《別視点》
(数年前)
森の外れ。
風が抜ける、小高い丘。
ここは、音が少ない。
だから、息遣いがよく聞こえる。
草を擦る音。
遠くの鳥の羽ばたき。
そして――後ろで詰まる、小さな呼吸。
「……できません」
振り返らなくても分かる。
杖を握る指に力が入りすぎている。
起こそうとしている。
だから起きない。
私は数歩離れたまま、腕を組んだ。
「できないは、まだ何も始まっていないときの言葉よ」
慰める気はない。
叱る気もない。
ただ、順番を戻すだけ。
私は足元の土に指を落とし、一本の線を引いた。
「リュシア。魔力って、何だと思う?」
「……魔法を使うための……力?」
「半分正解」
半分外れ。
でも、その半分が大事。
「魔力はね、力そのものじゃない。水よ」
きょとん、とした顔。
予想通り。
「井戸に溜まっている水。
飲めるけれど、それだけでは何も起きない」
風が抜ける。
草の穂先が揺れる。
……私は何もしない。
この丘は、いつも風が吹く。
「じゃあ……魔術は?」
「やり方、ですか?」
「ええ。器」
杖の先を、軽く指で叩く。
「井戸の水を汲む桶であり、流す水路。
言葉、陣、手順、杖……全部ここ」
彼女は杖を見る。
自分の手を見る。
持っていることを、初めて意識する顔。
「魔法は?」
「結果」
迷わない。
ここは迷わせない。
私は手袋を外さないまま、手にする小さな杖を少しだけ動かした。
――ふわり。
草の上を、やさしい風が撫でる。
ただの風。
害も、威圧もない。
「これが、風魔法」
「……すごい……」
目が、光る。
憧れの色。
私は首を横に振る。
「違うわ。これはすごくない」
彼女の表情が止まる。
「これは、誰にでもできる。
魔力があって、魔術を理解すれば」
私は一歩下がり、同じ高さにしゃがんだ。
「だから、あなたはこれを目指しなさい」
「でも、姉様みたいには……」
「ならなくていい」
即答。
考える余地は与えない。
「いい? 魔法は、分かるものから学ぶの」
空を見る。
雲が流れている。
私は、あれをじっと見つめた。
「分からない力は、最後でいい。
……分からないままでいいこともある」
それでいい。
「杖を握って。
風を起こそうとしないで」
私は息を吐く。
「命令しない。
流れを作るだけ」
言葉を区切る。
彼女が覚えられる量だけ。
「魔力を出す。
魔術に沿わせる。
結果として、風が吹く」
世界は順番で出来ている。
順番を守れば、裏切らない。
「いい?
風魔法は――」
私は少しだけ声を落とす。
「風を生む魔法じゃない。
風が生まれる理由を作るだけ」
彼女は深く息を吸う。
肩の力が、少し抜ける。
杖を構える。
言葉をなぞる。
魔力を流す。
――ふわり。
今度は、確かに。
彼女の前で、小さな風が生まれた。
「……できた」
小さな声。
でも、震えていない。
「ええ」
私は目を細める。
それでいい。
それだけでいい。
心の中でだけ、言葉を足す。
(……これでいい)
私の杖先には、まだ何もしていない風がまとわりついている。
丘を抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎる。
(現在)
朝はいつも早い。
それは太陽の位置によるものではなく、私の身体に染み付いた単なる癖。
目覚める時間に理由などない。ただ、眠りが浅くなる頃合いを身体が覚えてしまっただけのこと。
柔らかな寝具の上でゆっくりと身を起こし、足を床へ下ろす。
冷たい石の感触が足裏を通じて現実を伝えてくる。
ここは王城の一角、宮廷魔術師に与えられた私室。
広すぎるほどの部屋に、置かれている家具は最低限。
