風の氏族の末娘は、冒険者を知らない   作:ほてぽて

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12話 強さと運と、言わないこと

 

 

《ミアレ視点》

 

 昼下がりのギルドは、思っていたより人が少なかった。

 

 それでも、この場所特有の匂いは変わらない。木の机に染みついた酒と汗、革装備の油、そして微かに混じる鉄の匂い。

 

 何度も来たはずなのに、扉をくぐるたびに「帰ってきた」と思わせる空気だった。

 

 テーブルでは向かい合って談笑する者たちがいて、昼間から酒をあおる者もいる。受付のお姉さんに懲りもせず言葉を投げる男の姿も見える。人の数は多くないのに、賑わいだけはいつもと同じだった。

 

 私は隣を歩くリュシアちゃんに視線を落とす。

 彼女は少し緊張した面持ちで、けれど足取りは軽い。杖を抱える仕草がまだ新しく、革鎧も陽の光をわずかに弾いている。

 

 二人で受付カウンターへ向かい、依頼達成の報告を済ませる。

 

 受付のお姉さんは慣れた手つきで書類をめくり、印を押した。共同で参加したパーティーの処理もあったからか、受付のお姉さんは迷いなく書類を進め、慣れた手つきで報酬を差し出してくる。

 

 銀貨三枚。

 

 袋の中から取り出された銀貨は三枚。

 

 私はその縁を指先でなぞる。午前中で終わった依頼としては、かなり手取りがいい。けれど、あの駆除量を思い出すと、他のパーティーがいなければ相当骨が折れていたはずだと分かる。妥当で、そして少しだけ運が良かった。

 

 財布袋に銀貨をしまい、ふと顔を上げる。

 リュシアちゃんは両手に銀貨を乗せ、大切なもののように見つめていた。私の視線に気づくと、ぱっと顔を上げて、にこりと笑う。

 

 可愛い。

 

 疑うことを知らない、真っ直ぐな感情。

 見ているだけで胸の奥が静かに緩む。

 

 彼女もポーチにお金をしまい、二人で受付を離れた。

 

 昼なら、もう一つ依頼を受けることもできる。

 でも、夜遅くなるのは最善とは言えない。

 少し迷って、私は彼女に尋ねた。

 

「リュシアちゃん、この後どうする? 今日はここまでにする? もう一つ何かする?」

 

 彼女はすぐに私の方へ向き直った。

 

「あ、やります。私、まだ行けます!」

 

 はっきりとした返事。

 疲れた様子は、どこにもない。

 

 私は小さく微笑む。

「日が暮れないうちに、早く選んで行こっか」

 

 そのときだった。

 

「おいっ」

 

 低い男性の声が背後から飛ぶ。私は振り返り、リュシアちゃんの横に並ぶよう一歩引いた。

 

 視線は私ではなく、彼女へ向いている。

 

「あ……」

 

 リュシアちゃんの声を遮るように、青年は指でコインを弾いた。

 

 キン、と澄んだ音。

 

 それは彼女のレザーの胸当てに当たり、慌てて両手で受け止める。

 

 ゆっくりと開かれた手のひら。

 そこに、金色の光。

 

 さらにもう一枚、青年は指先からそっと落とした。

 

「これはお前の取り分だ」

 

「あの、これは?」

 

 金貨を見てから、彼女は顔を上げる。

 

「何って……オークの肉だよ。いつもより多く持って帰れたし、状態も良かったらしい。剣でズタズタにするより、ああやって仕留めた方が割がいいってことだ」

 

 オーク。

 その単語だけが、胸のどこかをざわつかせた。理由は分からない。

 

 私は青年を見た。少し横柄な口調。知らない人だ。

 

「私はミアレと言います。あの、貴方は?」

 

「俺か? 俺はバルクだ。Dランク。ああ……こいつのパーティーか?」

 

「はい」

 

 リュシアちゃんが迷いなく答える。

 

「ミアレさんは、いろいろ教えてくれますし、一緒にいてくれる仲間なんです」

 

 胸の奥に灯りがともる。ざわめきが静かになり、温かさだけが残る。

 言葉にされると、こんなにも重みがあるなんて。

 

「リュシアちゃん……」

 

「だな。一人だと何しでかすか分かんねぇし。連れに感謝しろよ」

 

 バルクさんは彼女の頭を大きな手でわしっと撫でた。リュシアちゃんは頬を膨らませて振りほどく。

 

