「くちゅん……!」
流れてきたそよ風が、鼻先をくすぐった。
反射的に目を閉じた瞬間、情けない音が喉から漏れる。
「ふぇぁ……」
自分でも分かる。今、きっとひどい顔をしている。
まぶたの端を指で押さえながら、くしゃみの余韻をやり過ごす。
「ふにゃふにゃの顔になってるよ」
横から聞こえた声に、思わず頬が緩んだ。
「えへへ……」
ミアレが小さく笑っている。
からかわれているのに、不思議と嫌な気はしなかった。杖を持ち直し、軽く握り直す。革の感触が手のひらに馴染んで、気持ちが少し落ち着いた。
ここは農地。
柔らかな土を踏みしめるたび、湿った匂いが立ち上る。その匂いが、また鼻を刺激してくる。今度はこらえた。
依頼の真っ最中だ。
内容は単純。
農地を荒らす大ネズミの駆除。できるだけ多く倒す。それだけ。説明は短く、余計な言葉もなかった。
参加しているのは私とミアレ、それから三人組のパーティー。
合計五人で、広い農地を横に広がるように進んでいる。
依頼主の農場主が、少し離れた場所で土魔法を使っている。
地面の表層を掻き混ぜるように盛り上げると、ぼこり、と土が動き、その下から大ネズミが飛び出してくる。膝下ほどの大きさ。ずんぐりとした体に短い脚。隠れる場所もなく、蛇のように体をくねらせながら必死に走る。
そこを、仕留める。
ピン、と乾いた音。
ミアレの矢が放たれ、大ネズミの胴に吸い込まれる。短い悲鳴もなく、静かに倒れる。彼女は駆け寄り、矢を引き抜き、泥を軽く拭うとすぐ次へ視線を向ける。動きに無駄がない。流れるようだ。
私は杖を向ける。
「エアーブロー」
風の塊が、目に見えないまま放たれる。
やや下に逸れたそれは、大ネズミの側面に当たり、土にめり込ませた。動かなくなる。
……手応えがない。
これでいいのか分からず、もう一度、とどめのつもりで放った。
「あ……」
二度目の風は強すぎた。
大ネズミの体が崩れ、土に散る。原型が分からなくなる。やりすぎた、とすぐに分かった。一発で十分だったのだろう。
胸の奥が、少しだけ重くなる。
後ろを見ると、すでにいくつもの遺骸が並んでいた。
その周囲に、森オオカミの姿がある。こちらに気づいているのに、近づいてこない。ただ倒れたネズミを咥えては、少し離れて食べている。
依頼主は言っていた。
このときの森オオカミは、人を襲わない。おこぼれをもらって満足して帰っていく、と。
空からは鳥が降りてきて、遺骸をついばんでいる。
すべては後で土と混ぜられ、肥やしになるのだという。
命が、土に戻る。
足元に視線を落とすと、白く細いものが見えた。
小さな骨。踏みしめた土の隙間から、かすかに覗いている。
私は向き直る。
考えすぎる前に、杖を構える。
「エアーブロー」
一つ。
続けて、もう一つ。
即射。連続。風が走る。
前方で飛び出した大ネズミが、軽く弾かれるように吹き飛ぶ。先頭のパーティーが取りこぼした個体だ。
「助かる!」
声が飛んでくる。
私は軽くうなずくだけで、また次へ視線を向けた。
広い。
本当に広い農地だった。端が見えない。どこまで続くのか分からない。終わりが遠く感じる。
「あっちだ!」
「取り逃がした、頼む!」
「まかせろ!」
声が、何度も交差する。
土が盛り上がり、ネズミが飛び出し、矢が走り、風が打つ。繰り返し。繰り返し。
私は杖を握り直す。
手のひらに汗が滲んでいるのに、なぜか心は静かだった。
土の匂い。
風の流れ。
命が倒れ、命が食べ、命が還る。
土の上で、土のために行われる作業。
風を放つたび、私は少しだけ、自分の輪郭がはっきりする気がした。
強すぎてもいけない。弱すぎても足りない。ちょうどいい力を探す。手応えを覚える。
くしゃみをした鼻先を、袖でこすった。
土の匂いが、まだ残っている。
遠くでまた声が上がる。
「あっちだ!」
私は杖を構え、風を集めた。
どれだけ時間が経ったのか、気づけば農地の端まで来ていた。
