風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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11話後編 手応え

 

 

「くちゅん……!」

 

 流れてきたそよ風が、鼻先をくすぐった。

 反射的に目を閉じた瞬間、情けない音が喉から漏れる。

 

「ふぇぁ……」

 

 自分でも分かる。今、きっとひどい顔をしている。

 まぶたの端を指で押さえながら、くしゃみの余韻をやり過ごす。

 

「ふにゃふにゃの顔になってるよ」

 

 横から聞こえた声に、思わず頬が緩んだ。

 

「えへへ……」

 

 ミアレが小さく笑っている。

 からかわれているのに、不思議と嫌な気はしなかった。杖を持ち直し、軽く握り直す。革の感触が手のひらに馴染んで、気持ちが少し落ち着いた。

 

 ここは農地。

 柔らかな土を踏みしめるたび、湿った匂いが立ち上る。その匂いが、また鼻を刺激してくる。今度はこらえた。

 

 依頼の真っ最中だ。

 

 内容は単純。

 農地を荒らす大ネズミの駆除。できるだけ多く倒す。それだけ。説明は短く、余計な言葉もなかった。

 

 参加しているのは私とミアレ、それから三人組のパーティー。

 合計五人で、広い農地を横に広がるように進んでいる。

 

 依頼主の農場主が、少し離れた場所で土魔法を使っている。

 地面の表層を掻き混ぜるように盛り上げると、ぼこり、と土が動き、その下から大ネズミが飛び出してくる。膝下ほどの大きさ。ずんぐりとした体に短い脚。隠れる場所もなく、蛇のように体をくねらせながら必死に走る。

 

 そこを、仕留める。

 

 ピン、と乾いた音。

 ミアレの矢が放たれ、大ネズミの胴に吸い込まれる。短い悲鳴もなく、静かに倒れる。彼女は駆け寄り、矢を引き抜き、泥を軽く拭うとすぐ次へ視線を向ける。動きに無駄がない。流れるようだ。

 

 私は杖を向ける。

 

「エアーブロー」

 

 風の塊が、目に見えないまま放たれる。

 やや下に逸れたそれは、大ネズミの側面に当たり、土にめり込ませた。動かなくなる。

 

 ……手応えがない。

 

 これでいいのか分からず、もう一度、とどめのつもりで放った。

 

「あ……」

 

 二度目の風は強すぎた。

 大ネズミの体が崩れ、土に散る。原型が分からなくなる。やりすぎた、とすぐに分かった。一発で十分だったのだろう。

 

 胸の奥が、少しだけ重くなる。

 

 後ろを見ると、すでにいくつもの遺骸が並んでいた。

 その周囲に、森オオカミの姿がある。こちらに気づいているのに、近づいてこない。ただ倒れたネズミを咥えては、少し離れて食べている。

 

 依頼主は言っていた。

 このときの森オオカミは、人を襲わない。おこぼれをもらって満足して帰っていく、と。

 

 空からは鳥が降りてきて、遺骸をついばんでいる。

 すべては後で土と混ぜられ、肥やしになるのだという。

 

 命が、土に戻る。

 

 足元に視線を落とすと、白く細いものが見えた。

 小さな骨。踏みしめた土の隙間から、かすかに覗いている。

 

 私は向き直る。

 考えすぎる前に、杖を構える。

 

「エアーブロー」

 

 一つ。

 続けて、もう一つ。

 

 即射。連続。風が走る。

 前方で飛び出した大ネズミが、軽く弾かれるように吹き飛ぶ。先頭のパーティーが取りこぼした個体だ。

 

「助かる!」

 

 声が飛んでくる。

 私は軽くうなずくだけで、また次へ視線を向けた。

 

 広い。

 本当に広い農地だった。端が見えない。どこまで続くのか分からない。終わりが遠く感じる。

 

「あっちだ!」

「取り逃がした、頼む!」

「まかせろ!」

 

 声が、何度も交差する。

 土が盛り上がり、ネズミが飛び出し、矢が走り、風が打つ。繰り返し。繰り返し。

 

 私は杖を握り直す。

 手のひらに汗が滲んでいるのに、なぜか心は静かだった。

 

 土の匂い。

 風の流れ。

 命が倒れ、命が食べ、命が還る。

 土の上で、土のために行われる作業。

 

 風を放つたび、私は少しだけ、自分の輪郭がはっきりする気がした。

 強すぎてもいけない。弱すぎても足りない。ちょうどいい力を探す。手応えを覚える。

 

 くしゃみをした鼻先を、袖でこすった。

 土の匂いが、まだ残っている。

 

 遠くでまた声が上がる。

 

「あっちだ!」

 

 私は杖を構え、風を集めた。

 