「もぅ」

 

 その表情に、思わず笑みがこぼれる。

 

 私は呼吸を整えて尋ねる。

 

「さっきのオークって、討伐ですか? 肉の納品?」

 

 言ってくれれば、私もついていったのに。

 そんな思いが、胸の端をかすめる。

 

「まぁな。こいつ、オークを一撃でのしたんだ。すげぇだろ」

 

 一撃。

 分かっていた。

 試験のとき、丸太を粉砕した魔法。

 森オオカミを吹き飛ばした一撃。

 普通じゃないと、もう知っている。

 

 本来、Eランクは一人でも倒せる相手。

 Dランク以上は、パーティーで挑む相手。

 

 それを、一人で。

 弓を番えるより早く放たれる魔法で。

 

 リュシアちゃんがこちらを見る。

 

 褒めてほしそうな目。

 

「リュシアちゃん、すごいね」

 

 彼女は胸を張る。顔に「私は強いでしょ」と書いてある。

 

 強いよ。

 でも――。

 

 今は隣に並んで歩けている。けれど、いつか。私の実力が足りなくなる日が来るかもしれない。彼女の歩幅が大きくなり、私は置いていかれるかもしれない。

 

 それでも、今はまだ並んでいられる。

 同じ依頼を見て、同じ報酬を受け取り、同じ夕方の光の中を歩ける。

 

 手のひらに残る銀貨の感触と、彼女の金貨の輝き。

 重さは違っても、同じ袋にしまわれる音はよく似ていた。

 

 

 

 ねぇ、リュシアちゃん。

 私は、あなたのそばにいられますか。

 

 

 

 問いは声にならないまま、胸の奥で静かに揺れていた。

 

 

 

 ミアレの言葉が、胸の奥にじんわりと残っていた。

 

 私は小さく胸を張った。

 自分でも気づかないほど自然に、肩がわずかに持ち上がる。高揚と、誇らしさ。

 

 私が強いという事実。

 誰かがその強さを理解してくれているという確かな感覚。

 それは、思っていたよりもずっと心地よかった。

 

 鼻息が少し荒くなる。

 握った杖に、無意識に力がこもっていた。木の軋む感触が掌に伝わる。

 

「なぁ、お前ら、ある程度の依頼をこなしてるんだったら、昇格試験を受けたらどうだ?」

 

 不意に、バルクが口を開いた。

 彼は椅子の背にもたれたまま、気楽そうに顎でカウンターの方を指す。

 

「次の登録試験と同日だったはずだ。内容も難しいこともないしな。まぁ、無事にDランクになったらよ。次も一緒に行こうぜ」

 

 軽い調子の言葉だった。けれど、その中に「次」が当然のように含まれていることに、私はわずかにくすぐったさを覚える。

 

「Eランク自体、冒険者のお触り期間みたいなもんだ」

 

 バルクは笑いながら続ける。

 

「面倒くさくて手間のかかる雑魚の魔物ばかりだったろ? で、そこで死ぬやつは死ぬし、死にかけてそこでやめるやつはそこで辞める。それでもなお、残ってるやつだけは次に行く。それがEランクだ」

 

 言葉は乱暴なのに、不思議と否定する気にはならなかった。

 事実なのだろう、とどこかで理解している自分がいる。

 

 彼は向き直り、親指を自分に突き立てた。

 

「かくいう、俺もEランクの時に死にかけてガルドのおやっさんに助けられたからな」

 

 ハハッ、と軽く笑う。

 その笑い声は、過去を自嘲するものでも、誇るものでもなく、ただ「そういうこともあった」と言っているだけの音だった。

 

 Dランクのおじさん。ガルド。

 

 私は視線をギルドの中へ泳がせる。

 

 昼下がりの空気はぬるく、酒の匂いと木の床の湿り気が混ざっている。

 誰かの笑い声、コップの触れ合う音。

 

 けれど、彼の姿は見当たらない。代わりに、ロニオが視界に入り、こちらに気づいて軽く手を挙げた。私は同じように返す。

 

「それでよ、礼と詫びにポーション渡そうとしたんだ。回復薬。命が助かるもんだろ? なのに断られた」

 

 バルクの声が少しだけ低くなる。

 

 ポーション。

 冒険者にとって必要なもの。

 怪我をしたとき、いざというとき、体勢を立て直すための手段。

 それで命が助かることだってある。

 