豪奢でも華美でもないが、どこか空虚で、音が吸い込まれていくような静けさがある。
宮廷魔術師。
杖を持つ者にとって、これ以上ない名誉の一つ。
実力、結果、努力、そして才能。
それらが揃い、国に認められて初めて与えられる称号。
家の者はきっと喜んだだろう。
血族の誉れ、後世に名を残す偉業。
肖像画が描かれ、史書に名が刻まれ、いつか誰かが称える。
――結果的に、そうなっただけだ。
私はその肩書きに憧れていたわけでも、名誉を欲したわけでもない。
辿り着いた場所が、ただここだったというだけの話。
部屋の隅に、正装のローブと帽子が掛けられている。
国が個人を認めて贈る、由緒正しき一着。
誰もが喉から手が出るほど欲しがる代物。
けれど、そこには薄く埃が積もっていた。
正式な式典でもなければ、袖を通す理由がない。
権威を示す衣装は、私にとってはただの重りだ。
同じように、大振りの杖も好まない。
儀礼用の装飾は扱いづらく、威圧のための道具でしかない。
実用で言えば、短い杖か、いっそ棍棒の方がよほど手に馴染む。
息を吸い、吐く。
水差しから一口だけ喉を潤し、鏡の前に立つ。
薄緑がかった銀髪の女が映る。
感情の薄い目。
整ってはいるが、特別印象に残る顔ではない。
だが――
「風に揺れる髪が綺麗」
そう言われたのは、いつだっただろうか。
リュシアの声が、ふと脳裏を掠める。
あの丘で風が吹いていた日のことを、思い出す。
肩にも掛からない長さに切ってから、ずっとこのままだ。
戦闘でも研究でも邪魔にならない長さ。
右手で耳に触れるように髪をかき上げると、視線を逸らし、装飾のない衣服を手に取った。
軽装に着替え、部屋を出る。
扉が閉まる音が小さく響き、廊下に溶ける。
誰もいない通路に、私の足音だけが規則的に反響する。
王城は朝でも静かだ。
人はいるはずなのに、気配が遠い。
この静けさは嫌いではないが、好きでもない。
必要なのは名声でも、力そのものでもない。
私が自由に動ける立場。
必要なときに、必要な言葉を通せる発言力。
誰かを縛り、守り、あるいは止めるための権力。
宮廷魔術師の言葉は軽くない。
それが命令でなくとも、多くの者が従う。
だから私は、それを利用する。
良くも悪くも、それだけだ。
エゴだろう。
傲慢だろう。
だが、他の宮廷魔術師たちに比べれば、私のそれはまだ可愛いものだと思っている。
彼らは名声を欲し、影響力を広げ、互いを牽制し合う。
持ちつ持たれつ、騙し騙され、利用し合う関係。
笑顔の裏で計算し、沈黙の裏で測り続ける。
私はそこに立っている。
同じ輪の中にいながら、少しだけ距離を置いて。
居心地が悪い。
だが、離れるつもりもない。
この立場でしか守れないものがある。
この権威でしか止められない愚かさがある。
だから私は、ここにいる。
廊下の窓から差し込む朝の光が、石床に細い帯を落としていた。
その光を踏み越えながら、私は歩く。
名誉でも栄光でもない。
ただ、必要だから。
それだけの理由で今日も宮廷魔術師であり続ける。
通りすがりの兵も侍女も頭を下げていた。
セレナはそれに応じない。
会釈も、微笑も、言葉も返さない。まっすぐ前だけを見て歩き、足取りの速さすら崩さない。彼女にとってそれは無礼ではなく、ただ余分な所作を省いただけの自然な振る舞いだった。
廊下に響く靴音だけが、彼女の存在を知らせている。そして、その背中で視線を感じた。
城門を抜け、朝の冷たい空気に触れる。外には手配していた馭者が既に待っていた。背筋を伸ばした壮年の男で、名をエドガーという。実直そうな顔立ちは、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「朝が早いですね、セレナ様」