先に音を上げたのは、依頼主側の人だった。
二人で交代しながら土を盛り上げていたが、やがて肩で息をし、畔に腰を下ろす。額には汗が滲み、握っていた杖の先がわずかに震えていた。
申し訳なさそうに、それでもどこか安堵した声で言う。
「今日はここまでにしようか。いやぁ、助かったよ。こちらからもギルドに報告しておくから、報酬はギルドで受け取ってくれ」
その人の顔色は、少し青白い。
魔力の枯渇。
それがどれほど身体に重くのしかかるか、私は知っている。
一度だけではない。
少なくとも、あの感覚を理解するために――姉さまに、無理やり体験させられたことがある。
視界が白くなり、立っているのか倒れているのかも分からなくなる。
血の気が引くような立ちくらみ。
全身にまとわりつく倦怠感。
まるで、魔力が第二の血液であるかのように、身体から抜け落ちていく感覚。
魔法が使えない人間でさえ、魔力は持っている。
それがどれほど微量であっても、確かに存在している。
全部、姉さまが教えてくれたことだった。
私はぼんやりと、しかし妙に冷静に、目の前で起きていた光景を見つめていた。
繰り返し掘り返される地面。
盛り上がり、崩れ、また均される。
その下から飛び出してくる大ネズミ。
誰が見ても単純な出来事。
けれど、私はそこに「連続して起きている結果」を見ていた。
魔法が、途切れずに繋がっている。
魔法とは何か。
自然と、頭の中で問いが浮かぶ。
まず、何をしたいのか。
押すのか。
切るのか。
吹き飛ばすのか。
揺らすのか。
次に魔術。
構築とは設計図。
その設計図を描くための筆が、詠唱や杖。
他にも手段はあるけれど、一般的なのはそれだ。
それらは回路になる。
魔力を流すための、水路のようなもの。
その中で調整するのは五つ。
出力、範囲、方向、密度、持続時間。
ここで初めて、魔力を流す。
重要なのは量ではない。
回路に対して適切な流量を流すこと。
多すぎれば溢れ、暴走を起こす。
少なければ不発、あるいは詠唱の遅延。
私はそれを何度も経験した。
泣きながら杖を握っていた私に、姉さまは何度も言い聞かせた。
「必要以上に経験しなさい」と。
思い出すと、腕の奥が鈍く疼く。
あの時の焼けるような痛みが、蘇る。
私は小さく息を吐いた。
最後は指向性。
前に押すのか。
横に薙ぐのか。
点で刺すのか。
そこまで整って、ようやく魔法になる。
結果として現れる。
姉さまが昔、言っていた井戸水の話を思い出す。
井戸の水が魔力。
桶と水路が魔術。
水路の先で形を変えて流れ出すものが魔法。
どれか一つでも欠ければ、魔法は成立しない。
魔力量は才能と資質。
だが魔術は、技術と学問。
「魔力量が多いことは関係ない」
姉さまの声が、頭の奥で静かに反芻される。
「お疲れ」
不意に声をかけられ、私は現実に引き戻された。
三人組のEランクパーティーの一人、弓を背負った青年だった。
「弓と魔法の援護、良かったよ。その場で会ったばかりなのに良い連携だった。また次会ったとき、よろしく頼むよ」
ミアレが微笑み返す。
「こちらこそ、ありがとうございました。三人の連携のおかげで、私たちも集中しやすかったです」
私はその横で、小さく頷くだけだった。
彼は仲間と合流し、手を軽く振って去っていく。
土の匂いだけが残った。
「リュシアちゃん、私たちも行こう?」
「はい」
ミアレの背を追って歩き出す。
柔らかな土を踏みしめる感触。
泥がまとわりついて重い足を動かす。
空はまだ明るく、昼下がりの光が遠くで木の葉が反射していた。
ふと、私は振り返る。
畔に座ったままの依頼主。
まだ杖を握りしめ、静かに呼吸を整えている。
あの人は、魔法の扱いがすごく上手い。
それが、私の中で出た答えだった。
口には出さなかった。
ただ、胸の奥にしまい込む。
魔力量ではない。
派手な技でもない。
流れを知っている人。
私はまた前を向き、駆け出した。