 私とミアレは自然と口を閉じ、続きを促すように彼の話に耳を傾けていた。

 

「それが必要なのは今のお前だ、ってな。返されたんだよ。ついでにこうも言われた。死にに行くやつは顔を見りゃわかる、だとよ」

 

 バルクは肩をすくめる。

 

「何も受け取らねぇから、考えた末に酒を奢ったら飲むわ飲むわ。で、後になって笑ったわ」

 

 楽しそうだった。

 本当に、ただの思い出として語っている。

 

 ふと、私の中にぼんやりとした記憶が浮かぶ。

 あのおじさんに助けられたこと。

 はっきりとは思い出せない。ただ、声だけが残っている。

 

 ――今日は運が良いな。

 

 ふいに、記憶が浮かぶ。

 あの時の声。

 大きくもなく、優しくもなく、ただ事実を置くような声音。

 

 腑に落ちない。

 胸の奥で、小さな石が転がる。

 

 バルクも助けられた。

 他にも助けられた者がいる。

 じゃあ、あの時の私は――

 

 まるで、死にに行っていたみたいじゃないか。

 

 違う。

 そんなことはない。

 私は強いから。

 

 私は口には出さなかった。

 あれは偶然、通りかかっただけだ。

 助けられたなんて大げさだ。

 たまたまそこにいただけ。

 だから、言う必要はない。

 

 胸に手を当てる。鼓動がやけに大きく響く。

 

 でも、ついこの間も見た。

 初心者の冒険者を引きずって運ぶ姿を。

 同じ背中。

 同じ歩幅。

 

 頭を横に振る。

 一度。

 否定するように。

 

 もう一度。

 振り払うように。

 

 三度目は、小さく。

 自分に言い聞かせるように。

 

「もし世話になったんなら礼の一つは言っとけ」

 

 バルクの声が現実に引き戻す。

 

「冒険者ってのは一人でどうにかできるもんじゃねぇからな。横のつながりはあった方が得だ」

 

 その言葉の途中で、ロニオが彼を呼ぶ。

 バルクは手を挙げて応え、こちらに向き直った。

 

「じゃあな」

 

 短く言って、去っていく背中。

 

 ミアレは別れ際、小さく頭を下げた。

「お話、ありがとうございました」

 

 その横顔はいつも通り落ち着いていて、何も変わらない。

 だからこそ、私は聞いてしまった。

 

「ねぇ、ミアレさんも……助けられたこと、あるの?」

 

 恐る恐る。

 願うように。

 

「ううん、私はないよ。ここの地元だとガルドさんは有名だから。知ってる人は割と多いかもしれないかな」

 

 ──無い。

 

「そう、ですよね」

 

 また、頭を振る。

 今度は速く。

 思考を追い出すように。

 

「リュシアちゃん、どうしたの?」

 

 ミアレが覗き込む。

 私は口角を上げる。

 

「ん、いえ。何でもないです」

 

 言葉は軽く、喉を通り抜けた。

 

「リュシアちゃん、先に昇格試験の申し込みに行こ?」

 

 手の甲をそっと掴まれ、軽く引かれる。

 強くない、でも確かな力。

 自然と身体が受付のカウンターの方へ動いていく。

 

 受付のカウンターへ向かう途中、私は一度だけ振り返る。

 ギルドの入り口の近くの隅。

 空いた椅子。

 誰も座っていない場所。

 

 私は歩きながら、もう一度だけ胸の奥に触れる。

 胸の奥のざわめきには、まだ名前がつかない。

 強さなのか、運なのか。

 それとも、まだ知らない何かなのか。

 

 答えは出ないまま、足だけが前へ進んでいた。

 

 昇格試験の申し込みを終えたあと、結局その日はもう依頼を受けなかった。

 

 受付の前で少し迷ったけれど、ミアレが言ったのだ。

 

「やっぱり今から行くと、帰りが暗くなっちゃうから」

 

 

 

 それなら仕方ない、と私は頷いた。

 

 

 夜は危ない。

 魔物の一部が、昼とはまるで別の生き物のように活発になる時間帯。

 

 

 頭では分かっている。けれど同時に、夜の冒険というものに憧れがあるのも事実だった。

 

 

 野営とか、野宿とか。

 焚き火を起こして、布で風よけを作って、小さな寝床を確保して。

 

 