「ええ、そうね。でも、まだ予定より少し早いと思いますが」
彼の口角がわずかに上がる。
「それも含めて仕事でしてね。待たせるなんて駄目でしょう?」
「ええ、そうね。殊勝なことだわ」
何度目になるか分からないやり取り。
今日もまた外回り、迎賓と挨拶、視察のようなもの。争いの少ない後方国では、宮廷魔術師の仕事は魔物討伐よりも存在の提示に近い。そこにいるという事実が、人々を安心させ、国の威光を保つ。
だからこそ、彼女は魔法の研鑽よりも、礼式や立ち振る舞いについて指摘されることの方が多くなった。
整えられた花々は、季節に合わせて色を変えるだけで、配置はほとんど変わらない。変わらぬ景色は、安定の象徴であり、同時に停滞の証でもあった。
「お菓子は食べますか?」
先に口を開いたのは私だった。
「王宮の菓子ですか? いただけるなら是非」
ポケットから小さな包みがくしゃりと鳴る。
それを取り出し、歩み寄って掌に乗せる。
薄茶色の小さな塊。キャラメルだった。
「口に合わなかったんで?」
「私には少し甘かったみたい」
体温でわずかに柔らかくなっている。
それでも彼は気にせず受け取り、包みを開けて口に放り込んだ。
セレナは再び縁に腰掛け、視線を泳がせる。
花壇、城壁、門、空。どれも昨日と同じだ。
――リュシアなら、喜ぶだろうね。
甘いものに目を輝かせる妹の顔が、ふと浮かぶ。
同時に、その顔を直接見なかったことへの静かな後悔も胸の奥で揺れる。
その時、擦るような足音と杖の音が重なって響いた。
コツン、コツン、と規則的な音。
振り向けば、壮年を越えた男が歩いてくる。宮廷魔術師ローレンス。土の大魔法で一国を救った英雄にして、今は杖なしでは長く歩けない老齢の魔術師だ。
「杖はどうした。ローブは?」
開口一番、それだった。
「部屋に置いてきました」
「魔法使いとしての象徴だ。ローブも宮廷魔術師の証。一国の責任を背負う者の義務だぞ。ゆめゆめ忘れるな」
鋭い視線。これもまた何度目か分からない。
セレナは軽く息を吐き、「ええ、わかっています」とだけ返した。
彼はかつて、魔物の大群を土壁で押し留めた。その壁は今も町外れに残り、城壁の一部として使われている。人々は彼を英雄と呼び、同時に過去の人とも囁く。
セレナは馬車の扉を開け、彼の手を取った。
「足元にお気をつけて」
半分は介護、半分は恩返し。
作法を教えたのも、宮廷での立ち位置を整えたのも彼だった。
二人が乗り込むと、馬車はゆっくりと動き出す。
「妹に会いに行ったんだろう? どうだったんだ」
ローレンスの問いに、セレナは一瞬だけ視線を落とした。
「行きました。けど、会いませんでした。ギルドの方と確認だけ。直接会うと……今度は私が、ローレンス様みたいになってしまいますので」
「……貴様」
短い沈黙が落ちる。
「それでよかったのか?」
「はい」
窓を見る。
馬車の車輪が石畳を打つ音が、やけに大きく聞こえた。
「会えば、気が済むものを。いつ別れの言葉になるや分からんものを」
「あまり、酷いことを言わないでください」
窓の外、変わらぬ城壁が後ろへ流れていく。
会わなかったのは、弱さか、優しさか。あるいは保身か。自分でも判別がつかない。ただ一つ確かなのは、会えば役職よりも姉であろうとしてしまうということだった。
宮廷魔術師セレナ。
権威を持ち、発言力を持ち、国に名を刻む立場。
けれど彼女は、その象徴たるローブも杖も身に着けない。
それは反抗ではなく、息継ぎだった。
権威の内側ではなく、外側で呼吸をするための、小さな抵抗。
馬車は朝の光の中を進む。
彼女はただ静かに、揺れに身を任せていた。