風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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11話前編 息継ぎ

《別視点》

 

 (数年前)

 

 

 

 森の外れ。

 風が抜ける、小高い丘。

 

 ここは、音が少ない。

 だから、息遣いがよく聞こえる。

 

 草を擦る音。

 遠くの鳥の羽ばたき。

 そして――後ろで詰まる、小さな呼吸。

 

 

「……できません」

 

 

 振り返らなくても分かる。

 杖を握る指に力が入りすぎている。

 

 

 起こそうとしている。

 だから起きない。

 

 

 私は数歩離れたまま、腕を組んだ。

 

 

「できないは、まだ何も始まっていないときの言葉よ」

 

 

 慰める気はない。

 叱る気もない。

 

 ただ、順番を戻すだけ。

 

 私は足元の土に指を落とし、一本の線を引いた。

 

「リュシア。魔力って、何だと思う?」

 

 

 

「……魔法を使うための……力?」

 

 

「半分正解」

 

 半分外れ。

 でも、その半分が大事。

 

 

「魔力はね、力そのものじゃない。水よ」

 

 

 きょとん、とした顔。

 予想通り。

 

 

「井戸に溜まっている水。

 飲めるけれど、それだけでは何も起きない」

 

 

 

 風が抜ける。

 草の穂先が揺れる。

 

 

 ……私は何もしない。

 この丘は、いつも風が吹く。

 

 

「じゃあ……魔術は?」

 

「やり方、ですか?」

 

「ええ。器」

 

 

 杖の先を、軽く指で叩く。

 

 

「井戸の水を汲む桶であり、流す水路。

 言葉、陣、手順、杖……全部ここ」

 

 

 彼女は杖を見る。

 自分の手を見る。

 

 持っていることを、初めて意識する顔。

 

 

「魔法は?」

 

「結果」

 

 

 

 迷わない。

 ここは迷わせない。

 

 

 私は手袋を外さないまま、手にする小さな杖を少しだけ動かした。

 

 

 ――ふわり。

 

 

 草の上を、やさしい風が撫でる。

 

 

 

 ただの風。

 害も、威圧もない。

 

 

「これが、風魔法」

 

「……すごい……」

 

 

 目が、光る。

 憧れの色。

 

 私は首を横に振る。

 

 

「違うわ。これはすごくない」

 

 彼女の表情が止まる。

 

 

「これは、誰にでもできる。

 魔力があって、魔術を理解すれば」

 

 私は一歩下がり、同じ高さにしゃがんだ。

 

 

「だから、あなたはこれを目指しなさい」

 

「でも、姉様みたいには……」

 

「ならなくていい」

 

 

 

 即答。

 考える余地は与えない。

 

 

「いい? 魔法は、分かるものから学ぶの」

 

 

 空を見る。

 雲が流れている。

 

 私は、あれをじっと見つめた。

 

 

「分からない力は、最後でいい。

 ……分からないままでいいこともある」

 

 

 それでいい。

 

「杖を握って。

 風を起こそうとしないで」

 

 私は息を吐く。

 

「命令しない。

 流れを作るだけ」

 

 言葉を区切る。

 彼女が覚えられる量だけ。

 

「魔力を出す。

 魔術に沿わせる。

 結果として、風が吹く」

 

 

 世界は順番で出来ている。

 順番を守れば、裏切らない。

 

 

「いい?

 風魔法は――」

 

 私は少しだけ声を落とす。

 

「風を生む魔法じゃない。

 風が生まれる理由を作るだけ」

 

 

 彼女は深く息を吸う。

 肩の力が、少し抜ける。

 

 

 杖を構える。

 言葉をなぞる。

 魔力を流す。

 

 ――ふわり。

 

 今度は、確かに。

 彼女の前で、小さな風が生まれた。

 

 

「……できた」

 

 小さな声。

 でも、震えていない。

 

「ええ」

 

 私は目を細める。

 

 それでいい。

 それだけでいい。

 

 心の中でだけ、言葉を足す。

 

(……これでいい)

 

 私の杖先には、まだ何もしていない風がまとわりついている。

 

 丘を抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎる。

 

 

 

 

(現在)

 

 

 

 朝はいつも早い。

 それは太陽の位置によるものではなく、私の身体に染み付いた単なる癖。

 

 目覚める時間に理由などない。ただ、眠りが浅くなる頃合いを身体が覚えてしまっただけのこと。

 

 柔らかな寝具の上でゆっくりと身を起こし、足を床へ下ろす。

 