 ホーンラビットを丸焼きにしたり、オークの肉を焼いたり。

 

 煙の匂い、ぱちぱちと弾ける火の音。

 

 それはきっと、いかにも冒険者という感じがする。

 

 ――楽しいだろうな。

 

 そんなことを考えている時間が、私は好きだった。

 

 まだ起きていない未来を想像していると、胸の奥が温かくなる。

 自分が本当に冒険者になったのだと、実感できる気がするから。

 

 

 宿の食堂は、夕方前の静かな時間帯だった。

 数人の客がぽつぽつと座っているだけで、昼の喧騒はもうない。

 

 私はカウンター席に腰を下ろし、目の前の皿に向き合っていた。

 

 木製のスプーンを握り、陶器の皿に軽く落とすと、コツンと乾いた音が鳴る。

 

 それを滑らせるようにして、スクランブルエッグを掬い上げ、口に運んだ。

 

 ふわり、と香りが立つ。

 油の匂いと、塩と香味。

 

 柔らかく、ほとんど噛まずに飲み込める食感。

 舌に残るほんのりした甘み。

 

 ――おいしい。

 

 自然と手が進む。

 

 朝に出てくる、固くて味気ないパンと、やたら塩辛いベーコンとは比べものにならない。

 

 毎日これでいい、と本気で思う。

 

「おいしいかい?」

 

 不意に声をかけられて顔を上げると、宿のおばさんがにこやかに立っていた。

 

 腕を組み、こちらを見ている。

 

「おいしいです」

 

 私は正直に、笑顔で答えた。

 嘘をつく理由もないし、本当においしいのだから。

 

「黒パンは、あんまり好きそうじゃなさそうだねぇ。毎朝、嫌そうな顔してるよ、あんた」

 

 ぎくり、とした。

 思わずスプーンを握る手に力が入る。

 まるで心を読まれたようだった。

 

「あ、れは……美味しくは、ないです」

 

 しぶしぶ口に出すと、おばさんは声を立てて笑った。

 

「素直だねぇ」

 

 それから少し間を置き、指を三本立てる。

 

「味はまずいけどね、あれはあれでいいところがあるんだ。

 安いこと、保存が利くこと、食べりゃあ腹の中で膨らむこと。

 だからさ、冒険者の中でも持ってく奴は多いよ」

 

 冒険者なら。

 その言葉に、胸が少しだけ高鳴る。

 

「そうなんですか? 冒険者は、あの、美味しくないパンを……好きで持ってるんですか?」

 

「ああ、そうだよ。朝に持っていくかい?」

 

 おばさんは、どこか楽しそうに私を見る。

 からかっているわけではない。ただ、見守っているような目だった。

 

「いいんですか?」

 

「いいよ、いいよ。大金もらったからにはサービスさ。また朝に声をかけておくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 皿はもう空になっていた。

 スプーンをくるりと回すと、陶器の底で軽く音を立てる。

 

 おばさんはそれを見て、ふっと息をついた。

 

「ところで、冒険者の生活には慣れてきたかい」

 

「はい!」

 

 私は勢いよく顔を上げた。

 

「オークとか、大ネズミとかやっつけました! 私の魔法で一撃です!」

 

 自信満々に、両手で杖を持ち直してみせる。

 誇らしい気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。

 

「オークをかい? すごいねぇ!」

 

 おばさんは目を丸くして笑った。

 その反応が嬉しくて、私はさらに胸を張る。

 

 しばらく他愛のない話をして、笑って。

 時間はゆっくりと過ぎていった。

 

 そして最後に、おばさんはぽつりと言った。

 

「これから色々あるだろうけどね。ちゃんと、ここに帰ってくるんだよ。

 帰ってこない日は、心配するからね」

 

 その声は、少しだけ低くて、柔らかかった。

 私は一瞬、何も言えなかった。

 

 心配する。

 帰ってくる場所。

 

 冒険者になるということは、外へ出ることだと思っていた。

 強くなって、遠くへ行って、知らない場所を歩くことだと。

 

 でも――帰ってくる、という言葉は、どこか胸の奥に引っかかった。

 

「……はい」

 

 小さく頷くと、おばさんはまた笑った。

 いつもの、気さくな笑顔に戻っていた。

 

 けれど私は、さっきの声を忘れられなかった。

 少しだけ寂しそうに聞こえた、その一言を。

 

 私はしばらく、空になった皿を見つめていた。

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