《ミアレ視点》
昼下がりのギルドは、思っていたより人が少なかった。
それでも、この場所特有の匂いは変わらない。木の机に染みついた酒と汗、革装備の油、そして微かに混じる鉄の匂い。
何度も来たはずなのに、扉をくぐるたびに「帰ってきた」と思わせる空気だった。
テーブルでは向かい合って談笑する者たちがいて、昼間から酒をあおる者もいる。受付のお姉さんに懲りもせず言葉を投げる男の姿も見える。人の数は多くないのに、賑わいだけはいつもと同じだった。
私は隣を歩くリュシアちゃんに視線を落とす。
彼女は少し緊張した面持ちで、けれど足取りは軽い。杖を抱える仕草がまだ新しく、革鎧も陽の光をわずかに弾いている。
二人で受付カウンターへ向かい、依頼達成の報告を済ませる。
受付のお姉さんは慣れた手つきで書類をめくり、印を押した。共同で参加したパーティーの処理もあったからか、受付のお姉さんは迷いなく書類を進め、慣れた手つきで報酬を差し出してくる。
銀貨三枚。
袋の中から取り出された銀貨は三枚。
私はその縁を指先でなぞる。午前中で終わった依頼としては、かなり手取りがいい。けれど、あの駆除量を思い出すと、他のパーティーがいなければ相当骨が折れていたはずだと分かる。妥当で、そして少しだけ運が良かった。
財布袋に銀貨をしまい、ふと顔を上げる。
リュシアちゃんは両手に銀貨を乗せ、大切なもののように見つめていた。私の視線に気づくと、ぱっと顔を上げて、にこりと笑う。
可愛い。
疑うことを知らない、真っ直ぐな感情。
見ているだけで胸の奥が静かに緩む。
彼女もポーチにお金をしまい、二人で受付を離れた。
昼なら、もう一つ依頼を受けることもできる。
でも、夜遅くなるのは最善とは言えない。
少し迷って、私は彼女に尋ねた。
「リュシアちゃん、この後どうする? 今日はここまでにする? もう一つ何かする?」
彼女はすぐに私の方へ向き直った。
「あ、やります。私、まだ行けます!」
はっきりとした返事。
疲れた様子は、どこにもない。
私は小さく微笑む。
「日が暮れないうちに、早く選んで行こっか」
そのときだった。
「おいっ」
低い男性の声が背後から飛ぶ。私は振り返り、リュシアちゃんの横に並ぶよう一歩引いた。
視線は私ではなく、彼女へ向いている。
「あ……」
リュシアちゃんの声を遮るように、青年は指でコインを弾いた。
キン、と澄んだ音。
それは彼女のレザーの胸当てに当たり、慌てて両手で受け止める。
ゆっくりと開かれた手のひら。
そこに、金色の光。
さらにもう一枚、青年は指先からそっと落とした。
「これはお前の取り分だ」
「あの、これは?」
金貨を見てから、彼女は顔を上げる。
「何って……オークの肉だよ。いつもより多く持って帰れたし、状態も良かったらしい。剣でズタズタにするより、ああやって仕留めた方が割がいいってことだ」
オーク。
その単語だけが、胸のどこかをざわつかせた。理由は分からない。
私は青年を見た。少し横柄な口調。知らない人だ。
「私はミアレと言います。あの、貴方は?」
「俺か? 俺はバルクだ。Dランク。ああ……こいつのパーティーか?」
「はい」
リュシアちゃんが迷いなく答える。
「ミアレさんは、いろいろ教えてくれますし、一緒にいてくれる仲間なんです」
胸の奥に灯りがともる。ざわめきが静かになり、温かさだけが残る。
言葉にされると、こんなにも重みがあるなんて。
「リュシアちゃん……」
「だな。一人だと何しでかすか分かんねぇし。連れに感謝しろよ」
バルクさんは彼女の頭を大きな手でわしっと撫でた。リュシアちゃんは頬を膨らませて振りほどく。
「もぅ」
その表情に、思わず笑みがこぼれる。
