが両手で包んだ。
「リュシアちゃんは強いよ。強くて、頼りがいがあって、ちゃんと前を見てる。もし何かあったら、その魔法で私を助けてくれるって思ってる」
銀貨の冷たさより、手の温もりのほうが強くなる。
「だから私は、私のできることをやるだけ。弓を引くとか、解体するとか、道を覚えるとか。得意なことが違うだけだよ」
言い聞かせるでもなく、誇るでもなく、ただ事実を置くような言い方。
騒がしいギルドの中で、そこだけ音が遠のいた気がした。
「次も一緒に行こうね。信頼の意味も込めて、ね?」
ゆっくりと手が離れる。
掌の中の銀貨は、さっきより少し温かくなっていた。
ただの金属なのに。
私はそれを見つめてから、強く握りしめた。
「ありがとう、ミアレさん!」
声が思ったよりも明るく出た。
周囲では誰かがまた笑い、ジョッキがぶつかる音が響く。
いつもの夜のギルド。
銀貨の温度が、まだ手の中に残っていた。
宿へ戻り、部屋の扉を閉めると、ギルドの喧騒がふっと遠のいた。
カランコロン。
小さな木の鈴が、指先で揺れて軽い音を立てた。
私は寝台に仰向けになり、両手でその箱を持ち上げていた。
木目のざらりとした感触が指に馴染む。角は何度も撫でられたように丸く、削れた痕が指先に引っかかる。
カラン。
その音が、胸の奥に小さく落ちる。
見れば見るほど、頬が緩む。
ミアレがくれた箱。
私への贈り物。
ただの木箱なのに、なぜか胸の奥があたたかくなる。
視線を落とすたび、あの時の声が思い出される。
――リュシアちゃんは強いよ。
寝台の脇に畳んで置かれた革鎧を確認し、私は体を起こした。
外していたポーチに手を伸ばし、硬貨の詰まった袋を取り出す。
袋を逆さにする。
ジャラジャラと音を立てて、硬貨が寝台の上に広がった。
ランプの灯りを受けて、金色、銀色、銅色がきらめく。
その中から金貨を一枚つまみ上げる。
重み。
冷たさ。
硬い縁。
箱の切れ目へそっと落とす。
コトン。
小さな音が、胸の奥まで響いた。
なんだかそれだけで、今日一日が形になった気がした。
紙を取り出し、縦線を一本引く。
もう一枚。
コトン。
また一本。
それを繰り返す。
ただそれだけなのに、楽しくて仕方がない。
ゆっくり、確かめるように、金貨を落としていく。
コトン。
コトン。
コトン。
次第に、音は変わっていく。
一枚ずつの軽い音から、金属同士が触れ合う重たい響きへ。
コト、コト、コト……。
四十五枚分。
数え終えたとき、私は思わず息を吐いた。
多いのか、少ないのかはわからない。
ただ、「ある」という事実がそこにあった。
箱を軽く揺らしてみる。
カラカラ、と中で硬貨が踊る。
残った銀貨と銅貨を指でなぞる。
銀貨十九枚。
銅貨五枚。
先はまだ長い。
目標には届かない。
そう思うのに、不思議と焦りは小さかった。
一昨日の私なら、きっと落ち着かなかったはずなのに。
今日は違う。
森での罠。
弓の音。
解体の手つき。
銀貨の重み。
ギルドの喧騒。
そして、木の箱の音。
冒険者がやっていること。
当たり前のようにこなしていること。
それを、私は少しずつ覚えている。
硬貨を袋に戻し、口をきつく縛る。
箱をサイドテーブルの引き出しへそっと滑り込ませた。
鈴がまた、カランと鳴る。
この箱がいっぱいになったら、あの杖を買える。
そう思うと、明日が少しだけ近くなる気がした。
再び寝台に横になる。
天井を見つめ、杖を胸の上に乗せる。
ミアレの手の温もりを思い出す。
銀貨を包まれた時の、あの静かな安心感。
明日は討伐にしよう。
駆除。迷惑な魔物を倒せばいい。
ホーンラビットのつぶらな瞳が、ふと脳裏をよぎる。
胸の奥が、わずかに疼く。
でも、それでも前へ進む。
窓の外で風が鳴る。
遠くで誰かが笑う声がする。
宿の廊下を足音が過ぎていく。
私は目を閉じる。
木の鈴の音が、まだ耳の奥に残っていた。