 どれだけ時間が経ったのか、気づけば農地の端まで来ていた。

 

 先に音を上げたのは、依頼主側の人だった。

 

 二人で交代しながら土を盛り上げていたが、やがて肩で息をし、畔に腰を下ろす。額には汗が滲み、握っていた杖の先がわずかに震えていた。

 

 申し訳なさそうに、それでもどこか安堵した声で言う。

 

「今日はここまでにしようか。いやぁ、助かったよ。こちらからもギルドに報告しておくから、報酬はギルドで受け取ってくれ」

 

 その人の顔色は、少し青白い。

 

 魔力の枯渇。

 それがどれほど身体に重くのしかかるか、私は知っている。

 

 一度だけではない。

 少なくとも、あの感覚を理解するために――姉さまに、無理やり体験させられたことがある。

 

 視界が白くなり、立っているのか倒れているのかも分からなくなる。

 血の気が引くような立ちくらみ。

 全身にまとわりつく倦怠感。

 

 まるで、魔力が第二の血液であるかのように、身体から抜け落ちていく感覚。

 

 魔法が使えない人間でさえ、魔力は持っている。

 それがどれほど微量であっても、確かに存在している。

 全部、姉さまが教えてくれたことだった。

 

 私はぼんやりと、しかし妙に冷静に、目の前で起きていた光景を見つめていた。

 

 繰り返し掘り返される地面。

 盛り上がり、崩れ、また均される。

 その下から飛び出してくる大ネズミ。

 

 誰が見ても単純な出来事。

 けれど、私はそこに「連続して起きている結果」を見ていた。

 

 魔法が、途切れずに繋がっている。

 

 魔法とは何か。

 自然と、頭の中で問いが浮かぶ。

 

 まず、何をしたいのか。

 

 押すのか。

 切るのか。

 吹き飛ばすのか。

 揺らすのか。

 

 次に魔術。

 

 構築とは設計図。

 その設計図を描くための筆が、詠唱や杖。

 他にも手段はあるけれど、一般的なのはそれだ。

 

 それらは回路になる。

 魔力を流すための、水路のようなもの。

 

 その中で調整するのは五つ。

 出力、範囲、方向、密度、持続時間。

 

 ここで初めて、魔力を流す。

 

 重要なのは量ではない。

 回路に対して適切な流量を流すこと。

 

 多すぎれば溢れ、暴走を起こす。

 少なければ不発、あるいは詠唱の遅延。

 私はそれを何度も経験した。

 泣きながら杖を握っていた私に、姉さまは何度も言い聞かせた。

 

「必要以上に経験しなさい」と。

 

 思い出すと、腕の奥が鈍く疼く。

 あの時の焼けるような痛みが、蘇る。

 

 私は小さく息を吐いた。

 

 最後は指向性。

 前に押すのか。

 横に薙ぐのか。

 点で刺すのか。

 

 そこまで整って、ようやく魔法になる。

 結果として現れる。

 

 姉さまが昔、言っていた井戸水の話を思い出す。

 井戸の水が魔力。

 桶と水路が魔術。

 水路の先で形を変えて流れ出すものが魔法。

 

 どれか一つでも欠ければ、魔法は成立しない。

 

 魔力量は才能と資質。

 だが魔術は、技術と学問。

 

「魔力量が多いことは関係ない」

 

 姉さまの声が、頭の奥で静かに反芻される。

 

「お疲れ」

 

 不意に声をかけられ、私は現実に引き戻された。

 

 三人組のEランクパーティーの一人、弓を背負った青年だった。

 

「弓と魔法の援護、良かったよ。その場で会ったばかりなのに良い連携だった。また次会ったとき、よろしく頼むよ」

 

 ミアレが微笑み返す。

 

「こちらこそ、ありがとうございました。三人の連携のおかげで、私たちも集中しやすかったです」

 

 私はその横で、小さく頷くだけだった。

 

 彼は仲間と合流し、手を軽く振って去っていく。

 

 土の匂いだけが残った。

 

「リュシアちゃん、私たちも行こう?」

 

「はい」

 

 ミアレの背を追って歩き出す。

 柔らかな土を踏みしめる感触。

 泥がまとわりついて重い足を動かす。

 

 空はまだ明るく、昼下がりの光が遠くで木の葉が反射していた。

 

 ふと、私は振り返る。

 

 畔に座ったままの依頼主。

 まだ杖を握りしめ、静かに呼吸を整えている。

 

 あの人は、魔法の扱いがすごく上手い。

 

 それが、私の中で出た答えだった。

 

 口には出さなかった。

 ただ、胸の奥にしまい込む。

 

 魔力量ではない。

 派手な技でもない。

 

 流れを知っている人。

 

 私はまた前を向き、駆け出した。

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