私は呼吸を整えて尋ねる。
「さっきのオークって、討伐ですか? 肉の納品?」
言ってくれれば、私もついていったのに。
そんな思いが、胸の端をかすめる。
「まぁな。こいつ、オークを一撃でのしたんだ。すげぇだろ」
一撃。
分かっていた。
試験のとき、丸太を粉砕した魔法。
森オオカミを吹き飛ばした一撃。
普通じゃないと、もう知っている。
本来、Eランクは一人でも倒せる相手。
Dランク以上は、パーティーで挑む相手。
それを、一人で。
弓を番えるより早く放たれる魔法で。
リュシアちゃんがこちらを見る。
褒めてほしそうな目。
「リュシアちゃん、すごいね」
彼女は胸を張る。顔に「私は強いでしょ」と書いてある。
強いよ。
でも――。
今は隣に並んで歩けている。けれど、いつか。私の実力が足りなくなる日が来るかもしれない。彼女の歩幅が大きくなり、私は置いていかれるかもしれない。
それでも、今はまだ並んでいられる。
同じ依頼を見て、同じ報酬を受け取り、同じ夕方の光の中を歩ける。
手のひらに残る銀貨の感触と、彼女の金貨の輝き。
重さは違っても、同じ袋にしまわれる音はよく似ていた。
ねぇ、リュシアちゃん。
私は、あなたのそばにいられますか。
問いは声にならないまま、胸の奥で静かに揺れていた。
─
ミアレの言葉が、胸の奥にじんわりと残っていた。
私は小さく胸を張った。
自分でも気づかないほど自然に、肩がわずかに持ち上がる。高揚と、誇らしさ。
私が強いという事実。
誰かがその強さを理解してくれているという確かな感覚。
それは、思っていたよりもずっと心地よかった。
鼻息が少し荒くなる。
握った杖に、無意識に力がこもっていた。木の軋む感触が掌に伝わる。
「なぁ、お前ら、ある程度の依頼をこなしてるんだったら、昇格試験を受けたらどうだ?」
不意に、バルクが口を開いた。
彼は椅子の背にもたれたまま、気楽そうに顎でカウンターの方を指す。
「次の登録試験と同日だったはずだ。内容も難しいこともないしな。まぁ、無事にDランクになったらよ。次も一緒に行こうぜ」
軽い調子の言葉だった。けれど、その中に「次」が当然のように含まれていることに、私はわずかにくすぐったさを覚える。
「Eランク自体、冒険者のお触り期間みたいなもんだ」
バルクは笑いながら続ける。
「面倒くさくて手間のかかる雑魚の魔物ばかりだったろ? で、そこで死ぬやつは死ぬし、死にかけてそこでやめるやつはそこで辞める。それでもなお、残ってるやつだけは次に行く。それがEランクだ」
言葉は乱暴なのに、不思議と否定する気にはならなかった。
事実なのだろう、とどこかで理解している自分がいる。
彼は向き直り、親指を自分に突き立てた。
「かくいう、俺もEランクの時に死にかけてガルドのおやっさんに助けられたからな」
ハハッ、と軽く笑う。
その笑い声は、過去を自嘲するものでも、誇るものでもなく、ただ「そういうこともあった」と言っているだけの音だった。
Dランクのおじさん。ガルド。
私は視線をギルドの中へ泳がせる。
昼下がりの空気はぬるく、酒の匂いと木の床の湿り気が混ざっている。
誰かの笑い声、コップの触れ合う音。
けれど、彼の姿は見当たらない。代わりに、ロニオが視界に入り、こちらに気づいて軽く手を挙げた。私は同じように返す。
「それでよ、礼と詫びにポーション渡そうとしたんだ。回復薬。命が助かるもんだろ? なのに断られた」
バルクの声が少しだけ低くなる。
ポーション。
冒険者にとって必要なもの。
怪我をしたとき、いざというとき、体勢を立て直すための手段。
それで命が助かることだってある。
私とミアレは自然と口を閉じ、続きを促すように彼の話に耳を傾けていた。