 冷たい石の感触が足裏を通じて現実を伝えてくる。

 

 ここは王城の一角、宮廷魔術師に与えられた私室。

 広すぎるほどの部屋に、置かれている家具は最低限。

 

 豪奢でも華美でもないが、どこか空虚で、音が吸い込まれていくような静けさがある。

 

 宮廷魔術師。

 

 

 杖を持つ者にとって、これ以上ない名誉の一つ。

 実力、結果、努力、そして才能。

 それらが揃い、国に認められて初めて与えられる称号。

 家の者はきっと喜んだだろう。

 血族の誉れ、後世に名を残す偉業。

 肖像画が描かれ、史書に名が刻まれ、いつか誰かが称える。

 

 

 ――結果的に、そうなっただけだ。

 

 

 私はその肩書きに憧れていたわけでも、名誉を欲したわけでもない。

 

 辿り着いた場所が、ただここだったというだけの話。

 

 部屋の隅に、正装のローブと帽子が掛けられている。

 国が個人を認めて贈る、由緒正しき一着。

 誰もが喉から手が出るほど欲しがる代物。

 けれど、そこには薄く埃が積もっていた。

 

 

 正式な式典でもなければ、袖を通す理由がない。

 権威を示す衣装は、私にとってはただの重りだ。

 同じように、大振りの杖も好まない。

 儀礼用の装飾は扱いづらく、威圧のための道具でしかない。

 実用で言えば、短い杖か、いっそ棍棒の方がよほど手に馴染む。

 

 

 息を吸い、吐く。

 水差しから一口だけ喉を潤し、鏡の前に立つ。

 

 

 薄緑がかった銀髪の女が映る。

 感情の薄い目。

 整ってはいるが、特別印象に残る顔ではない。

 だが――

 

 

「風に揺れる髪が綺麗」

 

 そう言われたのは、いつだっただろうか。

 リュシアの声が、ふと脳裏を掠める。

 

 あの丘で風が吹いていた日のことを、思い出す。

 

 肩にも掛からない長さに切ってから、ずっとこのままだ。

 

 戦闘でも研究でも邪魔にならない長さ。

 右手で耳に触れるように髪をかき上げると、視線を逸らし、装飾のない衣服を手に取った。

 

 軽装に着替え、部屋を出る。

 扉が閉まる音が小さく響き、廊下に溶ける。

 

 誰もいない通路に、私の足音だけが規則的に反響する。

 王城は朝でも静かだ。

 人はいるはずなのに、気配が遠い。

 この静けさは嫌いではないが、好きでもない。

 

 必要なのは名声でも、力そのものでもない。

 私が自由に動ける立場。

 必要なときに、必要な言葉を通せる発言力。

 誰かを縛り、守り、あるいは止めるための権力。

 

 

 宮廷魔術師の言葉は軽くない。

 それが命令でなくとも、多くの者が従う。

 だから私は、それを利用する。

 良くも悪くも、それだけだ。

 

 

 エゴだろう。

 傲慢だろう。

 だが、他の宮廷魔術師たちに比べれば、私のそれはまだ可愛いものだと思っている。

 

 

 彼らは名声を欲し、影響力を広げ、互いを牽制し合う。

 持ちつ持たれつ、騙し騙され、利用し合う関係。

 笑顔の裏で計算し、沈黙の裏で測り続ける。

 

 

 私はそこに立っている。

 同じ輪の中にいながら、少しだけ距離を置いて。

 

 

 居心地が悪い。

 だが、離れるつもりもない。

 

 この立場でしか守れないものがある。

 この権威でしか止められない愚かさがある。

 だから私は、ここにいる。

 

 廊下の窓から差し込む朝の光が、石床に細い帯を落としていた。

 その光を踏み越えながら、私は歩く。

 

 

 名誉でも栄光でもない。

 ただ、必要だから。

 それだけの理由で今日も宮廷魔術師であり続ける。

 

 

 通りすがりの兵も侍女も頭を下げていた。

 

 セレナはそれに応じない。

 会釈も、微笑も、言葉も返さない。まっすぐ前だけを見て歩き、足取りの速さすら崩さない。彼女にとってそれは無礼ではなく、ただ余分な所作を省いただけの自然な振る舞いだった。

 

 

 廊下に響く靴音だけが、彼女の存在を知らせている。そして、その背中で視線を感じた。

 

 

 城門を抜け、朝の冷たい空気に触れる。外には手配していた馭者が既に待っていた。背筋を伸ばした壮年の男で、名をエドガーという。実直そうな顔立ちは、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 