「それが必要なのは今のお前だ、ってな。返されたんだよ。ついでにこうも言われた。死にに行くやつは顔を見りゃわかる、だとよ」
バルクは肩をすくめる。
「何も受け取らねぇから、考えた末に酒を奢ったら飲むわ飲むわ。で、後になって笑ったわ」
楽しそうだった。
本当に、ただの思い出として語っている。
ふと、私の中にぼんやりとした記憶が浮かぶ。
あのおじさんに助けられたこと。
はっきりとは思い出せない。ただ、声だけが残っている。
――今日は運が良いな。
ふいに、記憶が浮かぶ。
あの時の声。
大きくもなく、優しくもなく、ただ事実を置くような声音。
腑に落ちない。
胸の奥で、小さな石が転がる。
バルクも助けられた。
他にも助けられた者がいる。
じゃあ、あの時の私は――
まるで、死にに行っていたみたいじゃないか。
違う。
そんなことはない。
私は強いから。
私は口には出さなかった。
あれは偶然、通りかかっただけだ。
助けられたなんて大げさだ。
たまたまそこにいただけ。
だから、言う必要はない。
胸に手を当てる。鼓動がやけに大きく響く。
でも、ついこの間も見た。
初心者の冒険者を引きずって運ぶ姿を。
同じ背中。
同じ歩幅。
頭を横に振る。
一度。
否定するように。
もう一度。
振り払うように。
三度目は、小さく。
自分に言い聞かせるように。
「もし世話になったんなら礼の一つは言っとけ」
バルクの声が現実に引き戻す。
「冒険者ってのは一人でどうにかできるもんじゃねぇからな。横のつながりはあった方が得だ」
その言葉の途中で、ロニオが彼を呼ぶ。
バルクは手を挙げて応え、こちらに向き直った。
「じゃあな」
短く言って、去っていく背中。
ミアレは別れ際、小さく頭を下げた。
「お話、ありがとうございました」
その横顔はいつも通り落ち着いていて、何も変わらない。
だからこそ、私は聞いてしまった。
「ねぇ、ミアレさんも……助けられたこと、あるの?」
恐る恐る。
願うように。
「ううん、私はないよ。ここの地元だとガルドさんは有名だから。知ってる人は割と多いかもしれないかな」
──無い。
「そう、ですよね」
また、頭を振る。
今度は速く。
思考を追い出すように。
「リュシアちゃん、どうしたの?」
ミアレが覗き込む。
私は口角を上げる。
「ん、いえ。何でもないです」
言葉は軽く、喉を通り抜けた。
「リュシアちゃん、先に昇格試験の申し込みに行こ?」
手の甲をそっと掴まれ、軽く引かれる。
強くない、でも確かな力。
自然と身体が受付のカウンターの方へ動いていく。
受付のカウンターへ向かう途中、私は一度だけ振り返る。
ギルドの入り口の近くの隅。
空いた椅子。
誰も座っていない場所。
私は歩きながら、もう一度だけ胸の奥に触れる。
胸の奥のざわめきには、まだ名前がつかない。
強さなのか、運なのか。
それとも、まだ知らない何かなのか。
答えは出ないまま、足だけが前へ進んでいた。
昇格試験の申し込みを終えたあと、結局その日はもう依頼を受けなかった。
受付の前で少し迷ったけれど、ミアレが言ったのだ。
「やっぱり今から行くと、帰りが暗くなっちゃうから」
それなら仕方ない、と私は頷いた。
夜は危ない。
魔物の一部が、昼とはまるで別の生き物のように活発になる時間帯。
頭では分かっている。けれど同時に、夜の冒険というものに憧れがあるのも事実だった。
野営とか、野宿とか。
焚き火を起こして、布で風よけを作って、小さな寝床を確保して。
ホーンラビットを丸焼きにしたり、オークの肉を焼いたり。
煙の匂い、ぱちぱちと弾ける火の音。
それはきっと、いかにも冒険者という感じがする。
――楽しいだろうな。
そんなことを考えている時間が、私は好きだった。
まだ起きていない未来を想像していると、胸の奥が温かくなる。
自分が本当に冒険者になったのだと、実感できる気がするから。
宿の食堂は、夕方前の静かな時間帯だった。
数人の客がぽつぽつと座っているだけで、昼の喧騒はもうない。
私はカウンター席に腰を下ろし、目の前の皿に向き合っていた。
木製のスプーンを握り、陶器の皿に軽く落とすと、コツンと乾いた音が鳴る。
それを滑らせるようにして、スクランブルエッグを掬い上げ、口に運んだ。
ふわり、と香りが立つ。
油の匂いと、塩と香味。
柔らかく、ほとんど噛まずに飲み込める食感。
舌に残るほんのりした甘み。
――おいしい。
自然と手が進む。
朝に出てくる、固くて味気ないパンと、やたら塩辛いベーコンとは比べものにならない。
毎日これでいい、と本気で思う。
「おいしいかい?」
不意に声をかけられて顔を上げると、宿のおばさんがにこやかに立っていた。
腕を組み、こちらを見ている。
「おいしいです」
私は正直に、笑顔で答えた。
嘘をつく理由もないし、本当においしいのだから。
「黒パンは、あんまり好きそうじゃなさそうだねぇ。毎朝、嫌そうな顔してるよ、あんた」
ぎくり、とした。
思わずスプーンを握る手に力が入る。
まるで心を読まれたようだった。
「あ、れは……美味しくは、ないです」
しぶしぶ口に出すと、おばさんは声を立てて笑った。
「素直だねぇ」
それから少し間を置き、指を三本立てる。
「味はまずいけどね、あれはあれでいいところがあるんだ。
安いこと、保存が利くこと、食べりゃあ腹の中で膨らむこと。
だからさ、冒険者の中でも持ってく奴は多いよ」
冒険者なら。
その言葉に、胸が少しだけ高鳴る。
「そうなんですか? 冒険者は、あの、美味しくないパンを……好きで持ってるんですか?」
「ああ、そうだよ。朝に持っていくかい?」
おばさんは、どこか楽しそうに私を見る。
からかっているわけではない。ただ、見守っているような目だった。
「いいんですか?」
「いいよ、いいよ。大金もらったからにはサービスさ。また朝に声をかけておくれ」
「ありがとうございます」
皿はもう空になっていた。
スプーンをくるりと回すと、陶器の底で軽く音を立てる。
おばさんはそれを見て、ふっと息をついた。
「ところで、冒険者の生活には慣れてきたかい」
「はい!」
私は勢いよく顔を上げた。
「オークとか、大ネズミとかやっつけました! 私の魔法で一撃です!」
自信満々に、両手で杖を持ち直してみせる。
誇らしい気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。
「オークをかい? すごいねぇ!」
おばさんは目を丸くして笑った。
その反応が嬉しくて、私はさらに胸を張る。
しばらく他愛のない話をして、笑って。
時間はゆっくりと過ぎていった。
そして最後に、おばさんはぽつりと言った。
「これから色々あるだろうけどね。ちゃんと、ここに帰ってくるんだよ。
帰ってこない日は、心配するからね」
その声は、少しだけ低くて、柔らかかった。
私は一瞬、何も言えなかった。
心配する。
帰ってくる場所。
冒険者になるということは、外へ出ることだと思っていた。
強くなって、遠くへ行って、知らない場所を歩くことだと。
でも――帰ってくる、という言葉は、どこか胸の奥に引っかかった。
「……はい」
小さく頷くと、おばさんはまた笑った。
いつもの、気さくな笑顔に戻っていた。
けれど私は、さっきの声を忘れられなかった。
少しだけ寂しそうに聞こえた、その一言を。
私はしばらく、空になった皿を見つめていた。