「朝が早いですね、セレナ様」

 

「ええ、そうね。でも、まだ予定より少し早いと思いますが」

 

 彼の口角がわずかに上がる。

 

「それも含めて仕事でしてね。待たせるなんて駄目でしょう?」

 

「ええ、そうね。殊勝なことだわ」

 

 

 何度目になるか分からないやり取り。

 今日もまた外回り、迎賓と挨拶、視察のようなもの。争いの少ない後方国では、宮廷魔術師の仕事は魔物討伐よりも存在の提示に近い。そこにいるという事実が、人々を安心させ、国の威光を保つ。

 

 

 だからこそ、彼女は魔法の研鑽よりも、礼式や立ち振る舞いについて指摘されることの方が多くなった。

 

 

 整えられた花々は、季節に合わせて色を変えるだけで、配置はほとんど変わらない。変わらぬ景色は、安定の象徴であり、同時に停滞の証でもあった。

 

 

「お菓子は食べますか?」

 

 先に口を開いたのは私だった。

 

「王宮の菓子ですか? いただけるなら是非」

 

 ポケットから小さな包みがくしゃりと鳴る。

 それを取り出し、歩み寄って掌に乗せる。

 

 

 薄茶色の小さな塊。キャラメルだった。

 

「口に合わなかったんで?」

 

「私には少し甘かったみたい」

 

 体温でわずかに柔らかくなっている。

 それでも彼は気にせず受け取り、包みを開けて口に放り込んだ。

 

 セレナは再び縁に腰掛け、視線を泳がせる。

 花壇、城壁、門、空。どれも昨日と同じだ。

 

 

 

 ――リュシアなら、喜ぶだろうね。

 

 甘いものに目を輝かせる妹の顔が、ふと浮かぶ。

 同時に、その顔を直接見なかったことへの静かな後悔も胸の奥で揺れる。

 

 

 

 その時、擦るような足音と杖の音が重なって響いた。

 コツン、コツン、と規則的な音。

 

 振り向けば、壮年を越えた男が歩いてくる。宮廷魔術師ローレンス。土の大魔法で一国を救った英雄にして、今は杖なしでは長く歩けない老齢の魔術師だ。

 

「杖はどうした。ローブは?」

 

 開口一番、それだった。

 

「部屋に置いてきました」

 

「魔法使いとしての象徴だ。ローブも宮廷魔術師の証。一国の責任を背負う者の義務だぞ。ゆめゆめ忘れるな」

 

 鋭い視線。これもまた何度目か分からない。

 セレナは軽く息を吐き、「ええ、わかっています」とだけ返した。

 

 彼はかつて、魔物の大群を土壁で押し留めた。その壁は今も町外れに残り、城壁の一部として使われている。人々は彼を英雄と呼び、同時に過去の人とも囁く。

 

 セレナは馬車の扉を開け、彼の手を取った。

 

「足元にお気をつけて」

 

 半分は介護、半分は恩返し。

 作法を教えたのも、宮廷での立ち位置を整えたのも彼だった。

 

 二人が乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出す。

 

 

「妹に会いに行ったんだろう? どうだったんだ」

 

 ローレンスの問いに、セレナは一瞬だけ視線を落とした。

 

 

「行きました。けど、会いませんでした。ギルドの方と確認だけ。直接会うと……今度は私が、ローレンス様みたいになってしまいますので」

 

「……貴様」

 

 

 短い沈黙が落ちる。

 

「それでよかったのか?」

 

「はい」

 

 窓を見る。

 

 馬車の車輪が石畳を打つ音が、やけに大きく聞こえた。

 

「会えば、気が済むものを。いつ別れの言葉になるや分からんものを」

 

 

「あまり、酷いことを言わないでください」

 

 窓の外、変わらぬ城壁が後ろへ流れていく。

 会わなかったのは、弱さか、優しさか。あるいは保身か。自分でも判別がつかない。ただ一つ確かなのは、会えば役職よりも姉であろうとしてしまうということだった。

 

 

 宮廷魔術師セレナ。

 権威を持ち、発言力を持ち、国に名を刻む立場。

 

 けれど彼女は、その象徴たるローブも杖も身に着けない。

 それは反抗ではなく、息継ぎだった。

 権威の内側ではなく、外側で呼吸をするための、小さな抵抗。

 

 

 馬車は朝の光の中を進む。

 彼女はただ静かに、揺れに身を任せていた。

 

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